書き換わる文字
神を僭称した賢者アルドゥスとの決戦が終結し、幾星霜の月日が流れた。
永きにわたった戦乱の時代は終わりを告げ、大陸にはようやく真の平和と呼べる穏やかな日々が訪れていた。
人々は過去の傷跡を癒やし、未来への希望を語り、世界はまばゆいほどの繁栄を謳歌しているかのように見えた。
王都の喧騒から遥か遠く、人々の記憶からも忘れ去られたかのような灰色の山脈。
その険しい岩肌に抱かれるようにして、古い修道院がひっそりと佇んでいた。
風雪に耐え抜いた石造りの壁は、世界の歴史そのものを見つめてきた証人のように寡黙だ。
その修道院の最も奥深く、陽光さえも遠慮がちに差し込む大書庫で、一人の老人が静かな使命を果たしていた。
歴史家である老修士パウルス。
インクで染まった指、積み重ねた歳月で丸くなった背中。
彼が向かう羊皮紙の上を、骨張った手で握られたペンが、祈りにも似た厳粛さで滑っていく。
彼の仕事は、記録すること。
偽りの英雄たちがもたらした戦乱の醜さも、その後に訪れた「痛みを伴う真実」の輝きも、その全てを後世のためにありのままに書き記すことだった。
歴史とは、勝者が紡ぐ美しい物語ではない。
名もなき人々の流した血と涙、そして英雄と呼ばれた者たちが人知れず犯した罪と、それでも守り抜いた信念の総体であると、パウルスは信じていた。
『――竜殺しの英雄、ガレス・ストーンハートの死。巷間では密室での謎の死と伝えられるが、真実は違う。それは、世界を救うために犯した大罪を、友リアムと共に正そうとした英雄の、かつての同志による悲痛な暗殺であった』
パウルスのペンが記すインクの染みに、彼の助手である若き記録官アリア・ローウェルは、そっと指先で触れた。
彼女は、この書庫と、ここに眠る無数の「真実」を愛していた。
アリアには、ささやかな秘密があった。
他人の強い想いが宿った物や文字に触れると、その「記憶の欠片」を読み取ることができるという、特殊な共感能力。
彼女がパウルスの書物に触れるとき、その能力はひときわ強く発揮された。
指先から流れ込んでくるのは、単なる情報ではない。
ペンを握るパウルスの指の力み、記録しながら堪えた嗚咽、そして紙の上に落ちたかもしれない涙の、幻の塩味。
それだけではない。
記録された人々の声なき声が、遠い残響のように彼女の心に届くのだ。
友に裏切られ志半ばで倒れた英雄の無念が、その友の遺志を継ぎ、かつての仲間とさえ刃を交えねばならなくなったもう一人の英雄の慟哭が、アリアの胸を締め付けた。
それでも彼女は、この痛みをこそ、忘れられてはならない尊いものだと感じていた。
異変は、月の満ち欠けが一つ巡るほどの、ごく緩やかな速度で始まった。
最初は、気のせいだと思えるほど些細なことだった。
アリアが書庫の整理をしていると、ある書物の一節のインクが、まるで朝霧に濡れたかのように僅かに滲んで見えた。
目をこすり、もう一度見つめると、文字は元のくっきりとした輪郭を取り戻している。
疲れているのだろう、と彼女は小さく首を振った。
しかし、その「気のせい」は、日を追うごとに確信へと変わっていった。
「アリア」
ある日の午後、パウルスが険しい顔で彼女を呼んだ。
彼が指差すのは、つい先ほどまで彼自身が執筆していた羊皮紙の一枚だった。
「私が書いた文字が……揺らぐのだ」
見れば、まだ乾ききっていないインクが、まるで生き物のように蠢いている。
先ほどパウルスが記したはずの「暗殺」という単語が、陽炎のように揺らめいたかと思うと、一瞬にして「謎の死」という、当たり障りのない言葉に書き換わっていた。
二人は息を飲んだ。
十代後半という若さながら真実を見つめる真摯な瞳には年齢以上の聡明さが宿るアリアも、この超常的な現象には、その金色の髪を揺らし、血の気を失っていた。
二人は慌てて書庫に保管されている他の歴史書を手に取る。
そこでは、さらに恐ろしい現象が進行していた。
文字が、文章が、まるで意思を持っているかのようにその意味を変質させている。
挿絵に描かれた、苦悩の色を浮かべた王の肖像は、非の打ち所のない慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
そして、英雄たちが犯した過ちや、その裏切りを暗示する一節は、彼らの輝かしい功績だけを称える完璧な物語へと、静かに、しかし確実に書き換えられていたのだ。
それは、単なる劣化や破損ではない。
この世界から「真実の記憶」そのものが、静かに、そして根こそぎ奪い去られようとしているのだ。
まるで、誰かが世界の根幹を成す物語を、自らの都合の良いように書き換えようとしているかのように。
「なんということだ……。これでは、我々が命を懸けて記録してきた全てが……」
パウルスは、血の気の引いた顔でわななく。
アリアもまた、足元から崩れ落ちていくような感覚に襲われていた。
偽りの歴史が真実として定着してしまえば、過去に生きた人々の痛みも、喜びも、その全てが無に帰してしまう。
為す術もなく立ち尽くす二人の脳裏に、風の噂でしか聞いたことのない、一人の男の名が浮かんでいた。
「偽りの英雄」譚が語られ「竜殺しの英雄」達が王国に反旗を翻す中で、ただ一人、その汚名を甘んじて受け入れ、歴史の表舞台から姿を消した、「忘れられた英雄」。
北方をあてどなく放浪しているという、『疾風のリアム』。
特にアリアは、彼の伝説に触れるたび、なぜか胸が締め付けられるような、特別な感情を抱いていた。
彼女自身、幼い頃に戦乱で家族を失い、その記憶が曖昧であるという過去を持っていた。
両親の顔も、声も、温もりさえも、今ではまるで薄い霧の向こうにあるかのようだ。
だからこそ彼女は、真実が記録され、記憶されることの重要性を誰よりも強く感じていたのだ。
「忘れられた英雄」の真実の姿を知りたいという記録官としての強い探求心と、歴史の闇に一人で立ち向かう彼の孤独への深い共感が、特別な感情の源となっていることを、彼女自身はまだ気づいていない。
彼女は震える手で、先ほどパウルスが書き記していた「ガレス・ストーンハートの死」に関する羊皮紙に、もう一度触れた。
文字は既に滲み、リアムの行動を断罪する冷たい文章に変わり果てていた。
それでも、アリアの指先には、消えかけた真実の残滓が流れ込んでくる。
それは、友を失った男の、あまりにも深く、そして孤独な悲しみの奔流だった。
なぜ、この人の痛みだけが、これほど鮮明に自分に届くのだろう。
アリアは答えの出ない問いを胸に抱きながら、書庫の窓から見える、どこまでも続く灰色の空を、ただ見つめることしかできなかった。