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千客万来(センキャクバンライ)  作者: つかばアオ
_1の3 屋水の巫女
7/58

第7章「屋水襲撃 馬の頭」

 ・7



「今夜か。間に合うか」白鈴は、紙崎の町の近くにそびえる山のふもとに立っていた。夕暮れの空は濃紺に染まり、薄暗い雲の隙間から星々が顔を覗かせている。その美しい光景とは裏腹に、彼女の心の中は重苦しい不安に満ちていた。




 目の前の山は、静かに彼女を見下ろしているようだった。山の奥深くには、不気味な洞窟が口を開けており、古びた祠がひっそりと佇んでいる。白鈴はその洞窟から少し離れた場所で立ち尽くし、静寂に包まれた森の中で心がざわめくのを感じていた。




 耳に残るのは、枯れ谷の巫女ハユキから伝えられた凶報だった。彼女が語った言葉は、まるで冷たい刃のように胸に突き刺さった。三年前、屋水の住人が無惨に命を奪われた惨劇。その恐怖の記憶が、今も彼女の脳裏に鮮明に焼き付いている。




 また、あの夜の恐怖が繰り返されるのか? 恐れと怒りが胸の中で渦巻いていた。月明かりが薄暗い森を照らす中、白鈴はその不安を振り払うように深呼吸をした。しかし、息を吸うごとに、あの忌まわしい光景が鮮明に蘇ってくる。




 今宵、何が待ち受けているのか。屋水の巫女が、再び襲われるというのだ。その知らせは彼女の心に冷や汗をかかせた。三年前、あの悲劇の夜を思い出す。彼女は無力感に苛まれ、何もできなかった自分を責めた。




 大湊は、いったいどうしようというのか。彼女は疑念を抱きながらも、同時に決意も固まっていた。仲間たちと共に屋水を守るために行動を起こす。闇が深まる中、白鈴は一歩を踏み出した。運命を変えるための戦いが、今、始まろうとしていた。




「馬があれば、なんとかなるよね」ヒグルがそう言った。そこには少しの希望が込められていた。馬が用意できれば、確かに何とかなるかもしれない。しかし、ハユキからは骸骨が現れる正確な時間は教えてもらえなかった。




「真夜中であるなら、そうかもな」




 白鈴は言葉を続けられず、沈黙が心を覆った。静寂の中で、シュリの表情に意識が向いていく。彼女の目には、何か複雑な感情が宿っているようだった。




 白鈴はシュリの視線を追った。彼女の瞳は暗闇の中で揺らめき、何かを考え込むように深い思索に沈んでいる。恐怖か、期待か、それとも別の何かか。白鈴はその表情を見つめながら、彼女が抱える重荷を感じ取った。




 これから襲われようとしている屋水には、シュリの姉が今でも住んでいる。おばさんと共に暮らしていると聞いた。その事実が、白鈴に重くのしかかる。彼女はシュリの言葉を思い出した。「姉とは離れて暮らしている。できれば。変えたくないんだ」その言葉が、シュリの心の内を反映しているように思えた。




 白鈴は、シュリがどれほど姉を想い、守りたいと思っているのかを感じ取った。彼女の心の中には、恐れと共に強い決意が宿っている。もし屋水が襲われれば、シュリの姉も危険に晒される。白鈴はその思いを胸に抱き、仲間たちを守るためにも全力を尽くす覚悟を新たにした。




 ちょうどよく、鳥居のある場所まで戻ってくると、人の気配を感じた。白鈴は予想外の出来事に戸惑いながらも、その結果に懸念を抱いた。周囲の静けさが一瞬にして崩れ、心臓が高鳴る。姿が見えたことで、彼女は一層警戒を強めた。




 鳥居の前には、あの女がいた。まるで待ち構えていたかのように、そこに立っている。彼女の姿は薄暗がりの中で際立ち、その目は白鈴たちをじっと見つめていた。白鈴は背筋を伸ばした。




「お前は……」




 白鈴が声を発すると、女は微笑みながら答えた。




「どうやら、お会いになられたようですね。巫女は、なんと」女の声には、どこか冷ややかな響きがあった。




「すまないが急いでいる。呑気に話をしている場合ではない」




 白鈴は余計な負担を増やしたくなかった。この女からの「要求」を避けたいと強く思った。助けてやったのだから、当然のことだろう。相手は期待を抱き、ここで見返りを強く求めてくるのではないかと感じた。彼女はその予感に不穏な気持ちを抱き、できるだけこの場を避けようとした。




 それでも、彼女のおかげで苦労なく六円館から「枯れ谷の巫女」と会えたのは事実だった。その思いが、白鈴の心に複雑な感情を呼び起こす。感謝の気持ちが彼女の中で温かく広がる一方で、警戒心は冷たい影のように付きまとった。白鈴は一瞬立ち止まり、女の視線と自分の心の葛藤を受け止める。




 今、目の前にいるのは、助けてくれた存在でありながら、同時に未知の脅威でもあった。女の微笑みには、何か計り知れない意図が隠されているように感じられた。果たして、彼女の助けは本当に善意から来ているのか、それとも何か別の目的があるのか。




「ごめんなさい」と、ヒグルは追うようにしながら女に向けて謝った。声には申し訳なさが滲んでいた。




「そうでしたか。それは残念」女の返事は冷たく、どこか楽しげな響きを含んでいた。




 シュリの動揺は収まってはいなかった。いくらか近寄ると、彼女は女の方を見て立ち止まった。「助けてくれて、ありがとう。でも行かないと」




「シュリ」と白鈴が呼ぶ。感謝はしているが。




「お待ちになって」女が声をかける。彼女たちの進行を阻むかのように響いた。




「なんだ。まだ、なにかあるのか」白鈴は嫌な予感がどうしても拭えなかった。




「そう怒っては、いけない。行きたいのでしょ。屋水に」女は微笑みながら言った。




「それは……ああ」




「どうして、場所を?」ヒグルは独り言のように呟いた。疑念が色濃く表れていた。




「では。どうぞ」




 女が片手を前に出す。その先には鳥居が立っている。特に「それらしきもの」は見当たらない。僅かな時間で、闇は迫れど、光の弱い景色が変わったわけではなかった。




 そこには紛れもなく『入口』が存在していた。




 女は静かに言った。「抜け道を、使って。お社にいる、リュウ様を助けてあげて」




「これは?」白鈴の目には不自然なものとして映った。




「うん? 白鈴、どうしたの?」ヒグルが問いかける。




 白鈴は鳥居から視線を移し、女の表情を見つめた。彼女は蠱惑的でありながら、どこか誇らしげな様子を浮かべている。




「過度な警戒は無用。通りゃんせ」




 女の行動ひとつひとつからは、その魂胆を理解するのが困難だった。彼女の視線や言葉には、必ずや何か思惑があるだろうと白鈴は感じていた。接触してきたのは意図があり、期せずしての出来事とは思えなかった。




 鳥居を使わないという選択肢もあった。しかし、果たしてそれが正しいのか。




「どういった了見なのかは知らない」白鈴は静かに呟いた。




 女は何も言わなかったが、その沈黙が逆に不気味さを増していた。




「行くぞ」と白鈴は強い意志を持って言い放つ。




「どういうこと?」ヒグルが困惑した表情で尋ねる。彼女もまた、女の言葉の裏にある意図を探ろうとしている。




「ヒグル、いこ」シュリは彼女を促した。状況がわからないヒグルを心配し、声をかけていた。彼女は、この三人であれば、どんな困難も乗り越えられるという揺るぎない信念を持っていた。白鈴とヒグルがいることで、彼女は安心感を得ていた。彼らの絆が、どんな試練にも立ち向かう力になると信じていた。




 彼らは『入口』を使う。いくら見回しても、もう女の姿はどこにもなかった。そこには鳥居も存在しない。




 女が用意した抜け道は、決して安全な通路とは言えなかった。普段は人が通るはずのない場所であり、紙崎からも遠く離れた地に位置している。薄暗い道は狭く、周囲には鬱蒼とした木々が立ち並び、道を包み込むように覆いかぶさっていた。




「ここは……?」ヒグルが疑問の声を上げた。目の前に広がる光景は、彼女の予想を超えていた。静まり返り、まるで時間が止まったかのような不気味な空間だった。




「抜け道だ」白鈴は短く答えた。何はさておき、彼らは『出口』へと続く道を進むことにした。立ち止まっている時間が惜しく、もし説明が必要であれば、歩きながらでも構わないと彼女は考えた。戦闘は避けられないだろう。








 鬼と戦う場面はいくつもあった。だが、勝つことのできない強力な敵には遭遇しなかった。彼らの間には、確かな連携が育まれている。シュリ、ヒグル、そして白鈴。それぞれの役割を理解し、支え合うことで、彼らは何度も困難を乗り越えてきた。




 ヒグルは静かな時を切り裂くように問いかけた。「ねえ。大湊の目的って、なんだと思う?」




「屋水の巫女だろ?」白鈴は即座に答えた。




「冷静になってみれば、『巫女を襲う』って、どうしても信じられなくて。たぶん、暗殺することではないよね」ヒグルは思考を巡らせていた。




「鬼を使うから?」シュリは鋭い直感で読み取った。




「そう。違うのかな。それに、もしそんなことをしたら、大湊は衰退どころではないよね。屋水の巫女だよ?」ヒグルの眉が寄った。




 白鈴は考え込む。「三年前に、一度屋水は賊に襲われている。その時、巫女は不在だった。その日の数日前に大湊に呼ばれて、大湊城にいた」




「本気で、大湊は鬼との共存を望んでいるの?」




「鬼は、きっと来る」シュリは俯いて言った。「ハユキにウソ偽りはなかったと思う」




「不吉であることは変わらない」白鈴も同意した。たとえその情報が大湊からのものであっても、ハユキはそれを真実として受け取っているように見えた。




「そう、だね」ヒグルが静かに頷く。彼らの間に漂う不安が、さらに重くのしかかる。




 白鈴は周囲に目をやりながら言った。「急いで出よう。迷うと、出られなくなる」




「そうだった。養分になる、かも」シュリが思い出したように呟く。彼女の言葉は、ヒグルの注意を引きつけた。




「うん? よう、ぶん? 養分って言った?」




 その後、しばらく歩き続け、どうにか出口を見つけたらしく、気付けば森の様子が変わっていた。想像よりも早い。屋水の近くまでやってきていた。




 白鈴は現状を把握しようと、遠目に眺める。外はすっかり真っ暗になっていた。闇が彼女たちを包み込み、緊張感が高まる。




 村の灯りは見えない。




「これは、止めなきゃ」ヒグルは心に決めて、一歩を踏み出した。




「もういるな。始まってる」白鈴の声には焦りが滲み、その目は暗闇の中で何かが動く影を捉えようとしていた。




 




 巨大な骸骨の鬼が、既に屋水へと襲い掛かっていた。しかし、ひと際目を引く山のような大きな影はどこにも見当たらず、その姿を視認することはできなかった。異様な事態だ。夜中とは思えないほどの物音や奇怪な声が響き渡り、周囲は不穏な騒ぎに包まれていた。




 骸骨の姿が確認できない中、耳を澄ませば、他の鬼が潜んでいる気配が明確に感じられた。白鈴は焦りを胸に抱え、急いで屋水へと向かった。冷たい汗が背中を流れる。敵を倒しながら、少しずつ距離を縮めていく。




「群れて歩いているな」白鈴が言った。暗闇の中、影のようにうごめく姿がいくつも確認できる。




「シュリ、お姉さんのところに行かなくていいの?」ヒグルは彼女を気遣いながら尋ねた。




「平気。それより、鬼を止めよ。そっちが先決」




 白鈴が呟く。「ここに来てからずっと思っていた。誰か戦っているな」




「屋水の人? みんなを逃がしてるのかも」ヒグルの声には、期待が混じっていた。




「屋水に、戦える人、いたかな?」シュリは疑問を口にした。屋水の人々は、普段は平和な暮らしを送っているはずだ。果たして、彼らがこの危機に立ち向かう力を持っているのか。




 白鈴は考えても意味がないと判断し、前へ進んだ。ヒグルの魔法による明かりを頼りに、彼女は全力で走った。




 その時、彼女は鬼ではない人の気配を感じた。慎重にそこと思しき木の陰に近付く。




「ジロテツ? ジロテツか?」白鈴は声をかけた。




「おっ、なんだ? 聞いたことのある声だな」木の陰から返ってきた声は、どこか懐かしさを感じさせた。ジロテツは樹木を背に座り込んでいたが、その姿は単なる休憩をしているようには見えなかった。彼は身を隠し、周囲の動きを警戒しているようだった。目は鋭く、耳を澄ませている。




 赤い血が彼の衣服に染み込み、眩しそうに目を細める仕草が、彼の限界を物語っていた。白鈴は心臓が早鐘のように鳴る中、駆け寄り、彼の様子を伺う。彼の顔には疲労の色が浮かび、傷の痛みを堪えているようだった。




 ヒグルは純粋に驚いている。「どうして、ここに?」




「おいおい。これは夢か? ヒグルに白鈴までいる」ジロテツは信じられない思いで二人を見つめている。傷だらけの体を抱えながらも、彼の目には希望の光が宿っていた。




「ひどいな」白鈴は苦笑いを浮かべた。




「たいへん。手当てをしないと」シュリはジロテツの怪我の具合を調べ始めた。彼の体を優しく触れながら、傷の深さを確認する。思ったよりも深刻ではないように見えたが、血がにじんでいるのが心配だった。




「このぐらい、なんでもない」ジロテツは軽く笑ったが、その目には懸念が宿っていた。強がりの裏に隠された痛みが見え隠れしていた。「それよりもだ。よく聞け。大湊に、巫女が狙われてる」




「ああ」白鈴は頷いた。




 ジロテツはその返事に小さく笑った。彼らがどのような事情でここにいるのか、完全には理解できていなかったが、彼にとって重要なのは、彼らの目的が同じであるということだった。その安心感が、心の中に温かい光を灯していた。仲間がいるということが、彼にとってどれほどの励ましとなるか、今この瞬間に実感していた。




 ジロテツは緊迫した声で告げた。「ずっと先で、目黒が戦ってる。サモンもいる」




「わかった」




「立てそう?」シュリは周りを警戒しながらジロテツに尋ねた。




 白鈴はこの場でわかる範囲で冷静に判断する。目黒とサモンも、今、危険な状態にあるのではないか。焦燥感が募り、時間がないことを痛感した。




「ヒグルとシュリは、ジロテツを安全な場所に」白鈴は決然とした口調で指示した。




「おっと、俺は仲間外れか?」ジロテツは少し不満そうに言ったが、その目には自分の無力さが映っていた。




「それで戦えるのか?」白鈴は問い返す。彼女は彼の傷を思い、少しでも無理をさせたくないと強く感じていた。




「お社に行こう。あそこなら鬼も来られない」シュリは提案した。




「ね、任せよ」ヒグルが力強く言った。




 ジロテツは悔しそうに黙り込んだ。「あいつらを頼む」




 一緒には連れて行けない。白鈴はその決断を胸に秘め、ジロテツを二人に任せると、前進することを決意した。仲間を守るためにも、彼女は一歩ずつ進んで行った。








 暗闇の中で、白鈴も同様の気持ちを抱いていた。屋水に目黒たちがいるという事実に、驚きを隠せなかった。彼らはきっと大湊の動向を探っていて、そして屋水の巫女に辿り着いたのだろう。




 大きな鬼の気配が濃厚に漂っている。白鈴は闇に恐れず、意識を集中させた。これまでで一番の大物と言える存在だ。しかし、近づこうとしても姿は見えなかった。夜のせいもあるのだろうが、どこにいるのか全く見当がつかない。




 ふたりはどこに? 白鈴は心の中で問いかける。いずれにしても、巨大な骸骨の元まで辿り着けば、なんとかなるか?




 知らぬ間に、周囲は濃霧に包まれていた。霧は静かに忍び寄り、視界を遮っていく。遠くからではその存在に気づかなかったが、今はその影響で、周囲の様子がぼやけて見えた。木々の輪郭が歪み、音も遠くから聞こえるように感じられる。




 そのとき、白鈴は足音を耳にした。微かな音が霧の中に響き、彼女の心に一瞬の希望をもたらす。次に、女性の声が響いた。その声がサモンではないかと考え、彼女の胸は高鳴った。




 白鈴は森の中を駆け抜け、その声の方へ向かって進んだ。霧が濃く、視界は悪いが、彼女は一心に声を追いかけた。足元の草が擦れる音や、枝がかすかに揺れる音に耳を澄ませながら、彼女は目的地へ急いだ。




 霧の中で目を凝らしながら、ようやく彼女を見つけた。




「もう。目黒にジロテツ、どこに行ったの?」サモンは焦りを隠せずに言った。仲間の安否を気にする気持ちが溢れていた。




 そのとき、サモンは辺りを注意深く見回しているように見えたが、気が緩んでいたのだろう。見えない敵を知覚できていない。鬼が忍び寄っていた。




 白鈴は瞬時に反応し、すばやく刀を抜いた。冷たい刃が霧の中で光を受けて輝く。彼女は不意を打つように、鬼に斬りかかった。




「なっ、なに?」サモンは驚きの声を上げた。




 刀は鋭く鬼の体を切り裂き、鈍い悲鳴が響く。白鈴は一瞬の隙を逃さず、次の動きに移る。霧の中で視界が悪いが、彼女の直感が冴え渡っていた。




「消えたか」白鈴は辺りを見回し、状況を確認しようとした。




 全体は見えなかった。手応えもない。今のが、もしかしたらそうなのかもしれない。




 白鈴は霧の向こう側を意識しながら、安全であると見極め、ゆっくりと振り返った。




「サモン」




「白鈴? うそっ。来てくれたんだ」サモンの顔には驚きと安堵の色が浮かんだ。「みんなは? 知らない?」




「ジロテツはヒグルといる」白鈴は状況を簡潔に伝えた。




「ヒグルと。そっか。それだと目黒は……」




 サモンは息を切らしていた。どれほど走り続けたのか、随分と疲れ切った様子だ。白鈴は彼女の装備やその動きに目を凝らし、腕や足の様子から健康状態を気遣う。サモンの表情は少し青白く、疲労が隠しきれない。




「サモン。無理してるだろ?」




「おおっと。あれ? わかっちゃう?」サモンは軽い笑みを浮かべたが、その声には明らかに疲労が滲んでいた。彼女の瞳は少しぼやけ、白鈴にはその無理をしている様子が痛いほど伝わってきた。




 遠くからでは気づかなかったが、サモンは自由に歩き回れるような体ではないということが分かる。彼女の動きはぎこちなく、疲れた足取りがその証拠だった。どの程度のものかは正確に調べないとわからないが、残るは彼女の表情、声、そして仕草で注意深く見抜くしかなかった。




 白鈴はそっと体の向きを変え、気を張った。




「どうかした? 敵?」サモンが不安そうに尋ねる。




「詳しい話はあとだ」




 まっすぐ伸びた刃が霧の中で揺れ、彼女の緊張感が一層高まった。白鈴は目を動かし、耳を澄ませた。静まり返っており、何も聞こえない。ほかには、何もない。静かに呼吸を整えながら、敵を探る。




 敵意を感じた。ところが、そこから鬼が現れることはなかった。




「気のせいか?」彼女は刀を下ろし、少し戸惑った。「にしては」




「さっきの?」サモンは歩み寄り、白鈴を見つめた。「白鈴、追い払ってくれたよね?」




「だと思う。あれは」白鈴は頷きながら言った。「少しでも手加減をしていたら、私も力で叩き潰されていた」




「叩きつぶされてた? なに? さっきのって、もしかして……?」




「手応えがなかった。斬るのは簡単ではないかもしれないな」




 白鈴はかげかげに調子を問いかける。彼女は自身の実力が不足していると共に愛刀を憂える。やっとの思いで取り戻して、それからもあった違和感の原因がわかった気がした。




 サモンはしばらく眺めていた。「刀、駄目になった?」




 いや、と白鈴は首を振る。「それよりサモン、体のほうはどうなんだ?」




「いたた。もうおしまい。もうだめかも」サモンは具合が悪そうに演技しながら、少し笑った。「でも、助けてくれたから、このとおり」




「逃げることも、考えてもよかっただろ」白鈴は心配そうに言った。




「仲間は置いていけない。私はまだいけるから」サモンは強い信念を見せた。




「目黒は?」




「わからない。骸骨と戦ってたはずだけど。全員離れ離れになった」サモンの表情が曇る。




「この霧か」白鈴は上のほうに視線を移し、霧の濃さを感じ取った。視界が遮られ、仲間の行方がますます不透明になっている。




「そう。なんなのこの霧。急に出てきて。すっごく邪魔」サモンは苛立ちを隠せずに言った。




 白鈴は頷いた。鬼の仕業であるのは間違いない。長く居ると方向感覚が狂ってしまう。霧の影響はそれだけではない。居場所を把握できていないというのは、何よりもまずい状況だった。




「音? おかしなこと言うかもしれないけど、この霧のせいで声も遠くなった感じがする」サモンは言葉を選びながら、周囲を見回した。




「サモン、もう少しだけ歩けるか?」白鈴は彼女の様子を気遣いながら尋ねた。




「頑張る。ここで死ぬなんて、絶対ごめんだから。やりたいことがまだまだ残ってる」




 その笑顔に、白鈴は少し安心した。白鈴は、サモンが真面目な表情になるまでを見て、彼女の言葉を信じることにした。しかし、無理はできないだろう。怪我はジロテツほどではないのか?




「買い物、だったか?」白鈴は間を置いて、ゆっくりと尋ねた。




「うん? 買い物? ああ、うそっ。覚えてくれてたんだ」サモンは少し驚いたように微笑んだ。




「忘れていたのか?」




 ううん、と彼女は強く否定する。「どちらかと……。その服、そういえば」




「前のは破れた。だから、これは借りている」




「あっ、わかった。その人に、それ、選んでもらったでしょ」サモンは目を輝かせた。




「そう、だな。動きやすいのを選んでもらった」白鈴は少し照れくさそうに言った。




「へええ。なるほどねえ」サモンは夢中になって白鈴を観察した。




 まるで子供のために仕立てたばかりの服を見せるようだった。




「目黒を探そう」白鈴はふと我に返る。こんなことをしている場合ではなかった。




「そうだ。白鈴、気を付けて。他の鬼もいる」サモンは警戒を促した。




「それは、わかってる」




「ああ、そうじゃなくて。そう、やばそうなやつがいる」




「やばそう? どんなだ?」白鈴は彼女の言葉に耳を傾けた。




「はっきりとは見えなかった。人っぽくて、大きな馬? みたいなのがいて」




「大きな馬か」




 思い当たるものがいる。散々聞いてきた。紙崎から、この屋水に訪れているようだ。




 すると、白鈴は微かな物音に反応した。動かなければならないと、経験から頭が働いた。サモンだけでも守るために、白鈴は刀には触れず、咄嗟に行動を起こす。




 地面を蹴った。人の体をやめて、「水」となり、サモンを押し出すように器用に包み込んだ。流れるような動きで、白鈴は自らの力を最大限に発揮し、サモンを安全な場所へと導こうとした。




 その瞬間、大きな斧が勢いよく飛んできた。空気を切り裂く音が耳に響き、白鈴は間一髪、避けることに成功した。




 白鈴は水の体で倒れ込んだとき、その衝撃を吸収した。柔らかな流れとなって地面に寝転ぶ形となるが、サモンは何も言わない。それは当然のこととして、うろたえている。




「平気か」白鈴は心配しながら、徐々に人の体に戻りつつ尋ねた。




「う、うん。あ、ありがとう」




「喜べないが、こんな体でも、役には立つのか」白鈴は自嘲気味に言った。自分の力を疑うような言葉だった。彼女にはしおらしく振る舞う色が見られた。




 サモンは黙っている。かける言葉を見つけられず、ただ相手を見つめ、動こうとしない。




「おい、平気か? 頭を打ったか?」白鈴は心配になり、声をかけた。




「だいじょうぶ。ちょっと、急に色々起こりすぎただけ」サモンは少し戸惑った様子で答えた。




「そうか」




「はあ、びっくりした」その場で立ち上がると、サモンは独り言のように呟いた。彼女は斧が見えていたようだ。その方角に目をやっている。極めて僅かな間ではあったので、それが「斧」であったかどうかはわからないかもしれない。




 白鈴は後になって気付く。そうだ、喜べないと彼女は思った。サモンを守るために行動したとはいえ、その行動がどのように映ったのかを考えると、胸が締め付けられる思いがした。サモンにとっては突然、鬼が(自分が)襲い掛かってきたようにしか見えなかっただろう。




 背中を向けると、白鈴は刀を取り出し、抜いた。




「サモン、『馬』というのはこいつか?」




 霧の中から姿を現したのは、大きな怪物だった。そのぼんやりとした影は、人のように見えるが、何かが明らかに違った。馬の頭を持ち、人間のような体格で、二本足で立っている姿は異様だった。長い足とたくましい体格、そして馬のたてがみが風になびく様は、恐怖を引き起こす存在感を放っていた。




 攻撃してきたのは、馬男。離れたところから投げてきた。それで違いない。




「そう、こいつ」サモンの表情は硬く、声には緊張が漂っていた。




 馬男は居場所を見失っていたのか、声に反応した。口を開けて鳴き声を上げる。




 白鈴は刀を構え、すぐに行動に移った。相手が考えもなしに突っ込んでくる。巨体を持つ馬男は、力でねじ伏せようとしている。正に敵意に満ちたその姿は、他の鬼よりも気性が激しく、まるで暴れ馬のようだった。




 動きがあまりにも大振りかつ単純である。白鈴はその肉体を活かした攻撃をかわし、斬りつけようとする。しかし、刀が触れようとするところで、彼女はそれを止めた。斬ることなく、刀を引っ込めた。




 思うように距離を置くことは難しい。馬男の巨体が迫ってくる中で、白鈴は冷静さを保とうと努力する。手首か、それとも足か。首は無理だろう。どうにか一瞬の隙をついて、彼女はいくつか別の方法を試みる。




 かげかげを振った。猿猿猴。だが、それでも馬男の体を斬ることは叶わなかった。




 次の手だてを考えていると、馬男は突然火に包まれた。炎が彼の体を覆い、まるで生きた獣のようにうねり、周囲の霧を吹き飛ばす。




「白鈴」




 名を呼んだのは、ヒグルだった。彼女はサモンと共にいた。ヒグルの目には、緊迫した表情が浮かんでいる。




「一旦、引こう」彼女は急かすように言った。












「刃が通らない」




「やっぱり」ヒグルが言った。




 馬男から逃げて、白鈴は斬らない理由を説明した。それは触れる前に判断できた。




「刀を引っ込めたから、怪しいと思った」




「刀で切れない体って、あの馬、どんな体してんの?」サモンは疑問を口にした。




「あと、少しな気はする」白鈴は決して不可能だとは考えていなかった。彼女のかげかげを眺める動作には、実現の兆しが漂っている。




「ヒグルさ、この霧、魔法でどうにかならない?」サモンは不安を抱えながら尋ねた。




「ごめん、私には無理。原因を叩くのが一番早いかも」ヒグルは申し訳なさそうに答えた。




「そっか。ううん。こんだけ探して。目黒、生きてるよね。骸骨にやられてないよね。さっきの『馬に』ってのも考えられるし」




「目黒なら、平気だろ」白鈴は心配することはないと感じていた。彼の強さを信じている。




「うん。だと、いいな。まあ、目黒だし」サモンも少し安心したように微笑んだ。




 白鈴は頷くと、耳を傾け、次に刀を抜いた。集中しながら構えた彼女の目は、敵の動きを捉えようと真剣そのものだった。




「ヒグル、サモンを」




「たいした時間は稼げないか。サモン、こっち」ヒグルは後方へと下がっていく。彼女の判断は明確だった。一箇所に固まっているのは得策ではない。霧の中での敵の動きに備え、互いの位置を分散させる。




 白鈴は息を吐き、心を落ち着ける。敵の姿は見えないが、感覚を研ぎ澄ませていた。刀を軽く振り、その重みを感じる。




 その時、霧の中から彼女に向けて、再び「斧」が回転しながら飛んできた。しかし、その軌道は白鈴の素早い動きによって勢いが失われる。




「斧」は空高く昇り、音を立てて地面に突き刺さった。土を掘り起こし、周囲に小さな石を飛び散らせる。白鈴はその瞬間を逃さず、敵の動きを読みながら次の行動を考えた。




 周囲の霧が濃く、敵の姿を捉えるのは難しい。視界不良であることも原因の一つだが、それ以上に予期せぬ事態が発生した。白鈴は十分に用心していた。相手の出方を窺っていたが、彼女は対応に遅れてしまった。




 霧の中から忽然と馬男が現れた。動きが変わった。白鈴はその短い間で異変を感じた。聞こえなかっただけとは思えない。近づく足音も、何の前触れもなかった。




 投げられた斧よりも速いかもしれない。馬男の体が見えた時には、もう彼女にはどうすることもできなかった。反応する間もなく、巨体が迫ってくる。白鈴はその圧倒的な存在感に呑まれ、心の中で警鐘が鳴り響いた。




 間に合わない。彼女は思ったが、次の瞬間、戦う決意を固める。




 胸か、それよりも上。特大の拳が白鈴の胸骨を打った。




 辛うじて、白鈴は左手で相手の腕を掴む。小さな手には、それはあまりにも逞しすぎる腕だった。体に走る衝撃は凄まじい。彼女の意図としては、他が難儀であるなら「相手の目を奪おう」と、壁となり拳を受け、反撃に出るつもりだった。しかし、逆手に取るにはそれもまた遅かった。




 白鈴は馬男の腕に跨るかのように跳び上がったが、好機とするにはもろかった。馬男は同じ姿勢でいるはずもなく、白鈴の動きは容易く捉えられ、次の瞬間、彼女は地面に叩きつけられた。




 あとは、やりたい放題。ふろろ、と雄叫びのような声が響く。白鈴はたいした抵抗もできず、ただその巨体に押しつぶされるしかなかった。最後には、仰向けになり、まるで写実的で大きめな人形のように、馬男からひたすら殴られるという光景が続いた。




 その衝撃に、体は何度も地面に叩きつけられ、彼女の意識は薄れかける。痛みが全身を駆け巡り、呼吸が苦しくなる。白鈴の心は焦りと恐怖で満ちていく。仲間のこと、戦いの意味、すべてが頭の中で渦巻いていた。しかし、彼女は決して諦めない。痛みを堪えながら、反撃の機会をうかがっていた。




 




 ヒグルとサモンは、ただ見ていることしかできなかった。銃弾を撃とうと効果がないとわかった。魔法を使っても、その行使は無意味に扱われるだけだった。




 強い魔法を使うにしても、一つ間違えれば白鈴を巻き込む危険がある。




 端的に言って、二人にとってその光景は見るに堪えなかった。判断力は劣り、冷静に考えて行動するには状況が目まぐるしく変化している。白鈴はもう抵抗もできず、馬男に乱暴に殴りつけられている。その様子は、とっくに亡骸のように見えた。




「もうやめて」サモンは叫びながら、手が震えた。無慈悲で狂気に満ちたその行為を止める術はなかった。恐ろしい鬼が、白鈴を容赦なく攻撃し続けている。




「サモン。行っては、駄目。逃げなきゃ」ヒグルは彼女を引き止めた。馬男に近づいてはいけない。駆け寄ってはならない。そこには、彼女の心を揺さぶる思いがあった。




 ヒグルの冷静な態度は、サモンの心を少し落ち着かせた。




 なぜなら、そう言葉にはしても、ヒグルもまた同じ思いだったからだ。




「社なら安全だから、そこまでとにかく一緒に逃げよ」ヒグルの言葉は、決意を固めるための一筋の光明となった。




 決心して行動するのは簡単ではない。鈍い音はやむことなく、満足していないのだろう、まだまだ殴り足りないのだろう。抑えられない怒りをぶつけるかのような惨状が続いていた。




 二人は苦しみや悲しみを抱えながら、その場から逃げることにした。白鈴を見捨てることはできないが、今は自分たちの身を守ることが最優先だ。互いに目を合わせ、無言の決意を交わしてから、彼女たちは霧の中へと駆け出した。




 




「サモン、もう少しだから」




「うん。わかってる。……でも」




 サモンは全力で走ることができなかった。これまで痛みを我慢して耐えてきたが、薬の効果が切れたかのように、その顔は苦痛に歪んでいる。




 去り際、馬男が追いかけてくることはなかった。彼はただ白鈴だけを見つめ、彼女の形が変わっていく様を楽しんでいるかのように、こちらには一切目を向けない。その視線は冷酷で、彼女の苦しみを愉悦として味わっているかのようだった。




 ヒグルとサモンは、恐怖を抱えながらもお社へ向かって走り続けた。巫女がいるというその場所には、何かしらの助けがあると信じて。彼女たちの心には白鈴を救いたいという思いがありながらも、彼女の姿が遠くなるのを感じていた。




 地面を殴る音はふっと止んだ。静寂が二人を包み込む。ヒグルは振り返り、サモンもその動きに続いたが、何も見えない霧の中でただ不安が募るばかりだった。




「もう走れないかも。その時は、ヒグル、あなただけでも逃げて」




「なにを言ってるの?」ヒグルは驚きと不安が入り混じった声で問いかけた。




「わたしは……体がもたない。おねがい」表情には苦痛の影が色濃く浮かんでいる。その目には涙が浮かび、彼女の心の叫びが透けて見えるようだった。




 彼女は「自分はここに残る」と言っている。そばまで馬が来ていると考えているのだろう。その時が来れば、二人で逃げ切るのは難しいと感じている。




 介抱しながらお社を目指す――そうして終に、二人が恐れていた事態が目前に迫っていた。霧の中から、再び馬男の影が現れる。彼の巨体が迫るにつれ、二人の心はますます重くなっていく。サモンの呼吸は乱れ、ヒグルもその空気に押しつぶされそうになった。




 ヒグルは彼女を残して「どこかへ行く」なんて行動は取らなかった。自分だけで逃げるなんて、ここまできたらできなかった。仲間を見捨てることなど、彼女には到底無理だった。




 とうとう、魔法使いは本領を発揮しようとする。味方がいる環境ではできない魔法を試す機会が訪れたのだ。力加減を間違えようと、手元が狂おうと、誰かが傷つくことはない。サモンと共に、彼女の心には強い決意が宿っていた。




 馬男は追いかけてきたわけだ。ところが、どういうべきか、彼は臨戦態勢ではなかった。戦う気があったのかどうかも怪しい。いや、確かに戦う意志はあっただろう。とはいえ白鈴の時のように霧の中から亡霊のように現れ、即刻攻撃を仕掛けるような感じではなく、斧も飛んでこない。




 ヒグルは深呼吸をし、心を落ち着ける。状況を見極めながら、魔法を使う準備を整えた。その瞬間、彼女の意志が込められた白い光が、空間の向こう側で大きな爆発を引き起こした。魔法が放たれたとき、彼女の心の中にあった不安が晴れ、希望の光が広がった。




 近くの霧は爆風に流されていく。音と共に、光が辺りを照らし出し、ヒグルの心に新たな勇気が湧き上がる。サモンも目を見開き、彼女の力強さに感動する。彼女の魔法が放つ光は、ただの攻撃ではなく、仲間を守るための力であり、二人の未来を切り開く希望の象徴だった。




「これも効かないの?」ヒグルは呟いた。視界の端に、大きな人影が現れた。馬男が二本足で立っている。重量感のある立ち姿、歩く姿はまるで痛手を負っているようには見えない。




 ヒグルの心に恐怖が走った。次に試そうとしていた魔法を使うことはできず、効果がないのではと脳裏をよぎった。恐怖にかられ、足が動かない。彼女は混乱し、冷静に考える余裕が全くなかった。仲間を助けるために、力を振り絞らなければならないのに、その思いが逆に彼女を固まらせていた。




 他の方法など考えている暇はない。やってみればいい。しかし、実際に行動に移すことができずにいた。彼女は事前に用意した手段を頼ろうとはしなかった。今、彼女が求めているのは、ただの魔法ではなく、仲間を守るための力だ。




「ヒグル、なにやってるの?」サモンは隠れていたが、結局出てきてしまった。ヒグルの傍に立ち、彼女の腕を掴む。サモンの温もりが、少しだけヒグルの不安を和らげる。




 その頃、馬男は既に二人の目の前まで迫っていた。見上げるほどの大きな体、強靭な肉体。それに「彼女」はやられてしまった。




 馬男は何もしてこない。その静けさが、逆に恐ろしさを増していた。気性の激しさが失われているのだ。それが余計に不気味で、ゆとりを窺わせる闊歩と息遣いが、二人に圧迫感を与える。「無駄だ、逃げられないぞ」と言わんばかりに、彼の存在は。




(この環境のせいだろう)「地の果てまで追いかけるぞ」と。




 あの小さいのと、同じ目に合わせるぞ。




 男の手が、ゆっくりと動き出す。サモンは恐怖に目を見開き、ヒグルはその瞬間をじっと見つめていた。彼女たちは、運命の一瞬を待つしかなかった。




 




 すると、風が吹いた。




 馬男はその手を止め、耳を動かした。何かの気配を感じ取ったのだ。彼の大きな体がわずかに動き、背後を意識する。周囲の静寂が一瞬にして別の緊張感に変わり、ヒグルとサモンはその変化に気づいた。




 




 離れた場所に、人影が見えた。少女のような見た目をしている。片手には刀を持ち、その姿が徐々に明らかになると、彼女は黙ったまま凛とした構えを見せた。それは白鈴だった。




 彼女の服装は変わっていた。あれだけのことがあれば、いくらなんでも傷んでしまったのだろう。以前のものを着ていた。破れた個所は補修してある。




 白鈴の目は冷静で、周囲の状況をしっかりと把握しているように見えた。彼女の存在感は、馬男に対抗する力強さを感じさせる。




 馬男は、彼女を敵とみなした。ふろろと叫び声を上げると、その声は怒りとともに響き渡り、彼の猛進を加速させた。




 地面を揺らし、巨大な拳が振り上げられ、白鈴に向かって確実に振り下ろされようとしていた。




 白鈴は待っていた。馬男がどういった行動を取ろうとするのか、彼女にはわかっていた。彼女の目は、馬男の動きを追い続けている。彼の一挙手一投足を分析し、どの瞬間に反撃に出るべきかを考えていた。準備を整え、待ち構えている。




 ――流。かげかげが振られると、馬男の振り下ろした拳が元へ戻るように弾き返される。白鈴の刀はその力強さに負けじと、確かな手応えを感じさせた。




 しかし、やはりその体は、ちょっとやそっとでは斬ることが難しいようだ。刀が触れた部分は切創には至らず、ただの傷跡として残るだけだった。馬男の肉体は強靭で、白鈴の攻撃を防ぐためにしっかりと構えていた。




 だが、その大きな隙、そこに白鈴は狙いを定めていた。「決める」彼女は神経を研ぎ澄まし、刀を振り下ろす。力強く、そして確実に。刃が馬男の脇腹に向かって直線を描く。彼女の心には仲間を守る思いと、勝利への渇望が満ち溢れていた。




 白鈴は全ての力を込めて刀を放った。鹿――。




 侍と鬼。そう印象を受ける者もいるだろう。まるで大湊の昔話にでもありそうな一場面であった。




 白鈴の刀がとうとう馬男の体に刃を通す。赤い血が噴き出し、赤黒い煙が立ち昇る。その光景は、短い静寂をもたらした。




 男は傷を負ったことに驚いたようで、闘争をやめ、霧の中へと逃げていった。




 後退する様子は、どこか悲しげでありながらも、力強さを感じさせた。まだまだ戦えそうにも見えたのだが。




 白鈴は刀をしまう。追撃はしない。彼女はその場に立ち尽くし、馬男の背中が霧の中に消えていくのを見送った。




 二人が駆け寄ってくる。走るには支障のないヒグルが先頭を切った。




「怪我は、ないな。間にあって、よかった」白鈴がほっとした表情で言った。




「白鈴こそ。大丈夫なの?」




 鬼を撃退したとはいえ、勝利にはほど遠いことを彼らは理解していた。




「眠っているわけには、いかないだろ」白鈴は少し息を整えながら続ける。その声には、まだ戦闘が終わっていないという緊張感が漂っていた。




 ヒグルはすぐには言葉が出なかった。状況の厳しさを受け止めながら、彼女は深呼吸をして、心を落ち着けようとした。そして、やがて彼女はその言葉を紡いだ。「ありがとう」白鈴の勇気と強さに感謝の意を込めて。




 




 馬男との再戦はなし。三人は話し合い、屋水の巫女がいるお社へと向かうことに決めた。あれから巨大な骸骨は(その手、指先であろうと)近くにいるとは思えなかった。




 太陽が昇る朝までだ。聞く限りでは、夜が明ければその存在は消えてしまうという。彼女たちにとって、それは救いでもあった。だが、同時に時間との戦いでもあった。お社に着くまでの道のりが、果たしてどれだけの危険に満ちているのか、誰にも分からなかった。お社で、彼女たちはこの苦境を辛抱し、乗り越えようと心を一つにした。




「霧が、晴れてきた?」サモンは視界が利くようになり、そう言って立ち止まった。




「――あれ」ヒグルが異変に気付く。夜空を覆うような大きな黒い影が、まるで筍のように生えてきた。




 今度はなんだと思えば、その正体は巨大な骸骨であった。しかし、よくよく考えるとおかしなもので、社とは反対の方向を向いている。




「近くで見ると、でかいな」と白鈴は呟いた。




「うん」とヒグルは頷く。鬼はとりあえず急いでいるようには見えなかった。振り返らず、社を目指そうともせず、ただその場に立ち尽くしている。




 体を現したのは、何か理由があるのか?




 すると、鬼が動き出した。不気味な音を立てながら、片腕がゆっくりと上がっていく。それは煙のようにも、火のようにも見えた。鬼はその片手に何かを握っている。




 白鈴は怪しみ、目を凝らして事態を把握しようとした。やがて彼女は、衝撃の事実に気付く。




「シュリ? シュリがいる」




「えっ? なんで? どこに?」ヒグルは見入っていたが、その情報をすぐには理解できなかった。




「あの手だ。捕まってる」白鈴の声には焦りが混じる。鬼の手の中に捕らえられたシュリの姿がちらりと見えた。




 ここで相談は必要ないだろう。白鈴は助けに行くべきだと考え、迷わず行動に移した。シュリは気を失っているのだろうか? 何が起きたのか。争っている間に、お社は襲われてしまったのか。




 鬼は、シュリを握り潰そうとしていた。これまでの人間と同じように、彼女を食べようとするその姿は、恐ろしいほどに残酷だった。




 白鈴は阻止できない。彼女の心は焦りに満ち、どうすることもできない状況に立たされていた。




 鬼に近付く者は、彼らだけではない。




「たすかっ、た?」ヒグルは呟いた。




「いや……」白鈴はその光景に言葉を失う。




 攻撃を受け、シュリは鬼の手から解放された。彼女の体は空中にふわりと浮かび上がり、まるで重力を忘れたかのようだった。周囲の静寂を破るように、鬼は怒りのうなり声を上げるが、その声は次第に遠ざかっていく。男が鬼から彼女を奪い取ったのだ。




 骸骨はその様子を見て、取り戻そうと必死に腕を伸ばす。冷たい手が空を掻くが、鬼の影はすでに消えかけていた。朝日も差し込まない暗闇の中で、鬼はまるで霧のように静かに姿を消す。




 危機から彼女を救ったのは、目黒ではなかった。




 お面をつけた男、忍びのヌエ、幸畑である。

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