第二話 宰相からの特命
北嶺の厳しい冬は、終わりを知らぬかのように長かった。
リアムがホワイトリッジの宿屋の一室でペンを走らせてから、季節は一巡りしようとしていた。
羊皮紙に認めた手紙は、信頼できる行商人に託して、遥か南の王都へと送った。
返事が来るという保証はない。
だが、リアムには確信があった。
あの男なら、必ず動く、と。
その日、リアムはいつものように森から戻り、毛皮商のボルガンと他愛もない世間話を交わしていた。
吟遊詩人ベルナルドが町を去ってから、リアムが酒場で起こした小さな騒動は、すぐに人々の記憶から消え去っていた。
彼は再び、ただの腕の立つ、少し無口な猟師として、町に溶け込んでいた。
「よぉ、リアム。お前に届けもんだぜ」
宿屋の主人が、カウンターの奥から一通の分厚い手紙を差し出した。
差出人の名はない。
だが、その上質な羊皮紙と、王家の紋章が刻印された封蝋を見た瞬間、リアムの心臓がわずかに速鐘を打った。
部屋に戻り、ナイフで慎重に封を切る。
中から現れたのは、見慣れた、少しだけ癖のある几帳面な筆跡だった。
『リアムへ
息災か。それとも、どこかの酒場で酔い潰れて、この手紙を読むことすらままならない状態か。どちらにせよ、お前が無事であることは、お前からの手紙が届いたことで証明されたわけだ。
お前の言う「趣味の悪い吟遊詩人」の件は、こちらでも確認している。王都では、お前が悪役になっているその歌が、芝居にまでなって連日大入りだそうだ。お前も、これからは「英雄」ではなく「名優」を名乗るがいい。
冗談はさておき、その趣味の悪い吟遊詩人には、こちらから礼を言っておかねばなるまい。おかげでお前の居場所が分かったのだからな。
本題に入る。お前の手紙に書かれていた「歴史の書き換え」は、我々が認識している以上に深刻な事態だ。もはや単なる噂話の域を超え、国家の根幹を揺るがす大規模な情報操作へと発展している。早急に手を打たねば、手遅れになるだろう。
ついては、同封した書状の通り、お前を「王直属の特命調査官」に任命する。これは、国王陛下直々の勅命であり、お前には王国の法を超越する権限が与えられる。任務はただ一つ。この歴史改竄の元凶を突き止め、その根を断つこと。
潤沢な資金と、任務に必要な道具は、指定の場所で受け取れるよう手配済みだ。詳細は書状にある。
そして、お前の協力者として、リィナ・シルバーアッシュを西へ向かわせた。お前が力ずくで壁を壊している間に、彼女なら裏口の鍵を見つけ出せるだろう。お前の剣では見えぬものも、彼女の力なら届くはずだ。
リアム。お前がこの任を引き受けてくれなければ、俺は王都を捨ててリィナの隣で剣を振るうしかない。宰相の仕事を放り出すことになるが、それでも構わんか?
返事は聞かずとも分かっている。
旧友、カイル・ヴァーミリオンより』
リアムは、その手紙を、何度も何度も読み返した。
相変わらず、人を食ったような物言いだ。
だが、その行間には、昔と何も変わらない、旧友への絶対的な信頼が滲み出ている。
「…宰相閣下が直々に剣を振るうとはな。よっぽどの事件らしい」
リアムは、誰に言うでもなく呟き、ふっと笑みを漏らした。
長年、彼を覆っていた霧のような孤独感が、その手紙によって、少しだけ晴れたような気がした。
場所は移って、エレジア王国の王都、宰相執務室。
カイル・ヴァーミリオンは、蝋燭の光だけが揺れる薄暗い部屋で、終わりなき書類の山と格闘していた。
若くして宰相に就任して以来、彼の顔にはその年齢にそぐわない深い疲労と、常に張り詰めた緊張の色が刻まれている。
彼の執務室の窓からは、宝石を散りばめたような王都の夜景が見下ろせた。
しかし、その華やかさとは裏腹に、カイルの心は重い霧に覆われていた。
「宰相閣下、西方の三国連合より、またしても我が国からの穀物輸出関税の引き下げを求める陳情が」
「南の穀倉地帯から、原因不明の不作が二年連続で続いているとの報告。すでに、いくつかの村では、備蓄が底をつき始めていると…」
「宮廷内では、吟遊詩人が歌う新たな英雄譚、かの『グレイウォール卿』の物語を支持する派閥が台頭しております。彼らはその物語を大義名分に、新たな騎士団の創設を陛下に進言しているとのこと。その騎士団の名は、『真実の盾』と…」
側近からの報告は、どれもカイルの頭痛の種を増やすものばかりだった。
特に、市井に広まる「偽りの歴史」は、もはや無視できない社会の軋轢を生み始めていた。
リアムを悪役とする新しい英雄譚は、民衆の愛国心を煽る一方で、かつての真実を知る者たちを「時代遅れの頑固者」として社会から孤立させ、世代間の断絶を深めている。
歴史とは、民を一つに束ねるための共通の物語であるはずだ。
その物語が二つ存在すれば、国が二つに割れるのは、時間の問題だった。
「…全て、繋がっている」
カイルは、側近を下がらせると、一人、壁に掛けられた巨大な大陸地図の前に立った。
西方の穀物問題も、南の不作も、そして宮廷内の新たな派閥の動きも、全てが、リアムが報せてきた「歴史の書き換え」という一点へと収斂していく。
これは、単なる偶然ではない。
誰かが、王国を内側と外側から同時に揺ぶり、混乱の極みへと導こうとしている。
その時、執務室の扉が、控えめにノックされた。
「入れ」
入ってきたのは、年の頃は二十代後半の女性だった。
リィナ・シルバーアッシュ。
その緑色の瞳は、常に森の奥の湖のように静かで、深い。
「カイル様。例の吟遊詩人、ベルナルドの身元が割れました」
リィナは、一枚の羊皮紙をカイルの前に差し出した。
「彼は、三年前に王都の記録院を、何らかの罪状で追放された元記録官でした。そして、彼の背後には、さらに巨大な組織の影が…」
「…やはり、『記録院』か」
カイルは、リィナの報告に、眉一つ動かさなかった。全ては、彼の予測の範囲内だった。
「リィナ」
カイルは、地図から彼女へと向き直った。
「君に、旅に出てもらう」
「承知いたしました。どちらへ?」
「西へ。そこで、リアム・ブレイドと合流してほしい。君もよく知る男だ」
その名を聞いて、リィナの静かな瞳が、わずかに揺らめいた。
「疾風のリアム」。
そして、最近では「裏切り者」として、その名を汚されている、かつての仲間。
「君も知っての通り、彼は少々気難しい男だ。口も悪い。だが、その剣の腕と、物事の本質を見抜く目は、今も曇ってはいないはずだ。君のその、常人には感じられない『声』を聞く力が、彼の旅の助けとなるだろう。そして、彼の経験が、君を守る盾となる」
カイルは、机の引き出しから、リアムに送ったものと同じ、王家の紋章が刻まれた封蝋のある封筒を取り出した。
「これは、君に与える全権だ。宰相特使として、私の名において、あらゆる判断を下すことを許可する」
リィナは、その重い信頼を、静かに、しかし深く頭を下げて受け取った。
「カイル様」
彼女は、部屋を辞する前に、一つだけ尋ねた。
「リアムさんは…お元気なのでしょうか」
その問いに、カイルは初めて、宰相の仮面の下にある素の表情を垣間見せた。
それは、遠い昔の、ただの青臭い少年のような、少しだけ寂しげな笑みだった。
「…あいつ以上に、しぶとい男はいないさ。昔も、そして、今もな」
その言葉だけで、リィナには十分だった。
彼女は、静かに一礼すると、音もなく執務室を後にした。
一人残されたカイルは、再び窓の外の夜景に目をやった。
宝石のように輝く王都の灯。その一つ一つに、人々の営みと、守るべき平和がある。
「頼んだぞ、リアム」
彼は、まるでそこにいる友に語りかけるように、静かに呟いた。
北の空に、ひときわ強く輝く星が、一つだけ瞬いている。
それは、かつて二人が、共に戦場を駆けながら見上げた、約束の星だった。