第二十話 真実が還る場所
黄金の光の粒子が、まるで長きにわたる戦いの終わりを祝福するかのように、静かに、そして穏やかに「万象の書庫」の無限回廊に降り注いでいた。
過去の自分自身の幻影――大陸中の痛みをその身に宿した「リアムの影」が、安らかな表情で霧散したのを見届けたリアム・ブレイドは、張り詰めていた全ての糸が切れたかのように、その場にゆっくりと膝をついた。
傷だらけの身体が悲鳴を上げていた。
だが、不思議と心は凪いでいた。
長年、彼の魂を苛み続けてきた罪悪感という名の重い枷は、跡形もなく消え去っている。
彼は初めて、過去の全てを受け入れた上で、今この瞬間に立っている自分を肯定できたのだ。
「リアムさん……!」
悲鳴に近い声と共に、アリアが駆け寄ってきた。
その瞳からは大粒の涙が止めどなく溢れ、彼女は言葉を続けることもできず、ただリアムの傷ついた手を自らの両手で強く握りしめた。
その温もりが、リアムの消耗しきった心へとじんわりと染み渡っていく。
「……ありがとう、アリア、リィナ」
リアムは、これまで彼女達に見せたことのない、心からの穏やかな笑みを浮かべた。
「お前達が、俺を救ってくれた。俺の剣に、本当の力をくれたのはお前達だ」
その言葉に、アリアはさらに涙を溢れさせながらも、力強くこくりと頷いた。
隣に寄り添うリィナもまた、その瞳に深い安堵と、友への誇りを浮かべて静かに微笑んでいる。
もう、多くの言葉は必要なかった。
三人の魂は、この神話の空間で、言葉を超えた固い絆で結ばれていた。
やがて、彼らの帰還を促すかのように、「万象の書庫」そのものが変化を始めた。
無限に広がっていた光の回廊が、まるで天の川のように収束を始め、その輪郭を失っていく。
壁も天井も存在しなかった空間に、冷たい夜気と、湿った土の匂いが戻ってきた。
目の前にあったのは、銀色の月光に荘厳に照らし出された、太古の巨石群――彼らが旅の果てにたどり着いた、古代遺跡の環状列石だった。
現実世界への帰還を果たした直後、リィナが懐から取り出した小さな水晶の魔道具が、淡い青色の光を放ち始めた。
少しのノイズと共に、聞き慣れた旧友の声が響き渡る。
『……聞こえるか、リアム。リィナ、アリア君も無事か』
カイル・ヴァーミリオンの声だった。
その声色には数日間の徹夜をしたかのような深い疲労が滲んでいたが、それ以上に、確かな安堵と喜びが満ちていた。
『こちらでも、「万象の書庫」の正常化を確認した。君たちが、世界の理を取り戻してくれたのだ。……よくやってくれた、友よ。胸を張って、王都へ帰ってこい』
その言葉が、彼らの長きにわたる戦いの、本当の終わりを告げていた。
王都への帰還の旅路は、行きとは全く異なる光景に満ちていた。
リアムたちが立ち寄る町や村は、どこか落ち着かない、それでいて新しい何かが始まろうとしているような、不思議な空気に包まれていた。
あれほど熱狂的に人々が語っていた「グレイウォール卿」の名は、まるで陽炎のように人々の記憶から消え失せ、代わりに、戸惑いと、そして僅かな誇りと共に、忘れられていた英雄たちの名が囁かれるようになっていた。
西方の交易都市リューベックの図書館では、若い司書が、書棚の奥から探し出してきた古い歴史書を、一枚一枚丁寧に修復していた。
その書には、リアム達が共に戦い、大陸を救った真実の記録が記されている。
「私たちは…なんと愚かな夢を見ていたのでしょう」
彼女の呟きは、大陸中の人々が抱いているであろう、痛みを伴う後悔そのものだった。
偽りの物語は甘美だった。
だが、自分たちの祖先が血と涙で築き上げてきた歴史という土台の上に立っているという誇りには、到底及ばない。
人々は、その当たり前の事実に、今ようやく気づき始めていたのだ。
旅の途中、三人が立ち寄った北方の小さな村でのことだった。
酒場の暖炉の前で冷えた体を温めていると、かつてリアムを「不穏分子」と罵倒した屈強な鉱夫が、おずおずと近づいてきた。
「あんた……いや、あなた様は……もしや、『疾風』の……」
その声に、酒場中の視線が三人に突き刺さる。
だが、その視線にはもはや敵意はなく、畏敬と、そして拭い去れない罪悪感のような色が浮かんでいた。
リアムが何も答えずにいると、鉱夫は深く頭を下げた。
「俺たちは……とんでもねえ勘違いをしていた。許してくれとは言わねえ。だが、これだけは言わせてくれ。……ありがとう、英雄様」
その言葉を皮切りに、酒場にいた他の客たちも、次々と立ち上がって頭を下げた。
リアムは黙ってそれを受け止めると、勘定を済ませて静かに席を立った。
宿の外へ出た彼らを、村人たちが遠巻きに取り囲んでいた。
その輪の中から、腰の曲がった一人の老婆が進み出て、震える手でリアムの武骨な手を握った。
「……おかえりなさい、英雄様。ずっと、ずっとお待ちしておりました」
その言葉は、リアムの心の最も深い場所に突き刺さった。
長い、あまりにも長い孤独の旅路が、今この瞬間、本当に終わったのだと、彼は実感した。
その時、人垣をかき分けるようにして、一人の幼い少年が駆け寄ってきた。
少年は、リアムの手に、雪解け水に濡れた一輪の小さな野の花を握らせると、はにかんで母親の後ろに隠れてしまった。
リアムは、その小さな花を、まるで宝物のように見つめていた。
その横顔を、アリアは愛おしそうに見上げていた。
王都への凱旋は、静かな、しかし心からの歓迎に満ちていた。
宰相執務室は、相変わらず膨大な書類の山に埋もれていたが、その主の表情は、数週間前とは比べ物にならないほど穏やかだった。
「リアム」
「カイル」
多くの言葉はなかった。ただ、差し出された互いの手を固く握りしめる。
その一瞬に、共に戦い抜いた友だけが分かり合える、万感の想いが込められていた。
玉座の間に通された三人を前に、国王は深々と頭を下げた。
「英雄リアム・ブレイド、そしてその仲間たちよ。偽りの歴史に惑わされ、そなたたちの真実を見抜けなかった我が不明を、心から詫びる」
国王は、リアムに王国騎士団総長の地位と大陸で最も肥沃な土地を与え、最高の栄誉を授けると宣言した。
アリアには王立記録院の最高顧問、リィナには宰相補佐官の地位が約束された。
だが、リアムは静かに首を横に振った。
「陛下、お言葉ですが、その儀はご辞退申し上げます」
彼のきっぱりとした言葉に、玉座の間がどよめく。
「俺は、ただの剣士です。それに、この平和は俺一人の力で勝ち取ったものではありません。名もなき兵士たちの尊い犠牲と、そして何より、痛みを恐れず、自らの意志で真実を選んだ人々の勇気があったからこそです。英雄と呼ばれるべきは、彼らの方でしょう」
その言葉には、もはや過去の自分を卑下する響きはなかった。
ただ、一人の人間として、ありのままに生きていきたいという、揺るぎない意志が宿っていた。
国王は、彼の瞳に宿る光の強さに圧され、やがて静かに頷いた。
真の英雄とは、地位や名誉を求める者ではないのだと、悟ったかのように。
数日後、アリアは自分にとっての始まりの場所である、灰色の山脈に抱かれた古い修道院を訪れていた。
インクと古い羊皮紙の匂いが満ちる大書庫で、彼女の師である老修士パウルスが、穏やかな笑みで彼女を迎えた。
「……おかえり、アリア」
「ただいま戻りました、パウルス様」
アリアが「万象の書庫」での出来事を語り終えると、パウルスはその皺だらけの目元を指で拭った。
「そうか……お前は、わしが生涯をかけて追い求めた『真実の物語』を、その目で見届け、そして自らの手で紡ぎ出したのだな。見事だ。実に見事な記録官になった」
その言葉は、アリアにとって何よりの勲章だった。
王都の広場では、新しい吟遊詩人が、新しい歌を歌っていた。
それは、リアム達の武勇伝だけでなく、彼らを支えた仲間たちのこと、そして偽りの歴史に打ち克った民衆の選択の尊さを謳う、温かい叙事詩だった。
人々は熱狂するのではなく、自らが勝ち取った歴史の物語として、静かに、そして誇らしげにその歌に耳を傾けている。
王立記録院では、アリアの助言のもと、大陸中の記録官たちが総力を挙げて、新しい歴史書の編纂を始めていた。
それは、特定の英雄を神格化する偽りの聖譚歌ではない。
人々の苦難、英雄たちの過ち、そして復興への道のりといった、全ての痛みと喜びをありのままに記した、「人々のための物語」だった。
リアムは、記録院の門の前で、編纂作業を手伝うアリアが出てくるのを待っていた。
穏やかな午後の日差しが降り注ぎ、平和を取り戻した街を人々が笑顔で行き交う。
その光景を眺める彼の表情には、もう孤独の影はどこにもなかった。
やがて、書物を抱えたアリアが門から出てくる。
リアムを見つけると、その顔に花が咲くような笑みを浮かべた。
リアムもまた、穏やかな笑みを返す。
二人は、肩を並べて、新しい物語を紡ぐために、雑踏の中へとゆっくりと歩き出していった。




