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疾風と忘却の円舞曲  作者: 神凪 浩
第二章 疾風の円舞曲
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第八話 地脈と記憶の声を聴く者

リアムが東の地で陽動という名の死闘を繰り広げている間、リィナとアリアは西を目指す旅を続けていた。

彼が稼いでくれた時間、その一瞬たりとも無駄にはできない。

その想いが、二人の足取りを力強く支えていた。

彼女たちの最初の目的地は、古文書に記された「嘆きの聖女像」だった。


馬車を乗り継ぎ、険しい山道を踏破した末にたどり着いたその場所は、風の吹き抜ける高原のただ中に、古い聖女像が忘れ去られたように佇んでいた。

二人はまず、アリアの能力に望みを託した。

彼女が台座にそっと指先で触れる。

もし、この像を設置した古代の民の記憶が読み取れれば、道はすぐに見つかるはずだった。

しかし、アリアは触れた瞬間に「あっ…!」と短い悲鳴を上げて手を引いた。

「アリアさん!?」

「だめ…です…。記憶が…多すぎます…」

アリアは青ざめた顔で首を振った。

「この像には、何百年もの間にここを訪れた、数え切れないほどの人々の祈りや願い、悲しみや喜びの記憶が降り積もっています。嵐の夜の恐怖も、晴れた日の安らぎも…全ての記憶が濁流のように流れ込んできて、本来の道を示すはずだった最初の記憶が、完全に埋もれてしまっています…」

 アリアの能力による直接的な解読は、膨大すぎる「情報のノイズ」によって阻まれた。

 その様子を見ていたリィナは、無言でアリアの隣に膝をつくと、自らの手のひらを像の根元の、大地へとそっと置いた。

 目を閉じ、意識を集中させる。彼女は耳で聞くのではない、魂で大地の歌を聴くのだ。

 大地は常に歌っている。

 水が地下を流れる清らかなせせらぎ、岩盤が大陸を支える重厚な低音、草木の根が養分を吸い上げる生命のささやき。

 だが、ここで彼女が聴いたのは、悲痛な不協和音だった。

 干ばつに苦しむ民の雨を乞う叫びが、地脈を締め付けるように響く。

 収穫に感謝する人々の喜びの歌声が、その叫びと混じり合って濁っていく。

 別れの悲しみ、再会の安堵、病からの快復を願う祈り――幾世代にもわたる人々のあまりに強い想いの残響が、大地そのものの記憶に深く染み込み、本来の純粋な流れを掻き乱す嵐となっていた。

 やがて目を開けたリィナは、静かに首を横に振った。

「アリアさんの言う通りです。ここの大地は、人々の祈りの声で満ちすぎていて、本来の歌が聞こえません。道を示すはずだった澄んだ流れは、無数の感情の渦に飲み込まれてしまっています」

 万策尽きたかと思われた。

 だが、アリアは諦めなかった。

 直接的な記憶探索がダメならば、記録官として、知の力で謎を解くしかない。

「待ってください。もう一度、伝承と像そのものをよく調べてみましょう。物理的な道が隠されているなら、そのヒントもどこかに隠されているはずです」

 アリアは、台座に刻まれた『我が涙の落ちる先に、命は道を見出すべし』という一節を、何度も指でなぞる。

「『涙が落ちる先』…単純に像の視線の先と解釈しましたが、もしこれが比喩だとしたら…?」

 彼女は、修道院の書庫の片隅で見た、ごく一部の地域にしか伝わっていない聖女の逸話を思い出していた。

「聖女の涙が落ちた場所には、『聖女の涙』と呼ばれる、青い露を宿した白い花が咲いたという古い伝承があります。もしかしたら、私たちが探すべきなのは、その花が咲いている場所なのかもしれません」

 それは、ただの言い伝えに過ぎないかもしれない。

 だが、膨大な記憶のノイズと攪乱された地脈の中から真実を見つけ出すための、唯一の手がかりだった。

「その花…どんな場所に咲くか、分かりますか?」

 リィナの問いに、アリアは頷く。

「はい。日の当たらない、湿った岩場の影に咲くと…」

「分かりました。この高原の中で、その条件に合う場所を探しましょう。私の力なら、地下の水脈が近い、湿った土地を見つけ出すことができます」す

 リィナが地脈の大きな流れを読み、アリアの記憶がその意味を解き明かす。

 一つの目的地が、より困難で、しかし確かな次なる探索の始まりへと変わった。

 二人は顔を見合わせ、決意を新たにすると、高原に点在する岩場の影を一つずつ調べ始めた。


 その日の夜、二人は小さな焚き火を囲んで野営をしていた。

 パチパチと火の粉が爆ぜる音だけが、静かな夜に響いている。

「リィナさんは…リアムさんと、昔からお知り合いだったのですよね」

 不意に、アリアが問いかけた。

 その瞳には、遠くで戦う男への、純粋な憂いが浮かんでいる。

「ええ。カイル様も、私も、そしてリアムさんも。苦楽を共にした昔からの仲間です」

 リィナは、懐かしむように目を細める。

 「リアムさんは昔から、一番危険な役目を引き受けて、いつも傷だらけでした。口も悪いし、ぶっきらぼうだけど…あの人の剣は、いつだって誰かを守るためのものでした。今も、きっとそうです」

 その言葉に、アリアは胸が熱くなるのを感じた。

 以前に垣間見た、リアムの絶望と孤独。

 それを救った温もりの正体は分からないままだが、彼が一人ではないと信じたかった。

「私…記録官として、ただ英雄の伝説を書き残すのが役目だと思っていました。でも、今は違います。リアムさんという一人の人間の真実を、その痛みを、そして、その人が守ろうとしたものを、この目で見届けて、記録したいんです」

 力強く語るアリアの横顔に、リィナはかつての自分たちの姿を重ねていた。

 恐怖を知り、痛みを知り、それでも前に進もうとする少女の成長を、頼もしく感じていた。

 二人の間には、単なる協力者ではない、姉妹にも似た静かで強い友情が芽生え始めていた。


 聖女像の謎を解くための探索は、数日を要した。

 そしてついに、リィナが指し示した岩陰の奥、小さな湧き水に潤された苔の上に、アリアが探していた青い露を宿す白い花が、ひっそりと咲いているのを見つけた。

 そして、その花の傍らには、人為的に置かれたとしか思えない、道標のような小さな石があった。

 リィナがその石に触れると、彼女の瞳が大きく見開かれた。

「…見つけました。ここです。ここから、一本の澄んだ流れが、真っ直ぐに続いています」

 二人は、枯れ谷を進み、やがて霧深い峡谷の奥深くに隠された、古代の遺跡へとたどり着いた。

 そこには、巨大な環状列石ストーンサークルが、太古の秘密を守るかのように鎮座していた。

「すごい…地脈の力が、ここに集まってきています。でも、まるで渦を巻いているだけで、どこにも出口がない。固く閉ざされた、扉のようです」

 リィナが、その場に満ちる圧倒的なエネルギーに身を震わせる。

 一方、アリアは、まるで何かに呼ばれるように、サークルの中心に立つひときわ大きな立石へと歩み寄っていた。

 石の表面には、かすかな紋様が刻まれている。

 彼女は、おそるおそる、その冷たい石肌に指先で触れた。

 瞬間、アリアの脳裏に、鮮烈な記憶の奔流が流れ込んできた。

 ――満月の光が、環状列石を白く照らし出している。

 ――古代の神官と思われる人物が、詠唱と共に、サークルを構成する石を特定の順番で触れていく。

 ――すると、中央の立石に刻まれた紋様が光を放ち始め、何もない空間が、まるで水面のように揺らめき、星空を映す不思議な通路が現れる。

「…っ!」

 アリアは弾かれたように手を離し、激しく息をついた。

「道を開く方法が…分かりました。月の光が必要です。そして、石に触れる…正しい順番が…」

 彼女は見たばかりの記憶を必死に辿り、リィナに説明する。

 地脈の力が集まる「場所」を見つけ出したリィナと、その場所の「記憶」から道を開く「方法」を読み取ったアリア。

 二人の力が一つになった時、伝説の書庫へと続く、隠された道がその姿を現そうとしていた。

「次の満月は…三日後」

 リィナが夜空を見上げて呟く。

 二人は、固い決意を目に宿して、頷き合った。

 リアムが命懸けで繋いでくれている希望を、ここで必ず形にする。

 地脈と記憶の声を聴く二人の探索行は、今、その最も重要な局面を迎えようとしていた。

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