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千客万来(センキャクバンライ)  作者: つかばアオ
_1の2 はゆま村の女
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第6章「六円館 枯れ谷の巫女」

 ・6



「次の満月って、いつだっけ?」シュリはふと尋ねた。




 猿の鬼を倒し、屋水を離れて、次の町『紙崎』へと白鈴は辿り着いた。紙崎は大湊城城下から最も近い町であり、占い所アルカナまではもうすぐだった。




 空はまだ明るく、日差しが心地よい。シュリは歩き続けながら、空腹を感じているのか、腹辺りを触っていた。




「満月は、もうすぐではないか?」白鈴は昨晩の出来事を思い出しながら言った。




「たしか、そうだよね」シュリは考え込みながら答えた。




「しかし、それがどうかしたか?」白鈴は疑問を抱いた。




「いいや。さっき、巨大な骸骨の話をしている人がいたから。『また出た』って。大湊に、はじめて骸骨が出てきたのも、満月の日だったよなあって。そう思っただけ」




「そうか」




 その時、彼女たちの耳に、巫女が鬼を追い払っているという噂が届いてきた。町の人々は不穏な影に怯え、日常の中に潜む危険を感じ取っていた。




「ねえ。白鈴は、紙崎のことは、どのくらい知ってる?」シュリが尋ねた。




「何も知らない。何も覚えてない」白鈴は思い返しながら答えた。来たことがあるような気もしたが、うろ覚えとも言えなかった。




「ここは、屋水に近い場所ではあるんだけど、枯れ谷にいる白蛇を信仰している人が、多い町でもあります。白蛇のことは、白鈴、知ってる?」




「それぐらいは知っている」白鈴は頷いた。




「昔、その白蛇が、山深い大湊を通り過ぎて、屋水にいる屋水姫に会いに紙崎までやってきた。そこで、白蛇は口からヒスイを吐き出したという。それが今でも、この紙崎に残っているから、ここには白蛇を信仰している人がいるの。逸話だね」




「そういえば、そんな話があったな。滅多に場所を動かない蛇が。その時は動いて」




「白蛇を信仰している人って言っているけど、本当は屋水と分けるものではないんだよね。屋水を信仰している人って言い方しないでしょ?」




「そうだな。聞いたことないな」




 シュリは頷く。「どっちも、大湊、だからね」




 屋水の生まれだけあって、シュリはその辺に詳しいようだ。彼女は別の方向へ視線を向けた。「いま、『屋水姫』を探しているんだって」




「それは、白蛇がか?」白鈴は思い出し、先日ヒグルが語ったことを思い返した。若く健康な女を食べているという話だ。「ああ、聞いた。何年前からかは知らないが、毎年、若い女を集めては、その中から選んで食べているらしいな」




「疑いたくないけど、『探してる』って、それって本当なのかな?」シュリの声には不安が滲んでいた。




大地主おおとこぬし、白蛇が望んでいるかってことか?」




「詳しいことはなんにも知らないよ。直接、枯れ谷まで尋ねにいったわけでもないから。でも、白蛇の名を使って人を騙して、よくないことをしている人がいるって話も聞くからね。実際に、もう二人も選ばれてる。一人は駄目だった。二人目も、要求は変わらない。そうして今年も、誰かが選ばれる。おかしいって、疑いたくもなるよ」




 屋水姫を探している、か。白鈴は思う。一人では終わらなかったのだ。三人で終わらないと考えるのも自然である。相手は、枯れ谷に住まう大蛇だ。




「うん? あれって」シュリは徐に歩き出した。




「どうかしたのか」白鈴は彼女の様子に気づいた。




「信仰してる人。巫女とか神職ではなくて。うんと、信徒?」




 シュリが指差した先には、男が三人ほど立っていた。彼らは立ち話をしており、その中の一人は腕を組んでいる。




「なんだろ? 鬼の話をしてる?」シュリは興味を抱き、耳を澄ませた。




 その時、間違いなく一人の男が「鬼」と口にした。身振りは、泥棒にでもあったかのようで。




「あのう。どうかしたんですか? 鬼って言葉が聞こえて」シュリは思い切って声をかけた。男たちは一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに視線を交わし、話を続ける。




「おっと。聞こえちまったか。これはすまんな。怖がらせてしまったか」一人が気まずそうに言った。




「いいえ。えっと、それって、さっきも通りで話してる人がいたけど、巨大な骸骨の……」




「ああいや、ちがう。まあ、それもあるが。馬の鬼のことをな」




「馬の鬼? 『馬の鬼』って、それって……」




「待て。その前に」若い男は鋭い目つきをして、二人を見据えた。「お前たち、見ない顔だな」




「だからなんだ」白鈴は相手の反応から懸念を感じつつ答えた。




「西尾さん、いくらなんでも、警戒し過ぎじゃあないですか。会う人会う人、そんなに攻撃してどうするんです?」




「攻撃なんかしていない」




「してますよ。なあ?」




 彼は気まずそうにしていた男に向かって、西尾の性格を指摘するような口調で言った。なんでそんな言い方しかできないのかと。




「それは、うん。ちょっと、俺には、どうとも言い難いところだが……」




「二人も、怖かったよなあ。この子なんて、健気なもんだ」男はシュリを見つめ、少し笑みを浮かべた。




「まあ、まあ。それで?」




 シュリは状況を落ち着かせようとしている。ここで喧嘩が始まっても嬉しくはない。




「えっと、どこまで話したっけ?」口を濁していた彼は、首を傾げた。




「首のない馬について、話そうとしていた」西尾が答えた。




「そうだったな。それで、その馬の鬼が、この紙崎でよく見かけるようになって、それ以来、紙崎では鬼が増えて困ってる」




「『首のない馬を見るようになって』、それから『他の鬼もよく見るようになった』ってこと?」シュリが確認した。




「そうだ。骸骨のせいかもしれないが、おおかた、あの馬が原因ではないかと睨んでる。ここではない別の村でも、そんな話を聞くしな。首のない馬を見たって」




「最近だと、この辺りで、それもとても近い、夜中に凄まじい鬼の怒声が聞こえる」西尾が言った。先程とは打って変わって、いくぶん言葉が柔らかくなっている。




「ふろろろろお、って感じだ。あれは聞けば、大人でも魂消るぞ」




「怒声。もしかして、二本足で立つ馬の鬼かな?」シュリの目がどことなく輝いた。




 




「ツバメを殺せば、盲目になるとか、そういうのに近い感じなのかな?」シュリが疑問を口にした。




「いや。違うと思う」




 白鈴は彼らのもとを離れ、山道へと向かう。町にはこれといって用事もなく、どこにも寄らずに通り過ぎようとしていたところ、有用な情報を聞く機会があったことを思い返していた。




「そうかな。馬の鬼が、鬼を運んできたとも考えられない?」




「おい、お前たち」男の声が響き、白鈴は振り返った。誰かと思えば、そこに立っていたのは西尾だった。




「あれ? なんで。どうか、したの?」シュリは不思議そうな表情を浮かべた。




「さっきは、すまないな。あんな言い方をして」西尾が謝った。




「いいえ。そんな。気にしないでください。事実、私たち、はゆま村から来たので」




「はゆま村? はゆま村って、あの『はゆま村』か。お前たち、二人でか?」




「屋水に寄って。ね?」シュリが補足する。




「ああ」白鈴は簡潔にそう答えた。女二人と思うと、おかしな感じもしたが、それにこだわる必要はない。




「屋水から。なるほどな。そうか」




 西尾は細かい部分までは探ろうとはしなかった。ぼろきれのような過程で彼は満足する。




「あの、白蛇の信仰者、ですよね」シュリが尋ねた。「困ったことでもあったのですか? 鬼のことではなく」




 西尾は何も言わなかった。彼の目はシュリに向けられ、意図を知ろうとするように鋭く光っている。




「ああ、ごめんなさい。言えないなら、それでいいので。さっき、『警戒』とか、『会う人会う人』って言ってたから、気になっちゃった。それだけなので」シュリの言葉は柔らかかったが、彼女の心にはわずかな不安が漂っていた。




 白鈴は傍らで、この男の違和感に目を向けた。白蛇、信徒、鬼、馬の鬼。これらの言葉が彼女の頭の中で渦巻き、何か大きな秘密が隠されているのではないかという思いが募った。彼が何を隠しているのか、そしてその理由は何なのか。白鈴は彼の表情からその答えを読み取ろうとしたが、何も掴むことができなかった。




 西尾が言葉を絞り出すように告げた。「じつは、身近なところで、胡散臭いというか、妙に信用できない相手がいてな。原因はそれだ」




「だから、『警戒』。うん? それは、要するに……」シュリは興味津々で尋ねた。




「内部の話だ」西尾は低い声で続けた。




「それ、私たちに話して、平気?」シュリは身構えて聞く。周囲に人はいないが、その緊張感は高まるばかりだった。




 西尾は少し肩をすくめて言った。「問題ない。俺が、ひとりで疑っているだけだ。そいつが、どうにかなるわけでもない」




「聞いていいなら、いいんだけど」シュリはほっとした表情を浮かべた。




「ただ、時期が時期だからな。そいつは、つい最近、生贄として自ら立候補してきた」




「自ら……」シュリは呟いた。「えっと、信徒の振りをしているかもってことだよね。どういう目的かは、わからないけど。それで、他の人は、『その人』のことを誰も怪しんでいない?」




「他の誰かに話しても、『いい人』って答えが返ってくるから、そうなんだろ。そんなんで、本気で、枯れ谷の巫女のもとまで連れていくつもりなのか」西尾は不満げに言った。




 白鈴は少し考える。「どんな人間なんだ?」




「えっ?」




「話してみればいい。この二人でいいなら」




 西尾は、そこにいる女二人を眺めた。一人は年若く、初対面でも接しやすい雰囲気を持っている。もう一人は、子供にしては侍の女房のようでもあって、健気とはよくいったもの。




 西尾は一瞬思案し、言葉を選ぶようにしてから口を開いた。「そうだな。金髪で、髪が長く……」




「金髪か」白鈴が反応した。




「珍しいね」シュリも頷く。




「背が、高いな。その体つきも、ひどく痩せているわけでもなく、太っているわけでもない。見た目は普通に見える」




 白鈴は髪の色を聞いたとき、ヒグルの顔が思い浮かんだ。彼女は髪も長い(体つきだってよく知っている)。目黒と共に、一番月見櫓から城下町には戻れたのか。




 段々と、白鈴はその女が「ヒグル」のことではないかと思えてくる。特徴的な髪だ。




 西尾が続けた。「あと、そうだな、同じことを言うが、自分から立候補しにきた女だ」




「それは、本人が望んでいるのは、珍しいことなのか?」白鈴が疑問を投げかけた。




「いいや。だが、選抜されるために集まったほとんどの者は、何かしらの訳がある。心を決めている。実際、そういうものだろ」西尾の言葉には、経験からくる重みがあった。




『その女にはない。』詳しく話を聞けば、西尾はそう感じているようだった。その女は白蛇に食べられることに、特に理由はない。物事に悲しみを窺える表情はあるものの、他の者たちと比べて、あるはずのものが圧倒的に足りない。




 尽くす者。太陽のように明るく振る舞う女にも、どこかその陰には何かが潜んでいる。これまで出会った、気丈に振る舞い、他者を元気づけようとする女たちには、必ず何かしらの痛みや理由があった。




 しかし、彼は特に集まった女たちから、一人ひとり理由を尋ねたわけではない。彼の直感が、女の中にあるものを察知していたのだ。何かが欠けている、あるいは隠されていると感じる。彼女の笑顔の裏には、何もないように思える。




 白蛇信仰者の中でも、「白蛇の名を使って、悪い事をしている者がいる」という噂は、彼らの間でよく知られているようだった。蛇の呪いだ、何だと、様々な噂が飛び交う中、西尾は不安を抱えていた。金色の髪の女が、集まった女たちをどうにかしようとしているのではないかと心配している。




 正常な判断ができていればいい。ある日、突然、姿を消したりはしないか。








 西尾が帰り、白鈴とシュリは歩き出した。




 大湊への山道に向かっている。




「屋水姫を探しているのではなかったのか?」白鈴が立ち止まり、独り言のように言った。




「どういうこと?」シュリが不思議そうに尋ねる。




「あの男の話では、もう少し大人がいるように聞こえた。十二とかではない。十二、そのくらいの女を集めて、枯れ谷で白蛇に食わせているのかと思っていた」




「年齢は決めているわけではないみたいだよ」シュリが説明する。「これまでの二人だって、最初は確かに十二歳になろうとしていた女の子だったけど、二人目はもう少し歳が離れていたと思うから」




「そうか」白鈴は考える。疑念が渦巻いていた。「では、ヒグル、なのか?」




「ヒグル? それ名前? だれ?」




「なんでもない。気にするな。急ごう、日が暮れる」白鈴は急ぎ足で歩き出そうとした。




「教えなさい。ダメ、白鈴」シュリは身体を前に出して行く手を阻んだ。




 白鈴はその姿を見つめ、言わずには通れないと感じた。シュリの瞳には強い意志が宿り、彼女の決意が伝わってくる。どうにもならないと悟り、白鈴は深く息を吐いた。




「城下町の東にヒグルという名の女が住んでいる。占いが得意で、髪の色は金色だ」




「その人は、友達? それとも……」シュリがさらに尋ねる。




 白鈴は少し黙り込む。なんと答えるのが正しいのか、迷ってしまった。ヒグルは手を差し伸べてくれた人。




 そこに横たわるものが鬼であると知っていても、彼女は親切に接してくれた。大湊城から逃げ出したばかりで、思うようには体が動かなかった。風呂はどうだと言われ、服を与えられ、食事を用意してもらい、戦うための刀を借りた。彼女は鬼ではなく、人として接してくれた。




「うん。確かめよう」とシュリが言った。




「きっと人違いだ。ヒグルが、ここにいるというのがよくわからない。ヒグルは、まず、白蛇の生贄の話をよく思っていなかった」




「とにかく調べてみよ。確かめよ。別人なら別人で、それでいいわけだし」シュリは前向きな気持ちを持ち続け、白鈴に向かって微笑んだ。




 




 シュリの意見に、白鈴の思いは揺れた。これから急いだところで、夜を迎えるのは決まっている。それなら、少しとどまり、気がかりを取り除いてもいいのではないだろうか。




 占い所アルカナへと帰って、そこに彼女の姿がなかったとしたら。後悔するのは、誰?




 彼女はシュリと来た道を戻り、紙崎に着くと、道行く人に尋ねてみた。白蛇の信徒がいるという『六円館』の場所を教えてもらう。蛇神信仰。彼らと会うのが何よりも近道だ。そしてそこには、集まったという「女たち」がいるかもしれない。




 六円館は紙崎よりもひっそりとした場所に位置し、山側に建物があった。そこは、紙崎の住人であろうと、信徒でなければ、易々と誰でも入れるような作りではない。




 入口の前には、男が二人ほど立っている。




 強引に入るつもりはない。裏道も探さなかった。交渉のため、シュリは「どうもお」と慎重な物腰で声をかける。




「あっ。通りであった。かわいい子たち」男の一人が笑みを浮かべて言った。




「そう。かわいい子たちです」シュリも相手の反応に合わせ、軽やかに応じた。彼女の声には少しの心の重荷を和らげるような柔らかさがあった。




 彼女たちはまだ名前を教えていない。信徒たちとの関係を築くためには、まずは信頼を得る必要があると感じていた。




「お前たち。なんだ、なんのようだ?」そこには西尾もいた。彼の声は冷たく、警戒心を隠そうとはしなかった。




「あのね。お願いが、あって。ここ、中に、入れてもらえない?」シュリが必死に訴えた。




「何を言ってんだ。駄目に決まってるだろ」西尾はきっぱりと拒否した。




「そこ、どうしても?」シュリは食い下がる。




「この子もか?」隣の男が白鈴を見つめ、問いかけた。




「うん。ふたりで」シュリは白鈴を指し示し、彼女の意志を伝えようとした。




「何を考えている?」西尾の目は鋭く、明らかに疑っていた。彼はそんな人だった。信頼を簡単には寄せない男だ。




 シュリは明るい声で言った。「白蛇に興味がわいて。とっても大きいんだよね。建物の中に、その白蛇の『牙』とか、置いてあるんでしょ? 一度でいいから、見てみたいなあって思って」




「冗談か?」西尾は眉をひそめ、疑いの目を向ける。




「ダメかな。やっぱり。入れて、もらえない?」シュリは少し不安げに尋ねた。




「いいんじゃないか。興味を持ってもらえるのは素直に嬉しい」隣の男が少し考えた後、彼女の言葉に応じた。




「お前な。今がどんな時かわかってるのか?」西尾は厳しい口調でそう言うと、考える素振りを見せる。「……おかしなことはするなよ。入ったら、すぐに誰かいるから、そいつに説明して案内を頼め」




「ありがとう」シュリは笑顔を浮かべ、白鈴に向かって言った。「ほおらっ、白鈴も。お礼、ちゃんと言わないと」




「……ありがとう」白鈴は小さく答え、少し照れくさそうに目を逸らした。




「いや、俺が案内しよう」




 男の言葉に、西尾が反発する。「ふざけてんのか? お前は俺と一緒にいろ」








 誰でも立ち入れるような場所ではないからこそ、白鈴とシュリは無理に潜り込む選択を取らなくてよかったのだろう。入口にいた「西尾」という男が許可を口にすれば、もしも不審に思われても、いきなり追い出される心配はないはずだ。




 西尾に言われた通りに敷地へと入ると、六円館に近づくにつれ、信徒であろう人物に声を掛けられた。再度、丁寧に事情を説明すると、大きな問題はないらしく、許可が下りた。




 建物内部で待っていると、やがて現れたのは女性だった。彼女は蛇の牙を含むさまざまなものを案内してくれるという。




 それは声が死んでいるとでもいうべきか、そして口数の少ない女である。唐突に発した言葉といえば、「可愛いらしい。歳はいくつ?」「勝手な行動はおやめくださいね」といったもの。




「なんだか、妙な場所だな」白鈴は呟きながら、六円館の通路をゆっくりと歩いた。




「うん?」シュリが振り返り、彼女の言葉に反応した。




「厳重にする理由は知っている。だが、外にいる者は皆、刀を持ち、中にいる者についていえば、まったく人がいない。なぜ、刀を持っている?」




「我々は、鬼を警戒しています」女の声は低く、真剣だった。




「なるほどな。鬼を恐れているのか」




 鬼がここまで来るようだ。たとえば善人を装う人間を用心しているわけではない。




 通路の壁には、薄暗い照明が灯り、影が揺れている。白鈴は遠くのほうでふと現れた女に目をやった。彼女は女性を二人ほど連れ、静かに歩いている。




「あれは」シュリが目を細めて言った。




「あの方は、ヒグル様ですね」女は答えた。




「ヒグル」シュリは彼女の姿が消えた後も、その背中を最後まで見つめ続けていた。美しい佇まいが、心に残る。




「どうかしました?」女が尋ねると、シュリは少し驚いたように振り返った。




「綺麗な髪のひとですね」彼女の声には感嘆の色が浮かんでいた。まるで、その髪が持つ光のように、彼女の心を照らしているかのようだった。




 ここで追うのは賢明ではなかった。シュリも感情を表に出さずに受け入れていた。




 西尾が怪しんでいた女。それは根拠のない想像に過ぎなかったと思われたが、実際には白鈴の直感が正しかったようだ。髪型や服装は異なっていても、立ち去ったその女は、まさしく占い所アルカナの主人、魔法使いのヒグルだった。




 それからしばらく、案内は続いた。




「少しお時間を頂くことになります。ここでお待ちいただければ」女の声が響く。




 二人きりとなる時間が訪れ、白鈴とシュリは互いに状況を整理し始めた。




「いたね。人違いではなかったみたい」シュリが言った。




「ああ」と白鈴は頷く。




「だとすると、理由はなんだろう? 助け? 助けようとしているのかな?」シュリの疑問が、空気を震わせた。




「おそらくそれはない。おそらくだが」




「それなら……」シュリは一瞬間を置いてから言った。「会いにいくのが、いいのかも。そのほうが早い」




 人のいないこの機会は絶好だといえる。シュリは直ちにこの場を離れようとした。




 白鈴は「慎重に」と伝えようと口を開きかけた。その瞬間、「あっ」とシュリは声を漏らした。




 二人のもとに人影が近づいてきた。しかし、その人物は案内をしてくれた女性ではなかった。「少々待っていろ」と言われたにもかかわらず、そこに立っていたのは彼女ではなかった。




 目の前に現れたのはヒグルだった。彼女は一見、誰も引き連れておらず、一人で行動しているように見えた。静かな威圧感を漂わせながら、周囲を見渡すその姿は、まるで何かを探しているかのようだった。




「あれ?」




 ヒグルもまた驚いた表情を浮かべていた。あの夜から、どれほどの時間が経過したのだろうか。




「白鈴。なんで?」彼女の声には驚きが滲んでいた。




「平気そうだな、ヒグル」白鈴は微笑みながら、彼女の服装や髪型、雰囲気が少し違うことに気づく。それだけだった。




「白鈴こそ。よかった。無事で」ヒグルの表情には安堵の色が見えた。




「いったい。なぜ、ここにいる?」白鈴は疑問を投げかける。




「さすがに、場所を変えよう」ヒグルは穏やかな口調で言い、通路を進みながら、部屋へと移動した。




 その歩みは、まるで何事もなかったかのように落ち着いていた。白鈴はその後ろをついていく中で、心の中に湧き上がる疑問と不安を抱えたまま、彼女の後を追った。




「ここなら大丈夫」ヒグルはそう言った。その声にはこの部屋が安全であることを知っている確信があった。「それで、ええっと、この方は?」




「はじめまして。ヒグル。私はシュリ」シュリは微笑んで挨拶した。




「はじめまして」ヒグルの表情は柔らかかった。




 白鈴が尋ねる。「はゆま村で助けてもらった。で、ここには?」




「白鈴と別れた後、城下には戻れた。だけど、それから町で、見慣れない人をよく見るようになって。調べたら、蛇神信仰の人だった」




 白鈴は頭を働かせる。「刀を持っていたのか?」




「えっ? うん」ヒグルは頷く。




「この外にいる何人か侍が交じっているように見えた。大湊か」




「大湊……。そうなんだと思う。なぜか、私たちのことを調べていたから」




「だから、ヒグルは、こんなところまで来たのか?」




 ううん、と彼女は首を振る。「まあ、そうではあるのか。どうやら、ここに『枯れ谷の巫女』が来ているらしくて。そこをね、知りたかった」




「巫女が来てるの?」シュリが声を大きくして問う。「紙崎に?」




「そうみたい」ヒグルは頷いた。




「枯れ谷の巫女がいるのは、おかしいのか?」白鈴が疑問を投げかける。




「巫女がいる理由は、よくわからないかも。集まった子たちの為かな? ううん。あっちは、ここと同じように人が集まってると思うし。穢れを祓う清めも、枯れ谷のはずだから」




「屋水に呼ばれたわけでもなさそう。だから、そういうことで、私がここにいるというわけ。でもこの感じだと、もしかしたら大湊と繋がりがあるのかもね」




「目黒は?」白鈴は尋ねた。「一緒ではないのか?」




「目黒は、巫女に関心はないみたい」




 ヒグルは枯れ谷の巫女の動向を探るために潜入していた。信徒の振りをしているのは正しかった。本人がどれだけ気を配っても、日常の振る舞いから生じる些細なことが周囲に疑問を抱かせるのは無理もない。長居は無用と言えるだろう。




「ヒグル、六円館を出よう、疑われてる」白鈴は急かすように言った。




「知ってる。みんないい人で、探りながら騙してたけど。もう色々限界」ヒグルは疲れた表情で答えた。「これから動こうと思ってる」




「動く? どうするつもりだ」十分な結果は得ていないようだ。




「山の洞窟に祠があって、そこに巫女がいるらしいの。今日、私を合わせて四人とも会うはずだったのに、どうしてか会えなかった」




 シュリが尋ねる。「これから会いに行こう、ってこと?」




「うん。知りたいことがある」




「あまり、期待しないほうがいいと思うぞ。口は軽くない」白鈴は懸念を表明した。対面したとしても、なんでも喋ってくれるような相手ではないだろう。丁寧に話しかけたところで、目黒たちのことを調べていたというのなら(大湊との関係が決まったわけではないが)、なおさらそう思えてくる。




「お願い。白鈴。気になるの」ヒグルの目は深い湖のように静かで、それでも底に秘めた思いが波紋を広げているかのようだった。




「行こうよ、白鈴。私に白鈴、三人もいれば平気だって」シュリの声には少しの勇気がこもっていた。




 




 どうして、私の居場所がわかったの? ヒグルに事情を説明した。信徒の一人が「変だ」「おかしい」と疑っていて、その女とはどんな人物なのかと尋ねたら、特徴がヒグルだった。金色の髪の毛。




 可能であれば、髪色も変えたほうがよかったのではないか。白鈴はふと考えた。信徒に成り済ますにしても、その金色の髪はよく目立つだろう。周囲の人々の中で、彼女の特徴は明らかだ。正体を暴かれてもおかしくはない。




 しかしこのときまで、ヒグルは魔法使いであることも明かされていなかった。白蛇の信徒の多くは、彼女のことを我が身を捧げようとしている献身的な人物として、崇敬のまなざしで見つめていた。




 ヒグルはそれらしき理由を話す。人を避けるような生活だったらしい。そこには苦悩が見てとれた。




 全員で四人いる。他の三人とは、まだ会ったことはない。四人が皆、同じような境遇を抱えている。




 それから白鈴は、ヒグルの言う山の洞窟へと向かった。洞窟の奥には祠があり、そこに枯れ谷の巫女がいる。巫女がいるだけで、白蛇の信徒はいないらしい。




 枯れ谷の巫女から、「自分が出てくるまで、誰も近付けるな」という指示があった。




「お待ちしておりました。どうぞ、中へ」そのはずが、鳥居の前には一人の女が立っていた。正確には、彼女がその言葉通り待っていたようで、物陰からぬっと現れた。




「案内の……」シュリが言いかける。その女は、白蛇の牙を見せてくれようとした人物だった。




 女は静かに問いかけた。「この先に枯れ谷の巫女がいます。彼女と、お会いになりたいのですよね?」




「ああ」白鈴が短く答える。




「それでは、急ぎなさい。人の来ない。静かなうちに」女は鳥居を進めと、手のひらで示した。




 白鈴とシュリ、さらにヒグルの三人は互いに顔を見合わせ、躊躇いながらも近づく。鳥居をくぐると、ひんやりとした空気が彼女たちを包み込んだ。




「お前は?」白鈴が女に尋ねる。




「過度な警戒は無用。さあ。急いで」




 そこでその女とは別れた。環境を用意してくれる。そのように見てとれる。敵意は感じなかった。




 それならばと白鈴は洞窟があるという場所へと足を向けた。味方とはとうてい思えなかったが、私たちがどんな訳があってそこにいるのかを理解している。邪魔をするつもりはないというのであれば、恩着せがましくも見える行動はとりあえず目を瞑る。




 枯れ谷の巫女は、祠があるという洞窟の前に立っていた。彼女が何をしているのかは具体的にはわからなかったが、片手には薙刀を持ち、暗い穴の奥をじっと眺めている姿は異様な雰囲気を醸し出していた。




「あれが……」ヒグルが呟いた。距離が離れていても、その存在感は圧倒的だった。背の高い女で、彼女と背格好が似ている。




「ようやく来ましたか。来ないものかと心配しておりました」巫女は微笑みを浮かべて言った。




「枯れ谷の巫女」ヒグルが続けて呟く。




「はい。ハユキといいます」




 その言葉には、事前に来ることが分かっていたかのような余裕が感じられた。ハユキは目を細めて、白鈴とヒグルを見つめた。




「おもしろいものが見られると聞いていたのですが、確かにそのようです。おもしろい組み合わせですね」




 白鈴は一歩近づき、決意を固めた。「枯れ谷の巫女、聞きたいことがある」




「おや、なんでしょう?」ハユキは微笑みながら、興味深げに問いかけた。




 ヒグルは率直に質問した。「白蛇の信徒に、何を調べさせていたの?」




「それは、あなたがよくおわかりなのでは?」ハユキの返答は、どこか含みを持っていた。




「それなら、あなたがここにいる理由は?」




「そこですか。それは教えるわけにはいきません」




「どうしても?」




「では、『私に勝てたら』、というのはいかがですか?」




「勝てたらって、これから戦うの?」シュリが言った。




「始めから、その気だったな」白鈴は刀を取り出した。事なきを得るとは思えなかった。




「始めましょう」ハユキはその言葉を待っていたかのように、薙刀を構えた。




 枯れ谷の巫女ハユキは薙刀を両手でしっかりと持つと、早速戦闘を開始した。白鈴が前に出る。しばしの時間をくれという要求は、たとえひと時であろうとも通る気配はなかった。




 ハユキは明らかに争いを望んでいた。彼女の力には揺るぎない自信が宿り、その姿勢からは戦士としての威厳が漂っていた。相手が三人だとしても、微笑みを浮かべながら勝負を挑む意志は、まさに武勇を感じさせるものだった。




 白鈴は彼女の眼差しに緊張を覚えた。小手先でどうにかなるような相手ではないと直感した。ハユキはただ美しいだけではなく、その強さは明らかだった。




 ヒグルが間隙を縫って魔法で攻撃しようとしても、その攻撃はあっさりと薙刀で粉砕されてしまう。ハユキは巧妙にはね返す。彼女には、そのぐらいの技量があった。




「うそっ」ヒグルが驚愕の声を上げた。シュリは扇子を使って防ぎに入った。




「ヒグル、大丈夫?」シュリは心配そうに問いかける。




「うん。平気。ありがとう」




「さあ。三人でかかってきなさい」ハユキは今の段階では物足りないらしく挑発的に言った。




 白鈴は長く戦うつもりはなかった。よって彼女は策を練る。




 ともかく、どのような方法であれ、巫女に「負け」を認めさせればいい。




「一つ聞く。お前に勝てたら、という話だったよな?」白鈴は冷静に問いかけた。




「はい、それは」ハユキの動きが一時的に止まった。二人の間に距離が生まれた。




「そうか。わかった」白鈴は自信を深めた。




「勝てない場合は。こういうのはどうです? 代わりに、白蛇に会ってみません? 非常に喜ばれると思いますよ」




「断る」白鈴は毅然とした声でそう言い、構えた。生きたまま食われてみないかという提案は、彼女の心に強い拒否感を抱かせた。この体が生きているとはいえない状況で、それで死ぬかどうかもわからない。まるで運命に翻弄されるかのような、恐怖が心を締め付ける。




 一口で飲み込まれるのか、じっくりと啜られるのか。蛇の腹の中で大人しくじっとしているなんて、耐えられる気がしなかった。白鈴はそんな運命を受け入れることができなかった。




「繊細なものだ。捉えてみろ」




 白鈴はかげかげをその場で振った。極めて滑らかである。猿猿猴。




 ハユキは直感が働いたようで、瞬時に薙刀を振り回した。その動きは鋭く、まるで空気を切り裂くかのようだった。しかし、果たして彼女が見えていたのかは怪しい結果に終わった。薙刀の穂が近くの樹木に突き刺さり、木の幹が悲鳴を上げる。




「うっ、未熟だったか」ハユキは一瞬自分の失敗を悔いたが、すぐにその表情は軽やかさを取り戻した。「まさか、これはなんと。やりますね」




 彼女は軽い柄の先を見つめながら、(してやられた、と)心の中で呟く。周囲を見渡し、まだ離れている敵に目をやった。その瞳には、次なる行動を考える鋭い洞察が宿っていた。




「続けるか?」白鈴は断固とした声で問いかけた。ハユキの挑発に応じる形で、まだ戦う準備ができていることを示そうとしていた。




「いいえ、降参します」ハユキは静かに言った。その声には、意外な冷静さが漂っていた。「あとは私を、お好きにしてください。約束は果たします」




「じゃあ」とヒグルは言う。声には疑問の色が濃く、彼女の真意を探るような鋭さがあった。「あなたがここにいる理由は、それは何?」




「今夜。はい、今夜です」ハユキは真剣な表情で言った。「屋水にあの『がしゃどくろ』が向かいます」




 その言葉が響くと、周囲の空気が一瞬凍りついた。ヒグルは信じられないようだった。




「今夜? 屋水に? どういうこと?」




「そのままの意味です。見上げるほどの巨大な骸骨が屋水を襲います」




「大湊か」と白鈴は呟いた。「だが、やつらの狙いは?」




 三年前、屋水は賊に襲われたことになっている。その事件は村に深い傷を残し、人々の心に恐怖の影を落とした。しかし、今宵、再び鬼を使って襲う理由とは一体何なのか。




 白鈴はその疑問を胸に抱き、思考を巡らせた。あの時の賊の背後には、何か大きな陰謀があったのではないかと感じていた。姉を殺すことが目的ではなく、もっと根深い理由が隠されているのではないか。




「それを聞いて、どうするつもりです?」




「お願い、教えて。屋水には今でも人が暮らしてるの」ヒグルの声には切実な響きがある。無辜の人々を守りたいという強い思いで満ちていた。




 ハユキは微妙な間を置いた後、言葉を絞り出した。「『屋水の巫女』、だそうです」




「巫女を? 大湊がどうして?」ヒグルは驚きの表情を浮かべた。




「そこまでは知りません」ハユキは首を振り、思案する。「しかし、不吉であることは確かです」




「次は、『屋水』ってこと?」




「そんな……。お姉ちゃん」




「行こう。時間がない。急がなきゃ」

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