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第十三話 真実の剣

 時間は、その流れを止めたかのように思えた。

 アリアの耳には、自らの心臓が恐怖に打つ音だけが、やけに大きく響いていた。

 目の前で、リアムの身体がゆっくりと崩れ落ちていく。

 その肩には、禍々しい呪いの矢が深々と突き刺さり、彼の生命力を光の粒子として容赦なく奪い続けていた。

 白銀の剣を杖代わりに、かろうじて片膝をついた姿勢を保ってはいるが、その瞳から闘志の光は消え失せ、虚ろな闇だけが広がっている。

 元・院長の囁きが作り出した、あり得たかもしれない幸福な幻影。

 それが、彼の魂を内側から完全に砕いてしまったのだ。

「リアムさん!」

 アリアの悲鳴が、無限に広がる光の回廊に虚しく響いた。

 駆け寄ろうとする彼女の前に、伝説の竜騎士と音速の双剣士が、冷たい鉄の壁となって立ちはだかる。

 彼らの魂のない瞳は、もはやリアムを脅威とは見なさず、次なる排除対象としてアリアとリィナを捉えていた。

 元・院長の高らかな笑い声が、空間全体を支配した。

「見ろ、あれが英雄の末路だ!愛という名の甘美な毒は、最も屈強な魂さえも内側から蝕み、崩壊させる。彼は自ら、少女の幸福のために死を選ぶのだ。これ以上美しい物語があるかね?」

 その言葉は、アリアの絶望をさらに深い淵へと突き落とした。

 元・院長の言う通りだった。

 リアムは、アリアの幸せを願うあまり、戦うことをやめてしまったのだ。

 自分の存在が、彼女の未来を曇らせると思い込んでしまったから。

(違う…違う…!)

 アリアは、心の内で絶叫した。

(私が望んだ未来は、そんなものじゃない…!)

 彼女の脳裏に、洞窟の中で見た、リアムの記憶の奔流が蘇る。

 友と交わした無邪気な誓い。

 英雄として祭り上げられた栄光の裏にあった戸惑い。

 そして、全てを懸けてでも守りたかった、名もなき兵士との約束。

 彼が背負ってきた罪も、孤独も、その全てが、あまりにも深く、そして純粋な愛と優しさから生まれたものであることを、この世界で自分だけは知っている。

 元・院長が作り出した幸福な幻影は、彼の最も美しい部分を、最も醜い呪いへとすり替えた、卑劣な罠なのだ。

(私が…私が、彼の真実を歌わなければ…!)

 恐怖に震えていた足が、固い決意によってその場に根を張る。

 アリアは、涙に濡れた顔を上げると、リアムを庇うように、その小さな体で彼の前に立った。

 その背後では、リィナが杖――それは王都を発つ際にカイルから護身用に渡された、地脈の力を増幅する樫の杖だった――を光の床に突き立てていた。

「ここは土も岩もない…。でも、この場所にも『基盤』はあるはず…!」

 彼女は瞳を閉じ、意識を集中させる。

 彼女の魂が、大地ではなく、この空間を構成する無数の光の粒子、記憶の奔流そのものへと語りかける。

「お願い…歌って…!私に力を貸して!」

 彼女の祈りに応えるかのように、足元の光の粒子が杖を中心に渦を巻き始め、眩い光の壁となってアリアとリアム、そしてリィナの周囲に立ち上がった。

 それは魔術師が構築する幾何学的な結界ではない。

 もっと原始的で、力強い、この場の記憶そのものが意思を持って二人を守ろうとしているかのような、生きた壁だった。

 リィナは、この異質な空間の「声」を聞き、その力を借りることに成功したのだ。

 彼女は、アリアが成そうとしていることの重要性を理解し、自らは沈黙の守護者となることを選んだのだった。

「私は、あなたの全てを知っています!」

 それはリリアの、魂を振り絞るような、凛とした声だった。

 その声は、元・院長ではなく、背後でうなだれるリアムの心へと真っ直ぐに向けられていた。

「友との約束を守るために、あなたがどれほどの痛みに耐えてきたのか!そのために、どれほどの涙を一人で流してきたのかも!」

 アリアは、一歩前に出る。

 双剣士の傀儡が、その無感情な瞳で彼女を見下ろしているが、もはや彼女の目には入っていなかった。

「私は見ました!雨の戦場で、名もなき兵士の亡骸を抱きしめ、天に誓うあなたの姿を!彼の愛した家族を、そしてこのくだらない戦争を、命に代えても終わらせると誓った、あなたの魂の叫びを!」

 その言葉は、虚ろだったリアムの瞳にかすかな光を灯した。

 忘れようとしていた、忘れることなどできるはずもなかった、彼の魂の原風景。

 なぜ、彼女がそれを知っているのか。そんな疑問よりも先に、彼の心の最も柔らかな部分が、彼女の言葉に共鳴していた。

「あなたの過去は、決して汚れたものなどではありません!あなたが背負ってきた罪も、痛みも、その全てが、あなたの優しさの証です!あなたの強さの源です!」

 元・院長の顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。

「小娘が…!この男の毒気にでも当てられたか!そのくだらぬ感傷を、これ以上聞かせるな!」

 彼は傀儡たちに攻撃を命じる。竜騎士がその巨大な槍を振り上げた。

 だが、アリアは怯まなかった。

 彼女は、リアムの前に立ち塞がったまま、さらに言葉を続けた。

 それは、彼女の心からの偽りのない叫びであり、そして呪いを解くための祈りの歌だった。

「だから、もう一人で背負わないでください!あなたの痛みも、あなたの罪も、あなたの守りたかった約束も、全部まとめて、私が半分背負います!私は、あなたの全てと一緒に、未来を歩みたいんです!」

 その魂からの叫びが、リアムを長年縛り付けていた罪悪感という名の呪縛を、木っ端微塵に打ち砕いた。

 肩に突き刺さっていた呪いの矢から、禍々しい紫色の光が急速に失われていく。

 まるでその魔力が蒸発していくかのように輝きを失った矢は、砂のように脆く崩れ落ちて消えていった。

 傷口からの流血は止まり、失われた生命力が、温かい光となって彼の体へと還っていくのが分かった。

 心を満たしていた鉛のような重さが消え、代わりに、これまで感じたことのないほどの力が、体の芯から湧き上がってくる。

 守るべきものが、明確になったからだ。

 過去の約束だけではない。

 目の前にいる、この少女のいる未来。

 それこそが、今の自分が命を懸けて守るべき、たった一つの真実だった。

「…そうか」

 リアムは、ゆっくりと立ち上がった。

 その体からは、先ほどまでの消耗が嘘のように、圧倒的な闘気が立ち上っている。

「俺の剣は…まだ、過去に囚われたままだったらしいな」

 彼は、心配そうにこちらを見つめるアリアに、穏やかな笑みを向けた。

 それは、彼女が初めて見る、彼の心からの笑顔だった。

「ありがとう、アリア。お前のおかげで、俺は、ようやく本当の俺になれた」

「リアムさん…」

「見ていろ。俺の、本当の剣を」

 リアムは、白銀の剣を静かに構え直した。

 その切っ先は、もう微塵も震えていない。

「馬鹿な…!呪いが解けただと!?」

 狼狽する元・院長が、再び傀儡たちに攻撃を命じた。

 竜騎士が大地を揺るがす突進を仕掛け、音速の双剣士がその左右から死角を狙う。

 先ほどは防戦一方だったはずの、絶望的な波状攻撃。

 だが、今のリアムには、その全ての動きが、まるで緩慢な流れのように見えていた。

 彼は動かない。

 ただ、静かに目を閉じ、迫り来る槍と双剣の殺意を、その肌で感じ取っていた。

 そして、三つの刃が彼の体に届く、まさに寸前。

「――疾風」

 その一言と共に、リアムの姿が掻き消えた。

 いや、消えたのではない。

 常人の認識を遥かに超える速度で、三つの刃の間をすり抜けていたのだ。

 竜騎士と双剣士が、互いの獲物を空振りさせ、一瞬だけ体勢を崩す。

 その背後に、リアムは音もなく現れていた。

 彼の剣は、もう速いだけではなかった。

 アリアを、愛する者を守るという、絶対的な意志の「重み」が乗っていた。

 振り下ろされた一閃は、風を切る音さえ立てなかった。

 だが、その一撃は、音速の双剣士の傀儡を、その鎧ごと一刀両断にしていた。

 続けざまに、彼は反転しながら、がら空きになった竜騎士の背中に、流れるような斬撃を叩き込む。

 重厚な鎧が、まるで紙のように斬り裂かれ、内部の魔力核が悲鳴を上げて砕け散った。

 先ほどまであれほど苦しめられた伝説級の英雄二体を、リアムは瞬きする間に屠って見せたのだ。

 残る魔弓兵が、恐慌をきたしたように矢を放つ。だが、その矢がリアムに届くことはなかった。

 リアムが振るった剣が生み出した真空の刃が、飛来する矢を空中で切り裂き、そのまま射手である魔弓兵をも切り伏せていた。


 静寂が戻った回廊で、リアムはアリアの隣に立ち、その肩にそっと手を置いた。

「お前が、俺の剣に本当の力をくれた」

 彼は、まだ震える彼女の前で、静かに言った。

 アリアは、彼の瞳をまっすぐに見つめ、ただ、こくりと頷いた。

 二人は、光の粒子の奥で、憎悪と焦りに顔を歪める元・院長を、静かに見据える。

 愛と真実の天秤は、今、確かな未来へと傾いていた。

 忘れられた兵士の歌は、少女の愛によって受け継がれ、そして今、英雄の剣を、真実の剣へと昇華させたのだ。

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