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エレジア大陸記Ⅵ 疾風と忘却の円舞曲  作者: 神凪 浩
第四章 人々が選ぶ物語
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第十六話 疾風の影

「絆だと…?ならば、その絆ごと、お前自身の最強の絶望によって打ち砕いてくれる!」

 元・院長の狂気に満ちた叫びが、「万象の書庫」の無限回廊に木霊した。

 アリアの魂の叫びによって論理迷宮を突破され、完全に狼狽した彼の最後の手段。

 それは、この世界の記憶そのものである書庫だからこそ可能な、最も残酷な切り札だった。

 彼の足元から伸びた影が、まるで生き物のように蠢き、ゆっくりと人型を形成していく。

 光の粒子が渦を巻き、その輪郭をなぞるように集束していく。

 やがて、そこに立っていたのは、リアムと瓜二つの姿をした何かだった。

 いや、瓜二つというのは正確ではない。

 そこにいるのは、紛れもなく、かつてのリアム・ブレイドそのものであった。

 今よりも幾分か鋭い顎の線。

 他者を一切寄せ付けない、氷のように冷たい双眸。

 その全身から放たれるのは、研ぎ澄まされた刃物のような殺気と、世界そのものを拒絶するほどの深い孤独の匂い。

 腰に提げた剣の握り方、わずかに猫背気味の立ち姿、そして風に揺れる髪の一筋に至るまで、「万象の書庫アカシック・アーカイブ」はリアムの全盛期の姿を完璧に再現していた。

 仲間を失い、誰にも背中を預けることなく、ただ一人、己の剣だけを信じて戦場を駆け抜けていた時代の、最も強く、最も脆かった時代の自分自身。

「…これは」

 リアムは息を呑んだ。

 目の前に立つ幻影――「リアムの影」とでも言うべき存在は、鏡に映った自分を見ているのとは訳が違う。

 それは、彼が心の奥底に封印し、捨て去ろうとしてきた過去そのものが、実体を持って目の前に現れたかのようだった。

「どうだ、リアム・ブレイド。お前自身の過去の亡霊と対峙する気分は」

 元・院長が歪んだ笑みで嘲る。

「そいつは、お前の全てを知っている。お前の剣技、思考の癖、そしてお前が目を背け続けてきたトラウマさえもな!」

 その言葉を肯定するかのように、「影」はゆっくりと剣を抜いた。

 聞き慣れた金属の擦れる音。

 だが、その音には血の匂いが染みついている。

 リアムがこれまで斬り伏せてきた者たちの怨嗟が、その刀身から立ち上っているかのような錯覚を覚えた。

「……」

 「影」は何も語らない。だが、その視線は雄弁に語っていた。

 目の前に立つ現在のリアムを、紛い物だと、弱くなった劣化品だと断じている。

 先に動いたのは「影」だった。

 予備動作がない。

 まるで空間を滑るように距離を詰め、放たれた一閃は、リアムが最も得意とする高速の突き。

 かつて「疾風」と謳われた、神速の剣技そのものだった。

 キンッ!

 甲高い金属音が響き渡り、火花が散る。

 リアムは咄嗟に剣を合わせて弾いていたが、その全身には凄まじい衝撃が走っていた。

 受け止めた腕が痺れ、一撃の重さにたたらを踏む。

 同じ技、同じ剣、同じ肉体のはずなのに、その一撃の鋭さと重さは、今の自分のそれを遥かに凌駕していた。

 「影」は追撃の手を緩めない。

 突きを弾かれた体勢が崩れるよりも早く、流れるような動きで二の太刀、三の太刀を繰り出してくる。

 斬り上げ、胴薙ぎ、袈裟懸け。

 その全てが、リアム自身が幾度となく戦場で振るってきた、血と鉄火の中で磨き上げた剣技。

 自分の動きが、思考が、完璧に読まれている。

 次にどこを狙い、どう動くかを予測され、その二手、三手先を行く剣が、情け容赦なく襲いかかってくる。

「くっ…!」

 リアムは防戦一方に追い込まれた。

 剣を合わせるたびに、全身の骨がきしむような衝撃が襲う。

 これは単なる情報(データ)の再現ではない。

 そこには、明確な殺意と、一切の躊躇も迷いもない、純粋な破壊の意志が込められていた。

 その時、初めて「影」が口を開いた。

 その声は、リアム自身のものと寸分違わない。

 だが、感情というものが抜け落ち、まるで冬の荒野を吹き抜ける風のように冷たく、乾いていた。

「お前は、弱くなった」

 言葉と共に放たれた横薙ぎの一閃を、リアムは後ろ飛び(バックステップ)で辛うじて躱す。

 頬を掠めた剣圧が、数本の髪を切り裂いた。

「仲間という名の重りを背負って、剣が鈍ったな。守るものがあるから、その想いが、踏み込むべき瞬間に躊躇を生む。斬るべき相手に情けをかける。そんなもので、何が守れる?」

「黙れ…!」

 リアムは叫び、反撃に転じた。

 「影」の言葉が、心の最も柔らかな部分を抉るのを感じていた。

 守りたいものがあるからこそ、自分は強くなれたはずだ。

 アリアやリィナとの旅で得た絆が、孤独だった頃の自分にはなかった力を与えてくれたはずなのだ。

 その想いを乗せ、リアムは渾身の力を込めて剣を振るう。

 疾風の名に恥じぬ、嵐のような連続攻撃。

 だが、「影」はそれを紙一重で見切り、あるいは最小限の動きで受け流していく。

 まるで、じゃれついてくる子供をあしらうかのように。

「無駄だ。お前の動きは全て読める」

 「影」はリアムの剣の嵐を捌ききると、ほんの僅かな剣線の乱れ、呼吸の隙を的確に突いてきた。

 カウンターの一撃がリアムの肩を浅く切り裂く。

 熱い痛みが走り、鎧の下に血が滲んだ。

「その女か?お前を弱くしたのは」

 「影」の虚ろな目が、リアムの後方で息を飲んで戦いを見守るアリアを捉えた。

「やめろ…!」

 リアムの激情に呼応するように、剣が閃光を放つ。

 だが、その一撃すらも「影」は予測していた。

 身を翻して回避すると、リアムの体勢が崩れた隙を見逃さず、強烈な蹴りをその脇腹に叩き込んだ。

「ぐっ…!」

 鈍い衝撃と共に、リアムの体はくの字に折れ曲がり、数メートル後方まで吹き飛ばされた。

 光の粒子でできた地面に激しく叩きつけられ、咳き込む。肺から空気が搾り出されるような苦痛に、視界が明滅した。

「リアムさん!」

 アリアの悲鳴が聞こえる。

 リィナが彼女を庇うように前に立つ気配がした。

 守らなければ。

 二人を、この過去の亡霊から守り抜かなければ。

 その想いが、逆に体を縛る重い枷となる。立ち上がろうとする体に、「影」が冷徹な言葉を投げかけた。

「守るだと?お前は今まで、誰かを守りきれたことがあったか?」

 その言葉は、呪いのようにリアムの心に突き刺さった。

 脳裏に、守れなかった者たちの顔が次々と浮かび上がる。

 血の海に沈んだ戦友たち。

 故郷に残してきた家族への想いを託して死んでいった若い兵士。

 そして、自らの手で斬らなければならなかった、戦友の最後の顔。

「…違う」

「何が違う。お前はいつだってそうだ。守ると誓い、その重さに耐えきれず、結局は全てを失ってきた。お前の歩んできた道は、屍で覆われている」

「違う!」

 リアムは咆哮し、再び立ち上がった。

 傷ついた肩が、蹴られた脇腹が激しく痛む。

 だが、それ以上に、「影」の言葉が魂を苛んでいた。

「今の俺には、お前にはなかったものがある!」

 それは、アリアやリィナとの旅で得た、かつての自分にはなかったはずの答え。

 仲間への信頼の証のはずだった。

 だが、その言葉は悲しいほどに空虚に響いた。

 目の前の「影」は、そんな感傷など一刀両断にするというように、静かに剣を構え直す。

「感傷に浸っている暇があるのか?お前がそうして足掻いている間に、仲間が死ぬぞ」

 瞬間、「影」の姿が掻き消えた。

 リアムの背筋を悪寒が駆け抜ける。

 狙いは自分ではない。アリアとリィナだ。

「しまっ…!」

 振り返るリアムの視界の端で、「影」が二人に肉薄していた。

 リィナが咄嗟に防御の構えを取るが、全盛期のリアムの一撃を防ぎきれるはずがない。

 リアムは思考よりも早く動いていた。

 地面を蹴り、限界を超えた速度で二人の前に割り込む。

 迫り来る「影」の剣を、己の剣で全力で受け止めた。

 ガァンッ!!

 これまでとは比較にならない、耳をつんざくような轟音が響き渡る。

 リアムの剣が、その凄まじい威力に耐えきれず、弾き飛ばされた。

 衝撃は剣だけでは殺しきれず、彼の体を叩きのめす。

 吹き飛ばされたリアムの体は、書庫の壁とも言うべき光の集合体に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちた。

「…がはっ…!」

 口から血の塊が溢れる。

 リアムは霞む目で「影」を見上げた。

 仲間を守るために咄嗟に動いた行動、それすらも「影」の計算の内だったのだ。

 リアムを精神的にも、物理的にも追い詰めるための、完璧な一手。

「リアムさん! しっかりしてください!」

 アリアが駆け寄ろうとするのを、リィナが必死に制止している。

 「影」はゆっくりとリアムに歩み寄る。

 その足音だけが、静まり返った空間に不気味に響いた。

 そして、動けないリアムの目の前で、切っ先を彼の喉元に突きつける。

「言ったはずだ。お前は弱くなった、と」

 冷たい声が、敗北の宣告のように突き刺さる。

「仲間を守りたいという意志が、お前の剣に迷いを生んだ。その迷いが、お前の死を招く。結局、お前は何も守れはしない。かつての俺のように、全てを斬り捨てる覚悟なき者に、剣を握る資格はない」

 リアムは、喉元に突きつけられた剣先を見つめながら、荒い息を繰り返すことしかできなかった。

 痛みと絶望で意識が遠のいていく。

 アリアの顔が、涙に濡れているのが見えた。

 すまない、と心の中で呟く。

 お前を守ると誓ったのに、結局俺は、この程度なのか。

 過去の自分自身という、最強の絶望を前に、リアムの光は、今にも消え入りそうに揺らめいていた。

 決着は、まだついていない。

 だが、その天秤は、絶望へと大きく傾いていた。

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