第五層:2025年・東京 - 円環の閉じ目
絵美子は震えていた。
指先が氷のように冷たくなり、心臓が太鼓のように激しく打っている。部屋の温度は22度に設定されているのに、まるで真冬の屋外にいるような寒さを感じていた。
モニターに表示された翻訳結果を何度も何度も読み返したが、これが現実だとは到底信じがたかった。古代エジプトの書記官が記録したファラオの夢の中に、自分の名前が出てくるなんて。しかも、その記録をコピーした中世の写本師がいて、その写本師の日記を読んでいる21世紀のAIライターがいて、そのAIライターの物語を宇宙船で語っている未来の語り部がいる...
「でも、これはただの偶然よ」
彼女は必死に自分に言い聞かせた。「田中なんて、日本にはありふれた名前だもの。電話帳を開けば何千人も出てくる」
だが翻訳を続けるうちに、その希望的観測は音を立てて崩れていった。宇宙船の語り部リンが語る「田中の物語」が、あまりにも詳細で、現在の自分自身の状況と不気味なほど一致していたからだ。
*田中は古い図書館で謎の手稿を発見し、それを解読しようとしていた。その手稿には中世の写本師の日記が記されており、写本師は古代エジプトの書記官の記録を写していた...*
まさに今、私がやっていることではないか。
絵美子の手が止まった。キーボードの上で指が震えている。これまでに経験したことのない、形容しがたい感覚が心を支配していた。既視感とは違う。もっと深い、魂の深奥に響く共鳴のようなものだった。
リンの語る物語では、田中が発見する手稿の内容まで詳細に記述されている。しかもその内容は、今まさに自分が読んでいるこの手稿と完全に一致していた。
画面を見つめながら、絵美子はゆっくりと理解し始めていた。この手稿は単なる歴史的文書ではない。それは時を超えた物語の円環。
写本師ピエールが記録し、書記官ケティが記録し、語り部リンが語る...そして今、この私が読んでいる。
私たちは皆、違う時代の、違う場所に生きる別人でありながら、同時に一つの魂の転生した姿なのかもしれない。
それぞれが異なる形で、同じ使命を果たしている。物語を記録し、保存し、伝えること。そしてその物語を通じて、時を超えた愛を表現すること。
「まさか...」
そして彼女は気づいた。この四つの物語に共通して登場するもう一つの要素に。
ピエールの前に現れた謎の黒いマントの女。彼女は美しく、栗色の髪と深い緑の瞳を持っていた。
ケティが密かに慕っていた神殿の巫女、ネフェルトイティ。彼女もまた文字を解し、知識を愛する女性だった。
そしてリンが宇宙で受信した謎の信号。それは田中絵美子の書いた小説のデータだった。
全ての物語には、彼らを導く「もう一人の存在」が常に暗示されている。名前のない、謎の「愛する人」。
絵美子は恐る恐るキーボードに向かった。そして新しいファイルを開いて、タイトルを入力した。
『永遠図書館の写本師』
物語は、AIライター田中絵美子が古い図書館で謎の手稿を発見するところから始まった。彼女はその手稿を解読しようとするが、それは中世の写本師の日記で...
絵美子の指が止まった。
自分が今書いているこの物語は、手稿の中でリンが語っていた「田中の物語」そのものではないか。そしてリンの語る物語では、田中が書いた物語が宇宙に向けて発信され、それが巡り巡って未来の人類に発見されるという。
物語の中の田中が書く物語の中に、さらに田中が登場し...
無限に入れ子になった鏡の回廊。メビウスの輪。ウロボロスの蛇。
絵美子は深呼吸をした。そして全てを理解した。
自分は物語の中の登場人物であると同時に、その物語の作者でもある。読者でありながら、創造者でもある。観察者でありながら、被観察者でもある。
時間は直線ではない。それは螺旋でもない。それは、愛する魂が互いを探し求める壮大な円環なのだ。
そして今、彼女は確信した。
この手稿を発見したのは偶然ではない。自分がこの物語を読み、理解し、そして書き継ぐことは、運命だったのだ。
なぜなら、この円環のどこかに、自分を愛してくれる人がいるから。ピエールが見た黒いマントの女性、ケティが慕った巫女、リンが電波の向こうで愛した田中...それは全て、同じ魂の違う現れなのかもしれない。
彼女は微笑んで、物語を書き続けた。
この物語こそが、時を超えて私が探し続けてきたもう一方の魂へのメッセージなのだから。どこかで、きっと、誰かがこの物語を発見し、読み、そして自分自身がその物語の一部であることに気づくだろう。
その誰かこそが、私が愛する運命の相手なのだ。
画面に文字が流れていく。私の恋文が、時空へと放たれていく。
*AIライター田中絵美子は古い図書館で発見した謎の手稿を解読しようとしていた。手稿には中世の写本師の日記が記されていたが...*
そして物語は永遠に続いていく。
愛は時を超える。
物語は愛によって生まれ、愛によって受け継がれる。
そして今、この瞬間、新たな読み手がこの物語を発見し、自分自身が物語の一部であることを理解する。
円環は完成し、同時に新たに始まる。