第十二話 愛と真実の天秤
元・院長の合図と共に、光の粒子から生まれた「偽史の英雄兵団」が、魂のない瞳でリアムたちに殺到する。
それは、歴史という名の奔流そのものが、意思を持って襲いかかってくるかのようだった。
百人斬りと謳われた剣豪が、血に濡れた刀身を煌めかせ、古代の魔導師が、指先に破滅の呪文を紡ぎ出す。
無敵を誇った騎士団長は、その重厚な鎧を軋ませながら、山をも砕くと言われた戦斧を構えた。
彼らはもはや英雄ではなく、元・院長の意のままに動く、ただの殺戮人形だった。
「散開!陣形を組め!」
リアムの鋭い号令が、神話の回廊に響き渡る。
その声に応え、五名の『沈黙の爪』の隊員たちが、即座にリアム、アリア、リィナの三人を守るように展開した。
彼らは、召喚された英雄兵団の猛攻に対し、一歩も引かずに完璧な連携で対峙する。
先陣を切った剣豪の、常人には捉えきれぬ速度の斬撃を、隊員の一人がまるで未来を読んでいたかのように、魔力を帯びた小盾で的確に弾く。
火花が散り、甲高い金属音が鳴り響くその一瞬の隙を逃さず、別の隊員が懐から投げ放った銀色のワイヤーが、蜘蛛の巣のように空間に張り巡らされた。
それはただのワイヤーではない。
触れた者の魔力を吸収し、動きを封じる古代の魔導具だ。
突進しようとした騎士団長の巨体がワイヤーに絡め取られ、身動きが取れなくなる。
すかさず別の二人が左右から回り込み、その鎧の僅かな隙間へと、毒を塗った短剣を寸分の狂いもなく突き立てた。
古代魔導師が詠唱を完了し、巨大な炎の槍を放つ。
最後の隊員が展開した防御結界がそれを真正面から受け止め、激しい爆発と共に炎の槍は光の粒子となって消滅した。
リアム一人では対処しきれないであろう「偽史の英雄兵団」の波状攻撃を、彼らは見事に受け止め、戦線を構築してみせた。
「リアム隊長!ここは我々が食い止めます!あなた方は、敵の本体を!」
隊員の一人が叫ぶ。
彼らの目的は、あくまでリアムたちが元・院長の元へたどり着くための道を切り開くことだった。
「すまん、任せたぞ!」
リアムは仲間を信じ、アリアとリィナを伴って、「偽史の英雄兵団」の脇をすり抜けるように駆け出した。
だが、元・院長は動じることなく、その様子を静かに眺めている。
そして、まるで心の中に直接語りかけるかのように、穏やかな声が響いた。
「私は『書庫』の管理者だ。人の心の動きは、手に取るようにわかる。リアム・ブレイド。その少女の君に向けられる純粋な思慕の念も、そして君が彼女に抱く特別な庇護欲もな。だからこそ断言できるのだよ。君が生き永らえれば、その純粋な少女は、君の汚れた過去と罪を、一生をかけて共に背負っていくことになるのだと」
「……黙れ」
リアムは吐き捨てるが、その剣先は迷いを映して微かに震えていた。
アリアの幸せを、誰よりも願っているのは自分自身だったからだ。
自分の存在が、彼女の未来にとって重荷になるのではないかという恐れは、彼の心の奥底にずっと燻っていた。
元・院長の声は続く。
それは悪魔の囁きでありながら、恐ろしいほどにリアムの心を抉った。
「見せてやろう。君が存在しない、あるべきだった彼女の未来の姿だ」
元・院長がそう囁いた瞬間、リアムの視界がぐにゃりと歪んだ。
目の前の戦場が消え、どこかのどかな田園風景が広がる。
陽だまりの中、一軒の家の庭先で、アリアが穏やかに微笑んでいた。
彼女の隣には、リアムの知らない、誠実そうな顔立ちの青年が寄り添っている。
そして、アリアの腕の中には、金色の髪を持つ赤ん坊が安らかに眠っていた。
アリアの屈託のない笑い声が聞こえる。
何の翳りもない、純粋な幸福に満ちた声。
元・院長は、その光景をリアムの脳裏に直接送り込んだのだ。
彼は、リアムの心の天秤が揺れ動いたのを見逃さなかった。
「ここで剣を捨てろ、リアム・ブレイド。さすれば、私は彼女の記憶から、君という存在だけを綺麗に消し去ってやろう。彼女は何も知らず、君と出会うこともなく、痛みも悲しみもない、幸せな未来を歩めるのだ。愛する者への、これ以上の贈り物があるかね?」
その甘言は、リアムの魂を縛る呪いとなった。
アリアの、屈託のない笑顔が脳裏をよぎる。
自分のいない世界で、彼女が幸せに笑っている未来。
それは、あまりにも魅力的で、そして残酷な選択だった。
彼の握る剣が、鉛のように重くなる。
その一瞬の隙を、元・院長は待っていた。
彼は、『偽史の英雄兵団』の中から、ひときわ強い光を放つ数体の英雄の傀儡を、リアムたちへと差し向けた。
伝説の竜騎士、音速の双剣士、そして百発百中の魔弓兵。
『沈黙の爪』が兵団の主力を引きつけているとはいえ、伝説級の英雄数体を同時に相手にするのは無謀だった。
ましてや、心に迷いを抱いたままでは。
「くっ…!」
竜騎士が大地を揺るがすほどの突進から繰り出す重い槍撃を、リアムは力なく受け流すのが精一杯だった。
剣と槍が衝突するたびに、腕が痺れ、骨が軋む。
いつものリアムならば、その衝撃を利用して反撃に転じていたはずが、今の彼にはその気力すらなかった。
双剣士の斬撃が、嵐のようにアリアを襲う。
リアムは咄嗟にその身を盾にして庇うが、音速で繰り出される刃は彼の防御をすり抜け、浅いが鋭い無数の切り傷を身体に刻んでいった。
守るべき者の存在が、彼の剣を鈍らせる。
アリアの幸せを願う心が、彼から戦う力を奪っていく。
皮肉な真実が、リアムを絶体絶命の窮地へと追い詰めていた。
防戦一方となり、その体には徐々に傷が増えていく。
遠方からは魔弓兵が、リアムの動きを的確に予測し、退路を断つかのように正確な射撃を繰り返していた。
その矢は、ただの鉄の矢ではない。
着弾すれば爆発するもの、氷の棘を撒き散らすもの、そして、リアムの体から魔力を吸い上げる呪いを帯びたものまであった。
そしてついに、魔弓兵の放った必殺の一矢が、アリアの心臓めがけて、回避不能の軌道で正確に飛来した。
その矢は、禍々しい紫色の光を放ち、空間そのものを歪ませながら迫ってくる。
リアムの思考は、完全に停止した。
脳裏に浮かんだのは、先ほど見せられた幻影。
穏やかに笑うアリアと、その腕に抱かれた赤ん坊の姿。
(あれが、彼女の本当の幸せなら…俺は…)
体が本能のままに動く。
彼はアリアを突き飛ばし、その軌道上に、自らの体を投げ出していた。
「ぐっ…!」
魔力を帯びた呪いの矢が、リアムの肩を深く抉る。
肉を焼き、骨を砕く激痛が全身を駆け巡った。
傷口からは、血だけでなく、彼の生命力そのものが光の粒子となって流れ出していくのが見えた。
衝撃で膝から崩れ落ち、彼は白銀の剣を光の床に突き立て、かろうじて意識を保った。
滴り落ちる血が、光の粒子に触れて音もなく消えていく。
「リアムさん!」
アリアの悲鳴が、遠のく意識の中で木霊した。
嘘と真実の天秤の上で、リアムの心は、愛する者のために砕け散ろうとしていた。




