第六話 万象の書庫
友の姿を模した最後のゴーレムが、足元で冷たい石くれとなって崩れ落ちた後、祠の中には三人の息遣いだけが響いていた。
リアムは、肩で息をしながら、額に浮かんだ冷や汗を拭った。
友との過去をなぞる戦いは、彼の肉体よりも精神を深く消耗させていた。
「リアムさん…」
アリアが、心配そうに彼の顔を覗き込む。
彼女の瞳には、先ほどまでの恐怖とは違う、彼の痛みを分かち合おうとするような、深い色が宿っていた。
「ああ、問題ない」
リアムは、彼女の気遣いを振り払うように短く答えると、憎悪を込めて広間の中央に鎮座する巨大な水晶を睨みつけた。
あれが、この街の人々の心を狂わせ、偽りの物語を囁き続ける元凶だ。
「こんなものに、もう二度と誰の心も惑わさせん!」
リアムはそう吐き捨てると、まだ震える腕を叱咤し、水晶へと歩み寄った。
そして、躊躇なく、その白銀の剣を大きく振りかぶる。
アリアは息を呑んだが、何も言わなかった。
記録官として古代の遺物を破壊することへの抵抗感よりも、これ以上リアムを苦しませたくないという想いが、強く彼女の心を支配していたからだ。
キィン!という甲高い金属音に似た悲鳴を上げ、巨大な水晶に亀裂が走る。
次の瞬間、水晶は内側からまばゆい光を放ち、凄まじい轟音と共に木っ端微塵に砕け散った。
その瞬間、祠全体がその支えを失ったかのように激しく揺れ、崩壊を始めた。
天井から巨大な石材が落下し、壁の紋様が明滅を繰り返しながら消えていく。
「いかん、崩れるぞ!」
リアムは叫ぶと、アリアとリィナの手を掴み、入り口に向かって全力で駆け出した。
地響きと共に床が傾き、三人は降り注ぐ瓦礫の中から、辛うじて転がり出るようにして倉庫の外へと脱出した。
背後で、祠へと続く扉が轟音と共に完全に崩落し、入り口を塞いでしまう。
水晶が破壊された瞬間、祠の外、リューベックの街では、奇妙な現象が起きていた。
あれほど「グレイウォール卿」を熱狂的に信奉していた人々が、まるで長い夢から覚めたかのように、ふと我に返ったのだ。
広場で吟遊詩人の歌に熱狂していた聴衆は、なぜ自分たちがここで拍手を送っていたのか分からなくなり、顔を見合わせる。
酒場で「裏切り者リアム」への罵詈雑言を叫んでいた男は、急に虚しくなり、黙り込んで杯を傾けた。
街全体を覆っていた不自然な熱狂が、まるで薄皮が一枚剥がれるように消え、人々はどこか腑抜けたような、それでいて本来の自分を取り戻したかのような、穏やかな日常へと戻っていった。
崩落した祠の入り口で、三人はしばらく荒い息を整えていた。
崩れた祭壇の奥に、これまで壁に隠されていた別の小さな石版が姿を現しているのをアリアが発見する。
それは、この祠を建造した古代の民が、後世への警告として遺したものだった。
アリアがその石版に触れると、古代の民の悲痛な記憶と共に、メッセージが流れ込んできた。
『我らが築きし奏者は、心を繋ぐためのもの。悪しき手がそれに触れる時、偉大なる円舞曲は終焉を奏でん。その源流は、万象の書庫にあり』
「奏者…?円舞曲…?」
アリアが、その不吉な言葉を繰り返す。
「つまり、こいつは始まりに過ぎない、ということか」
リアムは、舌打ちした。
敵の計画は、自分たちが考えている以上に、遥かに巨大で、根が深いことを悟ったのだ。
三人が宿屋に戻り、今後の対策を練っているところへ、王都から風切り鳥が舞い込んできた。
その足に結び付けられた筒には、宰相印が押された緊急の書簡が収められていた。
インクの滲みや、ところどころ乱れた筆跡から、カイルの極度の疲労と焦りが伝わってくる。
「市井では『グレイウォール卿』を称える声が日増しに高まり、貴族の中には公然と『真実の盾』騎士団への支持を表明する者も出始めた。衛兵同士が、どちらの歴史が正しいかで斬り合い寸前の騒ぎになる始末だ」
書簡には、敵の最終目標が、リアムたちが破壊した祠のような「奏者」を大陸中に配置し、最終的に大陸全ての記憶を司る中枢機関「万象の書庫」を完全掌握することにある、と記されていた。
「…万象の書庫が、本当にあるなんて…」
アリアは、カイルの書簡を読み終え、戦慄と、そして記録官としての武者震いが入り混じったような声で呟いた。
それは、大陸中の全ての記録官が、その存在を伝説としてしか知らない、神話の時代の遺産。
世界の始まりから終わりまでの、全ての出来事が記録されているという、究極の書庫。
石版に記された神話が、今、現実の脅威として目の前に突きつけられたのだ。
カイルの書簡は続く。
「万象の書庫は、単なる記録庫ではない。世界の『理』そのものを記述した、原初の文章だ。そこを書き換えられれば、我々の歴史だけでなく、認識、価値観、そして存在そのものが、根底から覆される。国が滅ぶなどという生易しい話ではない。我々という物語が、完全に別のものに書き換えられてしまうのだ」
カイルの言葉は、三人に、敵の計画の、想像を絶する恐ろしさを叩きつけた。
「俺たちが祠を一つ潰したところで、焼け石に水というわけか」
リアムが、厳しい表情で言った。
カイルからの情報と、祠に残されたメッセージを受け、リアムは即座に、敵の注意を「万象の書庫」から逸らすための陽動作戦を立案した。
広げられた地図の上で、彼は敵の主要拠点を結ぶ最短ルートを指し示し、宣言する。
「俺が大陸各地に点在する、第二、第三の『記憶の祠』を破壊して回る。奴らの計画を遅らせると同時に、敵の戦力を俺一人に引きつける。その間に、君たち二人で本丸へ向かってくれ」
リィナは、地脈の乱れから、次の祠がありそうな地域をいくつか割り出した。
しかし、範囲が広すぎるため、特定には至らない。
そこでアリアが、記録官としての知識を元に口を開いた。
「彼ら『記録院』が人々の記憶に最も効率的に干渉するなら、ただ無作為に祠を置くはずがありません。きっと、歴史的に大きな出来事があった場所や、多くの人々の信仰が集まる古い聖地など、人々の意識が元々集まりやすい場所を選ぶはずです」。
彼女の心理的な側面からの推測により、リィナが示した広大な候補地の中から、次の目的地が具体的に絞り込まれた。
しかし、リアムが一人で危険な任務に向かうと知ったアリアは、「そんなの、認められません!あなただけを死地に...!」と感情的に反発した。
彼の孤独に触れた彼女にとって、彼を再び一人にすることは耐えられなかったのだ。
そんな彼女に対し、リアムは静かに、しかし真剣な眼差しで語りかけた。
「これは、俺にしかできない役目だ。それに、「万象の書庫への道を見つけ出すのは、君たちにしかできない。俺は、お前たちを信じている」。
仲間への絶対的な信頼を示すその言葉と、自分を対等な仲間として認めてくれた彼の眼差しに、アリアは反論できなくなり、涙を堪えながら、固い決意を目に宿して頷いた。
このやり取りを通じて、二人の間には単なる仲間意識ではない、より深い信頼関係が芽生え始めていた。
王都では、カイルが執務室の窓から西の空を見上げ、静かに呟いていた。
「行け、友よ。お前たちが進むその道が、やがて一つの未来へと繋がることを、俺は信じている」
西の空に輝く約束の星が、彼の言葉に応えるように、ひときわ強く瞬いた。
こうして、三人は、それぞれの使命を胸に、リューベックの宿屋を後にした。
疾風の剣は陽動の戦場へ。
そして、二人の女性は、伝説の書庫へと続く、古の道へ。
世界の運命を左右する、二つの道が、今、静かに分かたれた。