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ヴァルナディア皇国神話編纂記  作者: 砂川百足
第一章 編纂篇
11/24

招神の黒龍

 「これがヴァルナディアの軍艦、思ったより大きい不気味な船だね。」


 ダフタルスクの商業港。建設されたばかりの港にぽつんと浮かぶその船を見て、僕は得体の知れない不気味さを覚え、ヴィオラにそう漏らした。

 

 僕たちはカルヴァド陛下と共に、前皇帝ザルファドが遺した魔素動力高速巡洋艦、「エジュデルハ」号に乗り込む。


 「エジュデルハ」とは、古代語で「龍」を意味するという。その名の通り、全長90メートルにも及ぶ船体は、黒く塗られた複合装甲で覆われ、海に浮かぶ巨大な鋼鉄の獣のようだった。帆船が主流のこの世界で、帆柱を持たず、代わりに中央に巨大な排気塔とクリスタル状の放熱板を備えたその姿は、異様の一言に尽きる。


 「出航!」


 艦橋からの号令と共に、船底から低い唸り声のような振動が伝わってきた。

 次の瞬間、僕は甲板の手すりにしがみついた。


 「うわっ!」


 凄まじい加速だ。風が頬を叩く。帆船のゆったりとした動きではない。まるで巨大なエンジンに蹴飛ばされたような初速。船尾からは、燃焼した魔素の残滓が、青白い光の粒となって海面に撒き散らされている。


 「速い……。これなら、ウルバーラまで数日もかからない」


 だが、僕が感嘆したのはその速度だけではなかった。僕は、甲板の中央、ガラス越しに見える機関室を覗き込み、眉をひそめた。  そこには、巨大な魔素炉が鎮座し、数人の技師たちが必死の形相で蜂の石(ハリヤット・ナハル)を投入し、冷却水を循環させている。その光景は、あまりに非効率だった。


 ダフタルスクの地下には、アスファルトやパイプラインという、遥かに洗練されたエネルギー輸送の痕跡があった。それなのに、この船は、貴重な魔素を大量に浪費し、無理やり熱と推進力に変えている。


 「まるで、蒸気機関を知らない人間が、ガソリンを焚き火にくべてお湯を沸かしているようだ……」


 この世界の文明は、どこかで決定的に道を間違えたのではないか。そんな違和感が、胸の中で黒い煙のように広がっていった。


 「神話編纂官殿。船酔いはございませんか?」


 不意に、穏やかな声がかかった。振り返ると、そこには純白の制服に身を包んだ初老の将校が立っていた。  海軍中将、アルヴィン・ザモスキ。 この航海の軍事責任者であり、カルヴァド陛下が連れてきた「海軍の良心」と呼ばれる人物だ。


 「ああ、アルヴィン中将。大丈夫です。ただ、この船の構造に少し驚いていただけです。」


 アルヴィン中将は、柔和な笑みを浮かべて頷いた。


 「無理もありません。エジュデルハは、前皇帝陛下の夢の結晶。燃費と運用費用を度外視した、動く要塞ですから。」


 彼の態度は、皇都の評議会で出会った辺境警備隊隊長のカルダのような威圧感とは無縁だった。まるで、良き相談相手のような雰囲気だ。僕は、昨日のカルヴァドへの怒りを思い出し、少し探りを入れてみることにした。


 「中将。あなたは、陛下がダフタルスクの……旧市街の強制撤去について、どう思われますか? あれは、人道的に許されることなんでしょうか。」


 アルヴィン中将は、水平線を見つめたまま、静かに答えた。


 「ミズキ殿。軍法第4条および都市開発特別措置法第12項に基づけば、戦時またはそれに準ずる非常事態において、国家は戦略的拠点の確保のために私有地を接収する権限を持ちます。補償金も支払われています。法的には、完全に適法です。」


 「法律の話をしているんじゃないんです。そこに住む人たちの気持ちの話です。」


 「気持ち、ですか。」


アルヴィン中将は、ゆっくりと僕の方を向いた。その瞳は笑っていたが、奥底には一切の感情が映っていなかった。


 「感情で船は動きません。同様に、感情で国は守れません。あの撤去により、港の荷役効率は40%向上するでしょう。これは、将来的に数万人の飢餓を防ぐための物流能力に直結します。数千人の『住む場所が変わる悲しみ』と、数万人の『餓死する苦しみ』。天秤にかけるまでもありませんね。」


 その言葉は、あまりにも正論で、そしてあまりにも冷たかった。彼は、人々を「数」としてしか見ていない。カルヴァドの冷徹さが「目的のための手段」だとするなら、この男の冷徹さはシステムそのものなのだろう。温厚な仮面の下にある、鋼鉄の理屈。この男こそが、カルヴァドを支える最強の盾であり、僕の倫理観にとっての最大の壁だと悟った。


 昼食前にマルティアとの交渉に関する会議が始まった。カルヴァド、アルヴィン中将、僕、ヴィオラ、暁からは金融顧問としてシャオ、条約締結後の細かい交渉のために会計の専門家としてスディルマン、海商法の専門家としてザイナブがウルバーラに入る。お互いの認識のすり合わせとマルティアに関する諜報部影の月からの報告がメインだ。


 作戦会議室の扉が軽やかにノックされ、潮風と共に一人の青年が入室してきた。


 「お待たせしました。本日の水先案内人を務めます。」


 皇国の諜報員「影の月」という重々しい肩書きを持ちながら、その雰囲気はむしろ洗練された都会の青年のようだった。彼の名前はリアン・カーヴァル。ヌール女史の息子だ。

 彼は皇国の堅苦しい服ではなく、マルティアで流行しているキャスケット帽に、仕立ての良いシャツとサスペンダー付きズボンという、ウルバーラの新聞記者か若手学者のような格好をしていた。


 「君が……リアン君?」


 僕が尋ねると、彼は人懐っこい笑みで握手を求めてきた。


 「はい。あなたが噂の異世界人、ミズキさんですね。母との定期通信で話は伺っています。随分と面白い物語を描かれているとか。」


 その物腰は柔らかいが、観察眼の鋭さを感じさせる。隣にいたヴィオラが、少し驚いたように彼を見つめた。


 「貴方は……ヌール様の御子息で、影の月の方……ですよね? ずいぶんと雰囲気が……」


 「ああ、ヴィオラちゃんも一緒だったんだね」


 リアンは親しげに、けれど礼儀正しくヴィオラに微笑みかけた。


 「驚かせてごめんね。マルティアじゃ、堅苦しい態度は『情報を隠している』と警戒されるんだ。郷に入っては郷に従え、ってね。」


 彼は帽子を脱いで一礼すると、テーブルに整然と資料の束を広げた。

 「さて、仕事の話といきましょうか。各地の影たちが集めて分析したマルティアの現実、披露させてもらいますよ。」


 リアンのレクチャーは、まるで大学の講義のように論理的で、かつ現地の熱を感じさせるものだった。


 「まず、彼らの軍事力についてですが……ハッキリ言って、陸軍は『見かけ倒し』です。」


 彼は地図の上にチェスの駒を置きながら、流暢に解説する。

 「海軍と商船団は世界最高水準ですが、大陸側のアグニ油田を防衛する陸軍はボロボロです。自由競争によるコストカットの煽りで給料が安く、士気も装備も旧式。近隣諸国と紛争になれば、補給線すら維持できないでしょう。」


 アルヴィン中将が感心したように頷く。

 「的確な分析だ。だからこそ、我が国の国境警備隊と、近海を封鎖できる魔素艦隊が、彼らにとっての『買いたい商品』になるわけですね。」


 「その通りです。そして、もっと深刻なのが国内事情――社会の歪みです。」


 リアンは数枚のグラフと、黒く濁った水の入った小瓶を提示した。


 「ウルバーラは華やかですが、その代償として大気と水質汚染が深刻化しています。いわゆる公害病です。スラムの労働者層では呼吸器疾患が蔓延していますが、政府は経済成長を優先して黙殺している。金持ちは浄水設備を買えますが、貧困層はその日暮らしもやっとです。」


 「自由と競争の都の、それが現実か……」

 僕が呟くと、リアンは静かに頷いた。


 「ええ。光が強ければ影も濃い。彼らの自由は、システムとしての限界を迎えつつあります。この歪みこそが、今回の交渉のカードになりますよ。」


 僕は、リアンが広げた資料の束に手を伸ばした。

 精緻なスケッチや統計データの中に、一枚の奇妙な質感の紙が挟まっていた。


 「……これは?」


 それは、白黒の濃淡だけで描かれた、あまりにもリアルな「絵」だった。黒煙を上げる工場と、その前で咳き込む労働者たちを、一瞬の時間ごと切り取ったかのような。


 「写真だ……!」


 僕の手が震えた。銀板写真(ダゲレオタイプ)か、初期のフィルムか。


 「お、さすがミズキさん。これをご存じでしたか。」

 リアンが感心したように言う。

 「向こうでは写光画と呼ばれています。感光剤を塗った板に光を焼き付ける技術です。非常に高価で、まだ一部の富裕層や軍事記録にしか使われていませんが。」


 僕は息を呑んだ。

 化学ケミカルがある。

 魔素に頼らない、純粋な物質の反応を利用した科学技術。この写真は、マルティアがヴァルナディアとは異なる進化系統樹――僕のいた世界に近いルート――を歩んでいる決定的な証拠だ。


 「(写真があるなら、情報の伝達速度と信憑性が段違いだ。……僕が新聞を作る時、この技術があれば革命が起きる)」


 「リアン君。この資料、借りていいかな?」

 「構いませんが、何に使うんです?」


 「マルティアの女王に、未来の絶望を突きつけるために使うんだ。……そして、その絶望を救えるのは、僕たちヴァルナディアだけだと思い込ませる。」


 「なるほど……事実を物語の武器にするわけですね。面白い、協力しますよ。」

 リアンはニヤリと知的な笑みを浮かべた。


 ミーティングが終わり、リアンが資料を片付けて立ち去ろうとした時だった。

 それまで黙って聞いていたカルヴァド陛下が、不意に口を開いた。


 「……リアン。」


 「はい? 何か不足がございましたか、陛下。」

 リアンが帽子を胸に当てて振り返る。


 カルヴァドは、書類に目を落としたまま、低い声で尋ねた。


 「……マルティア北部の工業地帯でも、公害が広がっていると聞いた。お前の……家族は、息災か?」


 その場にいた全員が、一瞬動きを止めた。

 冷徹な皇帝が、一介の諜報員、それも国外にいる家族のことを気遣ったのだ。


 リアンは一瞬、目を丸くして僕に戸惑いながら何て答えるべきか?をアイコンタクトで聞いてきた。


 「ええと……私は留学という形でマルティアに潜伏しておりますので、ヴァルナディアに残した養母も妹も元気にしております。執務官長をしている実母でしたら陛下の方がよくご存知だと思いますが……」


 なぜ陛下が、彼の家族のことを? ヌールさんがが報告書に余計なことでも書いたのかな?妙な沈黙が流れる。


 「……そうか。それならいい。報告ご苦労。下がれ。」

 カルヴァドはそれ以上何も言わず、また冷たい執務の顔に戻ってしまった。


 「は、はい。失礼いたしました。」

 リアンは狐につままれたような顔で一礼し、部屋を出て行った。


 今の間は、何だったんだろう……?


 昼食後、僕は気晴らしと調査を兼ねて、ヴィオラと共に船内の探索許可をもらった。もちろん、監視役の兵士が二人ついている。


 目指すは、先ほど覗き込んだ機関室だ。轟音と熱気が渦巻く中、僕は魔素炉の制御盤に目を凝らした。

 そこには、魔力の出力を調整するための、緻密で複雑な幾何学模様が刻まれていた。金色の線が直角に折れ曲がり、規則正しく並び、中心の核に向かって迷路のように伸びている。


 「美しいでしょう?」

 案内役の機関長が、誇らしげに言った。

 「これは聖なる迷路と呼ばれる紋様です。魔素の流れを整え、増幅させるための、古代より伝わる秘儀の図形です。」


 僕はその模様を凝視し、息を呑んだ。

 この規則的なパターン、直角の配線、そして所々に配置された黒い四角形……。


 「……これ、電子回路(プリント基板)だ。」


 「え?」ヴィオラが小声で聞き返す。


 間違いない。これは、パソコンや精密機器の中にあるマザーボードの配線図だ。それを意味もわからず、ただ「形」だけを巨大化して、真鍮のレリーフとして彫り込んでいるのだ。

 彼らは、電気が流れるべき道を「魔力が流れる溝」として模倣し、集積回路を「魔力を溜める祭壇」として崇めている。


 さらに、炉の最も熱い中心部、魔素が燃焼する覗き窓の周りには、禍々しくも神聖な雰囲気で、あるマークが刻印されていた。黄色い地に、黒い三つの扇形が中心に向かって配置されたマーク。


 「あれは……放射能標識(ハザードシンボル)……!」


 「あの紋章は、最強の封印です。」機関長が厳かに説明する。「強すぎる力を抑え込み、外に漏らさぬための『三つ首の龍』の印。これがあるからこそ、我々は安心して炉を稼働できるのです。」


 背筋が凍った。

 僕たちの世界では「危険だから近づくな」と警告するためのマークを、彼らは「守り神」だと勘違いして、あろうことか動力炉のど真ん中に飾っている。


 (僕のように異世界から召喚された人間が伝えたのか?)


 シイヴァ教の開祖ダルメアの日記は英語とフランス語で書かれていた。さらに元素記号、彼女はこのヴァルナディアの人間に元素記号を伝えようとしていた。


 ダルメアは僕と同じ世界から召喚されたと考えた方が納得できる。


 僕やダルメアの他にも僕たちの世界から召喚されている人間が、科学的な知識やコンピュータを持ち込んでいたとしたら、彼らはそれを神として崇めるのではないか?


 「(カーゴ・カルトだ!ヴァルナディアの人たちは意味を知らずにその印や形だけを真似しているんだ。)」


 だから、こんなに非効率なんだ。回路の意味を成していない配線、意味を為さない警告。この船は、科学の死骸を、魔法の力で継ぎ接ぎして作られた歪なフランケンシュタインだ。


 僕はめまいを覚えた。


 一体誰が、何の目的で、この魔法が支配する国に科学のガワだけを伝えたんだろう。


 その夜。

 僕は眠れずに、一人で後部甲板に出ていた。満天の星空の下、エジュデルハ号が切り裂く波の音だけが響いている。


 「眠れないか、ミズキ。」


 闇の中から声がした。カルヴァド陛下だ。彼は護衛もつけずに、手すりに寄りかかっていた。月明かりに照らされたその横顔は、皇帝の威厳を脱ぎ捨て、ひどく疲れ切った一人の男のものに見えた。


 「……陛下こそ。」


 「私はこの船が嫌いだ。」


 カルヴァドは唐突に言った。


 「魔素は、人を怠惰にする。原理の解らん古代兵器をボタン一つで動かし、祈るだけで水が湧く。その便利さが、人々から工夫や努力を奪い、現実から目を背けさせる。父ザルファドは、その夢に溺れて死んだ。」


 彼は懐から葉巻を取り出し、魔法を使わずマッチで火をつけた。以前ヴィオラから聞いたがカルヴァドはものすごい魔法の使い手らしく、大抵の事はできるそうだ。それがどんな事かは知らないが、彼が魔法を使う姿は召喚された日以降、僕は見ていない。


 「だが、皮肉なものだ。私が忌み嫌う魔素の力、このエジュデルハ号の威容がなければ、マルティアの女王は私と対等に話そうともしないだろう。……私は、嘘の力で自分を大きく見せている、ただの道化だ。」


 紫煙を吐き出しながら、カルヴァドは僕を見た。


 「お前も同じだろ、ミズキ。お前が使う広告や神話も、本質ではないものを煌びやかに見せる、魔素と同じハッタリではないのか?」


 その言葉に、僕は息を呑んだ。  ダフタルスクでの僕の仕事。デヴィーを騙し、銀行の信用を演出し、未来の夢を見せる。それは確かに、実体のないものを売る行為だった。


 「……そうかもしれません。でも、そのハッタリで、救われる心や、動き出す現実があるなら、僕はそれを信じたい。」


 「フン。甘いな。だが、その甘さが、今の私には必要なのかもしれん。」


 カルヴァドは短くなった葉巻を海に投げ捨てた。ジュッ、という微かな音と共に、火が消える。


 「明日も頼むぞ、編纂官。私には、お前の嘘が必要だ。」


 彼はそう言い残し、船室へと戻っていった。  残された僕は、黒い海を見つめ続けた。皇帝の抱える自己矛盾と孤独。そして、僕自身の欺瞞。 この船は、嘘と秘密と、わずかな希望を乗せて、夜の海を突き進んでいく。


 航海二日目の朝。波は穏やかだったが、船内の空気は昨日よりも張り詰めていた。

 僕は結局朝方まで眠れず、リアンから受け取った資料を整理しながら取り引き材料になるような事をリストアップしていた。マルティアが本当に資金や技術を提供するだろうか?


 昼食時、食堂の片隅で、僕は会計監査人のスディルマンを問い詰めていた。ダフタルスクでのデヴィー領主への詐欺まがいの投資話。あれで巻き上げた金がどこへ消えたのか、どうしても気になっていたのだ。


 「スディルマンさん。デヴィーから脅し取ったあの巨額の資金、本当は何に使ったんですか? 港湾工事の資材費ですか?」


 スディルマンはスープを一口飲み、淡々と答えた。


 「いいえ。あれは全額、旧市街の住民への補償金と、移住先の住宅建設費に充てられました。」


 「え……?」


 「強制撤去は陛下の命令でしたが、予算はついていませんでした。国庫にはもう金がないのです。だから、デヴィー様に出していただいた。彼の汚れた金が、数千人の貧民の『雨風をしのぐ家』と『当面の生活費』に変わったのです。」


 僕は言葉を失った。  デヴィーを騙し、破滅させる片棒を担いだという罪悪感。しかし、その結果として、僕が「守るべき」と感じていた旧市街の人々が救われていたという事実。


 「詐欺師の金が、正義に使われた……?」


 善と悪の境界線がぐちゃぐちゃに混ざり合い、僕は吐き気を覚えた。カルヴァドは、最初からこれを計算していたのか。汚名を被り、悪党を利用し、それでも民を生かす道を選んだのか。


 だが、それでも――。  「強制」されたという事実は変わらない。人々の意思を無視し、数字だけで動かすやり方への生理的な嫌悪感が、腹の底から湧き上がってきた。


 僕は衝動のままに、カルヴァドがいる艦長室へと向かった。

 室内にはカルヴァドと、アルヴィン中将がいた。


 「カルヴァド……陛下!」


 僕は礼儀も忘れ、彼に詰め寄った。


 「デヴィーの金の使い道を聞きました。あなたは、いつもそうだ! 結果さえ良ければ、人の心なんてどうでもいいと思っている!」


 カルヴァドは書類から目を離さず、冷淡に言った。  

 「結果が伴わない善意など、道端の石ころ以下の価値しかない。民が必要としているのは同情ではなく雨を凌ぐ家と腹を満たす飯だ。」


 「だからって、騙していい理由にはならない! 強制していい理由にもならない! あんたのやり方は、人間を部品として扱っているだけだ!」


 「国とは巨大な機械だ。部品が壊れれば、直すか、取り替えるしかない。」


 その言葉が、僕の中の何某かのスイッチを切った。昨日の夜、彼が漏らした人間臭い弱音。あれを知っているからこそ、今、再び冷徹な仮面を被り、平然と非道を説く彼が許せなかった。


 「……やっぱり、殴るべきだったんだ。あの時、あんたを!」


 僕が拳を振り上げた瞬間、白い影が滑り込んだ。

 アルヴィン中将だ。彼は僕の腕を掴んだわけでもないのに、その穏やかな威圧感だけで、僕の動きを止めた。


 「神話編纂官殿。お控えください。」


 声はあくまで優しかった。だが、その瞳は絶対零度の冷たさを湛えていた。


 「陛下の行動は、都市開発条例および戦時特別法に基づき、法的に正当です。そして何より……」


 アルヴィン中将は、諭すように続けた。


 「合理性を放棄した良心は、人間が犯す最大の罪です。 感情で都市計画を止めれば、物流が滞り、来年の冬には辺境で数万人が餓死するという統計が出ています。陛下の決断は、その数万人を救うために、旧市街の数千人に不便を強いただけです。……貴方は、その数万人の命を背負う覚悟があって、陛下を責めているのですか?」


 「それは……!」


 「数字は残酷ですが、嘘をつきません。陛下は、誰よりも血を流さない道を選んでおられる。それを非道と呼ぶのは、安全な場所から見ている者の傲慢です。」


 優しい残酷さ。

 正論という名の暴力。

 僕は何も言い返せなかった。彼らの言う「正義」の前では、僕の倫理観など、子供の感情論に過ぎないのだと思い知らされた。


 僕は拳を下ろし、逃げるように部屋を出た。


 夜の甲板は冷たかった。  僕は手すりにもたれ、真っ暗な海を見つめていた。自分が何のためにこの世界に来たのか、分からなくなっていた。僕はただの詐欺師の片棒担ぎで、無力な異邦人だ。


 「ミズキ。」


 背後から、ヴィオラが毛布を持って現れた。彼女は僕の隣に並び、同じ海を見つめた。


 「……聞いたわ。陛下と喧嘩したんでしょう?」


 「喧嘩なんてレベルじゃないよ。完敗だ。僕は、彼らの覚悟に勝てない。」


 「そうね。陛下も、アルヴィン様も、この国の重さを知っているから。」


 ヴィオラは、僕の手の上に、自分の手を重ねた。


 「でもね、ミズキ。私は、怒ってくれた貴方が嬉しかった。」


 「え?」


 「陛下は、国のために心を殺してしまった。アルヴィン様は、最初から心を持たないふりをしている。でも、貴方は違う。貴方は、おかしいことはおかしいと怒り、悲しいことは悲しいと泣いてくれる。」


 ヴィオラは僕の方を向き、真剣な眼差しで言った。


 「その人間らしさこそが、今の陛下に一番必要なものなんです。数字や法律では救えない、人の心の隙間を埋めるもの。それが物語でしょう?」


 彼女の言葉が、凍りついた僕の心に染み渡っていく。


 「貴方は、私たちが待ち望んだ未来の力そのものです。たとえ手が汚れても、その心まで汚れる必要はない。……私が、貴方の心が壊れないように守ります。だから、貴方は陛下を助けてあげて。」


 ヴィオラの瞳に、星空が映っていた。その光は、古代の科学でも、魔素の輝きでもない。ただ、僕を信じてくれる、一人の少女の光だった。


 「……分かった。僕は、僕のやり方で戦うよ。数字じゃない、物語で。」


 僕はヴィオラの手を握り返した。  エジュデルハ号は闇を切り裂き進んでいく。その先にあるマルティアで、僕は最大級の「嘘」をつく覚悟を決めた。それは、誰かを騙すためではない。この残酷な世界で、人の心を守るための嘘だ。

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