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第9章「大湊の化身」

 ・9



 大湊城は山の上に堂々とそびえ立ち、まるで広大な空に手を伸ばすかのようだった。太陽はすでに沈み、空は深い藍色に染まっている。城は静かに月に近づこうとしているが、月見櫓にはそれが敵わないかもしれない。一番であろうと、二番であろうと。




 それでも、あの場に立ち、ふさわしい場所を探せば、そこもまた一幅の絵のように美しい。月の光が城の石垣に柔らかく反射し、夜の中で歴史の重みを静かに語りかけてくる。風が吹き抜けるたび、過去の記憶が呼び起こされるようで、心の奥に静かな感慨が広がっていく。




 北東で騒ぎがあった。けれど、夜の城下町はいつもと変わらない。ちらほらと人影が見えるものの、そのほとんどは自宅にいる。通りを歩く者たちは、空を見上げたり、鼻歌を口ずさみながら急いで帰っている。鬼を恐れている様子はまったく感じられない。




 もちろん、心のどこかでは鬼を恐れているのかもしれない。しかし、彼らは「屋水について」何も知らないようだ。もし知っていれば、表情に怯えが見えるはずだ。巨大な骸骨が村を襲ったという噂が耳に入るのは、明日か、明後日か。今は穏やかに一日を終えようとしている。




 城下に到着してから、三人は何事もなく大湊城付近まで辿り着いた。白鈴は潜入を目前に控え、思わず山の頂に向かって呟いた。「いよいよだな」




 目黒は圧倒的な光景を眺め、呆れたように言った。「でっかいなあ」




 ヒグルはその景色を少し眺めて満足したらしく、長く首を上に傾けることはなかった。「乗り込むのか。こうして近付くと、自分がちっぽけだと強く実感するな」




 このとき、目黒は意外にも物静かだった。「ちっぽけでもいい。やれることはある」




「うん」とヒグルが頷く。




「中には、侍がごろごろいる」白鈴はその点を気にしていた。手強い相手ばかりではないことも理解している。戦えない女や、きっと子供もいるはずだ。




 目黒はその流れを受けて続けた。「しっかし、そんな時間は経ってねえように思えても、おかしなもんで、あのときよりも緊張はしねえな。俺が変わったのか。それとも俺の周りが変わったのか。いや両方か」




「やっぱ目黒、緊張してたんだ」ヒグルは彼をじっと見詰める。その目には友情と共感が映し出されていた。




 目黒は少し照れくさそうに笑った。「当ったり前よ。ドッキドキだったぜ」彼の言葉には、過去の緊張感が今も色濃く残っている。




 白鈴は少し残念そうに言った。「二人とも、動けたらよかったが」




 目黒は自信を持った口調で返す。「今ならよ、侍もたいして怖くねえ」




「そうなの?」ヒグルは驚いて反応した。




「いや、怖えよ。そりゃ、怖いけどよ。ああ、なんつうか……ああ」




「うん?」ヒグルは彼の言葉を待った。




「大暴れしてやるってぐらいにはな。なんでもできる。そういった感じがするって話だ」




「大暴れはやめてくれ」白鈴は真剣な表情で言った。彼女の目には、仲間の安全を守りたいという意志が宿っている。




「わかってるよ。シュリの救出が優先だろ? わかってる」目黒は微笑みながらも、彼女の言葉にしっかりと頷いた。




「『落ち着いて』、『行動』、だね。慎重に」ヒグルは決意を込めて言った。彼らの使命に対する強い思いが込められていた。




 目黒は少し考え込み、重い口を開いた。「鬼のこともそうだが。ちょっとまあ、こんな体にされちまった『苛立ち』が、どうしても消えずにあるだけだ」




 彼は許可もなく、その身を実験に使われた。事実を知ったとき、余計に憎しみが募るのも自然なことだ。しかも、それが「鬼」に関係することであれば、彼にとってはなおさらのことだった。




 彼は利用された。大湊の計画が進む中で、自分がその一部として扱われていると思うと、恐れよりも気迫が湧き上がってくる。胸の奥に燃える怒りが、彼を突き動かしていた。




「お前は、ねえのか? 小さくなって、変な体にされて。ずっとその体で、生きていかなければならないかもしれねえんだぞ」目黒の声には、心配と同情が含んでいた。それは単なる問いかけではなく、相手の苦しみを理解しようとする温かさを持っていた。




 白鈴は静かに目を閉じ、深く息を吸った。「無いとは言わない。だからといって、この体が変わるわけではない」




 彼女の声は冷静だったが、その背後には複雑な感情が渦巻いていた。姉の仇を討とうとしていた頃であれば、もしかすると異なった答えが出てきただろう。もっと感情は激しかったはずだ。怒りや悲しみが、彼女を突き動かしていたのだ。




 しかし、今は違う。彼女は自分の状況を受け入れなければならないことを知っていた。どんなに不満を抱いていても、現実は変わらない。心の中には、戦う理由と共に、受け入れなければならない現実があった。過去の痛みを背負いながらも、彼女は前を向かねばならない。




 今となっては、そんなことよりも大事なものがある。彼女はその思いを胸に秘め、目黒を見つめ返した。彼女の表情には、過去の痛みと未来への決意が同居していた。




 目黒はその眼差しを受け止め、彼女の心の強さを再確認した。「そっか。このまま話していたとおり、火門のところには目指さない。で、いいんだよな?」




「そのつもりだ」白鈴は頷き、真摯な眼差しで彼を見つめた。




「柄木田の居場所はわかってんのか?」




「研究所を知っている。私はそこにいた」彼女の声には、過去の記憶が絡みついているようだった。




 目黒は眉をひそめながら言った。「お前も、俺と同じで監獄にいたら、また違ってたかもしれねえってことか」




 








「『鬼』、『大湊』、『ツキビト』。こうなってくると、いやな予感がしてくんな」目黒は城へ向かう道中、大湊の国の不吉な動きから一つの危惧を抱いていた。




 もし屋水の巫女がツキビトであるなら、シュリがそのツキビトであるなら、彼女の持つ力は一体何を引き起こすのか。




 屋水姫の話に登場する「化け物」。大昔に存在したとされるその伝説が、目黒の脳裏にちらついていた。彼はその化け物がもたらす恐怖を思い描き、胸の奥に冷たい恐れが広がっていくのを感じた。




「その化け物って、実際にいたの?」ヒグルは興味を持って尋ねた。彼女はその伝説について詳しくは知らなかった。「屋水姫とも戦ったという。歴史の中で封印されたとは聞くけど、どこに封印されているのかは、わかっていないんだよね」




「ツキビトなら、知っているんじゃねえのか?」目黒が続けた。「封印したのが当時のツキビトだ。屋水の巫女であるリュウが協力を拒んだというのも、この地から鬼を討ち滅ぼす目的ではなく、大湊のそれだったとしたら、拒むのも納得ができる」




 白鈴は落ち着いた声で言った。「力を欲する理由は、なんとなくわかる。だが、そんな鬼まで人に従わせるなんてできるのか? もうこの目で見たが、あの骸骨でさえ、明らかに常軌を逸してる」




「従わせるために、必要ってのも考えることができるぞ」目黒が言った。




「うん? どういうことだ?」




「その化け物にも、部下がたくさんいたらしい。お話どおりなら、従わせていた、大量の鬼をな。それなら、その力を手に入れようとしているってのも筋が通るだろ」




「もしかして、あの骸骨も、その鬼の部下だったりして……」ヒグルが言った瞬間、周囲の空気が一層重くなった。




 




 




 学者のために用意された施設は、城内の東側に位置している。彼らは悟られないよう慎重に大湊城に潜入し、そこへとまっすぐ移動する必要があった。騒ぎを起こしてしまうと、シュリを助けるという目的が揺らいでしまうからだ。




 柄木田の研究施設周辺は、夜の静けさの中、城下町の雰囲気に似ていた。見渡す限り、城内を歩く者はほとんどおらず、静寂が支配している。




 月明かりが淡く照らす中、古びた石造りの壁が影を落とし、冷たい風が静かに吹き抜ける。時折、遠くで聞こえる風の音がまるで誰かの囁きのように感じられた。




 特に刀を持ち歩いている者が多い、ということ以外は、静寂が支配する夜の城内。彼らの姿は厳重な警戒を示していた。




 これまでに銃を持つ者も見かけられたが、彼らはじっと動かず、そこに佇んで見張りを続けていた。その姿は、獲物を待ち構える猛獣のようで、月明かりの下にあっても、その存在感は際立っていた。




 彼らは、屋水の巫女リュウの妹がここにいることを知っているのだろうか?




 思いのほか早く、彼らは柄木田と遭遇することになる。「……ツキビト」独り言を呟きながら施設内へと向かう、一人の姿が見えた。その背中はどこか不気味で、まるで何かに取り憑かれているかのように見えた。




 白鈴は慎重に場所を選ぶ。ここは敵地であることを忘れてはならない。駆け寄るわけにはいかない。見つかったからといって何も考えずに行動しても、良い結果を得られるわけではない。




「夜に仕事とは熱心だな」目黒は彼女を見て皮肉を言った。




 周囲には、他の学者の姿は見当たらない。




 柄木田五言(ごごん)とだけ、話す機会を作るのが、一番に適切だろう。




 施設内で状況が整うと、白鈴は静かにかげかげを取り出し、刀を抜いて女の背後に立った。




「柄木田だな」白鈴の声は低く、はっきりとした響きを持っていた。




 聞こえてはいるだろう。けれども老婆は何も言わなかった。沈黙があたりを包む。




「動くな」白鈴は冷たく命じた。




「まったく。なにか、私に用か?」柄木田は不敵な笑みを浮かべ、動じる様子も見せない。




「シュリはどこだ」白鈴の声には焦燥感が滲んでいた。




「シュリ?」柄木田は微かに首を傾げ、その表情には興味が宿っていた。しかし、その目の奥には何か不気味な光が宿っていることが否応なく感じられた。




 目黒は鋭い目で柄木田を見据えた。「知らないってのは、無理があんだろ。ツキビトと口にしたよな?」




「ああ。屋水の巫女か」柄木田の表情は冷静を保っているが、内心では何かを考えている様子が見て取れた。




「どこにいる?」白鈴は切っ先を向けたまま問いただした。




「いまなら……」柄木田は考えていた。「上の階に、いるのではないかな?」




「ソレ、もし嘘だったら、ただでは済まねえぞ」目黒は声を低くし、威圧感を増して言った。




「脅しといい。乱暴だな。まったく理解できん」柄木田は不敵な笑みを浮かべ、余裕の表情を崩さなかった。彼女の態度は白鈴と目黒の張り詰めた空気を嘲笑うかのようだった。




「それで、どうなんだ?」白鈴はさらに詰め寄る。




「それなら、私と一緒に行くかね? そんなもので気が済むなら」




 居場所はわかった。上の階にいるというなら、会わせてもらうのが賢い選択だ。「案内しろ」白鈴は毅然とした口調で命じた。




「お菓子でも、用意しようか?」




「黙って歩け」目黒は女の態度に不満を露わにし、彼女の言葉を遮る。




 柄木田は深いため息をつき、心の中で複雑な思いを抱えながらも、文句を付けずに歩き出した。後ろ姿には、どこか疲れたような影が見えた。




 老婆には抵抗する意思がないように見えた。しかし、白鈴はその視線を柄木田から離さなかった。隙があれば、必ず逃げ出そうとするに違いないからだ。




 すると、施設内で銃声が鳴り響いた。数発の音が、静寂を切り裂く。彼らに向けて発射されたわけではないが、その響きは緊張感を一層高めた。




「ああ? なんだ?」目黒が部屋の隅に佇む男を発見する。彼は目を凝らし、その姿を捉えようとした。




 白鈴も気配に気づく。彼女は自分の足元を注意深く見つめ、後方へと素早く飛び退いた。




 床から――どういうことだろう?――男が現れた。穴はないが、まるで雲からすり抜けてきたかのように、彼の体が空間に浮かび上がり、その場に立ち尽くす。




 柄木田は様子を見て、安全だと判断し、振り返った。「誰かと思えば、君か。それに……」




 彼女の視線は謎の男ではなく、目黒の方に向けられていた。そして、白鈴を見つめ、「スライム」と低く呟く。「なるほど、そうか」




 こいつは使い魔か? 白鈴は敵の正体を察し、観察を続けた。かかしだ。




 拘束から解かれた柄木田は、その場を去ろうとする。「彼らの相手をしてくれ」




「おい。待ちやがれ」目黒の言葉が響くと同時に、再び銃声が鳴り響いた。部屋の隅から、男が警告の声を上げていた。




「こりゃあ。はめられたか?」目黒は周囲を見回し、状況を把握しようとする。




「どうだろうな。しかし、三人もいれば、相手にならない」白鈴は冷静に返答し、仲間の存在を信じようとした。




「すぐに追いかけよう」ヒグルは意気込む。




 その場にいた使い魔の数は二体。片方は機関銃を身につけ、もう片方は両腕に刀を想像させる刃を持っている。




 彼らが戦うことになったのは、機関銃を身につけている使い魔だけだ。もう片方は、柄木田の護衛に専念している。




 




 使い魔は活動を停止した。戦闘が終わると、白鈴は立ち止まっているわけにはいかないと感じ、すぐに決断を下した。城内への潜入は、見張りたちに知れ渡っている頃だろう。彼女は柄木田を捕まえるのではなく、上の階にいるシュリを探しに行くことを選んだ。




 心を決めた白鈴は、階段を一気に駆け上がり、通路を突き進む。周囲には人の姿も声もない。足音だけが響く不気味な空間の中で、彼女の焦燥が高まっていく。




「シュリ……無事でいてくれ」と心の中で呟きながら、白鈴は落ち着きを保つよう努めた。彼女は先を見据え、周囲をくまなく探索を続ける。静けさの中に潜む危険を感じ、目を凝らし、耳を澄ませて、わずかな気配や音を逃さないようにした。




 その時、足音が響く中、ようやく息をしているであろう人に出会った。薄暗い廊下の先に、かすかに動く影が見えた。胸が高鳴る思いで、彼女はその影に近づいていく。




 部屋の前で、若い男が座っていた。彼の身なりは整っており、模造ではない本物の刀が手元に置かれていることから、学者ではないことが明らかだった。




 怪しかろう。目黒は何も言わず、唐突に襲い掛かるような真似はしなかった。「すまねえ。そこのお侍さんよ。聞きたいことがある。その部屋に、シュリって子はいるか?」




 男は返事をしなかった。静かに刀に手を伸ばし、それから立ち上がった。その動作はゆっくりとしたもので、周囲の重苦しい空気を無視するかのようだった。




 戦う気がある。ちょっとした振る舞いからは、そんな感じではなかった。なぜなら、殺気がない。




 白鈴は彼が刀に手を伸ばした時点で警戒を強めたが、その反応の薄さに困惑を覚える。不用意に近付くべきではないと、自らに言い聞かせた。




 男はただ座る場所を変えるだけだった。怪しい部屋から距離を取り、壁際に移動する。その行動はまるで戦う気がないかのように見えた。そこからでは刀を抜いたところで、刃は届かない。彼はこちらを見ようともせず、その姿勢は奇妙としか言いようがなかった。




「なんなんだ。いったい」目黒は呟き、状況に戸惑いを隠せなかった。




「退いて、くれたね」ヒグルはどこか楽観的な口調で言った。




 白鈴は、男が一度手に持った刀を静かに置くのを見届けた。彼の動きには敵意が感じられず、逆に不思議な安心感が広がった。「行こう」彼女は決断を下した。




「いるのか。いないのか。そんぐらい言ってもいいだろ。違うか?」




「めぐろ」ヒグルは問いかけられても、そのぐらいしか答えようがなかった。彼女は、男にも事情があるのだろうと考えていた。ここで不平を述べても仕方ないと思った。




「道を譲ってくれる。無用な争いは避けたい」白鈴は警戒を保ちながら、部屋の扉を開けた。彼女の心には、シュリを見つけるという強い目的があった。




「ここで待っていてくれ」彼女は目黒とヒグルに指示を出した。三人で一緒に探す必要はないと判断した。状況を冷静に見極め、最善の行動を選ぼうとしていた。




 男の方は助けを呼ぶような素振りも見せない。




 白鈴は彼の行動に不審を抱きながらも、確信を持っていた。なかにはシュリがいるに違いない。自分の直感を信じ、彼女は一歩前に進んだ。




 部屋の中は薄暗く、不安を煽る静けさが広がっていた。白鈴の心臓は高鳴り、呼吸が浅くなる。すると、ふと物音が響いた。シュリは先ほどまで座っていたようで、物音に気づいたのか立ち上がっていた。




 彼女の姿が薄明かりの中に浮かび上がる。シュリは白鈴を見つめ、表情には安堵が浮かんでいる。その目が合った瞬間、白鈴の胸に温かい感情が広がった。長い間の不安が一瞬で解消されるような、ほっとした気持ちだ。




「白鈴? 来てくれたんだ」シュリは微笑みながら言った。




「来ないと思うか?」白鈴は少し驚きつつも、彼女の反応に心が和む。




「ううん」シュリは首を振る。「来ると、思ってた」




 白鈴はその言葉に胸が熱くなる。「怪我は、なさそうだな」白鈴はシュリの体をじっくりと見渡し、無事でいることを確認し、少し安心した。彼女の肌には元気な色があり、目の輝きも失われていなかった。




 だが、周囲の状況に対する警戒は依然として解けていなかった。薄暗い部屋の中で、男の存在が気にかかる。彼の行動が依然として不可解で、敵か味方か分からないままでは心を休められない。




 シュリは無意識に笑った。その表情は、まるで彼女がここにいること自体が証明であるかのようだった。




「うん。ないよ。それより……」




「なんだ?」白鈴はその反応に少し戸惑いながら尋ねた。




「服、戻したんだ」




「説明はあとだ。はやく、ここを出よう。長居はしないほうがいい」白鈴は急かしながら、シュリの手を取った。




 シュリは白鈴の意図を理解し、静かに頷いた。彼女の表情には不安と安心が入り混じっていた。白鈴の存在に心強さを感じつつも、状況の危険さを認識していた。




 手錠がついているわけでもなく、シュリは問題なく動ける体である。細かい事情は安全を確保できてからでいい。今は、仲間の元へ戻り、無事にこの場を離れることが最優先だ。白鈴はシュリの手をしっかりと握り、彼女を連れて目黒たちの元に戻る。周囲の状況が緊迫していることを忘れてはならない。




「シュリ。よかった、無事そうで。体はなんともない?」ヒグルは駆け寄り、安堵の表情を浮かべていた。無事を確認できた喜びが溢れている。




「平気だよ。ほらっ、このとおり」シュリは明るく笑い、不調がないことを態度で示す。彼女の笑顔は、周囲の緊張を少し和らげる力を持っていた。その後、彼女はあたりを見回し、小さく頷いた。「来てくれて、ありがとう」




 目黒はその様子を見て、ぼそりと「いるんじゃねえか」と呟いた。白鈴は壁際にいる彼に目をやり、そのあと歩き出した。




「糸七もありがとう」シュリは感謝の意を示した。




「知り合いなの?」ヒグルが問いかける。彼女の目はシュリに向けられ、興味を示している。




「ううん。知ってるのは、名前ぐらいかな」シュリは少し首を傾げて答えた。




 その言葉に対し、糸七は特に反応を示さず、ただ沈黙を守っている。彼の表情には何か思うところがあるのか、微妙な影が浮かんでいた。




「では、急ぐぞ」白鈴は仲間たちに促した。




「待って。話さないといけないことがある」シュリは出口に向かおうとする彼らを呼び止めた。その声は切迫した響きがあり、彼女の目は真剣そのものであった。




 白鈴は一瞬驚き、シュリの言葉の重みを感じる。「巫女のことか?」すぐに思いついたことを口にする。彼女の心の中には、シュリが何を伝えたいのかという疑問が交錯していた。




「『巫女のこと』、それも」シュリはゆっくりと頷く。




「時間がない。脱出してからでもいいだろ」白鈴は焦りを感じて言った。急いでこの場を離れたいという思いが強く、シュリの話を聞く余裕がないように思えた。




「それでは遅いから」シュリは力強く言い切る。その言葉にはただの不安ではなく、明確な危機感が感じられた。




「遅い?」ヒグルが不安そうに尋ねた。言葉の背後にある何かが気になっている。




「大丈夫。みんながここにいるのが知られるのは、もっと先だと思う。それに、いずれにしても」シュリは続けた。「だからここで話す。巫女についても、ほかのことも」




 白鈴はシュリの言葉に耳を傾けつつ、周囲の状況を考慮していた。時間の余裕はないが、彼女の表情には決心が見えた。




「こいつは? どうする」目黒は壁際の男を指さし、警戒心を示した。




「彼なら、聞いても平気」シュリは静かに答える。彼女の言葉には、何か特別な信頼感が込められているようだった。




 糸七に動きは見られない。彼の沈黙は不安を煽るが、白鈴はその言葉を受け入れ、仲間たちと共にシュリの話を聞く準備を整えた。これからの行動が彼女たちの運命を大きく左右することを、誰もが予感していた。




 シュリは糸七を一瞥し、その後、ゆっくりと話し始めた。「屋水のことは、おばさんから聞いたの? だからここに……」




「いや。上井から聞いた。リュウの妹だと」白鈴が言った。




「テングのお面をつけてる人にね。シュリのこと、教えてもらった」ヒグルが補足する。




「上井から聞いたんだ。そう、私はツキビト。屋水の巫女リュウの妹」シュリは自らの立場を明かした。




「なぜ、言わなかった?」白鈴は疑問を投げかける。




「言ったら、絶対、白鈴ついてくるなって言うの、わかってるから」シュリの言葉には、彼女の苦悩が滲んでいた。




「それは……」白鈴は思わず言葉を詰まらせる。彼女は考え込む。否定はできなかった。知る機会はあったが、深く知ろうともしていない。




「いま、大湊は、火門は、過去にツキビトが封印したという『化け物』が、どこにいるのか、それを知ろうとしてる」




「やはり、か」白鈴は呟いた。「大湊に聞かれたのか?」




「柄木田から」シュリは静かに答える。




「シュリのお姉さんは知っているの? それで、シュリも……」ヒグルが尋ねた。




 シュリは「わたしは……」と言いかけて俯く。そして、首を横に振った。彼女の表情には不安と戸惑いが浮かび、心の中で葛藤が渦巻いているのが見て取れた。




 目黒は溜息をつき、不満げに言った。「なにが何だかわからんものに頼ろうとしている。冷静に見てよ。正気とは思えねえな」




「だが、それが事実だ」糸七が静かに反論し、立ち上がった。「少なくとも、柄木田はその『化け物』に興味を持っている」




 目黒は驚いた様子で彼を見つめる。「お前、口が利けねえのかと思ってたら、話せたのか」




「ただの賊と言葉を交わす必要がない」糸七は冷静に返した。




「いま、してんだろ」目黒は苛立ちを隠せずに言った。




 糸七は一瞬、言葉を失ったが、すぐに続けた。「屋水姫の風習は知っているな。正確には、『この国の風習』になるが」




「ああ」白鈴は頷いた。「十二に近付けば、生まれ月よりあとの満月の日は、家にいろ。だったか?」




「探している化け物とは、この国にその風習を生んだ存在だ。ただの作り話とは考えないほうがいい」糸七は真面目な顔つきで続けた。そこには、過去の痕跡と警告が込められていた。「屋水姫と間違えられて、姿を消した女子は一人だけではない。習わしと、なっただけの理由がある。記録としても残っている」




 屋水姫の風習は「十二」と言われているが、人によっては「十一」で行う者もいるらしい。そして、十二になる歳にも同じことをする。それから、「十三」になる歳にも習わしとして行う者もいるようだ。




 その曖昧な部分は、「間違えられたら」というところから来ている。糸七の言葉は、ただの伝承ではなく、実際に多くの人々がその風習に従い、恐れを抱いてきたことを示唆していた。




「彼女は、女の神様だ。屋水姫が戦った鬼の中には、その力、美しさに心酔した者もいる。それが、屋水姫の秘密と言われている」




「むかーし、むかし」目黒は少し間を置き、言葉を続ける。「噂を聞きつけてやってきた、金持ち、権力者から、縁談があった。だが、いつからか、人ではないものからも狙われるようになった。そんな話だ。そんで、この話に出てくるのが――」




 彼の言葉には、長い時を経た伝説の重みが感じられた。彼らはその神秘的な物語に引き込まれ、屋水姫の影響力がどれほど大きかったのかを思い知らされる。




 糸七は刀に手を添え、警戒心を露わにした。指先が微かに震え、視線は細やかに動き、呼吸は浅い。彼の動きが異常事態を告げている。




「どした?」目黒は彼の変化に気付いた。




「倒していなかったのか?」糸七は睨んだ。




「生きていたか」白鈴はその目で確認した。床から現れようとしているのは、機関銃を身につけたかかしだった。




「ここは任せろ。お前たちは、城から出ろ」糸七は内に秘めた熱意を滲ませて指示を出した。




「こんなやつ、全員でやれば……」目黒は不満を漏らした。しかし、その言葉は糸七に無視された。彼は一歩前に進み、決意を持ってかかしに向かっていく。




 シュリは俯いていたが、顔を上げて言った。「糸七に任せよ」




「行け」




 糸七は一言だけ告げ、振り返ることなく、戦う準備を整えた。




 




「彼を残してきてよかったの?」




「大丈夫。糸七なら。うん」シュリは自信を持って答えたが、心の奥では少しの不安も感じていた。




 ヒグルは柄木田の研究施設を離れた後も、出会ったばかりの糸七を心配していた。石隈いしくま糸七(いとしち)喜秀(よしひで)。若く見える彼は、大湊に従う侍ではないのだろうか。彼の正体や意図が、ヒグルに疑念をもたらしていた。




 かかしとの戦闘は騒がしかったに違いない。銃声が城内に響き渡り、激しい衝突の音が周囲に広がっているはずだ。しかし、その音は不気味な静けさの中に消え、城内には誰もいないかのような異質さが漂っていた。




 白鈴は黙ったまま、周囲を見渡しながら警戒を強めた。彼女の直感が、待ち伏せがあるだろうと警告を発していた。心臓が高鳴り、足音が響くことさえ恐れられる状況の中で、彼女は一歩一歩慎重に進んだ。




「そんな……」とシュリは声を震わせた。




「火門」ヒグルはその名を口にした。




 ありそうにない展開に、彼らは思わず立ち止まった。脱出へ急いでいたはずなのに、まさかこんな状況で城主と対面することになるとは。緊張感が一気に高まり、彼らの心に圧迫感を与えた。




 状況から考えるに、侵入者がいると気づいた大湊火門真道は、その場で待ち構えていたのだ。彼の存在は、彼らにとってまさに脅威だった。計画を根底から覆すものだった。




「まさか城まで来るとはな」火門は立ち止まった彼らに目を向けず、冷淡に呟いた。彼の声には驚きと共に、どこか侮蔑の感情が滲んでいた。




「よほど、一人が好きなようだ」目黒は凍りついたような空気を物ともせずに口にした。彼の声には、不安と挑戦が交じっていた。




 城主のほかに、誰かがいてもおかしくないはずなのに、周囲は静まり返っている。まるで何かが彼らを見守っているかのようだ。




「シュリ」火門は静かに名を呼び、彼女の目を真っ直ぐ見つめた。彼の眼差しには、冷淡さと同時に何か別の感情が宿っているように感じられた。「考えは変わらないか。国のために協力する気はないか?」




「火門様、変わったね。なんだか……まるで」シュリは言葉を選びながら、彼の変化に戸惑いを隠せなかった。彼女の心には、かつての彼とは違う冷ややかな雰囲気が強く影を落としている。「要求は飲めません。私にはできない」




「そうか。まあいい」火門は一瞬の間を置き、冷静に答えた。その表情には、どこか冷ややかな感情が見え隠れしていた。シュリの固い意志を軽視するような響きがあった。




「であれば、お前の姉に直接聞くしかないようだ」彼の言葉は、鋭い刃のようにシュリの心に突き刺さった。彼女の胸に不安と恐怖が広がり、冷や汗が背筋を走る。




「大湊、答えろ。この国で、何をするつもりでいる」白鈴は毅然とした口調で問い詰めた。




「間違いを正す」火門は答える。その口調は変わらず、彼の意志の強さを感じさせた。




「間違い?」白鈴の眉がひそめられる。彼女の心には疑念が渦巻いた。火門の言葉が何を意味するのか、理解できないまま彼を見つめた。




「取り戻すのだ。忘れ去られた、栄光をな」火門の言葉には、確固たる決意が込められていた。しかし、その内容には一種の危うさが潜んでいるように感じられ、白鈴は心の奥深くで警鐘が鳴るのを感じた。




「返答次第ではと考えていたが。無駄だったかもしれないな」白鈴は一瞬の沈黙の後、前進し、刀を抜いた。金属が擦れ合う音が静寂を破る。




「この国に、そんなものはない」彼女の声には、強い反発が滲んでいた。火門の目指すものが自分たちの理想とはかけ離れているという確信があった。




「刃を向けるか。共に、歩もうとは?」




「私は家族を失った」白鈴は首を振り、言葉を続けた。「お前は二度、屋水を襲った」




「共に歩めば、そんなこと気にならなくなる」彼の狡猾さが見え隠れしている。




 白鈴の心は決まっていた。強く握りしめた刀を、鞘に納めようとはしない。その決意は揺るがなかった。彼女の内には、火門に対する憎しみが燃え盛っていた。




「では、しかたない。お前も欲しかったところだ。後悔はするなよ」火門は挑発的に言った。その言葉は、白鈴にさらなる怒りを引き起こした。




「だれがするか」白鈴は激しい気持ちを込めて応じた。彼女の目には、火門への強い敵意が宿っていた。




「いや。そうなる。『鬼』である、お前ならな」火門は冷たく微笑み、刀に手をかけた。




 シュリの救出から城内での戦闘が始まり、先に仕掛けたのは白鈴だった。彼女は一番月見櫓での敗退を一瞬思い出したが、その切っ先や動きは鈍ることはなかった。燃える思いが、彼女の動きを一層鋭くしていた。




 時間としては非常に短いのだが、この時もまるで橋の上で二人だけの戦いを繰り広げているかのようだった。目黒はすぐに間に入ろうとはせず、ヒグルもまた、介入する隙を微塵も感じられなかった。ヒグルは背中を見せない。目黒は目を離さない。参加できる、ここだと思える瞬間を待っている。




 白鈴は油断を突いて追い込もうとした。彼女の心の中には勝利への期待が高まり、機会を逃すまいと鋭い視線を火門に向けた。しかし、火門は(感心するべきか、当然か)焦る素振りも見せず、冷静に構えていた。




 白鈴が繰り出した一撃は、雷のように速く、彼女の全力を込めたものであった。しかし、火門はその攻撃を見越していたかのように、とてつもない力強い一振りで持ち直す。彼の刀が白鈴の刀を受け止めたその時、衝撃が彼女の腕を震わせた。




 後退しながら、白鈴は最近の出来事を振り返る。




 かげかげに目をやり、敵に視線を向ける。




 二人の間に繰り広げられる激しい戦闘が一時途切れると、火門はそれ以上の動きを見せない。彼は距離を詰めず、白鈴が床を蹴り走り寄るのを待ち望んでいるかのように静かで堂々としていた。




 すると、火門の視線がふと壁の方へ向けられた。何かを感じ取ったのだろうか。




 壁が大きな物音を立て、崩れ始める。材木が悲鳴を上げ、瓦同士がこすれる渇いた音が混ざり合い、不気味な緊迫感が漂う。白鈴はその異変に驚き、瞬時に身を構えた。




 突然の崩壊の原因は、がしゃどくろだった。巨大な骸骨の鬼が建物内へと手をねじ込み、壁を破壊し、中を覗こうとしている。その姿は悪夢の中から這い出てきたかのようだ。




 白鈴は一瞬だけ火門から目を離していた。元に戻すと、異変に気付く。




「なんだ、こいつは……?」彼女の声が震えた。




 目の前には、火門の姿が消えていた。周囲は夜の闇に包まれ、灰色の霧が立ち込め、視界を遮り、次第に城の内部の様子が歪んでいく。まるでこの場所が生きているかのように、形を変えていく。




「大湊の、化身」シュリが言った。そこには緊張が混じっていた。




「火門はどこにいきやがった?」目黒は周囲を見回した。




 その時、彼らの前に現れたのは明らかに人ではない存在だった。人の形をしているようで、しかしその本質は異なる。白鈴は特徴を捉えようとした。蛇だろうか? 頭部と思わしき場所には人間の顔があり、黒い髪は長く乱れている。蛇には似合わない腕と足を持ち、体長は大人二人分ほどもある。その姿は、恐怖と異様さを醸し出していた。




「白鈴、私も戦う」シュリがそう言って隣に並ぶと、彼女の前に巨大な骸骨の手が伸びてきた。




「白鈴、こいつは任せろ」目黒がその手を阻み、力強く言った。その後、彼は一瞬立ち止まり、屋外へと出て行く。「屋水での借りは返す」




「手伝おう」糸七が駆け込んできた。彼は、かかしとの戦闘を終えたばかりのようだった。片手には刀ではなく、槍を持っている。




 白鈴は一瞬、糸七を仲間と考えていいのか迷った。しかし、判断する時は今ではないと思い直した。運命が交差するこの瞬間、重要なのは彼の力を借りることだった。




「私も」白鈴の傍で、そっと聞こえた声はヒグルのものだった。彼女は恐れを見せず、目の前にいる脅威へと視線を向けていた。




 大湊の化身。白鈴は心の中で呟く。その存在がどれほど恐ろしいものであろうと、決して引き下がるわけにはいかなかった。彼女の胸には戦う覚悟が高まる。




 




 大湊の化身は否定するのが難しく、「鬼」であることは間違いなかった。その者が持つ力は、この国で頻繁に見られる他の鬼とは比べようもないほど強大であった。今、この時、白鈴一人では大湊の化身を倒すことはできなかった。ヒグルの魔法の力を借りても、シュリの力を借りても、容易にはいかない。




 一見するとその動きは鈍いようにも思えるが、運が良くない限り、戦闘経験のない者がこの鬼の攻撃をかわすのは至難の業だ。伸びる腕は奇怪で自在、そして非常に破壊力がある。物理的な攻撃だけではなく、大湊の化身は不思議な力も使ってくる。




 かげかげによって斬られた部分は、即座になにもなかったかのように再生していく。斬られることに抵抗がないのだろう。彼には、戦うための余裕があるように見えた。




 唐突に白鈴たちの見える景色が変わったのも、大湊の化身による力の影響だ。上品な造りであった城の内観が、一瞬にしておどろおどろしいものへと変貌を遂げた。不気味な霧が立ち込め、周囲は悪夢そのもののような表情を浮かべている。




 目黒と糸七は二人で巨大な骸骨と戦っている。建物から飛び出した彼らの姿は、白鈴たちには見えず、現在の状況を把握することはできなかった。外では、一体何が起きているのか?




 三人で戦える。それが、戦局を動かした。




「……あっちは平気かな」ふとした時に、ヒグルの口からそんな言葉が漏れた。彼女にとって、明らかに強者との戦闘であったが、彼女の心には不安がよぎっていた。もしものことが起こりはしないかと気にかけているのだ。




 白鈴はヒグルの表情を見つめた。その集中力は感じられるが、同時に彼女の心の奥に潜む不安も伝わってくる。




 白鈴は戦いの最中、徐々に技量を高めていた。彼女の動きは次第に鋭さを増し、相手の攻撃を見極める力も確実に向上していた。敵の動きが見え、瞬時に反応できる自分を実感するたび、心の中に自信が芽生えていく。しかし、その成長を敏感に察知した大湊の化身は、じりじりと反撃に出る準備を整えつつあった。




 白鈴の意識が高まったその瞬間、彼女の身体に冷たい感触が襲いかかった。伸びる腕が鋭い力で彼女を掴み、金属のような圧力が全身に広がる。驚愕と痛みに彼女は息を飲み、心臓が激しく鼓動する。捕まったその刹那、彼女の思考は一瞬停止した。




 しかし、その恐怖は長くは続かなかった。周囲が急激に明るくなり、魔法の光が彼女を包み込む。すると、化身の腕が緩み、白鈴は再び自由を取り戻した。




 彼女は「一人」で戦っているわけではないのだから。しかし、それにしても、大湊の化身はまるで状況を理解しているかのように、しっかりと三人を相手にしていた。力強い攻撃を繰り出し、彼女たちの連携を崩そうとしてくる。




「ここに長く居るのはよくないかも」シュリは周囲の空間を観察し、冷静にそう述べた。彼女の目には、危険を察知する鋭敏さが宿っていた。




 猪武者。白鈴の巧みな一撃でこの戦いは幕を下ろす。




 大湊の化身は、白鈴の一撃を受けて痛みを泣き叫びながら、無秩序に暴れまわる。その姿は、かつての威圧感とは裏腹に、混乱に陥っていた。周囲の障害物を叩き壊し、恐怖をまき散らしながら、ついには姿を消してしまった。




 次に起きた出来事、内観は元に戻り、それは壁を突き破るほどの凄まじさ、青年が一人槍を片手に彼らの前に現れた。両脚で着地した彼は、その勢いを弱めることができず、反対側の壁に背中をぶつけた。




「糸七?」シュリが彼の名を呼んだ。白鈴たちは驚愕の表情を浮かべた。彼の姿が目の前に現れるとは思ってもみなかった。




「聞いていたとおりだな。流石に簡単にはいかないか」糸七は槍をしっかりと握り、鬼の一撃でも防いだのだろう。彼の表情には、戦いの痕跡が浮かんでいた。飛ばされてきたようだが、その目には決心が宿っている。




 すると、遅れて目黒も姿を見せた。彼の表情には、戦いの緊張感が漂っていた。勢いに負けて壁に背中をぶつけるほどではなかったが、彼の姿勢は明らかに警戒している。




 目黒は姿勢を変え、隣にいる者に問いかけた。「おい。まだいけるか?」




「もちろんだ」




 目黒は糸七の具合を確認し、安心したように視線を移動させた。「そっちは終わったのか?」彼の声は大きく、周囲に響き渡った。




「ああ」と白鈴は答える。




「火門は?」目黒が尋ねると、彼女は首を横に振った。




「なんだ? どこに向かう気だ?」目黒は不安を感じながら言った。その時、耳に届いたのは、何か鳴き声のような歪な音だった。彼は建物に開いた穴の向こう側を見つめた。




 霧に包まれた世界が広がっている。その先には、未だ巨大な骸骨の鬼がうごめいていた。




 白鈴も外側へと注意を向けた。「――夜が明ける。逃げるつもりだ」




「なんだと?」目黒は事態に固まっていた。彼の頭の中では、混乱と不安が渦巻いている。二秒ほど経過して、ようやく続行しようとその場から動き出した。




「目黒」白鈴は彼を止め、真剣な表情で言った。「脱出しろ」




「ああ?」目黒は驚き、言葉を失った。




 彼女は、目黒に近づいていった。すると、彼女の傍から声が聞こえてきた。「なに? どうするの?」それはヒグルの声だった。




 白鈴は立ち止まり、「追いかける……」とだけ口にした。「ここから出ろ。城下も、安全じゃない」




 目黒はやや不満げな表情を浮かべたが、彼女の言葉を理解し、その意図を感じ取った。最後にはその思いを飲み込んだ。「ああ。行ってこい」




 白鈴は頷き、跳躍して鬼がいる穴へと、その霧の中へと消えていった。




「白鈴……」ヒグルは呟いた。




「行くぞ」目黒が前に出て、仲間たちを促した。




「……目黒」ヒグルは不安そうに彼を見つめた。




「あいつなら、また会えるさ。急ぐぞ」目黒は力強く言い、仲間たちを励ます。




「行こ」シュリが言うと、ヒグルは小さく頷いた。彼女の心にも、白鈴を信じる思いが芽生えていた。




「急げ!」目黒が先導し、仲間たちは一緒に動き出した。彼らの心には、白鈴の無事を祈る気持ちと、再会への希望が灯っていた。




 




 白鈴は城の屋根に立ち、周囲を確認した。霧は濃く、何も見えない。視界が遮られる中でも、彼女は確信していた。あれがすぐ近くにいるのはわかる。




「時間はまだある」彼女は静かに呟いた。




 かげかげを軽く振り、戦う準備を整える。




「散々暴れてきたんだろ。ここからは、こちらの番だ」




 その言葉には、彼女の決意が込められていた。敵に対する恐れは微塵もなく、むしろ戦うことへの意欲が高まっている。白鈴は自らの役割を果たすため、全身全霊で立ち向かう覚悟を固めた。




 霧の中から、敵の気配がじわじわと迫ってくる。その存在を感じながら、白鈴は一歩前に出た。彼女は鬼から次々と攻撃を受けるが、うまく対処し、巧みに身をかわす。掴まれるわけにはいかない。




 彼女は闘いつつ屋根を駆け抜けていく。




 巨大な骸骨だけではなく、他の鬼たちも集まってくる。彼女の目に飛び込んできたのは、体の長い魚のような姿。だが、前足のようなものが生えており、異様な動きで迫ってくる。




 鬼の群れを抜けて、彼女が目にしたものは、想像を絶する光景だった。「……何が起きてる?」彼女の心に衝撃が走る。この国は既に――。鬼の国だった。




 おびただしい数の鬼が城を囲んでいる。彼女の胸に恐怖が広がり、戦う意志が揺らぎかけた。しかし、仲間たちのことを思い出し、白鈴は強く自分を奮い立たせた。彼女は戦うためにここにいるのだ。




 白鈴は霧の中でかげかげを振った。手応えがあったような感触が指先に伝わる。




 次の瞬間、白鈴は躊躇いなく崖から飛び降りた。「来い!」その声は冷たい霧を切り裂くように、周囲に響き渡る。空中で彼女は、一瞬の自由を味わった。風が彼女の髪を撫で、心に潜む恐れを吹き飛ばしていく。




 落下するにつれて、霧が徐々に晴れ、視界が開けていく。目の前には、無表情の骸骨の鬼が待ち構えていた。鬼の背後から、まるで生き物のようにうごめく鬼雪崩が姿を現し、彼女に襲い掛かろうとしている。




 白鈴の心臓は高鳴り、時間が止まったかのように感じた。彼女は空中で、恐ろしい光景に直面していた。鬼の長い腕が伸び、同時に鬼雪崩が彼女を飲み込むかのように迫ってくる。まるで二つの脅威が同時に彼女に襲いかかるような、絶体絶命の状況だった。




 白鈴は刀を構えたまま、逃げることなく立ち向かう。無茶な行動だと理解していたが、後には引けなかった。彼女の体は鬼雪崩から必死に抜け出したものの、すでにひどく負傷していた。肩や腕に深い傷があり、痛みが全身を貫き、意識が薄れそうになる。




 それでも、白鈴はその痛みに耐え、仲間たちの顔を思い浮かべた。共に過ごした日々が、彼女の心を支えた。




 負けるわけにはいかない。白鈴は自らを奮い立たせた。彼女の胸には、仲間を守るために戦うという強い意志が宿っていた。傷だらけの体を振り絞り、再び刀を振りかざす。刀の刃が光を受け、彼女の決意を映し出すかのようだった。




 目の前の敵に向かって、白鈴は一歩前に出た。








 花気かき風来ふうらい




 




 それは、二つの太刀筋に分かれていた。まず一つは鎌鼬の如く相手の急所を狙う一手。




 そして、少し遅れて詰め寄る白鈴。

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