第五話 記憶の祠
リューベックの夜は、潮の香りと偽りの熱狂を乗せた湿った風が吹いていた。
リアムたちがアリアの読み取った記憶を頼りにたどり着いたのは、運河沿いに広がる古い倉庫街だった。
打ち捨てられた木箱や錆びた荷揚げ用のクレーンが、月光を浴びて巨大な獣の骸のように静まり返っている。
「この辺りのはずです…」
アリアは目を閉じ、工作員の記憶の残滓を辿る。
「潮の匂い、古びたレンガ…壁に、消えかけた錨の紋章…ありました!」
彼女が指差した先には、ひときわ大きなレンガ造りの倉庫があった。
その壁には、アリアの言う通り、風雨に削られた錨の紋章がかろうじて見て取れる。
正面の頑丈な扉は固く閉ざされているが、アリアは建物の側面へと回り込んだ。
そこには古い木箱が無造作に山積みになっており、その影に隠されるようにして、人が一人やっと通れるほどの小さな脇扉が存在した。
巧妙に偽装された入口だ。
リアムが鍵を破壊して扉をこじ開ける。
中からは、冷たく硬質な空気が流れ出てきた。
三人は頷き合うと、静かに闇の中へと足を踏み入れた。
倉庫の内部かと思われたそこは、全くの異空間だった。
ひんやりとした空気が肌を刺し、壁には未知の言語で書かれた幾何学的な紋様が、青白い光を放ちながらゆっくりと明滅している。
古代文明の遺跡――それが、三人の偽らざる感想だった。
通路を進んだ先は広大な空間となっており、その中央には、天を突くほどの巨大な水晶が鎮座していた。
水晶は心臓の鼓動のように、規則的なリズムで淡い光を明滅させている。
「これが…街の『不協和音』の発生源…」
リィナが、その圧倒的な存在感に息を飲む。
「なんて禍々しい光…。この水晶が、人々の記憶に干渉しているのですね」
アリアもまた、記録官としての知的好奇心と、その力への根源的な恐怖に身を震わせていた。
リアムが警戒を解かずに水晶へと一歩踏み出した、その時だった。
空間の四方から地響きが鳴り、壁の一部が音を立ててせり上がる。
その奥の闇から現れたのは、人の形を模した四体の石像――魔力で動くゴーレムだった。
一体は人の背丈を優に超える巨体で、巨大な両刃の戦斧をその手に下げている。
二体は人間大で、それぞれが双剣と長槍を装備し、最後の一体は標準的な長剣を携え、静かに佇んでいた。
その瞳に宿る魔力の光が、冷たい殺意を放つ。
「番人のお出ましか。歓迎が手荒いじゃねえか」
リアムは白銀の剣を抜き放つと、即座に思考を戦闘へと切り替えた。
守るべき者が二人いる。
やることは一つ。
「リィナ、アリア!離れていろ!」
リアムは叫ぶと同時に、疾風の如く駆け出した。
狙うは、真っ直ぐに突進してきた槍のゴーレム。
槍の石突が床を削りながら、鋭い突きを繰り出してくる。
リアムは体を半身に逸らして紙一重でそれをかわすと、槍の柄をすれ違いざまに剣の腹で打ち据えた。
ゴーレムの体勢がわずかに泳ぐ。
その一瞬の隙を逃さず、彼は流れるような動きで反転し、ゴーレムの首筋にある魔力の継ぎ目を斬り裂いた。
だが、休む暇はない。
背後から双剣のゴーレムが、嵐のような連続攻撃を仕掛けてくる。
甲高い金属音が火花を散らし、リアムは最小限の動きでその猛攻を凌ぎ切る。
その間、リィナは両膝をつき、手のひらをそっと石の床に当てていた。
目を閉じ、意識を集中させる。
彼女の「耳」には、剣戟の音ではなく、石を伝わって響いてくるゴーレムたちの無機質な「意思」の振動が届いていた。
それは、殺意というよりは、命令に従って動く機械の冷たい稼働音に近い。
「リアムさん、巨体が来ます!大きく右に!」
リィナが叫んだ。
彼女には、戦斧の巨体が攻撃のために重心を大きく右足に乗せた、その微細な床の振動が感じ取れたのだ。
その声に反応し、リアムは双剣のゴーレムとの打ち合いを中断して、言葉通りに大きく右へ跳んだ。
直後、今まで彼がいた場所を、唸りを上げた戦斧が薙ぎ払い、床を粉砕する。
爆風と砕石が舞う中、リアムはその好機を逃さない。彼は体勢の崩れた巨体の懐へと一気に踏み込んだ。
「もらった!」
彼の剣が、がら空きになったゴーレムの胸部――赤黒く明滅する魔力核を、根本まで深々と貫いた。
巨体は動きを止め、やがて轟音と共に崩れ落ちる。
残るは二体。
リアムが次の相手を見据えた時、今度はアリアの悲鳴に近い声が響いた。
「リアムさん、後ろ!もう一体が…!」
巨体を倒したリアムだったが、双剣のゴーレムが体勢を立て直し、彼の死角から静かに、そして致命的な一撃を放とうとしていたのだ。
だが、その凶刃がリアムに届くことはなかった。
最後の一体、今まで静観していた長剣のゴーレムが、仲間であるはずの双剣のゴーレムの背後から、その核を無慈悲に貫いていた。
双剣のゴーレムは瓦礫となって崩れ落ち、広間の中央、水晶の前に進み出たのは、その長剣のゴーレムただ一体だった。
リアムは、そのゴーレムが剣を構えた瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。
その構え、重心をわずかに後ろ足に残す立ち方、剣を握る角度、そして獲物を見定めるようにわずかに首を傾げる癖――。
脳裏に焼き付いて離れない、あまりにも馴染み深いその姿。
かつて背中を預け、誰よりも信頼していた友、ガレス・ストーンハートそのものだった。
「…ガレス…?」
リアムの口から、掠れた声が漏れた。
ゴーレムは応えない。
ただ、ガレスが得意とした、水が流れるような滑らかな剣技で、無慈悲に斬りかかってきた。
リアムは咄嗟に剣で受け止める。
キィン!という鋭い音と共に、腕に叩きつけられた衝撃は、石人形のそれではない。
まるで、血の通った人間の、意志のこもった一撃だった。
剣を交えるたびに、思い出がリアムの心を苛む。
(違う、これはただの人形だ!ヤツらの悪趣味な罠だ!)
頭では分かっている。だが、身体が、魂が、友の姿をした敵を斬ることを躊躇する。
リアムは精神的に追い詰められ、防戦一方となる。
ゴーレムの剣が、リアムの防御をこじ開けるように軌道を変える。
ガレスが好んだ、相手の意表を突く巧みなフェイント。
リアムは反応が遅れ、頬に浅い切り傷が走った。
熱い血が伝う。
「リアムさん、しっかりしてください!それは偽物です!」
アリアが叫ぶ。
アリアには、リアムの心が悲鳴を上げているのが、痛いほど伝わってきた。
ゴーレムは、リアムの心の迷いを見透かしたかのように、さらに激しく攻め立てる。
その剣戟は、かつて二人が訓練場で交わした手合わせの記憶そのものだった。
(しっかりしろ、リアム・ブレイド!)
リアムは自らを叱咤する。
だが、ゴーレムの剣が、リアムの防御を弾き、がら空きになった肩口めがけて振り下ろされる。
リアムは咄嗟に剣を交差させてそれを受け止めるが、石人形とは思えぬほどの凄まじい衝撃が腕を駆け巡り、体勢を崩しそうになる。
もはやこれまでか、とリアムが歯を食いしばった、その瞬間。
(俺の剣は、過去に囚われたままか…?違うだろう!)
脳裏に、王都で待つ、カイルの顔が浮かんだ。
リィナの信頼に満ちた声が聞こえた。
アリアの真っ直ぐな瞳が見えた。
(そうだ…俺の剣は、もう俺一人のものじゃない)
彼は、ガレスと交わした最後の約束、仲間たちとの絆、そして今ここにある守るべき者たちの存在を、その震える腕で、そして魂で再認識した。
「お前の剣は完璧な模倣だ。だがな…」
リアムは、額に浮かんだ冷や汗を拭い、ゆっくりと立ち上がる。
その瞳に、もう迷いはなかった。
「今の俺の剣には、お前にはなかった重みが乗っている!」
ゴーレムが、とどめを刺さんと、ガレスの必殺の突きを繰り出す。
それは、あまりにも速く、そして正確な一撃だった。
だが、リアムはその動きを完全に読んでいた。
(その突きは、俺が教えた技だ、ガレス)
彼は最小限の動きで身をかわし、がら空きになったゴーレムの懐へと踏み込む。
それは、友を失ってから、
(その突きは、俺が教えた技だ、ガレス)
彼は最小限の動きで身をかわし、がら空きになったゴーレムの懐へと踏み込む。
それは、友を失ってから、一人で幾千となく振るい続けてきた、孤独と痛みが磨き上げた、彼だけの一閃だった。
リアムの白銀の剣が、ゴーレムの胸の核を、音もなく貫いた。
ゴーレムは動きを止め、その瞳から魔力の光が消える。
やがて、人の形を保てなくなり、ただの石くれとなって足元に崩れ落ちた。
静寂が戻った広間に、リアムの荒い息遣いだけが響く。
彼は、崩れたゴーレムに背を向け、巨大な水晶を見上げて一人、佇んでいた。
その背中は、勝利者のそれでありながら、アリアの目には、これまで見たこともないほど寂しく、そして脆く映った。
(英雄の伝説を記録するのが、私の役目だと思っていた。でも、違う…)
アリアは、リアムの深い孤独と、その魂の叫びを肌で感じ取っていた。
恐怖は、いつしか消えていた。
その代わりに、彼女の胸には、熱い何かが込み上げていた。
(この人を、一人にしてはいけない…)
それは、憧れとは違う、もっと切実で強い感情だった。
(私は、この人のそばにいて、この人の真実を記録しなければならない)
アリアは、その新たな使命感を胸に、強く拳を握りしめた。
彼女の英雄への想いが、一人の人間への、より深く、個人的な決意へと変わった瞬間だった。