第三層:紀元前1323年・テーベ - ヒエログリフの預言
(生命、繁栄、健康。王の書記官ケティが偉大なるホルス、トゥトアンクアメンの名において記す)
偉大なるファラオ、上下エジプトの統治者、ラーの息子、アメン神に愛されし者が今宵もまた不思議な夢を見られた。王の寝所は黄金と青銅で装飾され、獅子の脚を持つ寝台にはリネンの最上級品が敷かれている。しかし王は眠れずにいる。
古代エジプトの王権は絶対的だった。ファラオは生ける神であり、ホルス神の化身とされた。しかし現実の政治権力は、神官たちと官僚機構が握っていた。特に私のような書記官は、王の言葉を記録し、それを神の言葉として後世に伝える重要な役割を担っていた。
その夢では、遥か遠い未来の巫女が夜空を渡る星々の船の中で、地上に残された最後の物語を語っていたという。星々の船—現代の言葉で言えば宇宙船だろうか?古代エジプト人は星座を神の住まいと考えていた。特にオリオン座は死者の国の入り口とされた。
「ケティよ」
ファラオは玉座から私に告げられた。彼はまだ十九歳の青年だったが、その瞳には年齢を超えた深い知恵が宿っていた。後の世で「少年王」と呼ばれることになる彼だが、実際にはエジプト神学に精通した賢君だった。
「その夢を一言一句違えることなく正確に記すのだ。それは来たるべき時代へのラー神からの預言かもしれぬ」
私はナイル河畔の葦で作られた真新しいパピルスに向かい、聖なる文字でその夢の内容を記録した。ヒエログリフは神の言葉を表す文字である。一つ一つの文字が神聖な意味を持ち、正確に書かねば神の怒りを買うとされていた。
*星の船にて語られし物語。遥か遠き未来、地上の緑が全て失せる時、最後の語り部リンが人類の保されし記憶を語る。その中に文字を創りし民の末裔について記されん。*
文字を創りし民—それはおそらく我々エジプト人のことを指している。世界最古の文字の一つであるヒエログリフを発明したのは我々だ。紀元前3200年頃、王朝時代初期のナルメル王の石版には既に完成されたヒエログリフが刻まれている。
*リンの語る物語では、文字を電光に変え操る民が住まう東の島国にて、一人の女が古き手稿を解読せんとす。その女の名はタナカと記されん。*
電光—雷のことだろうか?それとも何か別の現象?古代エジプト人にとって雷は、天空の神ヌートの怒りの表れだった。だが夢の中では、その電光が文字の代わりになるという。まるで文字が光って見えるかのように。
*しかしてタナカは写本師の日記を読み、写本師は書記官の記録を写し、書記官はリンの物語を記す。かくて時はウロボロスの蛇が己が尾を噛むが如く永遠に巡りて流れん。*
ウロボロス—自分の尾を飲み込む蛇のシンボル。それは古代エジプトの神話に登場する。死と再生、永劫回帰の象徴である。時間が直線的に流れるのではなく、円環を描いて回帰するという思想は、我々の宗教の根幹にある。
そこまで記した時、ファラオは興味深げに私に問いかけられた。
「ケティよ、その物語の中のタナカとは何者か?」
「陛下、リンが語るには、タナカもまた我らと同じく物語を紡ぎ記録する者なりと」
「ほう。では、そのタナカには愛する者はいるのか?」
その意外な問いに、私は言葉を失った。なぜファラオは愛について問うのだろう?
ファラオは楽しそうに微笑まれた。まだ十九歳の青年らしい、純真な笑顔だった。
「全ての良き物語には愛が不可欠であろう。私にも愛する者がいる。アンケセナーメンという名の美しい后だ」
アンケセナーメン—ファラオの后であり、実は彼の異母姉でもある。古代エジプトでは王族の血を純粋に保つため、兄妹婚が一般的だった。しかし彼らの間には深い愛情があったと伝えられている。
「愛こそが時を超える唯一の力だ、ケティよ。お前にも、いつか分かる日が来る」
ファラオの言葉を聞いて、私の心に一人の女性の面影が浮かんだ。神殿で働く巫女の一人、ネフェルトイティ。彼女もまた文字を読み書きできる数少ない女性の一人だった。私たちは時折、神殿の図書室で古い文書について語り合った。
だが私は王に仕える身。個人的な感情を表に出すことは許されない。
「陛下の御言葉、肝に銘じております」
私はそう答えながら、心の奥で思った。このタナカという女性にも、きっと愛する人がいるのだろう。そしてその愛こそが、この不思議な時間の円環を動かす原動力なのかもしれない。
愛は時を超える。
物語は愛によって生まれ、愛によって受け継がれていく。
そしていつか、この記録を読む未来の誰かも、愛する人のために物語を紡ぐのだろう。
私は再び筆を取り、ファラオの夢の続きを記録し始めた。愛する人への想いを込めて。




