第十六話 疾風の影
「絆だと…?ならば、その絆ごと、お前自身の最強の絶望によって打ち砕いてくれる!」
元・院長の狂気に満ちた叫びが、「万象の書庫」の無限回廊に木霊した。
アリアの魂の叫びによって論理迷宮を突破され、完全に狼狽した彼の最後の手段。
それは、この世界の記憶そのものである書庫だからこそ可能な、最も残酷な切り札だった。
彼の足元から伸びた影が、まるで生き物のように蠢き、ゆっくりと人型を形成していく。
光の粒子が渦を巻き、その輪郭をなぞるように集束していく。
やがて、そこに立っていたのは、リアムと瓜二つの姿をした何かだった。
いや、瓜二つというのは正確ではない。
そこにいるのは、紛れもなく、かつてのリアム・ブレイドそのものであった。
今よりも幾分か鋭い顎の線。
他者を一切寄せ付けない、氷のように冷たい双眸。
その全身から放たれるのは、研ぎ澄まされた刃物のような殺気と、世界そのものを拒絶するほどの深い孤独の匂い。
腰に提げた剣の握り方、わずかに猫背気味の立ち姿、そして風に揺れる髪の一筋に至るまで、「万象の書庫」はリアムの全盛期の姿を完璧に再現していた。
仲間を失い、誰にも背中を預けることなく、ただ一人、己の剣だけを信じて戦場を駆け抜けていた時代の、最も強く、最も脆かった時代の自分自身。
「…これは」
リアムは息を呑んだ。
目の前に立つ幻影――「リアムの影」とでも言うべき存在は、鏡に映った自分を見ているのとは訳が違う。
それは、彼が心の奥底に封印し、捨て去ろうとしてきた過去そのものが、実体を持って目の前に現れたかのようだった。
「どうだ、リアム・ブレイド。お前自身の過去の亡霊と対峙する気分は」
元・院長が歪んだ笑みで嘲る。
「そいつは、お前の全てを知っている。お前の剣技、思考の癖、そしてお前が目を背け続けてきたトラウマさえもな!」
その言葉を肯定するかのように、「影」はゆっくりと剣を抜いた。
聞き慣れた金属の擦れる音。
だが、その音には血の匂いが染みついている。
リアムがこれまで斬り伏せてきた者たちの怨嗟が、その刀身から立ち上っているかのような錯覚を覚えた。
「……」
「影」は何も語らない。だが、その視線は雄弁に語っていた。
目の前に立つ現在のリアムを、紛い物だと、弱くなった劣化品だと断じている。
先に動いたのは「影」だった。
予備動作がない。
まるで空間を滑るように距離を詰め、放たれた一閃は、リアムが最も得意とする高速の突き。
かつて「疾風」と謳われた、神速の剣技そのものだった。
キンッ!
甲高い金属音が響き渡り、火花が散る。
リアムは咄嗟に剣を合わせて弾いていたが、その全身には凄まじい衝撃が走っていた。
受け止めた腕が痺れ、一撃の重さにたたらを踏む。
同じ技、同じ剣、同じ肉体のはずなのに、その一撃の鋭さと重さは、今の自分のそれを遥かに凌駕していた。
「影」は追撃の手を緩めない。
突きを弾かれた体勢が崩れるよりも早く、流れるような動きで二の太刀、三の太刀を繰り出してくる。
斬り上げ、胴薙ぎ、袈裟懸け。
その全てが、リアム自身が幾度となく戦場で振るってきた、血と鉄火の中で磨き上げた剣技。
自分の動きが、思考が、完璧に読まれている。
次にどこを狙い、どう動くかを予測され、その二手、三手先を行く剣が、情け容赦なく襲いかかってくる。
「くっ…!」
リアムは防戦一方に追い込まれた。
剣を合わせるたびに、全身の骨がきしむような衝撃が襲う。
これは単なる情報の再現ではない。
そこには、明確な殺意と、一切の躊躇も迷いもない、純粋な破壊の意志が込められていた。
その時、初めて「影」が口を開いた。
その声は、リアム自身のものと寸分違わない。
だが、感情というものが抜け落ち、まるで冬の荒野を吹き抜ける風のように冷たく、乾いていた。
「お前は、弱くなった」
言葉と共に放たれた横薙ぎの一閃を、リアムは後ろ飛びで辛うじて躱す。
頬を掠めた剣圧が、数本の髪を切り裂いた。
「仲間という名の重りを背負って、剣が鈍ったな。守るものがあるから、その想いが、踏み込むべき瞬間に躊躇を生む。斬るべき相手に情けをかける。そんなもので、何が守れる?」
「黙れ…!」
リアムは叫び、反撃に転じた。
「影」の言葉が、心の最も柔らかな部分を抉るのを感じていた。
守りたいものがあるからこそ、自分は強くなれたはずだ。
アリアやリィナとの旅で得た絆が、孤独だった頃の自分にはなかった力を与えてくれたはずなのだ。
その想いを乗せ、リアムは渾身の力を込めて剣を振るう。
疾風の名に恥じぬ、嵐のような連続攻撃。
だが、「影」はそれを紙一重で見切り、あるいは最小限の動きで受け流していく。
まるで、じゃれついてくる子供をあしらうかのように。
「無駄だ。お前の動きは全て読める」
「影」はリアムの剣の嵐を捌ききると、ほんの僅かな剣線の乱れ、呼吸の隙を的確に突いてきた。
カウンターの一撃がリアムの肩を浅く切り裂く。
熱い痛みが走り、鎧の下に血が滲んだ。
「その女か?お前を弱くしたのは」
「影」の虚ろな目が、リアムの後方で息を飲んで戦いを見守るアリアを捉えた。
「やめろ…!」
リアムの激情に呼応するように、剣が閃光を放つ。
だが、その一撃すらも「影」は予測していた。
身を翻して回避すると、リアムの体勢が崩れた隙を見逃さず、強烈な蹴りをその脇腹に叩き込んだ。
「ぐっ…!」
鈍い衝撃と共に、リアムの体はくの字に折れ曲がり、数メートル後方まで吹き飛ばされた。
光の粒子でできた地面に激しく叩きつけられ、咳き込む。肺から空気が搾り出されるような苦痛に、視界が明滅した。
「リアムさん!」
アリアの悲鳴が聞こえる。
リィナが彼女を庇うように前に立つ気配がした。
守らなければ。
二人を、この過去の亡霊から守り抜かなければ。
その想いが、逆に体を縛る重い枷となる。立ち上がろうとする体に、「影」が冷徹な言葉を投げかけた。
「守るだと?お前は今まで、誰かを守りきれたことがあったか?」
その言葉は、呪いのようにリアムの心に突き刺さった。
脳裏に、守れなかった者たちの顔が次々と浮かび上がる。
血の海に沈んだ戦友たち。
故郷に残してきた家族への想いを託して死んでいった若い兵士。
そして、自らの手で斬らなければならなかった、戦友の最後の顔。
「…違う」
「何が違う。お前はいつだってそうだ。守ると誓い、その重さに耐えきれず、結局は全てを失ってきた。お前の歩んできた道は、屍で覆われている」
「違う!」
リアムは咆哮し、再び立ち上がった。
傷ついた肩が、蹴られた脇腹が激しく痛む。
だが、それ以上に、「影」の言葉が魂を苛んでいた。
「今の俺には、お前にはなかったものがある!」
それは、アリアやリィナとの旅で得た、かつての自分にはなかったはずの答え。
仲間への信頼の証のはずだった。
だが、その言葉は悲しいほどに空虚に響いた。
目の前の「影」は、そんな感傷など一刀両断にするというように、静かに剣を構え直す。
「感傷に浸っている暇があるのか?お前がそうして足掻いている間に、仲間が死ぬぞ」
瞬間、「影」の姿が掻き消えた。
リアムの背筋を悪寒が駆け抜ける。
狙いは自分ではない。アリアとリィナだ。
「しまっ…!」
振り返るリアムの視界の端で、「影」が二人に肉薄していた。
リィナが咄嗟に防御の構えを取るが、全盛期のリアムの一撃を防ぎきれるはずがない。
リアムは思考よりも早く動いていた。
地面を蹴り、限界を超えた速度で二人の前に割り込む。
迫り来る「影」の剣を、己の剣で全力で受け止めた。
ガァンッ!!
これまでとは比較にならない、耳をつんざくような轟音が響き渡る。
リアムの剣が、その凄まじい威力に耐えきれず、弾き飛ばされた。
衝撃は剣だけでは殺しきれず、彼の体を叩きのめす。
吹き飛ばされたリアムの体は、書庫の壁とも言うべき光の集合体に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちた。
「…がはっ…!」
口から血の塊が溢れる。
リアムは霞む目で「影」を見上げた。
仲間を守るために咄嗟に動いた行動、それすらも「影」の計算の内だったのだ。
リアムを精神的にも、物理的にも追い詰めるための、完璧な一手。
「リアムさん! しっかりしてください!」
アリアが駆け寄ろうとするのを、リィナが必死に制止している。
「影」はゆっくりとリアムに歩み寄る。
その足音だけが、静まり返った空間に不気味に響いた。
そして、動けないリアムの目の前で、切っ先を彼の喉元に突きつける。
「言ったはずだ。お前は弱くなった、と」
冷たい声が、敗北の宣告のように突き刺さる。
「仲間を守りたいという意志が、お前の剣に迷いを生んだ。その迷いが、お前の死を招く。結局、お前は何も守れはしない。かつての俺のように、全てを斬り捨てる覚悟なき者に、剣を握る資格はない」
リアムは、喉元に突きつけられた剣先を見つめながら、荒い息を繰り返すことしかできなかった。
痛みと絶望で意識が遠のいていく。
アリアの顔が、涙に濡れているのが見えた。
すまない、と心の中で呟く。
お前を守ると誓ったのに、結局俺は、この程度なのか。
過去の自分自身という、最強の絶望を前に、リアムの光は、今にも消え入りそうに揺らめいていた。
決着は、まだついていない。
だが、その天秤は、絶望へと大きく傾いていた。




