力が統べる国の女王
タラップを降りた瞬間、鼻を突いたのは潮の香りではなく、強烈な油の匂いと、石炭の煤煙だった。
「これが、マルティア王国……」
目の前に広がる光景に、僕は言葉を失った。
魔素の淡い光に包まれたヴァルナディアとは、まるで次元が違う。港には黒い煙を吐き出す巨大な煙突が林立し、クレーンが蒸気を上げて唸りを上げている。街路にはガラス張りのガス灯ならぬ油灯が琥珀色の光を放ち、石畳を照らしている。
ここは、魔法を捨て、火と鉄を選んだ国だ。その圧倒的なエネルギーの熱量に、僕は肌がヒリつくのを感じた。十年前に身分を隠してカルヴァド陛下が留学していたというが、この熱気の中で魔素からの脱却や合理主義的な国家再建を目指すようになったのだろう。
「ようこそ、自由と競争の都へ。」
出迎えたのは、煤けた空気の中でも一際鮮烈なオーラを放つ女性だった。
マルティア女王、マリサ・アグニ・マルティア。
機能的だが最高級の素材で作られたドレスに身を包み、その背後には、学者風や軍人風の男たち――彼女の夫と妻たち――を従えている。
マルティアは自由の国。結婚も合意さえあれば、誰とでも、何人とでもできるそうだ。
60年前、火山地帯から噴出したアグニ油という資源を糧に、圧倒的な経済力で台頭したマルティア貴族、アグニ家が産業を発展させた。マルティアでは5人の貴族が評議会を開き、民主的に王を選ぶ国。ヴァルナディアとは何もかもが違っていた。実力次第では乞食だろうと貴族に取り入って王を目指すことができると言われている。
マリサ女王は、カルヴァド陛下を見つけると、ふわりと扇子を開き、まるで品定めをするかのような鋭い視線を向けた。
「おかえりなさい、カルヴァド。10年ぶりね。あの時、私を選べずに逃げ出した臆病な皇子は、随分と立派な皇帝になったようだわ。」
開口一番、強烈な皮肉。だが、そこには単なる嫌味以上の、相手の実力を測るような響きがあった。僕には、彼女がカルヴァド陛下を値踏みしているように見えた。
カルヴァド陛下は表情を崩さず、冷徹に答えた。
「逃亡ではない。皇帝という職務が私を呼び戻しただけだ。私は今、貴女と対等な国家元首としてここにいる。」
「対等? ふふ、面白い冗談ね。」
マリサはカルヴァドの肩をポンと叩いた。
「楽しませてちょうだい、皇帝陛下。あなたの古い国に、私の貴重な時間を割くだけの価値があることを祈っているわ。」
午後の公式会談は、一方的な蹂躙だった。
ウルバーラ王立国際会議場。窓の外では、蒸気機関の実験車両が轟音を立てて走っているのが見える。
「関税撤廃? ふざけるな、これでは経済植民地だ!」
商法担当のザイナブが叫ぶが、マリサは自国産の紅茶を飲みながら冷たく言い放つ。
「現実を見なさい。あなたたちの国は、魔素の枯渇とシィヴァ教の台頭で内側から腐りかけている。エジュデルハ級のような燃費の悪い骨董品を維持するだけで国庫は火の車でしょう?」
彼女の指摘は的確すぎた。ヴァルナディアの弱点を、数字とデータで冷徹に突きつけてくる。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「10年前、あなたは『選ぶ権利』を放棄して国へ帰った。その結果がこれ? 随分と安っぽい国になったものね。」
マリサはカルヴァドを見据えた。その瞳は、失望と、わずかな期待の色を帯びていた。
「私は待っていたのよ。あなたが皇帝として、私を脅かすほどの強国を作り上げ、対等な競争相手として戻ってくるのを。……今のあなたに、私と渡り合う資格があるのかしら?」
それは、同じ頂に立つ為政者としての、苛烈な挑発だった。
僕は息を呑んだ。彼女は求めているのだ。カルヴァドが、自分を屈服させるほどの「強き王」であることを。そして、今のカルヴァド陛下にその力がないことに、苛立っているのだ。
午後の会談は、一方的な譲歩をのまされる寸前で終わった。僕たちは重い足取りで、用意された宿舎の控え室に戻ろうとしていた。
カルヴァド陛下は、アルヴィン中将と次の手の打ち合わせをするため、先に奥の部屋へと消えていった。
僕は、荷物持ちとして同行していたカシムを呼び止めた。彼は10年前、カルヴァド陛下の留学にも同行していた数少ない古参の従者だ。
「ねえ、カシムさん。ちょっといいですか?」
「はい、何でしょうミズキ様。」
カシムはいつもの実直な表情で足を止める。
僕は声を潜めて尋ねた。
「さっきの会談……マリサ女王の陛下への態度、異常じゃありませんでしたか? 単なる外交的な圧力というより、もっと個人的な……深い恨みのようなものを感じて。」
「おやおや。」
カシムは口元に手を当て、困ったような、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「ミズキ様も、そうお感じになられましたか。」
「やっぱり、何かあったんですね? 10年前の留学時代に。」
僕は食い下がった。
「例えば、恋人同士だったとか……あるいは、もっとドロドロした関係だったとか。」
カシムは視線を外し、天井のフレスコ画を仰いだ。
「さあて、私のような一介の従者には、雲の上の方々のプライベートなことなど、知る由もございませんよ。」
とぼけている。明らかに何かを知っている顔だ。
「カシムさん、教えてくださいよ。このままじゃ、僕もどう立ち回っていいか分からない。」
カシムは僕の方に向き直り、声をさらに潜めた。その瞳の奥が、悪戯っぽく光る。
「ミズキ様。外交官としての陛下の『鉄仮面』はご存知でも、一人の若者としての陛下はご存じないでしょう?」
「え?」
「当時の陛下は、今のような重圧もなく、異国の文化を貪欲に吸収する、それはそれは快活で知的な青年でございました。加えて、あのお顔立ちです。」
カシムは、自分の顎のあたりを指差してウィンクした。
「学び舎の才媛たちが放っておくはずがありません。女王陛下も当時はまだ一学生。……若き日の情熱と、異国での解放感。何が起きても不思議ではありませんよ。」
「それってつまり……」
「おっと、これ以上は私の首が飛びます。ただ、一つだけ言えるのは……」
カシムは真顔に戻り、ポツリと言った。
「陛下は、何も選ばなかったわけではありません。選べなかったのです。その優しさが、時に女性にとっては、残酷な刃になることもある……ということでしょうな。」
カシムは恭しく一礼すると、足早に去っていった。
夕刻の晩餐会。無数の油灯がシャンデリアのように輝く広間は、昼間の殺伐とした会議が嘘のように華やかだった。立食形式のパーティーだ。だが、空気は重い。
それでもどうにか会場を温めておきたいが、どうするべきか?僕はあたりを見渡した。今までこんなに豪華で華やかな場所を舞台に仕事をしていなかった事が悔やまれる。
隣ではヴィオラが粗相をしないようにガチガチになっていた。ヴァルナディア国内でのマツリゴトには慣れていても、外国との外交なんて初めてなのだろう。
アルヴィン中将が、タイトなドレスを纏った女性を連れて僕に近づいてきた。
「ミズキ殿、彼女はヴァルナディアのヤートリ大商会のご令嬢です。神話編纂官のミズキ殿に是非ご挨拶をしたいとせがまれてしまいました。」
ご令嬢は黒くて光沢のある髪の毛を綺麗に整えていた。交渉の席にもいたと思うが、ドレスアップされてしまうと別人だ。女優のようなオーラに圧倒されてしまいそう。背筋を伸ばして手を差し出す。
「ヴァルナディアで神話編纂官をしています。ミズキです。」
「私はオルノブ・ヤートリ。ヴァルナディアのダフタルスクと神話編纂という御職業に興味がありまして、以後お見知りおきを。」
ご令嬢と呼ばれるだけあって、とても優雅な振る舞いに僕は見惚れてしまった。だが、オルノブ嬢はそれ以上にやり手だ。すぐにヴィオラに気づき、彼女にも握手を求める。
「あなたが詩女のヴィオラ様ね。美しい歌声を持っているとお聞きします。差し出がましいお願いですが、どうかお聞かせ頂けないかしら?」
重い雰囲気を飛ばす方法としてオルノブ嬢はヴィオラを選んだ。聡明だ。ヴィオラは突然のお願いに、自分が何を頼まれているか理解できなかったらしい。あれよあれよと、オルノブに連れられて会場の真ん中に連れて行かれてしまった。
「ヴィオラ様の故郷の詩を聴かせて頂けないかしら?」
緊張していたヴィオラであったが、そこはヴァルナディアの催事を仕切っていた詩女だけある。スッと息を吸うと目を閉じて歌い出した。
秘めたる想い
花に変えて
川に流せど
心動かせず
ただ風になり
貴方の背中を
見送るばかり
その透き通った声は会場の注目を集め、最後は拍手喝采で締められた。ただ一人女王マリサだけは違った。冷えた目つきでヴィオラを見つめる。みんながヴィオラに注目していたから、会場でそれに気がついたのは僕だけだろう。
「お聞きくださりありがとうございます。この歌はヴァルナディアに伝わる詩女姫の伝承です。」
ヴィオラは小さくお辞儀をして、照れながらも堂々と役目を果たせた事に満足していた。
それにしてもオルノブの機転は鋭い。彼女がヴィオラに歌わせたおかげで会場の温度が上がった気がする。ヴィオラをマルティアの外相たちに紹介しながら、アルヴィン中将と僕も巻き込む。とんでもない外交手腕に驚かされるばかりだ。
彼女たちが作った和やかな雰囲気に、予想外の大事件が起こるなんて誰が予想できただろうか。
マリサ女王はワイングラスを片手に、またもカルヴァド陛下に近づいていった。周囲には各国の外交官もいる。彼女はあえて周囲に聞こえるような声で、カルヴァド陛下を追い詰めていく。
「ねえ、あなたは国のために全てを犠牲にして、それで満足なの? 私との勝負からも逃げ、国の衰退からも目を背け……相変わらず、決断のできない男ね。」
単なる外交的圧力にしては、感情が乗りすぎている。まるで、裏切られた恋人が相手を罵るような……いや、一国の女王と皇帝だ。そんな感傷的な話であるはずがない。
「何が起きても不思議ではありませんよ」カシムの言葉が脳裏に浮かぶ。何かあったのだろうと考えるべきかもしれない。
その時、ずっとポーカーフェイスを貫いていたカルヴァド陛下が、ふと、表情を崩した。
それは、僕がこれまで見たことのない、どこか悪戯っぽく、しかし自暴自棄な少年のごとき苦笑いだった。
彼はふらりと席を立つと、マリサ女王の元へ歩み寄った。距離が近すぎる。外交の距離ではない。彼はそのまま、左手で女王の髪をかきあげ、耳元へ顔を寄せた。
(……何を言う気だ?)
周囲からは、親密な内緒話に見えたかもしれない。 陛下が何を囁いたのか、僕の位置からは全く聞こえなかった。ほんの数秒の沈黙。女王の目が見開いた。
だが、次の瞬間。
「ふざけるなッ!」
マリサ女王の絶叫が広間を切り裂いた。
ゴッ!!
乾いた平手打ちの音ではない。鈍く、重い打撃音が響き渡った。
女王が、ドレス姿のまま拳を握り固め、カルヴァド陛下の顎をフルスイングで殴り抜いたのだ。
「――ッ!」
カルヴァド陛下は無様に床に倒れ込んだ。受け身も取らず、まるで殴られるのを待っていたかのように。口元から鮮血が飛び散り、晩餐会の皿が割れ、純白のテーブルクロスに赤い花を咲かせる。
会場が凍りついた。外交官たちが悲鳴を上げて下がる。
「私が求めているのは、犠牲者ではない! 私と対等に渡り合い、この世界を面白くしてくれる競争相手だ! なのに貴方は……安易に自分を差し出して、それで責任を果たしたつもり!? 私を舐めるのもいい加減になさい!」
女王は肩で息をしながら、倒れた陛下を見下ろしている。その瞳には、殺意に近い怒りと、どうしようもない苛立ちが渦巻いていた。
僕は呆然としていた。これが、一国のトップ同士のやり取りなのか? あまりにも感情的で、あまりにも暴力的だ。
「陛下! ご無事ですか!」
誰よりも早く駆け寄ったのは、マルティア側の実務担当者、オルノブだった。彼女は素早く懐からハンカチを取り出し、陛下の切れた唇に押し当てた。 そして、信じられないことに、自国の女王を睨みつけた。
「女王陛下。お戯れが過ぎます。」
静かだが、会場の空気を凍りつかせるほどの威厳に満ちていた。
「彼は一国の皇帝であり、重要な顧客です。これ以上の威圧は交渉決裂を意味し、それは我が国の損失です。頭を冷やしてください。」
その一喝で、マリサはハッと我に返った。だが、振り上げた拳を下ろす場所もなく、彼女はドレスを翻した。
「……興が削がれたわ。今日は失礼させていただきます!」
嵐のように去っていく女王。
残されたカルヴァド陛下は、オルノブに支えられながらゆっくりと立ち上がった。その横顔は、殴られた痛みよりも、もっと深い疲労に覆われていた。
「王族とは、本当に手のかかる方々ですね。」
抜け殻みたいなカルヴァド陛下をカシムに引き渡したオルノブ嬢は、発破をかけるように言い放つ。その言葉に少し元気を取り戻したカルヴァドが、自嘲気味に笑って答えた。
「マルティア一の大商会、オルノブ嬢の労りヴァルナディア皇帝として永遠に忘れぬよう、帰国次第レリーフに名前を刻んでおこう」
「何の足しにもならない名誉、光栄の極みです。」
オルノブが呆れて言い返した言葉にカルヴァドだけが大きな声で笑っていた。
宿舎に戻った僕たちの間には、重苦しい沈黙が流れていた。カルヴァド陛下はソファに深く沈み込み、オルノブに応急処置された唇をハンカチで押さえている。アルヴィン中将や他のメンバーが遠巻きに見守る中、僕は部屋の隅で、震えているヴィオラに声をかけた。
「ヴィオラ……大丈夫?」
彼女は顔を上げた。その瞳は不安と、自分自身への激しい怒りで潤んでいた。
「ミズキ……私、怖かったのです。」
ヴィオラは、ソファに座るカルヴァドを見つめながら、絞り出すように言った。
「マリサ女王の言葉……私を選ばなかった、逃げた……。あれは、単なる外交上の駆け引きには聞こえませんでした。まるで、もっと深い、情念のような……。私の知らない、10年前のお兄様の姿が、そこにあるようで。」
彼女の鋭い直感に、僕は息を呑んだ。10年前の留学時代。若き日のカルヴァドとマリサ。どう考えても、そこにあったのは断ち切られた恋人同士か、それに準ずる深い関係だ。カルヴァドは、国のために彼女の手を離したのだろう。
だが、僕はヴィオラの純粋な瞳を見て、とっさに嘘をついた。
「……きっと、ライバルだったんだよ。マルティアは競争社会だ。成績や成果を競い合って、陛下が勝ち逃げした形になったのを、女王は根に持っているだけさ。深い意味はないと思う。」
「そう……でしょうか。」
ヴィオラは少しだけ安堵したように見えたが、すぐに表情を曇らせ、ギュッと自分のスカートを握りしめた。
「でも、それ以上に許せないのは……私自身です。」
ヴィオラは肩を震わせていた。
「陛下が殴られた瞬間、私は何もできませんでした。体が竦んで、声も出なかった。陛下の護衛として、詩女としてお側にいると誓ったのに……!」
彼女は、カルヴァドの傍らでテキパキと指示を出しているオルノブを見た。
「オルノブ様は違いました。一瞬で陛下に駆け寄り、手当てをし、あろうことか女王を一喝して場を収めた。……私とは、覚悟も、見ている世界も違いすぎます。私は、ただ守られているだけの子供でした。」
オルノブの行動は、確かに鮮やかすぎた。それは彼女が商品を守るという商人の論理で動いていたからだが、ヴァルナディアとの交易は彼女にとって魅力的な取り引きだ。ヴィオラにはそれが大人の女性の強さとして、残酷なほど眩しく映ったのだろう。
「そんなことないよ、ヴィオラ。君がいてくれるだけで……」
慰めようとしたが、今の彼女には届かない気がした。ヴィオラの涙と、カルヴァドの沈黙。この部屋に充満する無力感が、僕の腹の底にある「残り火」に油を注いだ。
(……もう、いい加減にしよう)
僕は、ヴィオラの肩をポンと叩き、カルヴァドの方へ向き直った。ウジウジ悩むのは終わりだ。大人の事情も、過去の因縁も、全部ひっくるめて前に進めるには、荒療治が必要だ。
ラザークでの強引なやり方。デヴィーへの脅迫。旧市街の強制撤去。あそこで暮らす人々の生活を数字だけで切り捨てるこの男を、僕は許せなかった。「一発殴ってやりたい」と、本気で思っていた。
だが今、彼は現実に殴られている。それも、国のために甘んじて。
(……ああ、そうか)
僕は気づいてしまった。僕の怒りは、痛みを伴わない安全な場所から石を投げる、子どもじみた正義感だったのだと。 彼は、殴られる痛みも、罵倒される屈辱も、すべて飲み込んでここに座っている。
「……陛下。」
僕が声を上げると、アルヴィン中将が制止しようとしたが、僕は構わず進み出た。カルヴァド陛下が、億劫そうに顔を上げる。
「……僕も、正直に言って、カルヴァド陛下を殴ってやりたいとずっと思っていました。」
僕の言葉に、ヴィオラが息を呑む。
「あなたのやり方は、僕の倫理観とは相容れない。殴って、「お前は間違っている」と叫んでやりたかった。僕は、それを自分の正義だと思っていました。」
僕は拳を握りしめ、そしてゆっくりと開いた。
「でも、女王に殴られ、それを無抵抗で受け入れるあなたを見て、気がつきました。僕には、あなたを殴る資格なんてない。あなたはもう、十分すぎるほど傷ついている。」
カルヴァドは、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「……買い被るな、ミズキ。私は、お前が思うような高潔な犠牲者ではない。」
「では、あなたは女王に何を言ったんですか? 殴られると分かっていて、何を囁いたんですか?」
「……。」
カルヴァドは視線を逸らした。
「言い返したかった。ただ、どうしても、一言だけ。」
彼はハンカチで口元の血を拭き取った。もう出血は止まっていた。
「国益だの、戦略だのと言い訳をしたが……結局のところ、私はただ男として、彼女に一矢報いたかっただけだ。昔のように軽口を叩いて、彼女のペースを崩そうとした。だが、我々はもう学生ではない。皇帝と女王なのだと思い知らされたよ。その結果が、この無様だ。……笑いたければ笑え。」
それは、冷徹な皇帝の言葉ではなかった。僕には彼らの過去など分からない。けれど、そこには10年という歳月を経ても割り切れない、人間臭い後悔と意地があった。
僕の中にあったドス黒い怒りが、霧散していくのを感じた。 目の前にいるのは、絶対的な独裁者ではない。失敗し、感情に流され、それでも重責に押しつぶされまいと足掻いている、等身大の人間だ。
「笑いませんよ。……あなたがただの完璧な皇帝じゃないと分かって、僕はむしろ安心しました。」
僕は、カルヴァドの前の椅子に座り込んだ。
「あなたが人間くさい失敗をしてくれたおかげで、僕も腹がくくれました。僕の子どもじみた怒りはここで終わりにします。……一緒に、この状況をひっくり返しましょう。僕の嘘で、あなたの失敗を帳消しにしてみせます。」
カルヴァドは驚いたように目を見開き、やがてフッと力を抜いた。二人の間にあった冷たい壁が、崩れ去った瞬間だった。
ダンッ!
その湿っぽい空気を切り裂くように、シャオがテーブルに一枚の地図を叩きつけた。
「男同士の友情ごっこは終わった? なら、仕事の時間よ。」
シャオは不敵な笑みを浮かべ、カルヴァドと僕を交互に見据えた。
「皇帝が作った傷口を塞ぐには、とびきり大きなハンカチが必要ね。……難民問題よ。ハン国の内戦が激化し、一年以内に国境が崩壊する。数十万人規模の難民がマルティアに押し寄せるわ。マルティアに潜伏している一族からの連絡よ。」
その情報に、その場の全員が色めき立った。ヴィオラまで事態の大きさに、真剣な表情で地図を覗き込む。
「これが材料よ。マリサはこの難民を出費と見てパニックになる。そこでミズキ、あなたの出番よ。難民=出費ではなく、難民=覇権への初期投資に変える、あなたたちにしかできない物語を発表してやりなさい。」
カルヴァドは、もはや迷いのない目で頷いた。
「よろしい。ミズキ、頼む。明日の夕方までにマリサ女王の欲望を刺激する物語を描いてくれ。……私の安いプライドなど、喜んでその物語の踏み台にしよう。私も非公式会談を取り付ける。シャオ、お前なら取り次ぐ方法を持っているな。」
「任せてください。」
僕は記録官の鞄を引き寄せた。
さあ、反撃の狼煙だ。僕の「現代知識」と、この世界の「危機」を混ぜ合わせ、あの鉄の女王さえも跪かせる最高の物語を作り上げてやる。




