第三話 疾風と記憶の出会い
西方の交易都市リューベックは、いつ訪れても変わらぬ喧騒に満ちていた。
潮の香りと、異国の香辛料の匂いが混じり合った湿り気のある空気が、活気ある港町を包み込んでいる。
リアムが北の辺境から、そしてリィナが王都から、それぞれ数週間の旅を経てこの地にたどり着いたのは、ちょうど昼時を少し過ぎた頃だった。
カイルが指定した合流地点は、港を見下ろす丘の上に立つ、少し古びた宿屋「海猫のねぐら」だった。
リアムが宿の扉を開けると、そこにはすでに、窓際の席でハーブティーを飲みながら待っているリィナの姿があった。
「遅いですよ、リアムさん。一杯おごり、ですからね」
リィナは、リアムの姿を認めると、悪戯っぽく笑いながら言った。
その表情には、久しぶりの再会を喜ぶ色が浮かんでいる。
「うるさい。北の道は、お前が通ってきた綺麗な街道とは訳が違うんだ」
リアムはぶっきらぼうに返しつつも、その口元はかすかに緩んでいた。
気心の知れた仲間との再会が、彼の心を少しだけ軽くしていた。
彼がリィナの向かいの席に腰を下ろした、その時だった。
「あ、あの…」
控えめな、しかし芯のある声が、二人の間に割って入った。
声の主は、修道女のような簡索なローブをまとった、金色の髪の少女だった。
年の頃は、まだ十代後半といったところか。
その大きな瞳には、緊張と、そしてそれを上回る強い好奇心と意志の光が宿っていた。「あなたが、リアム・ブレイド様…ですね?」
少女は、リアムを真っ直ぐに見つめて言った。
その手には、古びた革表紙の本が、まるで宝物のように抱えられている。
「そうだが…あんたは?」
リアムが訝しげに問う。
「私は、アリア・ローウェルと申します。パウルス様の…いえ、師の命により、お二人の調査にご協力するよう、修道院から参りました」
パウルス。
その名を聞いて、リアムは合点がいった。
カイルが全幅の信頼を寄せる、王国で最も高名な歴史家の名だ。
リアム自身に面識はないが、カイルからその名は何度も聞かされていた。
あの老獪な宰相のことだ。
これも計算のうちなのだろう。
「それで、嬢ちゃんは、俺たちの何の役に立つってんだ?見てくれは、剣も魔法も使えそうにねえが」
リアムの少し意地悪な問いかけに、アリアは一瞬言葉に詰まり、俯いてしまう。
憧れの英雄を前にして、緊張で頭が真っ白になっているのだ。
「こら、リアムさん。そんな言い方、ありませんよ」
リィナが助け舟を出す。
「アリアさん、気にしないでください。この人は、昔からこうなんです。悪気はないんですよ」
「い、いえ、大丈夫です…!」
アリアは顔を上げると、深呼吸をして、再びリアムに向き直った。
「私は、記録官です。そして…ほんの少しだけ、物に宿った記憶を読むことができます。必ず、お二人のお役に立ってみせます」
その真っ直ぐな瞳に、リアムは、かつての自分たちの姿を、ほんの少しだけ重ねていた。
彼は、ふっと息を漏らすと、飄々とした口調で言った。
「そうかい。ま、カイルが寄越した人間なら、何か考えがあるんだろう。よろしくな、記録官の嬢ちゃん」
リアムは、アリアの緊張を解すように、わざと軽薄な笑みを浮かべて見せた。
こうして、疾風の剣士と、大地の声を聞く特使、そして記憶を読む記録官という、奇妙な三人のチームが、リューベックの片隅で結成された。
その日の午後から、三人は早速、それぞれのやり方で調査を開始した。
目的はただ一つ。この街に広まる「偽りの歴史」の噂の出所と、その背後にある組織の影を探ること。
リィナは、まず街で最も人々の往来が激しい中央広場の、その中心へと向かった。
彼女は、噴水の縁に腰を下ろすと、何百年もの間、無数の人々に踏みしめられてきた古い石畳に、そっと手のひらを当てた。
そして、目を閉じ、意識を集中させる。
彼女の魂が、大地そのものと共鳴する。
聞こえてくるのは、商人たちの威勢のいい声、荷馬車の車輪の音、子供たちのはしゃぎ声。
だが、彼女が「聴いて」いるのは、そんな物理的な音ではない。
大地そのものが発する、声なき声。
本来なら、この活気ある街の大地は、人々の生命力に満ちた、温かく力強い歌を奏でているはずだった。
しかし、今の彼女が聴いているのは、まるで美しい旋律の上に、無理やり不快なノイズを重ねたかのような、歪で、苦しげな不協和音だった。
(…ひどい歌声…。大地が、無理やり嘘の歌を歌わされているみたい…)
最近広まった「偽りの歴史」は、人々の意識を歪め、その歪みが大地そのものの響きを汚染しているのだ。
リィナは、その濁った響きの奔流の中から、一つの、ひときわ強い不協和音の流れを感じ取っていた。
それは、街の北東の方角から、まるで汚染された水のように、じわじわと流れ込んできている。
(あっちに、この不協和音を生み出している源がある…)
彼女は、目を開けると、北東の空を、鋭い目つきで睨みつけた。
アリアは、リィナとは対照的に、街の裏通りにある、埃っぽい古書店へと向かった。
店の中は、黴と古い紙、そして乾燥したインクの匂いで満ちている。
彼女は、店主に断りを入れると、書棚に並べられた古びた書物を、一冊、また一冊と、その指先でなぞるように触れていった。
彼女が探しているのは、吟遊詩人ベルナルドが歌っていたという、「グレイウォール卿」の英雄譚が記された書物だった。
やがて、彼女は書棚の隅で、目当ての本を見つけた。
比較的新しい、安っぽい作りの小冊子だ。
アリアは、その表紙に、そっと指を触れた。
瞬間、彼女の脳裏に、いくつもの断片的な記憶が流れ込んでくる。
――『これは面白い!リアムが悪役とはな!痛快だ!』興奮気味にページをめくる、太った商人の記憶。
――『そうか、やはりガレス様は、裏切られていたのね…』涙を流しながら、その物語を信じ込む、若い女性の記憶。
――『これで、子供たちにも英雄の偉大さを教えられる』満足げに頷く、父親の記憶。
人々の「喜び」や「納得」といった、強い感情が、津波のように彼女を襲う。
だが、アリアは、その感情の奔流の、さらに奥底に、冷たく、そして鋭い、小さな棘のような「違和感」の記憶が残っていることに気づいた。
それは、この物語を読んだ全ての人が、心のどこかで感じているはずの、小さな疑念の欠片だった。
(…みんな、本当は、心のどこかで信じていない…?ううん、違う。信じたくない。というよりは…信じることを、誰かに『強いられている』ような…そんな感じ…)
アリアは、その違和感の正体を探るように、さらに深く、記憶の奥へと意識を沈めていった。
そして、その日の夜。リアムは、黒い夜着に身を包み、リューベックの夜の闇に溶け込んでいた。
彼の目的地は、街で最も羽振りが良いと噂される、穀物商ギルドの長の屋敷だった。
リアムは、昼間のうちに、ギルドの長が「グレイウォール卿」の物語の熱心な信奉者であり、その普及に金を出しているという噂を、酒場で掴んでいた。
高い石壁も、鋭い鉄柵も、彼の前では意味をなさない。
彼は、猫のようにしなやかな動きで、音もなく屋敷の敷地内に侵入すると、衛兵の巡回ルートの僅かな隙を突き、二階の書斎の窓から内部へと滑り込んだ。
書斎の中は、主の趣味を反映して、高価な調度品で満ちている。
リアムは、書斎の机の引き出しを手際よく調べ始めた。
帳簿、手紙、契約書。
彼は、常人にはただの紙切れにしか見えない書類の山から、異常な金の流れを示す一節を、驚くべき速さで見つけ出していく。
(…「記録院」への、多額の寄付金…?なるほどな)
リアムは、その金の流れの先に、全ての黒幕がいることを確信した。
彼が、その証拠となる手紙を懐にしまった、その時だった。
書斎の扉の向こうから、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
(…気付かれたか!)
リアムは、舌打ちすると、書斎の窓から再び闇夜へと身を躍らせた。
宿屋に戻った三人は、それぞれが得た情報を、テーブルの上に広げた。
「街の北東に、強い『不協和音』の発生源があります」とリィナ。
「この本を読んだ人は皆、どこか不自然な形で、この物語を信じ込まされているようです」とアリア。
「そして、その物語を広めている連中の資金源は、この街の有力者たちだ。連中は、『記録院』という組織に金を流している」とリアム。
三つの情報は、見事に一つの結論へと収斂していた。
この街の北東に、「記録院」の拠点があり、そこから何らかの手段で、人々の記憶や認識に干渉しているのだ。
「明日、その『記録院』とやらに、挨拶しに行くとするか」
リアムが、不敵な笑みを浮かべて言った。
その時、ふと、アリアの視線が、リアムがテーブルの上に無造作に置いた、白銀の剣に注がれていることに、リィナは気づいた。
その剣は、リアムが長年使い込んでいるもので、その刀身には、無数の戦いの記憶が刻み込まれている。
「…綺麗な、剣…ですね」
アリアが、まるで夢見るように呟いた。
「ただの鉄の塊だ」
リアムは、ぶっきらぼうに答えると、手入れ用の油と布を取り出した。
アリアは、リアムが剣の手入れを始めるのを、食い入るように見つめていた。
彼女の指先が、何かに引かれるように、ゆっくりと、その剣の鞘へと伸びていく。
リアムが気づいた時には、もう遅かった。
アリアの指先が、鞘に彫られた古い紋様に、そっと触れた。
瞬間、アリアの全身を、凄まじい衝撃が貫いた。
彼女の脳裏に、リアムの、あまりにも膨大で、そして過酷な記憶の奔流が、濁流となって流れ込んできたのだ。
――何千、何万という敵兵の怒号。
――剣と剣がぶつかり合う、耳をつんざくような金属音。
――血の匂い。死の匂い。
――燃え盛る村。崩れ落ちる城壁。
――そして、雨の中で、共に戦い血に濡れた戦士を抱きしめながら、天を仰いで慟哭する、若き日のリアムの姿。
「…あ…っ!」
アリアは、短い悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちた。
彼女の瞳からは、大粒の涙が、止めどなく溢れ出ていた。
それは、彼女自身の涙ではなかった。
リアムが、その永い戦いの中で、決して人前では見せることのなかった、魂の涙だった。
「おい、大丈夫か、嬢ちゃん!」
リアムが、慌てて彼女の肩に手を置く。
すぐ隣にいたリィナも、青ざめた顔で彼女の背中を支えた。
「すみません…すみません…」
アリアは、ただ、そう繰り返すことしかできなかった。
彼女は、伝説の英雄の、その輝かしい物語の裏にある、あまりにも深く、そして孤独な痛みを知ってしまったのだ。
彼女が抱いていた、英雄への淡い憧れは、この瞬間、彼を、その背負うもの全てを理解し支えたいという、より深く、そして切実な、尊敬と使命感へと変わっていた。
リアムは、そんな彼女の様子を、ただ、困惑したように見つめていた。
彼はまだ、この金色の髪の少女が、自らの魂の最も深い部分に触れたことにも、そして、彼女の存在が、これからの彼の旅路を照らす一つの大きな光となることにも、気づいてはいなかった。