第5章「東姫 屋水姫」
・5
はゆま村、シュリの家で、破れた服から新しい衣服に着替えた白鈴は、これからのことを思索していた。大湊の城下町へ向かうには、どのように進めばよいのか。道筋は明確ではなく、方角こそ分かるものの、具体的な道を知らない自分に彼女はどこか不安があった。
シュリも知ってか、それについて尋ねる。「白鈴、城下までの道、わかる?」
「大湊は山の上にある。目印となる山を見つければ、あとはそれを目指せばいい」
「山、いっぱいあるよ。迷わないようにしないと。川をたどるとか」
「わかってる」
迷いはするだろう。なにはともあれ、服は動きやすいものを選んだ。シュリの家には、大きさの異なる衣服がたくさん揃っていた。しかし、それにしても、ここまで体に不都合が無いのは運がいい。
「白鈴」と、シュリは微妙な間を置いて言った。
「なんだ。まだ何かあるのか?」
「やっぱり、出発は明日にしない?」シュリは心配そうに続けた。「今からだと、どうしても真っ暗になる。夜の鬼も、出るから」
「私は、夜でも平気だ」
「心配、なんだよね」シュリは声を少し震わせて言った。「わたしが、今晩、眠れなくなりそう」
シュリは深いため息を吐いていた。白鈴はその仕草を見て、一瞬の躊躇を感じる。
安全な城下町でもない。大湊の国という環境の中で、人気のない夜道を歩く者はほとんどいない。シュリの不安が募るのも無理はなかった。暗闇の中で何が待ち受けているか、想像するだけで心がざわつく。「気にする必要はない」と自分に言い聞かせても、彼女もまた、夜の闇に潜む危険を無視することはできなかった。だが、強さを見せることが必要だと思い、胸の奥で決意を固めていた。
服を着替えているときにも、同じ会話をした。シュリは言った。『出発は、明日にしないか』。今から村を出ると、夜になる。それは必ず。
白鈴は決めた。「わかった。出発は明日にする」
「いいの? 急いで」
「急いでいるわけではないからな」白鈴は静かに答えた。
「よかった。それなら。ご飯用意する。お風呂も用意する。寝るとこだって」
「そうだな。頼めるとありがたい」白鈴は心の中でほっとした。あの姿で外で寝るのは避けたいと思っていた。
「うん、任せて。泊まるとなれば。そうだ。少しだけ、これからはゆま村を歩かない?」
「何かあるのか? 食材の調達か?」白鈴は疑問を浮かべた。
「森にいた、蜂のこと。鬼のこと教えておかないと。もう家に戻ってると思うから」
白鈴はシュリの家を出て、再び家屋が集まる場所へと足を運んだ。今はその家を現時点での目標として、ゆっくりと歩を進める。はゆま村を離れるまでにはかなりの時間があり、その間に特に予定はなかった。
シュリが共に歩きながら、ふと呟いた。「ご飯、どうしようかな」彼女の声には少し迷いが見えた。食べたいものはあるのだろうか。お腹は空いていないのだろうかと、白鈴は考えた。
白鈴はシュリに問いかけた。「鬼の話になる。そこにいけば、色々と話が聞けたりするのか?」
「鬼の話は、まあ、そうかな。聞けると思うよ」シュリは少し考え込んでから答えた。
「終わるまで、外で待っていようかと思ったが。私も、行こうかな。今後の参考になる」
「私の知ってることなら、私が教えようか? 明日まで、時間はたくさんあるわけだし」
「それも、そうか」白鈴は頷き、少し安心した。
「ご飯を食べてから。それで、どうかな?」
「そうしてくれると助かる」
「といっても、白鈴が期待するほど、はゆま村に鬼が溢れているわけではないから。白鈴に話せるものはたいしたことないんだけど。あっても、馬の鬼とか?」
「それは、前に聞いたな」白鈴は少し興味を示した。
「そういえば、大湊で、大きな馬の姿をした鬼を見たって人がいたな」
「大湊に? 大きな馬の鬼?」
「白鈴、そこから来たんだよね? そうなの?」
「いや、私はそんな話、聞いたことがない」白鈴は首を振った。
「夜になると、怪物の声が聞こえるとか。とにかく見上げるほど大きくて、馬なんだけど、二本の脚で立ってるとか。馬なのに」シュリの言葉にはどこか神秘的な響きがあった。
骸骨や猿だけではない。ああいう存在が、他にもいるというのだろうか。こうなると、強引に城下町へ向かわないほうがよかったのかもしれない。白鈴は思う。
「あ、帰って来てる」シュリはそう言いながら、目標としていた家の前まで近づき、ふっと立ち止まった。ついてくるか、ついてこないか。
白鈴は後者を選ぶ。
「ここで待ってて。すぐに戻ってくるから」
どこかへと行く。そんな言い様である。彼女にそのつもりはないというのに。
シュリがその場を離れると、しばらくの間、はゆま村の住人たちは時折物珍しそうに白鈴を見ていた。「村の人間ではない」と、彼らは感じ取っているのだろう。シュリと一緒にいたことは知っているはずだが、彼女はやはり外者として映っていた。
年齢が近いとでも思ったのか、村の子供たちの反応は素直で、好奇心に満ちていた。彼女は「村の子ではない女の子、シュリの友達」として、少し特別な存在になっているようだった。
待っているのが退屈であったせいか、白鈴は周囲の声に耳を傾けることにした。村の住人たち、男と女の会話が聞こえてくる。話題は大湊のこと、特に火門真道についてだった。そして、その妻についても触れられていた。
白鈴はその内容に興味を抱き、思わず立ち聞きをしてしまった。何か重要な情報が得られるのではないかという期待が膨らんでいった。
「そういや。ねえ、聞いた」一人の村人が小声で話しかけた。
「あ? なにをだ」もう一人が興味を示す。
「火門様と東姫のこと。大きな声では言えないんだけど。あんまり、うまくいっていないって」
「婚姻したばかりだよな。そうなのか?」相手は驚いた様子で尋ねた。
「うん、聞いた話によると。その、お二人の、『夜のこと』。夜伽に東姫が火門様に短刀を向けたって」
「東姫が、短刀を? 本当か?」
「らしい。ね、これ、どう思う? お二人は、うまくいっていないのでしょうか」
「ううん。どうせ、作り話だろ」彼は首を振った。
「どうしてそう思うの?」
「笑えない話だからだよ。外に流れていいものではない。俺たちは、東姫の顔も知らないんだぞ」
「それは確かに。お顔、見たことない。とてもきれいな人だとは聞いてはいるけど」
「いつだったか、素敵なお相手が見つかったと喜んでいたのに、噂もほどほどにな」彼はため息をついた。
白鈴はそこで二人から距離を取り、心の中で混乱が広がるのを感じた。どこでもいい、動かずにはいられなかった。
大湊はいつの間にか結婚をしていた。三年もあれば、新しい相手もできる。その相手の名は「東姫」という。きっと、その当時、国にとっては喜ばしい知らせだったに違いない。
だとすると、「覚えてない」のも無理もない。多くの人々が、明日を生きるために日々を過ごしている。
白鈴は一人の人物を見つける。見覚えのある顔だった。男の子で、あれは確か、はゆま村に訪れたばかりの頃に出会った子供だ。村の中を歩き回り、シュリの家に向かう途中で彼と出会ったのだ。歳はわからないが、白鈴より背が低く、艶のある黒髪が印象的だった。
彼は若い女と話をしていた。その女は、村人のようには見えなかった。どこか異質な雰囲気を纏っている。白鈴は二人の様子を見ていると、彼が女から離れていくのを目にした。思わず声をかけてみようと考える。
「どうかしたのか?」ただごとではないように見えた。
「あっ、さっきの。シュリは?」
「ここにはいない」
「あのさ、千年桜から、来たんだよな。それなら、あの人がこれから、千年桜を見に行きたいとか言ってて。やめるよう、説得してくれないか」
白鈴は女を一瞥した。「ひとりか。わかった」
「おっ、そうか。じゃあ頼んだぞ、白鈴。今度さ、みんなで一緒に遊ぼうな」彼の目には期待が宿っている。
「お前も参加しろ」彼はそう言い残し、駆け足で村の中へと消えていった。大切な用事があるようだ。
「明日には村を出る」と白鈴はそれも言えなかった。村の子供と遊ぶ――。想像して、首を振る。
説得へと試みる。
「桜の木を見に行きたいと聞いた」
女は振り返り、彼女をじっと見つめながら間を置いた。「環だ。お前は?」
「白鈴だ。それで、そうなのか?」
「ああ。だが、さっき子供にきつく止められてしまってな。どうしたものかと迷っておる」
「私からも言おう。今はやめたほうがいい」
「そうか」
「護衛は、いないのか? 一人に見える」
「屋水から馬で来た。護衛はいない。置いてきた」
「置いてきた?」
「しかし、聞いていたとおりと言った感じか。報告だけでもしておきたかったのだが。残念ではあるが、それならしかたない」
「帰るのか?」
「屋水に戻ろうと思う。迷いは晴れた。白鈴のおかげだ。感謝するぞ」
そうして環という女は、述べた通りに馬に乗り、はゆま村を去った。
それから翌日、白鈴はシュリの家で早朝に目を覚ました。周囲が薄明るくなり始める中、彼女はゆっくりと体を動かし、部屋の中を見回した。昨晩も、水の体でないと眠れなかった。特に不便だとは思わなかったが、これが当然だとは思いたくなかった。
心の中で何かが引っかかる。彼女はこの状況に慣れつつある自分を認めたくなかった。普通の生活を送りたいという願望が、どこか奥深くに潜んでいるのを感じていた。
昨夜、就寝する前のこと、白鈴は部屋を出た。そこでシュリを見かけた。彼女はまだ眠るつもりはないのか、空を眺めている。手元には明かりを持っておらず、静かな夜に包まれていた。もちろん、生き物の気配は感じられたが、家の近くや周囲に忍びの存在を感じることはなかった。
「何をしている?」と問えば、「明日のために力を貰ってる」と彼女は答える。
「星にか?」
「なんてね。おやすみ」
夜だからというのもあるのだろう。シュリはお淑やかな話し方をしていた。まるでほんのりとした月の光を浴びているようで、明日の健康、鬼、または道中の無事を願っていた。
それぞれが部屋へと戻る。
白鈴はあの時のシュリの表情を思い出しながら、自分の体に目をやった。「水の体」で「人の姿」を取ってみたが、相変わらず人の肌とは思えない質感だった。この体は、どうにかならないのか。どうにもならないのか、と彼女は問い続けた。
その時、彼女はふと発見する。胸にあったであろう刀傷が、一晩で無くなっていることに気づいた。入浴時には確かに見たはずだ。まさか、月見櫓であの男につけられた傷が、ここまできれいに消えてしまったのか。
朝食の時間、白鈴はシュリに教えた。それは言うべきだという判断からである。
「シュリ。今朝に、気付いたことがある。あの水。巫女が飲むとも言われる『屋水の水』、効果があったぞ」
「効果? えっ? 効果があったって?」
「体にあったあの傷が、朝にはすっかりなくなっていた。斬られたのが夢みたいだ」
「あの傷が? ほんと? お願い、見せて」
「今か? 今なのか? あとでは、ダメか?」白鈴は戸惑いながら言った。
いくらなんでも、食事という場で素肌をさらけ出すのは気が引けた。出された料理をまだ食べ終わっていないのに、そんなことははしたないにもほどがある。
「ああそっか。そうだよね。あとで。行儀が悪いよね」
シュリは気付いて、十分に理解したように見えた。しかし、そんなことはない。
「ううん。いやっ、いま見せて」
「なぜだ?」我慢、できないのか。納得しかけていただろう。
「今、見たいの。箸を置いて、そこで、すこしだけなら、どう? それでもいけない?」
「あとで、好きなだけ見ればいいだろ。今は食事だ」
「……はい」
申し出をきっぱりと断ると、シュリはそれ以上しつこく言うことはなかった。
「ほんとだ。消えてる。痕がない。よかった。よかったね。痛みは?」
白鈴は頷いた。痛みもなかった。つるつる、すべすべ、熱も感じない。戦いの記憶は残っているが、それだけだった。
『屋水の水』「体が水だから」と結論するには早計だ。
大湊へと出発の支度を終え、白鈴はシュリの家を出た。はゆま村には、朝の光景が広がっている。シュリとは家の前で別れるのではなく、村を出るまで一緒に歩くことになった。
白鈴は、昨日のうちにこの先の行動をある程度決めていた。はゆま村を去った後(感謝の気持ちを伝えて)、そこから大湊を目指すとすると、城下町より手前に位置する「人の暮らす場所」といえば、それは屋水である。そして、屋水に到着して、さらに城下を目指す場合、そこにもう一つ町がある。
とりあえず、屋水に向かって進むのが正解ではないかと彼女は考えていた。
馬でもあればと思っていると、その足を止める。
「まさか、シュリ。ついてくるつもり、なのか? 村の外まで」
「うん? どうして、そう思うの?」
「そんな、気がする」お別れが近いにしては、楽しそうだとでも言うべきか。
「そっか。そんな気が。わかった。それなら、しかたないし、私もついて行く」
「なにが仕方ない。ダメだ」
「これから屋水に、行くんでしょ?」
「ああ。そのつもりだ」
「それなのに、いいの?」
「なにがだ?」
「いいんだ。それでいいんだ。私、隠れながら、ずっと白鈴の後ろを追いかけるかもしれないのに。いいんだ」
「一緒に、行こう」
「じゃ、屋水までね」
状況はさらに酷くなっていた。初めは、家の前で別れをするつもりだったはずだ。それがいつの間にか『村の外』となり、口を開けば『村より少し離れた場所』かと思えば、最終的には『屋水』まで行くことになってしまった。
白鈴は、シュリがどういった考えで行動しているのか、時々わからなくなる。彼女は森も山も、そこに潜む危険を理解しているはずだ。魔法が使えるというのは確かに強みだが、それは慢心するほどの力ではない。彼女はそれほどまでの力は持っていない。
実際、シュリは魔法を使えることによって戦えるという自信を持っている。しかし、その自信は根拠のない思い込みではなく、彼女自身の経験に基づいているはずだ。
「これで、ふたり、寂しくないね」
「寂しいとは思わない」
「それは、ウソ。顔に書いてる」
ついでに、姉と会おうとでも考えているのか。
はゆま村を離れてから、しばらく坦々たる森の中を歩いた。道を見失うことはなく、時折会話を交わしながら、とにかく前へ進んでいく。およそ中間辺りだろう位置で、必要な休憩を取ることにした。
思いのほか鬼が見当たらず、白鈴は少し安心した。風が吹くと、不思議なことに鳥の鳴き声が響き渡り、大きな鹿が木の下で静かに佇んでいる。その合間には、タヌキが草むらをかきわけていく姿も見られた。
「鬼、いないね」シュリが言った。「なんだか、安全な道」
「どうかな。いないってわけでは、ないかもな」
「でも、見当たらないよ。もう半分まで来たのに。私たちぜんぜん襲われてない」
「姿は見えないが……」
「この辺でもいる。そう聞いてたのに。どうしてだろ?」
白鈴は刀を取り出し、周囲を警戒した。静けさの中に潜む緊張感を感じ、心が高鳴る。すると、その瞬間、まるで呼ばれたかのように異変が起こった。
「シュリ。来るぞ。大きい」
「鬼? やっぱり、いるんだ」
二人は身構え、迫り来る影に備えた。森の奥から、野生動物の悲鳴が聞こえてくる。その数は一本か、二本。樹木が倒れたのだろう、驚いて複数の鳥が一斉に飛び立っていった。
遠くの森から跳び出してきた毛むくじゃらの鬼は、まず白鈴を狙った。その攻撃の仕方はまるで人間のようで、勢いに任せて太い腕を振り下ろそうとする。
白鈴は瞬時に見極め、素早くそこから離れた。敵は見えないところからやってきたため、受け流すのは最善策ではないと判断したのだ。反撃には出なかった。
「猿か」と白鈴は呟いた。
「猿に見えるね」とシュリが応じる。
「頭はあるな」
「うん? 白鈴、戦ったことあるの?」
「集中しろ。見た目通りの強さだ。そして、こいつは腕が伸びる」白鈴は状況を分析し、シュリに注意を促した。敵の動きに目を凝らし、次の一手を待つ。
深い森から姿を現した鬼は、大湊一番月見櫓で見たものと同じだった。壁を壊した猿の鬼。しかし、今回は頭部もあれば、左腕もある。黒い体に黄色い二つの目が特徴的な「ししこ」が、体のどこかにぴったりと付着している様子はなかった。
以前目にしたものとは異なる迫力がある。敵の存在感は一層増していた。
あの夜は、三人で戦った。このたびは、二人しかいない。
目の前に立ちはだかるのは、正常ともいえる鬼だ。では、容易に勝てる相手かと言えば、そんなことはなかった。力強さ、俊敏性、そして時には周囲の物を武器として使うこともある。目の前の鬼からは、岩が飛んでくる。
単に斬るだけでは、猿に傷をつけることは叶わない。武器となっている「岩」は、人間側からしてみればあまりにも大きく、まるで落石のごとく転がってくる。
勝敗を左右したのは、シュリの扇子だった。それはただの風と思うなかれ。彼女の生み出す魔法が岩の勢いを落とし、そしてその軌道を狂わせるのだ。
白鈴は隙を逃さず、一太刀を浴びせた。鬼はまるで霧のように姿を消してしまった。
「あれ? 倒した?」シュリが不安そうに尋ねる。
「いや、浅かったか。逃げた」白鈴は周囲を見渡しながら答えた。
「死んだふり? 逃げたの? それはまずいよ」
「追いかけるぞ。ここで斬る」
白鈴は追いかける以外に選択肢はなかった。もし倒せるのなら、そのほうがいい。大物の部類と言える鬼をここで逃してしまうと、あの時の猿ほどの力を得てしまう可能性がある。
彼女は微塵も誰かにこの危険を押し付けるつもりはなかった。だからこそ、彼女は追跡を決意した。鬼の姿を見失わないよう、目を凝らしながら森の中を進む。今はただ、一刻も早く敵を仕留めることだけを考えていた。
ところが、猿はどこまで行ったのか。白鈴は必死に追いかけたものの、気がつけば目的地である屋水に到着してしまっていた。ここが彼女の第一の目的地だ。
「あのお猿さん、どこまで行ったんだろ?」シュリは立ち止まり、首をかしげた。
「屋水よりもっと先だ。やつが、そこまで行く理由はわからないが」白鈴は考え込む。
「私たちが、怖い、とか?」
「そこに、何かあるのかもしれないな。やつに、誘われてるような気もする」白鈴は直感的に感じる不穏な気配を言葉にした。
「ってことは、奇襲? そうだとしたら、屋水に寄って、正解なのかもね」
人に伝えておくべきだというシュリの意見で、とりあえずこの地へと訪れた。空が明るいうちに鬼を倒してしまえば、その必要もないように思えた。しかし、相手は鬼であり、何が起こるかはわからない。二人はその危険を心に留めていた。
「燃えたというのに……」白鈴は屋水の家々を眺めた。もともと大きな村ではないが、それでも人が残っているように見えた。
あの日、村は火の海となり、ほとんどが壊されてしまった。男たちは次々と殺され、女子供は集められた。白鈴はその光景を思い出し、重い痛みを感じた。
わたしは……。彼女の胸の中には、無力感と怒りが激しくせめぎ合っていた。何もできなかった自分を責め、あの日の光景が鮮明に蘇る。
「白鈴?」シュリが心配そうに声をかけた。
「なんでもない。さっさと済ませよう」白鈴は強がりながら答えた。内心の動揺を隠すように、早く行動に移りたかった。
「……うん」シュリは彼女の様子を見て、何かを感じ取ったが、言葉を飲み込んだ。
すると、シュリは見知った者を見つけたようで、その人物へと駆け寄っていった。到着したばかりのこの場所で、時間を掛けて探し回ることなく、人と会えるとは夢にも思わなかった。
シュリが声をかけたのは若い女だった。その姿は、シュリと歳が近いように見える。白鈴もまた、その女の顔に見覚えがあった。はゆま村で、桜を見に馬に乗っていたあの時の彼女だ。
「卯花さん、一人で。どうして、こんなところに?」シュリは驚きと共に口を開いた。
「おお、シュリではないか。久しぶりだな」卯花は微笑みを浮かべ、懐かしそうに応じた。
「ひさしぶり」と彼女は呟く。「そうだね。それより」
「環と呼べと言っただろ」卯花は少し真剣な表情を浮かべた。
「あっ。そうだったね。タマキ」シュリは思い出し、恥ずかしそうに笑った。
「うんうん。そうではなくてはな」タマキは楽しそうに頷き、再会の喜びを感じていた。
名はタマキ。ここでも彼女は村人のようには見えなかった。服装は屋水の巫女とも異なり、独特の雰囲気を纏っている。
「ところで、そこにいるのは、シュリの連れか?」タマキは白鈴に視線を向けた。
「うん? ああ、そうだよ。名前は……」シュリは少し戸惑いながら、白鈴を紹介しようと口を開いた。
タマキは前に出て、じっと見つめた。「誰かと思えば、お前、白鈴か。なんだ、シュリと知り合いだったか」
「タマキ、白鈴のこと知ってるの?」
「昨日、実は、お前は知らないだろうが、はゆま村に寄ってな。桜を見に行こうとしていた。そこで、白鈴に止められた。今は危ないとな」
「白鈴が……」シュリは思い出しながら言った。「私が待っててと言った時?」
白鈴は首を縦に振る。詳細はいらない。短くても事足りている。
シュリは少し不満そうに言った。「それなら、教えてくれてもよかったのに」
「私も、二人が知り合いだとは知らなかった」
仮に教えたとしても、タマキはすでにはゆま村を離れた後になるだろう。桜を見に行こうとしていた、そんな女がいた。話をしたところで、ちょっとした話題ぐらいにしかならない。
白鈴は少し感心したように言った。「馬があったとはいっても、一人で無事に戻れたようだな」
そこは気にすべきところだった。行きも帰りも平気そうには見えたとはいえ。
「おかげでな」タマキは微笑んだ。
シュリは驚きを隠しきれずに尋ねた。「待って、待って。一人? 一人で来てたの? はゆま村に。馬で?」
「落ち着け」タマキは余裕を見せた。「どうせ、お前も似たようなものだろ。隠しても、私にはわかるぞ」
「私は、危ないのは慣れてるから。それだと護衛は? 今だって」
タマキは肩をすくめた。「世話をしてくれる女も、屋水に数人来ておる。今は、ほんとに一人だがな」
「そっか。ちゃんといるんだ。屋水に」シュリはほっとしたように言った。
「まったく。シュリ、ほれっ、こっちへ来い」タマキは手を招き、自分の元へと誘った。
タマキは、二人だけで話したいことがあるようだった。「白鈴、すまんな、そこで待っておれ」と彼女は言う。どうやら、聞かれてはならないものらしい。
白鈴は少し戸惑いながらも、頷いてその場に留まった。お互いが見える距離、たいして離れてはいなかった。
「シュリ、安心しろ。どうせ、ヌエが見張っておる」
「そっか。ヌエが」
「一日中、見られていると思うと、心安らぐ暇もないがな。しかし、こう言ってはなんだが、そこ、どうにかならんのか」
「それは、たしかにね」
「奴らは寝ないと聞いた。それはまことか? お前なら知っているだろ」
「寝ないことは、ないと思う」
「近くにいる女どもと、同じことを言うんだな。私より小さい者は、おもしろく違うこと言っておったのに」
「それで、タマキ、屋水にはどんな用で来たの?」
「それは、また今度だ」彼女は微笑み、何かを秘めたまま言った。
タマキは元いた場所に戻ってきた。白鈴は言われたとおり、その場から動いてはいなかった。
「白鈴。何も、聞いていないな。なにも聞こえなかったな」タマキは確認するように言った。
「ああ、聞こえなかった」白鈴は頷いた。
「そうか。聞こえていないか。うん、それでいい」
シュリはタマキの顔を見て、何か考え事をしていた。眉間に微かなしわが寄り、視線はどこか遠くを見つめている。
「それにしても、白鈴」タマキは近づき、じっと彼女を見つめた。「ひと目見たときから思っていた。その年頃にその容姿、物腰、よく言われるだろ」
「なにをだ?」白鈴は首を傾げた。
「『屋水姫』だ。言われないか?」タマキは期待を込めて尋ねた。
「屋水姫。いや、ないな」
「そうか。意外だ。シュリは白鈴を見て思わないか」タマキはシュリに視線を移した。
「それは、まあ、うん」シュリは少し考え込みながら答えた。
白鈴は興味を示した。「屋水姫とは、なんだ?」
「知りもしないか。私も、お前と同じぐらいの年の頃に、お婆様によく言われたものだぞ。男どもに顔を見せてはならぬ。生まれ月よりあとの満月の日は家にいろ。声を聴いても返事はするな。外には一歩も出るな。化け物がお前を待っている」
「それは、つまり……」白鈴は答えを求めた。
「美人ってこと。でも、タマキ、白鈴は――」
「シュリ。理由は知らんが、否定しても私にはわかるぞ。白鈴は大湊の生まれであろ。白鈴は屋水姫だ。それは間違いない」タマキは断言した。
「シュリも、そうだったのか?」白鈴はそんな気がした。
「わたし? 私も十二の頃、そうだったかな。風習を大事にしてた家だから」
「最近では、このご時世だ。またやる者が増えていると聞いた。どうなんだ?」
タマキとは、猿の鬼が近辺にいるという事実を伝えた後、別れた。タマキは護衛の一人や二人を手伝わせようかと提案していたが、白鈴はそれを断った。可能であれば、面倒なことにはなりたくない。彼女は自分の足で立ち、状況を自らの手で切り開くことを望んでいた。
屋水を出て、白鈴は急いで鬼の行方を追った。猿の鬼は大湊への山道を進むのではなく、北へと向かっている。地面や草花には、血が残っていた。萎れた草花が目立ち、異様な雰囲気を醸し出している。
「やつは北にいる。シュリ、そこに何かあるか?」白鈴は尋ねた。
「ここから北だと、なんだろ。あっ、池があるかも」
「池か」
白鈴は予想を巡らせた。いい加減、移動は終わりではないだろうか。傷を負って動くにしては距離がある。なんの見通しもなく、思慮に欠けた行動をしているようには思えなかった。
シュリが言っていたように池を見つけると、そこにも血の跡があった。長く立ち止まっていたらしく、今まで見つけたものの中では一番の量である。白鈴はその光景に心をざわつかせながら、周囲を注意深く見回した。
「ここで何をしていたのか……」白鈴は呟き、池の水面を覗き込んだ。静かな水の中に、猿の鬼の姿が映っているような気がしてならなかった。彼女は思わず身を引いたが、その目は池から離れなかった。
「シュリ、何か気づいたことはあるか?」白鈴は沈黙を破り、シュリに尋ねた。
シュリは池を見つめ、何かを考えている様子だった。
池の周りを調べていると、ひっそりとしていた状況が鬼の攻撃で変わる。やはり鬼は待ち伏せをしていた。白鈴とシュリは飛んできた岩を扇子で防ぐ。池に水しぶきが立ち、静寂が一瞬にして破られた。
「やっと見つけた。覚悟して、ってあれ? 傷が……」シュリの声が響く。
「ないな」白鈴は周囲を見回しながら答えた。
「もしかして、別の鬼?」シュリが不安げに尋ねる。
「いや。こいつだ」白鈴は強い確信を持って言った。
彼女は感じていた。戦った相手である。目の前の鬼は、私たちを知っている。
鬼の傷が治っている。けれどもそれは奇妙といえた。前回の戦いで与えた傷は、完璧に治るまでには相当な時間がかかるはずだった。シュリの魔法もそうだ。それなのに、鬼の体にはどこにもそれらしき怪我は見当たらない。密に生えた毛には血が付着しているものの、傷は一切見えなかった。
ここまで辿り着くまで、血は大量に流れていた。草木の生気が失われていた。
白鈴は思い返す。少し前、彼女の体にあった「痕」と似ている。要するに、癒えているのだ。
目の前の鬼は、ただの敵ではない。戦闘を続けても二人の考えは変わらない。現在、目の前で暴れる敵は、同じ『鬼』である。何か異なる力によって、癒されているのだと感じる。
「『水』でも飲んだか?」白鈴は呟いた。
シュリは池を見つめ、「そんな、まさか」と答えた。彼女の表情には「それはない」という思いが浮かんでいた。そのような力はないと。
たとえどれだけ考えようと、答えは見つからない。疑念が渦巻く。目の前の鬼が何故、傷を癒しているのか、その理由を探し求めても、明確な答えは頭の中に浮かばなかった。
戦闘の最中、二人が与えた「傷跡」は残っている。癒えるものもあるが、今はそれが何を意味するのか考える余裕はなかった。鬼の攻撃は容赦なく続き、彼女たちの集中力を試すように迫ってくる。
戦闘は、中断されることはなかった。
池の近く、この戦いにも終わりを迎えようとしていた。白鈴は冷静な目で猿の腕を斬り落とし、敵が弱ったところを狙った。ここまで苦しい場面はいくつもあったが、「覚悟しろ」と白鈴は声を発し、ようやく止めを刺す。池の水面に波紋が広がり、戦いの終焉が訪れた。
シュリは息を整えながら言った。「今度こそ、だよね」
「ああ、終わった」白鈴は安堵の息を吐いた。
「傷のことも気になるけど。すこし、強くなってた?」
「戦い方を変えただけで、強さそのものは変わっていない」
「そう?」シュリは肩を落とし、少し困惑した様子を見せた。「わたし、ちょっと疲れちゃった。もうだめ。体力には自信あるのに」
「あれだけ魔法を使えば、疲れる」白鈴は感心していた。
「白鈴、どうする? このまま大湊にいく?」
「伝えなくてもいいのか? タマキも、今日、大湊に出発の予定と言っていた」
「伝えなくても、平気じゃあないかな。たぶん」
屋水に戻る必要はない。脅威は排除されたと、直接告げに行かなくても問題はない。シュリはそう考えている。
その時、ふと白鈴は気付く。「シュリ、まだついてくるつもりなのか?」
「私は、最初から城下まで一緒にいるって言ってるよ」シュリは自信満々に答えた。
「そんなことは言っていない」白鈴は首を振り、聞いた覚えがないと強調した。
「言った」
「言っていない」
「言った」
白鈴はこのまま続けても埒が明かないと、その顔を見て知った。シュリは始めからそのつもりで同行していたのか、あるいはどこかで気が変わったのかもしれない。「このシュリ」は、何を言っても聞く耳を持たないように思える。先ほどの「もうダメ」とは一体何だったのか。
白鈴は内心でため息をつきながら、シュリの頑固さに苦笑した。「わかった」と彼女は柔らかな声で口にした。
「私、しつこいでしょ」シュリは少し照れくさそうに言った。
「そうかもな」
「白鈴のことが、気になるの。だから。もうすこしだけ。一緒にいよ。ね?」シュリは期待を込めた声でお願いした。
帰りは、どうするつもりなのか。白鈴はふと考えた。シュリは危ないとわかることはしないだろう。彼女の性格を知っているからこそ、その決断には信頼を寄せていた。
きっと、シュリははゆま村へ帰るために、大湊に頼れる当てがあるのだろう。白鈴は彼女の行動には何かしらの計画があるに違いないと感じた。
その時、白鈴は殺気を込めて刀に手をかけた。警告を発するために。
「えっ? なに? どうしたの?」シュリは驚いた声を上げた。
「鬼だ」白鈴は淡々とした口調で言った。
「鬼? あっ」シュリは池の反対側を見つめ、目を大きく見開いた。知らないうちに、そこには佇む馬の姿があった。暗い影の中で、鬼の気配が漂っている。
それがひと目で鬼だとわかるのは、『こちらを見ている』ように思えるからだ。
「なんだ?」と白鈴は警戒を解かずに問いかけた。
「消えちゃった」シュリの声には不吉な響きがある。
馬はこれといって何かをすることもなく、二人の前から静かに姿を消してしまった。白鈴はその不気味な場面に息を飲む。
シュリは目を凝らし、消えた場所を見つめた。「あれが、そうなのかな」
「あれが、首のない馬か」
鬼の気配がまだそこに息づいているように感じた。