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疾風と忘却の円舞曲  作者: 神凪 浩
第一章 疾風、再び
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第一話 風の聞く奇譚

 北嶺の風は、常に鉄の匂いを運んでくる。

 エレジア王国最北端に位置する辺境の町、ホワイトリッジ。

 その名を体現するかのように、町の背後にそびえる鋭鋒は、夏でもその頂に万年雪を白く輝かせている。

 その麓に、まるでしがみつくようにして存在するこの町は、厳しい自然と共存するための知恵と、よそ者に対する無骨な沈黙で満ちていた。


 リアム・ブレイドは、その沈黙を好んでいた。

 夜明け前に森に入り、日の傾き始めた頃に一頭の角鹿を仕留めた彼は、その大きな体を肩に担ぎ、雪解け水のぬかるむ道を町へと戻ってきた。

 四十を過ぎた彼の体は、若い頃のような爆発的な力こそ失ったかもしれないが、代わりに、無駄な動きを一切削ぎ落とした、鋼のようなしなやかさを備えている。

「よう、リアム。今日の獲物は上物だな」

 町の入り口で毛皮商を営む、顔馴染みのドワーフ、ボルガンが、その赤ら顔に皺を寄せて声をかけてきた。

「ああ。こいつの毛皮なら、あんたの店の肥やしにはなるだろう」

 リアムは、角鹿を荷台にどさりと下ろしながら、軽口で返す。

 そのやり取りには、長年の付き合いで培われた気安さがあった。

 ボルガンは、リアムがかつて「疾風」と呼ばれた英雄であることなど知らない。

 ただ、腕の立つ、少しばかり訳知り顔の猟師としか思っていなかった。

 それが、リアムにとっては心地よかった。


 彼はここで、ただのリアムでいられた。

 過去の栄光も、犯した罪の重さも、この北の風がどこか遠くへ吹き飛ばしてくれるような気がした。

 毛皮と引き換えに受け取った数枚の銀貨を革袋にしまい、彼は町の中心へと続く石畳の道を歩き始めた。

 すれ違う町の人々は、彼に軽く頷くだけで、深く関わろうとはしない。

 リアムもまた、それを望んでいた。

 かつて仲間と共に戦い、酒を酌み交わした日々の喧騒を、彼は時折懐かしく思い出す。

 だが、それと同じくらい、今のこの静かで、穏やかな孤独を愛していた。


 広場に差し掛かった時だった。

 子供たちの甲高い声が、彼の耳に届いた。

 五、六人の子供たちが、泥にまみれながら、木の棒を剣に見立てて打ち合っている。

 ありふれた、平和な光景。リアムは、その光景にふと足を止め、口元に微かな笑みを浮かべた。

 一人の体格の良い少年が、木の棒を高く掲げ、誇らしげに叫んだ。

「我こそは、真の英雄、グレイウォール卿なり!」

 それに対し、少し痩せた少年が、わざとらしく悪そうな声色で名乗りを上げる。

「ふん、英雄気取りめ!この裏切り者のリアム様が、闇に葬ってやる!」

 リアムは、その名前に、思わず足を止めた。

 彼の心臓が、冷たい手で掴まれたかのように軋む。

「きゃー!助けて、グレイウォール様!悪党のリアムよ!」

 一人の少女が、悲鳴を上げる役を演じている。

 グレイウォール卿を演じる少年は、木の棒を構え直した。

「卑怯者め!お前がガレス様を裏切った罪、この聖剣で償わせてくれる!」

 リアム役の少年は、わざとらしく肩をすくめて見せる。

「甘いな!ガレスは俺の嫉妬の炎に焼かれて死んだのだ!」

 リアムは、物陰から、その光景をただ呆然と見つめていた。

 子供たちは、遊びに夢中で、彼のことなど全く気づいていない。

 彼らにとって、「リアム」という名は、物語の中に存在する、ただの悪役の記号に過ぎないのだ。

 自分の名前が、自分の知らない物語の中で、自分の知らない子供たちの遊びの中で、卑劣な悪役として消費されている。

 その事実が、どんな罵声よりも、どんな敵意よりも、彼の心を深く、そして静かに凍らせていった。

 彼は、子供たちの無邪気な声に背を向け、逃げるようにその場を後にした。


 その日の夜、リアムは町の酒場「氷牙亭」の、いつもの隅の席でエールを呷っていた。

 酒場の中は、鉱夫や猟師たちの、汗と土の匂い、そして安酒の匂いで満ちている。

 リアムは、先ほどの子供たちの言葉を、エールと共に喉の奥へと流し込もうとしていた。

 単なる子供の戯言だ。流行りの歌物語に、いちいち心を乱していてはきりがない。

 そう自分に言い聞かせていた、その時だった。

 酒場の入り口の扉が開き、一人の男が入ってきた。

 派手な刺繍の入った上着をまとい、背中にはリュートを背負っている。旅の吟遊詩人だ。

 常連客たちが、待ってましたとばかりに歓声を上げる。

「よう、ベルナルド!」

「待ってたぜ!」

「今夜は、あの新しい歌を頼む!」

 ベルナルドと呼ばれた詩人は、得意げな笑みを浮かべると、中央のテーブルの上にひらりと飛び乗った。

「皆の衆、ご静聴あれ!今宵、皆様にお聞かせするのは、偽りの英雄が闇に堕ち、真の英雄が夜明けを告げた、新たなる叙事詩!『グレイウォール卿と裏切りの疾風』の一節でございます!」

 その言葉に、リアムは思わず顔を上げた。

 ベルナルドがリュートをかき鳴らし、朗々とした歌声を響かせ始める。

 その歌は、巧みだった。

 聴く者の心を掴み、情景を鮮やかに思い描かせる力があった。

 歌の中で、ガレスは悲劇の英雄として描かれていた。

 あまりに善良で、高潔で、だからこそ、卑劣な友の裏切りに気づけなかった、悲運の騎士として。

 そして、リアムは、その英雄を嫉妬と欲望のために裏切り、闇の力に魂を売った、狡猾で残忍な悪役として描かれていた。

 歌のクライマックスは、ガレスの死後、彗星の如く現れた謎の英雄グレイウォール卿が、リアムとの死闘の末、見事に彼を討ち果たし、世界に平和を取り戻すというものだった。

「…嘘だ」

 リアムの口から、無意識に言葉が漏れた。

 その声は、酒場の喧騒にかき消されるほど小さかったが、彼の心の中では、嵐のような怒りと、そして得体の知れない寒気が渦巻いていた。

 ガレスは、そんな愚かな男ではない。

 そして、俺は…俺は、あいつを裏切ったりなどしていない。

 何より、グレイウォール卿などという男は、存在しない。

「…全て、嘘っぱちだ」

 リアムは、今度ははっきりと聞こえる声で言った。

 吟遊詩人の歌が、ぴたりと止まる。

 酒場中の視線が、一斉にリアムへと突き刺さった。

「なんだ、てめえ!」

 近くのテーブルにいた、体格のいい鉱夫が、顔を真っ赤にして立ち上がり、怒鳴った。

「あんたみたいな、どこの馬の骨とも知れない流れ者が、英雄様の物語を汚すんじゃねえ!」

「そうだそうだ!」

 他の客たちも、次々とリアムに敵意を剥き出しにする。

「これは、王都で一番人気の歌なんだぞ!」

「この歌を聞いて、俺たちはどれだけ勇気づけられたことか!」

 その熱気に、そして憎悪に満ちた視線に、リアムは言葉を失った。

 彼らは、この歌を、ただの物語として楽しんでいるのではない。

 それを、揺るぎない「真実」として、心の拠り所にしているのだ。

 今の彼は、彼らが信じる心地よい真実を脅かす、ただの異分子でしかなかった。

 テーブルの上のベルナルドは、その光景を、少しだけ口の端を吊り上げて眺めていた。

 彼はリュートを置くと、ゆっくりとリアムに向き直った。

「おや、そこの旦那。私の歌が、何かお気に召さなかったかな?」

 その声は、穏やかだが、明確な皮肉の色を帯びていた。

「真実の物語というものは、時に、受け入れがたい者もいるものです。特に、物語の中で、都合の悪い役割を与えられた者にとってはね」

「英雄譚に嫉妬してんじゃねえよ、みっともねえ!」

 誰かがそう叫び、酒場は嘲笑の渦に包まれた。

「…もういい」

 ベルナルドは、嘲笑うように言った。

「酔っ払いの戯言に付き合っている暇はないんでね。おい、誰か、この哀れな男を外に放り出してやってくれ」

 その言葉を合図に、数人の屈強な男たちが立ち上がり、リアムを取り囲んだ。

 彼は、男たちに腕を掴まれ、乱暴に酒場の外へと突き出された。

 リアムは、抵抗しなかった。

 ここで剣を抜けば、それこそ、歌物語の悪役そのものになってしまう。

 木の扉が、彼の背後で、無慈悲な音を立てて閉まる。

 中からは、再びベルナルドの歌声と、客たちの喝采が聞こえてきた。リアムは、抵抗しなかった。

ここで剣を抜けば、それこそ、歌物語の悪役そのものになってしまう。

まるで、不快な雑音を排除したかのように。


 リアムは、夜の冷たい空気の中で、一人、立ち尽くした。

 口の中に、エールと、そして血の味が混じり合って広がった。

 これは、単なる流行歌などではない。

 子供たちの戯言でもない。

 誰かが、明確な意志を持って、歴史を、真実を、根こそぎ書き換えようとしている。

 ガレスの名誉を汚し、俺を悪役に仕立て上げることで、一体、誰が得をする?


 彼は、凍てつくような北の夜空を見上げた。

 無数の星々が、何も語らずに瞬いている。

 その星の海の向こう、遥か南の王都にいる、一人の男の顔が、彼の脳裏に浮かんだ。

 灰色の髪、切れ長の瞳。常に冷静で、そして誰よりも、真実の重さを知る男。

「…カイル」

 リアムは、まるでそこにいる友に語りかけるように、静かに呟いた。

「どうやら、俺たちの戦いは、まだ終わっていなかったらしい」

 彼は、懐の銀貨の重みを確かめると、宿屋へと向かって歩き出した。

 今夜は、久しぶりにペンを取ることになりそうだ。

 この、あまりにも馬鹿げた世界の異変を、唯一信じてくれるであろう、旧友に知らせるために。

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