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疾風と忘却の円舞曲  作者: 神凪 浩
第二章 疾風の円舞曲
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第七話 孤独な戦場と風に届く祈り

 リアムが一人、陽動の戦場へと旅立ってから、既にひと月が過ぎようとしていた。

 彼の戦いは、その異名が示す通り、まさに疾風そのものであった。


 最初の標的は、南方の湿地帯に隠された祠だった。

 月光さえも淀むかのような瘴気が立ち込める沼地で、リアムは息を殺し、水面に浮かぶ枯れ木の上を音もなく渡る。

 目的地である苔むした石造りの祠の前で彼を待ち受けていたのは、人ならざる番人。

 毒沼そのものが意思を持ったかのように、足元の泥水が盛り上がり、一体の粘質のゴーレムを形成した。

 定まった形を持たぬその巨体は、不気味な泡を立てながら、腐臭を放つ触手を鞭のようにしならせて襲いかかってくる。

 リアムはひらりとかわし、懐から油を染み込ませた布を取り出すと、松明の火を移して投げつけた。

 ゴーレムの体表で炎が燃え上がるが、すぐに内部から湧き出す粘液に消されてしまう。

 致命傷にはほど遠い。

 だが、リアムの狙いは別にあった。

 一瞬だけ激しく燃え上がった炎が、ゴーレムの不定形な体の中央でひときわ鈍い光を放つ魔力核――「奏者」である水晶の存在を、水面に影として映し出したのだ。

「そこか!」

 リアムは水面を蹴り、宙を舞う。

 空中で体を捻りながら、月光を背に受けたその一閃は、寸分の狂いもなくゴーレムの核を捉えた。

 水面に映る月影とリアムの剣閃が一つになった瞬間、甲高い悲鳴のような音を立てて水晶が砕け散る。

 核を失ったゴーレムは、形を保てなくなり、ただの毒沼の泥へと還っていった。


 次なる祠は、中央山脈の奥深く、打ち捨てられた廃坑の最深部にあった。

 入り口から漂うのは、湿った土と鉄錆の匂い。

 リアムは、五感を研ぎ澄ませ、暗闇の中を進む。

 古いトロッコのレールを足場に、腐りかけた木の梁を飛び移る彼の耳が、微かな空気の振動を捉えた。

 直後、頭上から巨大な岩盤が轟音と共に落下する。

 巧妙に仕掛けられた落石の罠だ。

 リアムは、落下地点を予測し、コンマ数秒の差でそれを回避していた。

 罠はそれだけではない。

 壁に穿たれた小さな穴から吹き出す毒ガス、足元の僅かな窪みに隠された鋭い杭。

 だが、歴戦の勇士であるリアムは、それら全てを経験と直感で見抜き、突破していく。

 やがて辿り着いた広大な空洞。

 そこでは、岩肌と同化した数体の鉱石ゴーレムが、地響きを立てて動き出した。

 狭い坑道での戦いは、剣を大きく振るうことができない。

 リアムは、敵の剛腕を剣の腹で受け流し、その衝撃を利用して壁を蹴ると、三角飛びの要領でゴーレムの背後に回り込む。

 そして、関節部にある僅かな隙間に、切っ先を突き立てて的確に動きを封じていく。

 最後の一体を屠り、坑道の奥で禍々しい光を放つ水晶を破壊すると、彼は敵の増援が駆けつける前に、風のようにその場を去る。


 彼の神出鬼没の襲撃は、「記録院」の計画を着実に遅延させ、敵の戦力をリアムに引きつけることに成功していた。

 しかし、その代償は決して軽くはなかった。


 砂塵舞う東部の渓谷。

 三つ目の祠を破壊した後の、束の間の休息。

 リアムは、岩陰に身を潜め、燃えさしとなった焚き火の僅かな熱で凍える体を温めていた。

 破れた上着から覗く腕には、生々しい切り傷が走り、応急手当をしただけの包帯が赤黒く滲んでいる。

 エールを呷り、干し肉を無言で咀嚼する。

 味などしない。

 ただ、次の戦いに備えて体を維持するための作業だった。

 静寂が、彼の孤独を際立たせる。

 かつては、こんな夜にも、背中を預ける仲間がいた。

 軽口を叩き合い、くだらない冗談で笑い合った。

 その記憶が、今は幻のように遠い。

「…慣れたものだ」

 誰に言うでもなく呟いた言葉が、乾いた風に攫われて消える。

 彼は夜空を見上げた。

 王都で待つ友を想い、そして、今頃どこかを旅しているであろう、二人の女性の顔を思い浮かべる。

 大丈夫だろうか、という懸念よりも先に、彼女たちの真っ直ぐな瞳が脳裏をよぎり、リアムは自嘲気味に口の端を吊り上げた。

(俺が心配するまでもないか。あいつらは、俺が思うより、ずっと強い)

 それでも、胸に去来する一抹の寂しさを、彼は焚き火の最後の火の粉と共に、夜の闇へと葬った。


 ◇


 その頃、リアムから遥か西。

 リィナとアリアは、古代の文献に残された僅かな記述を頼りに、「万象の書庫アカシック・アーカイブ」へと続く隠された道を旅していた。

「この古文書によれば、次の目印は『嘆きの聖女像』。かつて大干ばつから人々を救った聖女を祀った石像で、地脈の合流点にあるとされています」

 揺れる馬車の中で、アリアが古びた羊皮紙の地図と格闘しながら説明する。

 その横で、リィナは静かに目を閉じ、大地の声に耳を澄ませていた。

「ええ、アリアさんの言う通りです。この先、二つの山の谷間から、とても澄んだ、それでいてどこか悲しい響きが聞こえてきます。きっと、そこです」

 二人の旅は、順調に進んでいるように見えた。

 だが、アリアの心は、常に東の空に残してきた一人の剣士に囚われていた。

 その夜も、簡素な宿屋の一室で、アリアは悪夢にうなされていた。

 夢ではない。

 彼女の共感能力が、本人も知らないうちに、リアムの魂と微かに繋がってしまっていたのだ。

 彼女の意識は、リアムが今まさに体験している死闘の断片を、一方的に受信していた。

 ――剣戟の閃光。迸る血飛沫。骨を軋ませるほどの衝撃と、全身を駆け巡る激痛。

 そして何より、敵を斬り伏せる瞬間の、リアムの凍てつくような怒りと、その奥底に渦巻く、深い孤独の感情。

「…っ!」

 アリアは、胸を締め付けるような痛みで飛び起きた。額には脂汗が滲み、呼吸が荒い。

「アリアさん、またですか」

 隣の寝台で仮眠を取っていたリィナが、心配そうに声をかける。

「すみません…起こしてしまって…」

「リアムさんのことですね」

 リィナの静かな問いに、アリアは小さく頷くことしかできなかった。

「今、とても苦しんでいました。たくさんの敵に囲まれて…とても、孤独な場所で…」

 彼女には分かっていた。

 自分が見ているのは、ただの幻ではない。

 遠い空の下で、あの人がたった一人で背負っている、現実の痛みと孤独なのだと。


 アリアの予感は、的を射ていた。

 リアムは、「記録院」が仕掛けた巧妙な罠に嵌まっていた。

 四つ目の祠は、無数のゴーレムが配備された巨大な闘技場のような遺跡の奥深くにあり、彼は完全に包囲されていた。

 一体倒せば、二体現れる。

 終わりが見えない消耗戦に、さすがの彼も疲労の色が濃くなっていた。

「くそ…キリがねえな…!」

 肩で息をしながら、迫り来るゴーレムの群れを睨みつける。

 右肩には、先ほどの一撃で受けた深い傷。

 剣を握る手に、思うように力が入らない。

(ここまで、か…)

 一瞬、リアムの脳裏に諦念がよぎった。

 カイル、リィナ、そしてアリアの顔が次々と浮かび、消える。

 約束を果たせない無念が、彼の心を絶望の淵へと突き落とそうとしていた。

 その瞬間だった。

 宿屋のベッドの上で、アリアはいてもたってもいられず、窓際に駆け寄った。

 東の空に向かって、彼女は無意識に、強く両手を組み、祈りを捧げていた。

(どうか、ご無事で…!死なないで、リアムさん…!)

 それは、言葉にならない魂の叫びだった。

 記録官として英雄の伝説を記録したいのではない。

 一人の人間として、彼に生きていてほしい。

 その純粋で温かい祈りの感情が、彼女の共感能力を介して、光の粒子のように夜の闇へと解き放たれていった。

(あなたは、一人じゃない…!)

 死闘の最中にあったリアムは、ふと、不思議な感覚に包まれた。

 絶望で凍てついていた心に、まるで陽だまりのような、温かい何かが流れ込んできたのだ。

 それは、懐かしいような、それでいて初めて感じるような、不思議な安らぎだった。

(…なんだ、これは…?)

 朦朧とする意識の中、脳裏に、金色の髪の少女が、心配そうにこちらを見つめる姿が浮かんだ。

 その温もりが、彼の心の奥底で尽きかけていた最後の灯火に、そっと油を注ぐ。

 リアムの瞳に、再び闘志の光が宿った。

「…冗談じゃねえな。こんな所で、くたばってられるかよ!」

 彼は残された全ての力を振り絞り、大地を蹴った。

 傷の痛みを気力で捻じ伏せ、放たれた一閃は、疾風の名に恥じぬ、神速の軌跡を描く。

 それは、絶望の淵から彼を救い出した、起死回生の一撃だった。

 一体、また一体とゴーレムが崩れ落ち、やがて彼の周りには、動くものは何もなくなった。

 リアムは、剣を杖代わりにその場に膝をつき、荒い息を繰り返す。

 先ほど感じた温もりの正体は、リアムにはまるで分からなかった。

 幻覚か、あるいは死の間際に見た都合の良い夢か。

 だが、確かにそれが、自分に最後の力を与えてくれたことだけは、魂が理解していた。

 彼は、無意識に遥か西の空を見つめる。アリアたちがいる方角だった。

「…借り、か」

 誰に言うでもなく呟いたその声は、もう、ただ孤独なだけではなかった。

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