第4章「千年桜 一人の女」
・4
沈んでいく。冷たい。暗い。痛い。
でも、あのときよりは、狭苦しさはない。
これから、私はどう生きていけばいい?
何も変わらぬ。『鬼』と落ちた、私は――。姉さん。
一番月見櫓ユウ橋での戦いの後、白鈴は頭が朦朧としていた。ひどく長い夢を見ている。
そこで、何度も声をかけながら彼女を目覚めさせようとする若い女性が現れる。白鈴には、あれからどれくらいの時間が経ったのか全くわからなかった。ようやく意識を取り戻し、穏やかに体を起こすと、周囲の景色が少しずつはっきりと見えてきた。
「平気、かな? ねえ、自分のこと、わかる?」その声は優しさに溢れていた。まるで、白鈴を包み込むような温かさが感じられた。
白鈴は周囲に目をやり、屈み込んで反応を窺う女性の顔に視線を移す。この状況だけでいえば、彼女は知らない相手だった。場所も、どこだかわからない。見覚えのない景色が広がっている。傍では、川のせせらぎが静かに流れていた。
「おまえは?」
「私? わたしはシュリ。シュリって名前」
「しらすず、だ」白鈴の声はか細く、弱々しさが漂っていた。
彼女は自然に動いていたが、改めて自分の状況を理解する。ひとつも『服』と呼べるものは着ておらず、大きな布を一枚、胸元まで引き寄せてそれで体を隠していた。自分が置かれた状況の異常さに気づく。
「白鈴か」シュリは、裸の彼女を前に柔らかな声で呟いた。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」シュリは微笑みながら答えた。
「ここは、どこだ?」
「ここ?」彼女は周囲を見回しながら答える。「ここは、そうだね。千年桜。駅馬神風大桜。はゆま村の近く」
はゆま村。それは屋水から離れた場所にある村の名だった。焦らず慌てず、思考を整理していくうちに、白鈴は一番月見櫓から川に流されて、ここまで来たのだと判断できた。
彼女はその結果に思い至ると、不安が心を覆った。まさか、体を見られてしまった?
「見た、のか?」彼女は布を胸元で強く握りしめた。その問いは、時間をかけた重いものであった。
シュリは少し考え、優しい声で答えた。「安心してください。何も見ていませんから。お散歩のつもりが、漂流物を拾って、気付いたら女の子になってた、って感じです。だから、急いで布をかけたので」
シュリは目覚めに至るまでの過程を説明している。白鈴はその言葉に耐えられず、目を逸らして俯いた。
「それは私だって恥じらう気持ちはわかるよ。だから、少しでも、楽になれるように手伝うから」
「見たのではないか」白鈴の動揺が、言葉となって漏れ出た。その声にはかすかな震えが宿っていた。
「えっと。もしかして……水みたいな身体、のこと?」
シュリの問いかけに、白鈴は何も返事をしない。ただその場に留まり、立ち上がることも逃げ出そうとすることもできず、動けずにいた。
「ああ」とシュリが声を漏らす。相手の意味ありげな意図を察し、心に緊張が走った。
「……なんだ?」白鈴は戸惑いの色を浮かべる。
「ごめん。心配しないで。大丈夫」彼女は決断はやく白鈴を抱き寄せ、そう告げた。
白鈴はそれを拒んだ。「やめろ」と、声に力を込めて言った。
その言葉には、強い拒絶の意思が込められていた。彼女の瞳は揺るがず、決して譲らない強さを示していた。
「ダメだった?」その声には、白鈴を気遣う温かさが込められていた。彼女の心に寄り添う優しさが感じられた。
「いや。助かった。取り乱していたようだ」
白鈴は気心の知れた相手でもない思いも寄らない行動をたいそう拒んだが、そのおかげで冷静さを取り戻した。勝利を得られなかったこと、冷たい水に長い間浸かっていたこと、ほかにも様々な要因が重なり、彼女は心の平穏を失っていた。
シュリは、どこかに行く様子はなかった。抱き寄せるのはやめたものの、彼女は白鈴から離れようとはせず、その場に留まり続けた。
「あれ? それっ、刀傷?」シュリの視線が、火門との戦いでつけられた胸の傷に向けられる。
それは「ししこ」のものでも、「猿」のものでもない。一切の迷いもなく、鋭い刃によって刻まれた生々しい痕が、白鈴の肌に深く残されていた。
「気付かなかった。痛そう……い、いたくないの?」シュリは心配そうに尋ねた。傷は深く、まだ治っていない。まるで今もユウ橋での戦いの熱が残っているかのようだった。
「平気だ。すまない。なにも聞かないでくれ」
シュリは少し寂しげに微笑み、彼女の意志を尊重することにした。「そう。じゃあ、聞かない」
いつまでも裸のままでいるわけにはいかない。白鈴は立ち上がり、魔法を使って服を取り出した。切り裂かれた部分はどうにもならなかったが、彼女は晒しを胸に巻き付け、器用に傷を隠した。
シュリは突然の光景にも驚かず、目の前にいる者が『何であるのか』を理解しているかのように、冷静にその様子を見つめていた。
白鈴は身なりを整え、傍らにある大樹に目をやった。「立派な木だな」と、思わず感嘆の声を漏らす。
「えっ?」シュリが反応する。思わぬ言葉に驚き、目を大きく開いて白鈴を見つめた。
「これが、そうなのか」と白鈴が続ける。
「ああ、うん。そう。駅馬神風大桜。桜の木。千年だよ。千年。すごいよね」その言葉には、敬意が込められていた。
「千年か。ああ。そうだな」白鈴は感心しながら頷いた。彼女の言葉には、長い時を経た桜の美しさに対する深い敬意が込められていた。
「お姉ちゃんが言ってた。『ホントに千年?』って。もしかして、同じこと思ってる?」シュリは期待を込めて白鈴を見た。
「どうかな。あるいは。もっとあるかもしれない」白鈴は少し考え込む。
「また、同じこと言った」
白鈴は話題を変えようと考える。居場所はわかったが、そこには疑問が残っていた。
「『散歩』と言っていたが、シュリはここで何をしている?」
「それは……ええっと、散歩」シュリは少し戸惑った様子で答えた。
「ここは、はゆま村から近くはないはずだ。それに、花見の季節でもないだろ?」
「花見の季節ではないね。そうなんだけど……ううん。うん。秘密?」シュリは言葉を選んだ。
「一人か。聞かないほうが、よさそうだ」
「あれ? もっと、もっと、興味持ってもいいのに」
「言うつもりはないのだろ?」
「それは、そうだね」シュリは少し苦笑いした。
「なら聞かない」
目的があった。勿体ぶっているだけで、「実は散歩でした」そのような気もしてくる。「緑もいいもんだよ」とシュリは口にする。
生き続けるその姿は、教えてくれているようで。
「この川を、ずっと流れてきたんだよね。白鈴、これからどうするの?」シュリは川の水面を見つめながら尋ねた。
「城下町に、帰ろうと思う」
「城下町か。遠いね。帰路、鬼とかいるから、危ないし、大変だ」
信じてもらえないだろうが、白鈴は続けた。「シュリ、可能なら、この体のことは、誰にも言わないでもらえると助かる。言っても、シュリに何かをするつもりはない。それに……」
シュリは首を振った。「言わないよ。言わない」
「ここに来た、目的は終わったのか?」
「えっ? ああ、うん。もういいかな」彼女は桜の木の方を眺めながら答えた。
「それなら村まで送っていく」
「いいの? 急いでいるのかな、とも思ったけど」
「送っていく。ひとりは危険だ」
「ありがと。あっ、そうだ。よかったら、になるけど。私の家に寄ってかない?」シュリは期待を込めて尋ねた。
「家に?」
「もしかしたら、その傷、治せるかもしれない」
駅馬神風大桜を後にし、二人は静かな森の中へと足を進めた。話がまとまり、シュリの家があるという「はゆま村」を目指すことにした。桜の木が多く生い茂るこの地帯から、はゆま村は距離がある。人が通れる道はあっても、村人が散歩で来るにはわずかに遠出だった。
それでも、この場所は名所であることに変わりはない。訪れる者たちは、何かしらの目的を持ってやってくる。大湊城より北東にある屋水に住む人々の中にも、この美しい景色を求めてやってくる者がいた。桜の花が満開の時期には、特に多くの人々が集まり、自然の美しさに心を奪われていた。彼らはここで思い出を作り、心の疲れを癒していく。
しかし、ここ数年の状況は寂しいものだった。「ほとんど人がいない」と耳にする。寒い冬が終わり、春が訪れても、かつて賑わっていた花見の声や弁当、酒の酌み交わしは影を潜めていた。静まり返った景色の中で、ただ風が吹き抜ける音だけが響き、かつての賑やかさが恋しく思われる瞬間が続いていた。
二人は森の中で、その理由を身をもって体感することになる。危惧していたとおり、鬼と遭遇した。
その姿を一言で表すなら、「蜂」だった。まさに蜂そのもののように見え、黒と黄色の縞模様が特徴的で、翅を大きく広げていた。大きさは大人の手ほどあり、悍ましくも豪快な羽音を響かせながら近づいてくる。
数は多くない。近くに巣があるわけではないらしい。「逃げる」という選択肢は、果たしてあるのだろうか。
怪しい場面はいくつかあったが、鬼との戦闘が終わると、白鈴は聞きたいことが山ほど浮かんでしまう。
「よくこんなところを歩いてきたな」白鈴は思わず口をついて出た。助けも呼べない。危ない、としか。
「ほんと、びっくりしたね」シュリは、先ほどまで戦っていたとは思えない軽やかな口調で笑った。その笑顔には安堵感と少しの興奮が混ざっていた。
「鬼は、見慣れているんだな」と白鈴が言うと、シュリは首をかしげた。
「どうして?」
「森のなかで、鬼を前にしても、たいして動じていなかった」
戦闘中の冷静さと、自信に満ちた姿勢が印象に残っていた。
出会った時からそうだった。恐れを知らないその振る舞いは、不思議としか言いようがない。白鈴は、良かったとは言えないが、鬼との戦いを通じて、シュリに対するいくつかの謎の答えを見つけることができた。
「それにあの戦いっぷり。まさか、魔法が使えるとは思わなかった」シュリの華麗な動きや、鬼に対抗する姿は、彼女にとって予想外のものであった。
「すごかったでしょ。私だって、戦えるんだよ。でも、私も驚いた。白鈴、まるで侍みたいに動いててさ」
「シュリは、魔法使いなのか。魔女から『力』をもらったという」
シュリは言葉を失い、微かに眉をひそめて視線を外した。「うんと、魔女にあったことは、ないかな。魔法はお姉ちゃんに教えてもらったというか……」
「教えてもらった? 魔法をか?」
「うん。そうだよ。小さかった頃に、教えてもらった」
白鈴はそこで詳しく知ろうとはしなかった。重要というわけではなく、むしろ有耶無耶にされてしまいそうな気がしたからだ。自分の目の前にいるシュリが、「どこにでもいる『村人』ではない」というのは明確に理解した。
鬼を怖がらないのも納得がいく。彼女は魔法使いであり、魔法を使ったのだから、ヒグルと同じ存在だ。白鈴はそのことを考えながら、シュリがあの桜の木の場所に頻繁に訪れているのではないかと思った。おそらく、彼女にとっては散歩のようなもので、特別な場所なのだろう。その風景が、シュリの心にどんな思い出を刻んでいるのか、白鈴はふと想像した。
「それは?」と白鈴は問いかけた。「変わった。それは武器、なのか?」
シュリは扇子を見せながら答えた。「これは、扇子」
誇らしげな響きがある。扇子を優雅に広げると、光が当たって美しく煌めき、白鈴の目を引きつけた。彼女は次に首を傾け、少し不思議そうに言った。「扇子、知らない?」
「扇子は知ってる。しかし……」
戦闘中、シュリは刀のように扇子を振り回し、風を起こして見せた。その姿は、扇がなくても魔法を使えるように思えた。
「これは扇子です」とシュリははっきりと言った。明瞭で、自信に満ちていた。
「だな」
白鈴はそれもまた傍観すべきなように思えた。尋ねても、わからない気がした。
シュリの目には、周囲の状況を冷静に見極める力強さが感じられた。「それより、帰り。一人でなくてよかったかも。ここも危ない場所になってる」
白鈴は少し不安げに言った。「この国は、どこもそんな感じだ。迂闊に村からはあまり離れないほうがいい」
「そうだよね。うん」
「戦えるとしても、気を抜いたら、いつかやられる」
大湊の国は、鬼で溢れているとつくづく実感する。どこへ行っても安心して暮らせる場所などない。人も、生き物も、疲れ果てて、ここを離れていってもおかしくはない。
目黒が言うように、そこにはどんな未来が待っているのだろうか。
シュリは心配そうに言った。「ねえ。物騒、だよね。最近だと、大湊では、監獄から囚人が逃げ出したんでしょ。聞いたよ。だから、はゆま村の人とか、大人も、子供も、みんな怖いって言ってる」
「そうだな」
「首のない馬を見た、って話もあるし」シュリは言いながら、顔をしかめた。最近の恐ろしい噂が彼女の心に影を落としていることが表れていた。
白鈴は言葉を失い、沈黙が二人の間に広がる。
「鬼は減らない」シュリは静かに言った。「嵐様が、前に『風門』がそう言ってた。共に戦おう。それって、ほんとにこのままで、減らないのかな?」
「どうだろうな。減るといいが」
「私が生まれ育った場所、屋水なんだけどね。三年前に賊に襲われた……そこでもそんな話がされてるんだ。鬼は、減らない」シュリの声には、悲しみが滲んでいた。
「屋水に? そうなのか?」
「水が涸れちゃったからね。それだけでもなくて……」シュリは言葉を続ける。そこには故郷への思いと切実な思いが込められていた。
「屋水に、今でも人はいるのか? だって、三年前に……」白鈴はシュリの目をしっかりと捉え、真剣な表情で尋ねた。過去の出来事が彼女の心に影響を与え、緊張感が漂う。
「ほとんどいないよ。わたしは、ずっとはゆま村にいるけど。屋水には、今でもお姉ちゃんとおばさんが暮らしてる。離れて暮らしてる」
「屋水に、人が……。シュリの姉は住む場所を変えないのか?」
「できれば。変えたくないんだ」
白鈴は、このとき屋水に行けば、脆く断片的となった記憶を元に戻せるのではないかと考えた。あの日、あの夜、炎に包まれた。私に何が起きたのか。
しかし、実行に移すには躊躇いがあった。姉は死んでいる。母も死んでいる。兄も死んでいるはずだ。賊に襲われたのは確かで、私は何をされて、このような体になったのか。その思いが、白鈴に重くのしかかる。真実を知りたいという気持ちがある一方で、恐怖が足を引っ張っていた。焼け焦げた景色や、叫び声が響く。
すると、森の中で人の気配がする。二人は正面を見つめ、(私たち以外にも人がいる)驚くこともなく、その声を聞いた。歩いてきたのは、若い男だった。彼の姿は薄暗い森の中で際立っていた。
「仲良くお話し中、ごめんよ」男は少し笑みを浮かべながら言ったが、その目には警戒心が宿っていた。
彼は距離を縮めずに立ち止まり、白鈴の方を見て顔をしかめた。
「うん? おまえ……」
シュリが言った。「この子は、友達。知り合ったばかりの」
「友達? この小さいのが?」そこには疑念と少しの冷やかしが混じっている。
「うん。友達。大切な、友達」シュリは自信を持って言い切った。
男は驚きの色を浮かべたが、すぐにその表情を和らげ、軽く口元に笑みを浮かべた。「まっ、いいか。そんなことよりも、ここは子供を連れてくるようなところでは、ないんじゃねえのかな?」
「それは……。うん。ですね」シュリは少し戸惑いながら答えた。その様子に男は微笑みを浮かべ、少し和やかな雰囲気が生まれた。
「子供ではない」白鈴は嫌なものを感じていた。黙っているわけにもいかず、故に会話に加わる。
「へえ。子供ではない、か。子供ではないんだと」男は言葉を重ね、間を置いてからシュリに視線を移した。「らしいが、そうなのか?」
「そう。大人。見て、わからないの? それ、ひどいと思うよ」
男は困惑した様子を見せた。彼の目には、疑う余地なく「目的」があり、知りたいことがあるようだった。その視線は鋭く、明らかに何かを探っている。曖昧な返答にじれったさを隠せず、進展しそうで進展しない状況に苛立っている。
「なんの用だ」白鈴は男がここに現れた理由を探ろうとした。この場から予想されるのは、シュリか、それとも私か。
「やっぱ、お前。臭う。におうわ。鬼のにおいだ」男は言い放ち、白鈴をじっと見つめた。
「自分のではないのか?」
「ああん?」
白鈴は強い口調で反論した。「おまえ。『ヌエ』だろ」
「ヌエ? ヌエって」彼は声大きく笑った。「急に、なに言ってんだ。おまえ」
「忍びだろ、と言っている。三文芝居はやめろ。大湊お抱えの鵺が、何の用だ?」白鈴は落ち着きを保ちながら、男に鋭い眼差しを向けた。
男は「ふうん」と感心したように頷いた。「話が、早そうだ。でもな」
白鈴は言葉を返さず、静かに刀を取り出した。男が直ちに何かをしようとしているわけではない。だが、敵意に満ちた涼しげな表情に変わった。戦意が露骨となった。
「戦うの?」シュリもその雰囲気に気づいた。
「それしかない。下がってろ」
「そうなんだ」
白鈴は、この男の目的が自分ではないと見当をつけた。狙いはシュリだ。どう考えても、今の状況は平和的ではない。私は邪魔で。
「やる気満々だ」男の言葉を合図に、森の中に隠れていた仲間が姿を現した。不意打ちを狙う者たちが、静かに白鈴の背後に迫ってきた。短刀を抜き、彼女の隙を突こうとしたが、白鈴の直感が働いた。
彼女は瞬時に振り返り、仲間の一人が近づいてくるのを察知した。刀を素早く構え、背後の攻撃を迎え撃つ。敵の攻撃を受け流した瞬間、鋭い金属音が響き渡った。
「だよな。バレてるよな」男は退屈そうに言い放った。
「殺さないで」シュリは白鈴に向けて、切実な声を上げた。
男の隣には、彼とは異なる二人の仲間がいた。彼らはヌエのお面を被り、薄暗がりの中で不気味に揺れている。
「遠慮はするなよ。頼めるか?」
「相手にならない」白鈴は勝利を確信していた。数では劣るが、敵の力量は互角とは到底思えなかった。彼女の心には、確固たる見通しがある。負けるつもりなど微塵もなかった。
忍びとの戦いは、短く終わる。そう長くはかからない。お面を被った二人は、鬼と戦えるだけの力を持っているように見えたが、その動きは決して優れているとは言えなかった。闇打ちを仕掛けてきたのも、相手に気付かれていないという判断で行われた。
白鈴に油断するつもりはない。彼女は常に注意深く行動していた。されど、戦ってきた鬼たちと比べると、目の前の忍びたちは見劣りしてしまう。
素顔を見せる男は、仲間が次々に倒されるのを見て、残念そうな表情を浮かべた。それは、手下が生き残っていることが関係しているのかもしれない。あるいは、計画が崩れていくことへの苛立ちか。
「せっかくだ。楽しませろ」彼は冷ややかな声で言った。その態度には、指示を出す立場にある自信が表れていた。
忍びヌエ。「一筋縄ではいかない手ごわい相手」と言わざるを得ない。彼はなるほどと納得できるだけの技術が備わっている。
剣術は侍と異なり、突きを得意としているように見えた。彼の動きは鋭く、瞬時に隙を突いてくる。さらに、飛び道具を使う際には、火を使うこともあるため、戦いの中での危険度が増していた。
白鈴は攻撃を受け流しながら、彼が暗殺を得意としていることを実感した。彼の目には、殺すつもりで戦っている冷酷さが見え隠れしていた。
白鈴は飛び道具である手裏剣が体に幾つか突き刺さる。武器を使わない蹴り技もあり、彼女は大いに苦戦を強いられた。
身軽な者同士の戦いが繰り広げられ、白鈴の攻撃がついに決着をつける。彼女の鋭い一撃がヌエを捉え、男は突き飛ばされて地面を滑った。
白鈴は静かに宣告した。「終わりだ」
男はうめき声を上げながら立ち上がり、服についた土埃を手で払った。まだ戦える余力があるように見える。
「クソっ。まだまだ、と、言いたいところだが」
「続けるか?」
「いんや。もう十分だ」男は息を整え、周囲を見渡した。「でもよ。これだけは言っておく。シュリ、家に帰れ」
シュリはどことなく不満げである。「帰ってるところ。だった」
「そっか。そうかい。なら、それとな。好き勝手にうろつくな。余計な仕事が増える」
「それは、無理」彼女は少しふくれっ面をしながら答えた。
「だろうな。はいはい。だとよ。帰るぞ」
男はため息をつきながら、白鈴に背を向けた。
森の中で唐突に現れた忍びは、何か目的があったようにも思えたが、すんなりと二人の前から姿を消した。隙を見せて攫うのかと思いきや、そんなこともなかった。あの男は、いったい何をしに来たのか。
白鈴はシュリに尋ねた。彼らとは、どういう関係なのか。顔見知りには見えた。それさえわかれば、いかにもな感じで襲ってきた理由もわかる。
魔法使いであることと、関係があるのか? シュリは曖昧に答える。
「魔法使い」が正体を隠すのは、簡単にいえば、みんなと違うからだ。彼らは人ではないらしい。シュリの場合、魔法が使えることがヌエに知られている。
「言いたくない」シュリは短く言った。忍びヌエとの関係を、彼女は積極的に話す気はない。
白鈴は思う。あの感じ、家族にヌエがいるとか、なのか?
その後、森の中で凶悪な鬼と遭遇することもなく、二人は無事にはゆま村にたどり着いた。移動の途中、時折シュリは楽しげに笑い声を響かせていた。
「ここが、はゆま村」シュリは誇らしげに言った。彼女には村の景色が輝いて見えるのだろう。
白鈴は周囲を見渡しながら問い返す。「ここが」
「私の家は、村から少し離れたところにあるから、それまでついでに案内してあげる」
「一人なのか?」白鈴はこれまでの会話からそのような気がしていた。
「うん。そうだよ」シュリは何でもないことのように、軽やかに首を縦に振った。
「そうか」
「帰り、鬼に見つからなくてよかったね」
「危ないところはあった」白鈴は微かにため息をついた。
「でも、言ったとおりだったでしょ? もうすぐはゆま村だから、この辺りからは心配しなくても大丈夫だって」
「鬼は、確かにそうかもな」そういった場所に、村は作られる。
シュリはしばらく考え込んだ。「あの人たちのこと?」
「簡単に諦めるような相手ではない。目的もよくわからなかった」
「白鈴って、戦えるのもそうだけど、そういうのも詳しい感じ?」
「詳しくはない。どこに里があるのかとか。ヌエがいつから存在するのか。聞いたことがない。だが、どんなやつらなのかは知っている」
「秘密が、多いらしいからね。当たり前だろうけど」
「シュリ、深くは関わらないほうがいい。次も同じ、とは思わないほうがいい。ろくなことにはならない」
「うんと、心配してくれてる? 白鈴」
「それ以外にあるか?」
「なんだか。嬉しい。とっても」
白鈴はシュリの表情に複雑なものを見つけた。明るい声色とは裏腹に、彼女の目には何か厄介を抱えているような影が映っていた。
それは、城下町に住む人々と変わりなく、今の時代には珍しくもないのかもしれない。
「行こう」シュリはそう言って足を踏み出したが、ふと立ち止まり、考え込んだ。「あっ、そうだ。蜂のこと、誰かに伝えておいたほうがいいかも」
「はゆま村の人は、シュリ以外にも、あの場所に行くのか?」
「行かないよ。だけど、伝えておくのは、大事でしょ。ここで暮らしていくためには」
シュリはある建物の前に立ち止まると、留守だと判断した。急いで報告する必要はないと彼女は感じ、伝えるのはまた今度にしようと決める。
「家、こっち」シュリは案内を続け、「もうすぐ着くから」と嬉しそうに微笑んだ。
周囲の景色は次第に変わり、住んでいる家が少なくなっていく。整えられた道を歩きながら、白鈴は心の奥に少し寂しさを感じていた。道すがら、男の子に話しかけられることもあったが、家々が集まった場所からは徐々に離れていく。静けさが広がる中、シュリの足音だけが心地よく響いていた。
二人はそれぞれ立ち止まった。なぜなら、そこにはテングのお面を被った男が静かに佇んでいた。
男は腕を組みながら、ゆっくりと体を動かした。その動作には余裕が感じられる。
「シュリ、元気そうだな」
「おかげさまで」
「そいつは?」男は少し興味をそそられた様子で尋ねた。
「友達。家に招待しようと思って」
「友達か。なるほどな」彼は明後日の方向を見て、その後、ゆっくりと歩き出した。背中には軽い余韻が残り、何かを思案しているようだった。
「なに? ダメなの?」シュリは少し驚いた表情で問いかけた。「ダメでも連れていくよ」
「ダメだ、と言いたいところだが……。まず、素性の知れない相手だ」男は言葉を選ぶように、慎重に続けた。警戒心がにじみ出ており、シュリの友達に対する心配が感じられた。
「だれだかわからないってこと?」
「そんなところだ」
男の頷きから、シュリは何も言わなくなった。沈黙が重く漂う中、彼は視線を少し外し、話し相手を代えることにした。
「問おうか、白鈴。お前は何者だ。人間ではないんだろ」
鬼であることが知られている。白鈴は口を閉ざし、そっと刀を取り出した。目の前の男が大湊の人間であるという考えから生まれた行動である。果たして、彼は行方を捜して追ってきたのだろうか? 彼女は身構えた。
「待て。争うつもりはない」彼は刀を見つめ、冷静な声で言った。そこには彼女の緊張を解こうとする意図が感じられた。
「ずっと、つけてたのはお前だろ」白鈴は落ち着いた口調で言い放ち、その視線を男に向けた。
「気付いていたのか」
「気付くように動いていた」白鈴は静かに告げた。
男の口から「ほう」と言葉が発せられ、テングの鼻が微かに動く。
「お前はヌエか?」
「私はヌエではない。だが、幸畑という男はヌエだ。あれは見事だったぞ」
あの時、実はもう一人気配があった。しかし、その存在からは妙に殺気立ったものは感じられず、どちらかというとひどく他人事であるかのような態度が印象的だった。森に暮らしている野生の動物の一員であるかのようで、その無関心さが、かえって白鈴の心をざわつかせた。
この男は、返り討ちにあった出来事についてはどうでもいいようである。
「お前はなんの用だ?」白鈴は刀を抜かないでそのまま続ける。
「用は既に済んでいる。この目で見れた。思いのほか、収穫もあった」
「なら、上井、もういいよね。いこ、白鈴」シュリは軽やかな足取りで白鈴の方を振り返り、共に家に向かおうとした。
「まだ話は終わっていない」上井の声が静かに響いた。
「え、まだあるの? まさかダメとか、言わないでよ」
「ロクダイ様とは、会ったか」彼は鋭い目つきで問いかけた。
「ロクダイのおじさん? いや、会ってないけど。はゆま村に来てるの?」
「そのはずだ」
「それ、上井の思い違いだったりしない?」
シュリがずいぶんと疑っていると、彼女は乾いた音を聞いて顔の向きを変えた。それは、白鈴も同様だった。先ほど歩いてきた道から、大柄な一人の老人がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
「ヒユウよ。お主のほうが早かったか」刀を腰に差した老人は、のんびりとした足取りで言った。
「探しておりました、ロクダイ」
「ロクダイのおじさん。ホントに来た」
「シュリも、丁度いいところに。これは、なんと、よい巡り合わせか」
「えっと。どうしたの? こんなところに」シュリは少し戸惑いながら尋ねた。純粋な好奇心だろう。ロクダイの訪問の理由を知りたいという思いが込められていた。白鈴も彼女の横で静かに耳を傾け、状況の展開を見守っていた。
「なに、お主に大事はないかと、ちと心配になってな」ロクダイは穏やかな口調で続けた。「変わらず物騒な世の中よ。屋水に行ってお主の姉と会い、そこからはゆま村に寄った」
「お姉ちゃんに会いに行ったんだ」
「シュリよ。変わりはないな」
「うん。変わったことは、なんにも、ないよ」
「そうかそうか。では杞憂であったか」ロクダイの目は優しく輝き、シュリに対する信頼が溢れていた。
白髪の老人は大柄であった。しかし、背は高いもの、肉付きに関してはあまり良くなく痩せている。姿勢は悪くない。刀を携えていることを考えると、端麗でありながらも安定感があった。彼の風貌には長年の経験と知恵が表れており、その目には深い洞察が宿っていた。
「して、その者は」
「名前は白鈴。千年桜のとこで仲良くなったの」シュリは声に弾んだ響きを乗せて、嬉しそうに言った。
「儂のことはロクダイとでも呼べ。白鈴。ゲンキでもかまわん」
白鈴は観察をやめられずにいた。雰囲気とでもいうのか、心を奪われている。
「お主、その身なりで、刀は重くはないか?」
白鈴は一瞥した。「この刀を重いと感じたことはない」
「ないと申すか。それは立派よ。その刀も、お主に使われて、さぞ喜んでおろう」
白鈴はかげかげを眺めながら、言葉には出さず問いかける。様々な思いが渦巻いている。
ロクダイは、その彼女をじっと見つめていた。彼は彼女に話しかけてからも、その視線を外さなかった。彼の瞳は強く、途切れそうで途切れない緊張感を漂わせていた。
「だと、いいな……」
「なるほど」とロクダイは呟いた。「たとえ小作りであれ、真であれば、化け物も恐れるやもしれんな」
テングの長い鼻が動く。今更ではあるがお面を外すつもりはないようで。
「よし。すべきことは終わった」ロクダイは満足げに言った。「ヒユウ、儂らは帰るとするか」
「戻られるので?」
上井に続いて、シュリも彼の決断を確認する。「村に来たばかりなのに、もう帰るの? すこし休んでからでも……。桜とか」
「お主のその顔が見れた。であるなら、急いで帰らないとな」
ロクダイと上井ははゆま村を後にした。上井ヒユウについていえば、一足先に飛び立っていく姿があった。彼には何か頼まれごとがあるらしく、村で出会ったときと同じように、急ぎ足でその場を離れていった。
「シュリ。忘れるなよ。しかと見定めるのだぞ」ロクダイは去り際にそう言った。
シュリの家は、はゆま村にある他の家々と比べると、「別物」として存在しているように見えた。二階建てのその家は、草花で溢れた美しい庭を持ち、内装は一人で住むには広すぎるほどだった。しかし、呼び方によっては「お屋敷」と称するには少々小さく、どこか親しみやすさを感じさせる佇まいだった。
「ようこそ」と彼女は明るい声で迎えた。「これが、私の家」シュリは笑顔を浮かべながら、自分の住まいを誇らしげに紹介した。「遠慮しないで」そう言って、彼女はひとまず客間へと案内してくれた。温かい雰囲気の中、シュリの優しさが感じられる瞬間だった。
ここに、ほんとうにシュリは一人で住んでいるのか。
白鈴は一人になり、そんなことを考えていた。
シュリが壺を抱えて客間へとやってくる。「よかった。ちゃんといた」と彼女は安堵の表情を浮かべた。
「ここで待っててと言ったのは、シュリだろ?」
「だって、白鈴、目を離した隙に、どこか行ってしまいそうに見えたから。こうして、言ったとおり私を送ってくれたわけだし」
白鈴は壺をじっと見つめ、興味を引かれるように問いかけた。「それは?」
シュリは頬を緩ませ、壺を持ち上げた。「これは、水だよ」
「水?」
白鈴は壺の中に広がる透明な液体を見つめ、何か特別な意味があるのではないかと考える。
「屋水の水。特別な水」シュリは続けた。「神事に使われたりする。飲むと、元気になれるとか、力が出るとか、昔からそう言われている。聞いたことない?」
「屋水の……。うん?」白鈴は間を置いた。「森で、涸れたとかと言ってなかったか?」
「涸れる前の。それを少しだけ持ってて」シュリは穏やかに言った。「喉、渇いてない?」
「それは、飲んでいいのか? 大事なものだろ」
貴重なはずだ。喉が渇いているからという理由で、軽々しく飲んでいいものではない。
「飲んでほしいの」シュリは彼女を見つめた。「白鈴の、その傷が、これで治るんじゃないかなって」
白鈴は傷跡に手をやった。時間は経ったはずなのに、その傷は殆ど衰えることなく熱を持ち続けていた。
片手を「人」から「液体」へと変えてみる。とはいえ、効果があるのか。
「ずっと持ってても、役には立たないから。ね?」
屋水の水は、繊細な盃で出された。内側には美しい扇子の模様が施されており、光が当たるたびにきらめいていた。
「どうぞ」
白鈴はその盃を手に取り、思わず息を呑む。「では、いただく」
盃に口をつけている。シュリは彼女の反応を見守りながら、少し緊張した面持ちで尋ねた。「どうかな?」
「うん。たしかに」白鈴はにこやかに答えた。「すぐにとは難しいだろうが。あった痛みが和らいだ気がする。感謝する」
「そっか。痛みが……よかった。それなら、あとは、そう、『服』。服が必要だね」
「服? そこまでしなくていい。これがあれば」
シュリは勢いよく立ち上がり、白鈴に向かって言った。「破れたままというわけにはいかないでしょ。それで出歩くつもりなの?」
「それは……」
「私の貸してあげる。小さい時のがあるから」
シュリは客間を颯爽と出ようとした。そして、後ろを振り返る。
「ほら。こっち来て。とにかくお着替えの時間」