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エレジア大陸記Ⅵ 疾風と忘却の円舞曲  作者: 神凪 浩
第四章 人々が選ぶ物語
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第十九話 克己の剣

 世界の(ことわり)が調律され、本来の静謐を取り戻した「万象の書庫アカシック・アーカイブ」。

 元・院長の狂気も、偽りの歴史の濁流も、黄金の波動によって跡形もなく浄化された。

 後に残されたのは、まるで生まれたての宇宙のように、清らかで神聖な輝きに満ちた無限回廊。

 世界の運命を賭けた戦いは、終わった。

 だが、リアム・ブレイド自身の魂を賭けた戦いは、今、まさに始まろうとしていた。

 彼の目の前には、大陸中の人々が認識した「真実の痛み」をその身に宿し、かつてないほどの力を漲らせた、もう一人の自分が静かに佇んでいた。

 仲間を失い、友を手にかけ、その全ての絶望を一人で背負っていた時代の、最も強く、最も孤独だった自分――「リアムの影」。

 その瞳には、深い孤独と、全てを拒絶する氷のような光が燃え盛っていた。

「リアムさん……」

 アリアの悲痛な声が、静寂の中で微かに震える。

 リィナが彼女の肩を強く抱き、支えるように寄り添う。

 二人は、これから始まるであろう死闘を、ただ見守ることしかできなかった。

 手出しはできない。

 これは、誰にも立ち入ることのできない、リアム自身の魂の聖域で行われる、あまりにも孤独な儀式なのだから。

 リアムは、傷ついた体を引きずるようにしてゆっくりと立ち上がり、白銀の剣を構え直した。

 脇腹の傷が開き、再び血が滲む。

 だが、彼の瞳に先ほどまでの絶望の色はなかった。

 ただ、静かに、目の前の過去と向き合っていた。


 先に動いたのは、再び「影」だった。

 だが、その動きは以前のような単調な速さではない。

 大陸中の痛みと絶望を吸収した「影」の剣は、もはや単なる情報《データ》の再現ではなかった。

 その一挙手一投足に、神話級の魔物さえも凌駕するほどの、凄まじいまでの質量と怨念が込められていた。

 床を蹴る音はない。

 「影」は、まるで空間そのものを滑るように距離を詰め、リアムの心臓めがけて最短にして最速の一閃を放つ。

 それは、かつて彼が「疾風」と謳われた所以である神速の突き。

 だが、その切っ先には、彼がこれまで斬り伏せてきた者たちの無念が、黒いオーラとなって渦を巻いていた。

 キンッ!

 火花が、闇夜に咲く花火のように弾け飛んだ。

 リアムは、その一撃を読んでいたかのように、剣の腹で受け流す。

 だが、その衝撃は凄まじかった。

 腕の骨が軋み、足元の光の粒子が衝撃波で吹き飛ぶ。

 一撃の重さに、リアムの体は数歩後方へと押しやられた。

「……重いな」

 リアムが、初めて口を開いた。

 それは、敵意ではなく、どこか自分自身に語りかけるような、静かな呟きだった。

 「影」は応えない。

 ただ、流れるような動きで二の太刀、三の太刀を繰り出してくる。

 剣閃が光の回廊を縦横無尽に駆け巡り、その度に耳をつんざくような金属音が響き渡った。

 斬り上げは天を裂き、胴薙ぎは地を割り、袈裟懸けは空間そのものを歪ませるかのような威力を伴う。

 リアムは、その嵐のような猛攻を、ただひたすらに受け、弾き、いなし続ける。

 彼の足は床に根を張ったかのように動かない。

 一歩でも退けば、背後にいるアリアとリィナに剣圧の余波が及ぶことを知っていたからだ。

 剣を合わせるたびに、リアムの鎧に亀裂が走り、体には新たな切り傷が刻まれていく。

 だが、彼の瞳の光は、少しも揺らがなかった。

「なぜだ」

 攻防の最中、「影」が乾いた声で問うた。

「なぜ、踏み込んでこない。お前なら、この三撃目と四撃目の間に、反撃(カウンター)を合わせられるはずだ。なぜ、守るだけの剣を振るう?その女たちを庇うために、自らの牙を抜いたか」

「……」

 リアムは答えず、ただ「影」の振るう剣の軌跡を、その瞳に焼き付けていた。

 「影」の言葉通りだった。

 かつての自分なら、迷わず相打ち覚悟で懐に飛び込み、一瞬の隙を突いていただろう。

 だが、今の彼はそれをしない。

 彼の剣は、もはや自分一人のためだけのものではなかったからだ。

 その僅かな思考の隙を、「影」が見逃すはずがなかった。

 嵐のような連撃が、ふっと止む。

 次の瞬間、「影」はリアムの防御の構えを嘲笑うかのように、これまでとは全く異なる、変幻自在の軌道で斬りかかってきた。

 それは、かつて友であったガレスとの手合わせの中で編み出した、相手の意表を突くための剣技。

「しまっ……!」

 予測を裏切られたリアムの反応が、コンマ数秒遅れた。

 「影」の剣が、リアムの防御をすり抜け、その左肩を深く抉る。

「ぐっ……ぁっ!」

 肉を断ち、骨を削る激痛に、リアムは思わず片膝をついた。傷口から鮮血が噴き出し、光の床に生々しい染みを作る。

 「影」は、追撃の手を緩めることなく、そのがら空きになったリアムの首筋めがけて、無慈悲なとどめの一撃を振り下ろした。

 もはや、これまでか。

 アリアとリィナが、悲鳴を上げる間もなかった。

 だが、その刃がリアムの首に届くことはなかった。

 リアムは、片膝をついた低い体勢のまま、傷ついた左腕を盾にするように掲げ、振り下ろされる剣を前腕の鎧で受け止めていたのだ。

 ガァンッ!という鈍い轟音と共に、彼の鎧が砕け散る。

 だが、その捨て身の防御は、致命的な一撃の勢いを僅かに殺した。

 そして、その一瞬の時間を稼ぐことこそが、リアムの狙いだった。

「お前の剣は、確かに速く、重い。だが……」

 リアムは、血を吐きながらも、その口の端に獰猛な笑みを浮かべていた。

 彼は、がら空きになった「影」の胴体へ、床を滑るような低い姿勢から、逆袈裟に剣を突き上げる。

「その剣には、温もりがまるでない」

 ザシュッ!という肉を裂く鈍い音が響き、リアムの剣は「影」の脇腹を浅くではあるが、確かに切り裂いていた。

 初めて受けた手傷に、「影」の動きが僅かに止まる。

 その瞳に、初めて困惑のような色が浮かんだ。

 リアムは、その隙を逃さず、距離を取って立ち上がった。

 左肩と腕は、もはや感覚がないほどに痺れている。

 だが、彼は静かに、目の前の過去の自分を見据えて語りかけた。

「確かにお前は強い。誰よりも強く、そして誰よりも孤独だ。俺は、ずっとそうだった。お前のように、全てを斬り捨て、己の強さだけを信じていれば、もっと楽だったのかもしれない」

 リアムは、一度、背後で固唾を飲んで自分を見守るアリアとリィナに、穏やかな視線を向けた。

 その視線を受け、二人はこくりと頷く。

 その無言のやり取りが、彼に新たな力を与えた。

「だが、今の俺には、お前にはなかったものが二つある」

 彼は再び「影」へと向き直る。その声には、揺るぎない覚悟が宿っていた。

「一つは、背中を預けられる仲間だ。俺の弱さも、愚かさも、その全てを知った上で、それでも共に立ってくれる仲間がいる」

 その言葉に呼応するように、アリアとリィナから、温かい光のような想いがリアムへと流れ込む。

 それは魔力ではない。

 ただ、純粋な信頼と祈りの力だった。

「そして、もう一つは……」

 リアムは、自らの剣を静かに構え直した。

 その切っ先は、もう微塵も震えていない。

「お前が捨ててきた過去の痛みも、弱さも、俺が犯した罪も、その全てを背負って、それでも未来へ進むという覚悟だ!」

 その言葉は、決別の宣言だった。

 過去を否定するのではない。

 孤独だった自分を、弱かった自分を、全て受け入れた上で、それでも前に進むという魂の誓い。

 その瞬間、リアムの剣から放たれるオーラが、その質を劇的に変えた。

 これまでの疾風のような鋭さだけではない。

 仲間への信頼、守るべき未来への想い、そして自らの過去を受け入れる覚悟。

 その全てが溶け合い、彼の白銀の剣は、まるで恒星のような、力強くも温かい黄金の輝きを放ち始めた。

「戯言を…!」

 「影」が、初めて感情の昂りを見せた。

 リアムの変化に脅威を感じたのか、残された全ての力を込めて、最後の一撃を放つべく突進する。

 リアムもまた、それに応えるように、大地を蹴った。

 二つの疾風が、光の回廊の中央で激突する。

 もはや、剣戟の音は聞こえない。

 あまりの高速戦闘に、アリアとリィナの目には、二筋の光が絡み合い、無数の火花を散らしているようにしか見えなかった。

 だが、戦いの趨勢は明らかだった。

 「影」の剣は、速く、鋭く、重い。しかし、その軌道は常に最短、最速。完璧なまでに合理的で、予測が可能だった。

 対するリアムの剣は、時に仲間を庇うように軌道を変え、時に痛みを堪えるように僅かに遅れ、そして、愛する者の顔を思い浮かべるように優しく弧を描く。

 その予測不能な「揺らぎ」と、想いの「重み」が、「影」の完璧な剣技を、少しずつ、しかし確実に上回り始めていた。

 そして、幾千の打ち合いの果てに、ついにその瞬間が訪れる。

 互いの剣が弾かれ、がら空きになった互いの胸。

 それは、両者が放つ、全てを懸けた最後の一突き。

 「影」の切っ先は、リアムの心臓へと寸分の狂いもなく突き出されていく。

 勝利を確信したその一撃が、リアムの胸を捉える、まさにその寸前――。

 リアムの剣技は、その最後の瞬間、自らの意志で軌道を逸らしていた。

 そのことが、「影」の突きを心臓から逸らせる。

 リアムの肩を「影」の剣が深く貫き、鮮血が舞った。

 そして、リアムの剣も「影」の肩を確かに捉えていた。

「なぜ……」

 「影」の孤独な瞳に、最後の疑問が浮かぶ。

 なぜ、とどめを刺せる好機に、わざと急所を外したのか。

「お前も、俺の一部だからだ」

 リアムは、貫いた剣を抜きながら、静かに答えた。

「お前の痛みも、孤独も、俺が全て引き受ける。だから、もう安らかに眠ってくれ」

 その言葉が、最後の儀式となった。

 「リアムの影」の体は、足元からゆっくりと黄金の光の粒子となって崩れ始める。

 その孤独に満ちていた表情は、いつしか穏やかなものへと変わり、最期に、ほんの僅かに微笑んだように見えた。

 それは、長きにわたる孤独の戦いから、ようやく解放された魂の安らぎだったのかもしれない。

 やがて、過去の自分自身の幻影が完全に消え去った後、リアムは、長年背負い続けてきた重い罪と過去の呪縛から完全に解き放たれた自分の剣を、静かに鞘へと収めた。

 カシャン、という澄んだ音が、新しい時の始まりを告げるように、静まり返った「万象の書庫アカシック・アーカイブ」に響き渡った。

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