第四話 偽史に染まる街
リューベックは、相変わらず、活気と偽りの熱狂に満ちていた。
運河を行き交う船、石造りの重厚な建物、そして広場で喝采を浴びる吟遊詩人。
彼が歌い上げるのは、卑劣な裏切り者「疾風のリアム」を討ち、大陸に平和をもたらしたという「新英雄」の物語だ。
人々はそれを疑うことなく、まるで聖譚歌を聴くように瞳を輝かせている。
その異様なまでの調和と熱狂に、リアム、アリア、リィナの三人は見えない棘の壁を感じていた。
調査は開始早々、暗礁に乗り上げていた。
「どうやら、普通の聞き込みは無駄骨らしいな」
昼間の徒労を終え、宿屋の一室に戻ったリアムが、エールを呷りながらため息混じりに言った。
三人で手分けして街の古老や商人たちに話を聞いて回ったが、得られたものは冷たい拒絶と猜疑の視線だけだった。
例えば、リアムが訪ねた武具屋の老店主は、かつての英雄譚に詳しいと評判の男だった。
初めは昔語りに花を咲かせていたが、リアムが「古い英雄」について、つまり自分自身の本当の戦いについて探りを入れた途端、老店主は血相を変えた。
「あんた、何を企んでる。俺たちの平和を、偉大なる指導者様がもたらしたこの安寧を、乱すつもりか!出ていけ、不穏分子め!」
その剣幕は、まるで真実の探求そのものが唾棄すべき悪であるかのようだった。
アリアが訪れた図書館でも状況は同じだった。
若い司書は、彼女が記録官だと知ると目を輝かせたが、アリアが改竄前の歴史書の所在を尋ねると、顔からサーッと血の気が引いた。
「そ、そのような禁書はございません。歴史は、ただ一つ。今の子供たちが学ぶ、光輝かしい真実の歴史だけです」
彼女は震える手でアリアを追い返し、まるで穢れに触れたかのように扉に鍵をかけた。
人々は偽りの歴史を信じているのではない。
もはや、それ以外の歴史が存在した可能性すら、恐怖の対象なのだ。
「街全体が、一つの巨大な物語を信じ込まされているようです」
リィナが窓の外に広がる夕暮れの街並みを見つめ、憂鬱そうに呟く。
彼女の「大地の声を聞く力」は、この街の異様さを別の形で捉えていた。
「石畳が、壁が、この街を構成するすべてが、悲鳴を上げています。本来そこにあったはずの記憶を、無理やり上書きされた痛みで…。人々は、その痛みに気づかないまま、偽りの安らぎの上で踊っている」
その言葉に、アリアは小さく身を震わせた。
記録官として、記録されることのない真実、忘れ去られていく人々の営みほど悲しいことはない。
だが、この街は違う。
人々は自ら進んで真実を捨て、甘美な嘘を受け入れている。その事実に、彼女はめまいすら覚えていた。
その時、リアムの雰囲気が変わった。
彼は窓の外を眺めるふりをしながら、その瞳は鷹のように鋭く一点を射抜いていた。
「どうやら、俺たちはただの不審者じゃないらしい。ご丁寧にも、監視役までつけてくれたようだ」
彼の視線の先、通りを挟んだ向かいの建物の影に、人混みに紛れながらも、明らかにこちらの様子を窺っている男がいた。
特徴のない顔、平凡な服装。
だが、群衆の中でその男だけが、流れに逆らう澱のように不自然にそこにあった。
「…私が『大地の声』で注意を引きます。リアムさんはその隙に」
リィナの提案を、リアムは片手で制した。
「いや、その必要はない。こそこそされるのは性に合わんのでな。少し、夜風にでも当たってくるとしようか」
その口元には、獰猛な笑みが浮かんでいた。
◇
追跡劇は、唐突に始まった。
リアムが宿屋から一人で姿を現し、何気ない足取りで夜の雑踏に紛れた瞬間、その気配が一瞬で掻き消えた。
監視役の男は目を見張り、慌てて周囲を見渡すが、「疾風」の異名を持つ元英雄の影も形もない。
男が焦りに顔を歪ませた、その背後から、吐息がかかるほどの距離で静かな声がした。
「探したか?」
男は悲鳴を上げそうになるのを堪え、振り返りもせずに駆け出した。
リアムはその後を、まるでじゃれる猫のように、しかし決して逃がさない捕食者の確信を持って追う。
市場の露店が並ぶ喧騒を抜け、洗濯物がはためく入り組んだ路地裏へ。
男は必死に逃げ惑うが、リアムは常に数歩後ろを悠々とついてくる。
壁を蹴り、屋根に飛び乗る男。
リアムもまた、より滑らかな動きでそれに続く。
その動きには一切の無駄がなく、風そのものが形になったかのようだった。
やがて、男は高い壁に囲まれた袋小路に追い詰められた。
ぜえぜえと肩で息をし、絶望的な表情で振り返る彼の前に、リアムは息一つ乱さずに立っていた。
「さて、鬼ごっこは終わりだ。誰の差し金か、話してもらおうか」
「…くっ、裏切り者が!」
男は憎悪に満ちた目でリアムを睨みつけた。
「お前のような過去の亡霊が、我らの平和を乱すことなど許されるものか!」
「ほう、ずいぶんと熱心な信者らしい。だが、生憎と俺は、お前たちの教祖様とやらに用があるんでな」
リアムが詰め寄ろうとした、その時だった。
男は懐から短剣を抜き、自らの喉元に突き立てようとした。
だが、それが遂げられるよりも早く、リアムの腕がしなり、男の手首を的確に打ち据える。
甲高い音を立てて短剣が石畳に落ちた。
リアムが男を取り押さえていると、リィナとアリアが追いついてきた。
「リアムさん、ご無事で!」
「ああ。だが、こいつは思ったより口が堅そうだ。死も覚悟の上らしい」
工作員は唇を固く結び、嘲るような笑みさえ浮かべている。
これ以上の尋問は無意味だと、誰もが悟った。
その時、リィナが男を見据え、静かに言った。
「この人…街の『歪み』と強く繋がっています。この人自身が、歪んだ記憶の発信源の一つになっているようです」
その言葉に、アリアは決意を固めた。
彼女は震える指を抑えながら一歩前に出ると、恐怖と、他人の精神に触れることへの躊躇いを押し殺し、工作員の汗ばんだ腕に、そっと自らの指を触れさせた。
その瞬間、男の記憶の断片が、濁流のようにアリアの意識へと流れ込んできた。
憎悪、狂信的なまでの忠誠心、そして、ある場所の鮮明な光景――。
「…っ!」
数秒後、アリアは弾かれたように手を離した。
彼女は青ざめた顔を上げ、激しく呼吸を繰り返している。
「アリア、大丈夫か」
リアムの気遣う声に、彼女はこくりと頷いた。そして、確信に満ちた声で言った。
「入口がわかりました」
「何?」
「今、この人の記憶を見ました。彼らが『祠』と呼ぶ場所の入口です。ここから西の方角、運河沿いの…今は使われていない古い倉庫街です」
アリアは必死に記憶の奔流を整理し、言葉を紡ぐ。
「潮の匂いがしました。古びたレンガ造りの倉庫…壁に、消えかけた錨の紋章があります。入口は、正面ではなく、山積みにされた古い木箱で巧妙に隠された、小さな脇の扉です。記憶の中で、彼はそこから出入りしていました」
リアムの物理的な追跡と制圧。
リィナによる対象の性質の見極め。
そしてアリアの共感能力が生み出した、具体的で決定的な情報。
三人の力が、ついに敵の拠点を正確に指し示したのだ。
「…よし」
リアムは男の口に布を詰め、動けないように手早く拘束すると、リィナとアリアに向き直った。
「尋問する手間が省けたな。アリア、よくやった」
その声には、確かな信頼がこもっていた。
アリアは頬を染めながらも、しっかりと頷き返す。
リアムは拘束した男を軽々と肩に担ぎ上げた。
「さて、と。それじゃあ、錨の紋章とやらを拝みに行くとしようか」
一行は、偽りの歴史が眠る「記憶の祠」へと続く、新たな手がかりを手に、夜の闇に包まれた倉庫街へと静かに向かうのだった。