第3章「鬼を斬る鬼 陰影」
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時刻は夜遅く、罪人たちはこの日、力を入れて練り上げた悪巧みのために集まっていた。それぞれが緊張感を抱え、成功させなければならないという思いが彼らの心を引き締めていた。
四人は静かな夜道を歩いていた。ガタイのいい男が一人、女が三人。その周囲には、自宅へ急ぐ若い女性や、酔いを漂わせる男がいた。男は不安定な足取りで歩いている。
白鈴がこの日を思いながら月を眺めていると、サモンが呼びかけた。
「ねえねえ。少しだけ。いいかな?」
彼女は二人だけで話したいことがあるようで、白鈴を導いた。
「今度さ、二人で、一緒に食事でもしない?」
「食事?」
「お買い物でもいいよ。服とか、ぜんぜん持ってないんでしょ? だからそう、一緒にうどんでも食べて、お菓子を食べて。町を歩いて。服を選んで買って」
「忙しそう、だな」
「あああ。もう。そうだね。親睦を深めたいんだけど、だめかな?」
白鈴は少し考え込み、「ああ、行こう。いつか」と答えた。
「やった。決まり。すっごく楽しみ。絶対だよ。楽しみにしているから」
そう言ってサモンは笑顔で会話を終え、目黒とヒグルの元へ戻っていった。
「なんの話をしてたんだ?」と目黒が尋ねる。
サモンはにこやかに言った。「どうしても三人で行きたいんでしょ。それなら、三人で帰ってきて。『そこ』お願い」
「おう、任せろ。楽勝だ」
サモンは不安を隠せず、「ううん。あああ。大丈夫かなあ」とつぶやいた。目黒の元気な返事が、余計に不安を煽いだ。見るからに、そんな反応だった。
「大丈夫、だよね」とヒグルは言う。
「帰る」と白鈴はそれだけを口にする。ほかに思いつかなかった。
「うん。お願いします。もしね、帰ってこなかったら」サモンはそこで言葉を途切らせた。
「なんだ?」と白鈴が尋ねる。
「なんでもない。それより、気になること」彼女は少し間を置いてから続けた。「ちょっと前に、大湊にある監獄から、囚人が逃げ出した。そうだよねって感じで、話はその日のうちに広まってた。だけど、にしては、兵の活動が大人しい気がするんだよね」
目黒は眉をひそめ、絞り出すように言った。「もたついてんじゃねえか?」
「この辺りに関しては、見回りの数が増えたわけではないし、すぐにでも心配しなきゃいけないってほどではないかもしれないけど。目黒、行動するなら早いほうがいい気がする」
彼は頷きながら思考を巡らせた。「かもな。じゃ、それも帰って。次に向けての会議が必要だな」
「うん。もう、わたしたちは進むしかない」
その先には困難が待ち受けている。それを受け止める心構えはできている。大湊監獄の囚人脱走の話を聞いても、彼女は取り乱すことはなかった。「予想通り」と言っていた。
「白鈴、私、あまり手伝えてないからあれだけど。取り戻せるといいね。大事なもの」
「十分助かってる」
「いや、だめだ。そうだね。私も頑張ったんだから、きっとそこにある。調べた感じ、『ある』のは間違いないから。期待していいと思うよ」
サモンはヒグルの顔、目黒の顔へと視線を向けた。彼女の声は静かに響いた。「ジロテツは抜け道で待ってる。正面から行くと、門が閉まっている。気を付けて」
「目指すは一番月見櫓」
仲間を町に一人残し、三人となった彼らは目的地へと急ぐ。目黒が意気揚々と口にしたその言葉には、決意が感じられた。これから向かうのは、大湊の国にある『一番月見櫓』である。
この場所には、以前挑んだ監獄と共通点があった。月見櫓という名の通り、それは山の上にそびえ立ち、夜空に浮かぶ月を眺めるには絶好の場所だ。
そして、そこには白鈴の刀がある。
目黒は自信満々に言った。「やることは、けっして難しいもんじゃねえ。山を登って、洞窟通って、山を登って、櫓まで行って、そしてこっそり刀を取ってくればいい」
「そこまで簡単なものでもないと思うけど」とヒグルが懸念を示した。
目黒はその言葉に反論する。「慎重にだ。計画通りにやれば、おのずと成功する。必ずだ」
ヒグルは頷きながら、これからの行動を胸に刻んだ。「うん。そっか。そうだね」
白鈴は会話を静かに聞きながら、その目に強い意志を宿していた。「私の刀だ。それは返してもらわないといけない」
ジロテツは待ち合わせの地点ですでに彼らを待っていた。占い所アルカナを早いうちに出て、計画が順調に進むように行動していたのだ。安全な抜け道がない場合、三人は頂上に行くために正門を通らなければならない。しかし、数年前から自由に通行できなくなったその門を利用するつもりはなかった。別の方法を用意しなければならなかったのだ。
また、想定外の出来事があった場合にも備える必要があった。延期もまた、作戦の一つである。
櫓に入っていく者は特になし。今日一日、門は開けられていない。この日、酒を片手に月を見ようとする者はいないようだ。山を登っていく者はいなかった。
目黒は真顔で語りかけた。「お前には、助けてもらったんだ。礼は返さないとな」
白鈴の心の奥では、一人で行動したいという願望が波のように渦巻いていた。
「行くと聞いたとき、実は少し不安になった」
目黒は軽快な口調で続ける。「そこは、心強い、だろ? 常識的に。なんならかわいらしく、目黒様ステキです、ぐらい言ってみろ」
白鈴は何も言わなかった。胸騒ぎがして、彼女は小さく息を吐いた。衣服に触れながら、その感触に安らぎを求め、しばらく思索にふけっていた。
「顔、隠すのか?」目黒は気になったようだ。
「情報通りなら、人がいるのは確かだ」白鈴は静かに答えた。
ヒグルは何もないところから頭巾を取り出すと、さっそく渡そうとする。「目黒の分もあるよ。話にはあったから、準備しておいた」
しかし、目黒は片手を振って断った。「いや、邪魔くさいから、俺はいいや」
「そう。せっかく用意したのに」とヒグルが言う。
頭巾を握りしめる彼女の様子を見て、目黒は彼女の態度がいつもと違うことに気づいた。「なんだ? 緊張しているのか?」と彼が尋ねる。
「それは、ね」ヒグルは出発時からこの調子だった。
「そうか。ま、そんなもんだよな」目黒は軽く肩をすくめた。
白鈴が口を開く。「櫓には一人で行ってもいいんだぞ? わざわざついてこなくても」
「それは、ダメ。言ったよね。一緒についていくって」
白鈴はうまく言い返せず、口を閉ざした。何を言おうと、そこは変わらないように思えた。
「俺も、不安、ってほどではねえが。これで、一番ではなく、『二番月見櫓』にでもあったら、笑えるな」
二人は何も言わず、ただ沈黙の中でその言葉を噛みしめていた。目黒だけが軽く笑っていた。彼は二人を見て冷静になる。
「笑えないか」
「ある。あるので」とヒグルが答えた。
「そうか。それはすまなかった」
山を登る彼らは、予定していた洞窟を発見すると、内部へと足を踏み入れた。魔法の明かりを頼りに先へ進む。人が通れるほどに開けてはいるが、普段は使われない道である。崩落の危険性はないとされているが、それは城下町に住む人々の間での話に過ぎなかった。
「くれえなあ」と目黒が呟く。
「怖いのか?」と白鈴は言った。
「なわけあるか」
洞窟内は三人が横並びに歩くには十分な広さがあり、白鈴には水槽や壺に比べればずっと快適に思えた。薄暗い空間の中、洞窟の底には川が流れ、出口へと勢いよく流れている。不注意に足を滑らせれば、簡単には陸に上がれないだろう。
櫓から流れるこの水は、屋水と深い関わりがある。
目黒は周囲を見回した。「ヒグル、もっと明るくはできねえのか?」
「できなくはないけど、暗さに慣れておいたほうが」
「あん? なんか聞こえたか?」目黒が言いながら立ち止まり、顔を向けて耳を澄ませる仕草をした。
「ほらっ。また聞こえた」と彼が言った。
それは白鈴にも伝わった。「……人の声だ」
「ひと?」とヒグルは言う。
目黒は険しい表情を浮かべた。「こりゃあ、切羽詰まってる感じだな」
「行こう」とヒグルの提案を最後に、彼らは声のする方へ駆け出した。自分たちの目的は理解しているはずだ。それでも、悲鳴を無視することはできなかった。明らかに、誰かが助けを必要としている。
「なんだ、こりゃあ」と目黒が声を上げた。
「多いな」と白鈴が呟く。
「あそこ。あそこに人がいる」とヒグルが指さした。
目の前に広がったのは、鬼の群れだった。決して強そうには見えないが、彼らは一団となって蠢いている。一見すると人間のようでありながら、キノコにも似たもわもわした黒く小さな体を持ち、大きな二つの目は暗闇の中で黄色く光っていた。
洞窟内を蠢く鬼の群れの先には、男と女が二人ほどいた。二人は恐怖に怯え、囲まれて逃げ場を失っているように見える。
「助けなきゃ」とヒグルは言った。
「私が行く。ここは任せるぞ」
「お、おい」と目黒は慌てて呼び止めたが、白鈴はすでに刀を取り出し、鬼の群れへと駆け出していた。目がかろうじて暗闇に慣れてきたおかげで、彼女はいきおいよく飛び跳ねながら鬼を踏みつけ、ともかく躓くことはなかった。
「ひとか?」男は正面に立つ白鈴に向けて、震えた声で尋ねた。
「――離れるな」と白鈴は強い口調で言い放つ。
「ああ、わかった。立てるか?」男は女を立ち上がらせようと手を差し伸べた。
その瞬間、白鈴が余所見をしていると、一匹の「ししこ」が音もなく足元へ忍び寄ってきていた。彼女は冷静に振り返ると、迷わず斬り払った。
「歩けるな」と白鈴は確認した。それから、刀を片手に持ちながら、もう片方の手で魔法を使った。闇の中に小さな灯がともる。牡丹の花ほどの大きさはないが、彼女の手の中でほのかに輝いていた。
「ししこ」は近づくことをやめ、もごもごと動きながら離れていく。
白鈴は灯を消さず、慎重に歩みを進めた。それでも、安心するわけにはいかない。二人が傍にいることを確かめながら、目黒たちの元へ向かう。
闇の中で凝視しているものに、二人は恐れている。大きな二つの光。
「白鈴」とヒグルが呼ぶ。「平気か?」と目黒が心配そうに尋ねる。どうにか、鬼は襲ってこなかった。
「ったく、気持ちわりいぐらいにいるな」目黒は不満を口にした。
「だめ。減りそうにない」ヒグルは水で追い払っていた。
「なんだ? こいつら、急に離れていく。どんな魔法だ?」目黒は鬼の変化に疑問を抱き、その目を細めた。
次に白鈴は洞窟の出口の方へ視線を移す。どうにか、まだ囲まれてはおらず、この先を進んでも襲われる心配はない。通じており、危なげがなく安心できる。
「隙を作る。その内に逃げろ」白鈴は決意を込め、男と女に向けて力強く言った。
「君たちは」男が不安げに尋ねる。女は怯え、言葉も出ないように見えた。
「行って。だいじょうぶだから」ヒグルの声には、確かな信頼が込められていた。
「時間がない。急げ」白鈴の声が洞窟の壁に響く。
「すまない。いくぞ」男は女の腕を掴み、出口へと向かって駆け出した。女の持ち物だろうか。鈴の音が響く。
白鈴は鬼に向かって刀を構えた。「こいつらは暗闇を好み、火を恐れる」
目黒は苛立ちを隠せず、低い声で呟いた。「それ、最初に言えよ」
「最初だけだ」白鈴は落ち着いた口調で答え、周囲の状況を見極める。
「ヒグル、魔法で一気にドカーンとできねえのか」「こんなところで、そんなことできないよ」「ししこ」の攻勢が激しくなる中、二人は戦いながらそう声をあげた。白鈴もまた、策を考える。動きの速い相手ではないので、無理やり突破するのが良案のようにも思えるが。倒すのではなく、洞窟を抜ける。それが正解か。気付けば囲まれていた。
触れると痺れる(しっとりとしている)。体の自由がきかなくなる。単体相手であれば、動けなくなるほどではないにしても、複数相手では立つことすらままならない。
白鈴は状況から判断した。「数が多すぎる。出口を目指そう。ここを突っ切る」
目黒は動きを止め、彼女を見つめた。「出口? なにか策はあんのか?」
「長くなくていい。数秒でいい。ヒグル。できるか?」
「それなら簡単。任せて」
彼女の魔法は鬼を退かすことに成功する。
風で吹き飛ばし、そこに彼女は火を巧みに扱う。
あと残すは、その足で群れの外へと進むしかなかった。
逃げる途中、大きな「ししこ」がいたが、彼らは諦めたようで三人の前から洞窟内部へと姿を消した。
出口に辿り着くと、目黒は懸念を漏らした。「おい、洞窟にいた二人、兵士でも呼ばれたら厄介だ。先を急いだほうがいいんじゃねえか。喧しくなるまえに」
「それは問題ない」
「ああ? どうして、そんなこと言い切れる」
暗闇を抜け、明かりのともる山道を登ると、予定通り、一番月見櫓が姿を現した。白鈴は思わず立ち止まり、その美しい姿を眺めた。心の中で「もうすぐだ」と呟く。月見櫓は、『刀』がある場所として考えると、見事に調和しており、風流さをも感じさせる。
櫓の内部には「人がいる」という話だった。それと、外からの訪問者はこのところ見かけない。つまり、櫓にいる人物のほとんどは警備をしている者たちになる。サモンが調べた情報によれば、建物の大きさを考慮すると、警戒するには人の数は少数である。
星が映る澄んだ川の流れは橋の下をくぐり、その先には先ほどの洞窟へと繋がっているのだろう。白鈴は櫓の最上部には向かわない。月を眺めるために、この地を訪れたわけではない。
正面には見張りの姿はなかった。侵入は容易い。
とはいえ、ヒグルは警戒を強めていた。「なんとかここまで来たね」
「想定外はあったがな」目黒は内装に目をやりながら言った。
「人がいる感じは、ぜんぜんないね。静か」
「刀は、もう目の前だ」白鈴は確信している。あの日、監獄にはなかった、確かな感触があった。
「そいじゃ、ちゃっちゃと見つけようぜ。手に入れたら、とっととこっからおさらばだ」
彼らは立派な橋は渡らず、上階へと向かう。
二階にも人影はなかった。もしかしたら橋を渡った向こう側の建物にでもいるのか?
妙な空気が漂う中、目黒は呟いた。「当たり前っていえばそうだが、捕まったときの大湊城と比べると、拍子抜けするな」
ヒグルは首を傾げた。「やっぱ、城のなか、すごかったの?」
「そりゃ、ぞろぞろと、騒がしかったぞ」彼の表情には、あの時の記憶が浮かんでいた。
ヒグルは大湊城への潜入には加わっていなかった。ジロテツとサモン、そして彼を含めた三人で国の秘密を探っていた。彼女は目黒たちの意見に賛同して、仲間として手を貸していただけに過ぎなかった。
『国が、妙な術で、鬼を従えている』。
いつからか、鬼が頻繁に見られるようになったのは、そのせいだ。昔はそんなことはなかった。鬼のいない、狼に鹿、鳥、生き物がたくさんいた、自然豊かな国だった。
人の思いとは裏腹に、今では、あろうことか鬼と共に生きようとしている。
呑気なこった。
「あいつら、何を考えてんだか、わかったもんじゃねえ」
「目黒……」ヒグルはじっと見詰めた。その横で、彼は右腕の調子を確かめるように手のひらを上に向けた。傷が癒えていく感覚が、彼の心に複雑な思いを呼び起こす。体を『人ではないもの』に変えられてしまった今、彼は一層、大湊に対して不審を抱いていた。それは、もはや疑念を超え、確実に強い反感へと変わっていた。
広場を抜け、さらに一つ上の階を目指す。刀まではすぐそこだ。
見回りに見つかることなく、白鈴はそれらしき場所に辿り着くと、情報と直感を頼りに探し始めた。警備が厳重でないことを胸に留めながら、重厚な扉の向こうには何か重要なものが隠されているに違いないと、白鈴は強く感じていた。胸の奥で心臓が高鳴り、期待と緊張が入り交じる。彼女はその扉へと足早に、まるで運命に導かれるように向かった。
「あった。ここにあったか」
部屋に入ると、彼女は声を漏らした。間違いない。そこにあるのは、まさにそれだった。
ヒグルが駆け寄ってきた。「見つかったの? あれ?」
「ああ。あれだ。私の刀だ」
目黒もその場にいた。「ほお。あれがそうなのか。なんだ、あってよかったな。念願の再会だ」
白鈴は微笑みながら頷いた。「ああ」
「それなら、間違いないなら、さっそく返してもらうことにしようぜ」
埋火蝶陰影、彼女の刀、その刀は部屋の奥側で丁寧に飾られていた。白鈴とヒグルは、息をひそめながら近づき、その美しい姿を間近で見つめる。乱雑さとは無縁の、整然とした台の上に横向きに置かれた刀は、柄から切っ先まで気高い佇まいを保ち、その美しさと潔さで見る者を魅了していた。
白鈴は顔の布を取り払い、かげかげの前に立つと、腕を伸ばした。しかし、触れる寸前でその指先を止めた。何か引っかかる感覚があった。
「どうした?」と目黒が不思議そうに尋ねる。
「いや、気のせいか?」白鈴は微かに眉をひそめた。
「うん? なんだ、ちがったか?」
「どうしたの?」ヒグルも心配そうに声をかけた。
白鈴は首を振る。「なんでもない」
彼女は台の上からかげかげを持ち上げ、その冷たい感触を手のひらで確かめた。そして、現実を見つめ直した。長い間探し求めていたものだからこそ、心の奥から深い感動が湧き上がる。言葉にしようとしても、思いはうまく形にならなかった。
ヒグルは珍しそうに刀を観察していた。「その刀、なんだろう、全体的に細いのかな? 長さは、私が貸しているのと、あまり変わらないようにも見えるけど、細いよね」
目黒はじっと待っていた。「長さはともかく、大湊にある刀にしては、ちと細いように見えるな」
「だよね。遠くからでは、わからなかったけど」ヒグルは目を細めた。
白鈴は柄をしっかりと握りしめ、感慨にふけった。「この体には、若干柄が太い気もするが、これだ。懐かしい。私の手に、私に、これほどまでにあうものはない」
白鈴は鞘から刃を覗かせると、すぐに鞘に戻した。その刹那、周囲の静けさが一層際立つ。
白鈴はふと呟いた。「それにしても、かげかげ、少し痩せたか?」
ヒグルは小声で目黒に尋ねる。「わたしが知らないだけかな? 刀って、痩せるの?」
理解できるはずはなく、目黒は白鈴に問いかけた。「なにいってんだ。お前」
「そう、えっと、なんといえばいい」
「まあいい。それで、間違いないんだろう?」
白鈴は頷きながら答えた。「ああ。これだ。感謝する」
「なら、よかったじゃねえか」目黒は少しほっとした様子で言った。
場所は一番月見櫓。彼らは埋火蝶陰影が保管されていた部屋を後にし、通ってきた道を戻っていった。目的であった『刀』は無事に取り戻せた。あとは、城下町へ帰るだけだ。
建物の二階は静まり返っていて、「人がいる」ということを忘れてしまいそうなほど、誰の姿も見当たらなかった。薄暗い廊下を歩く彼らの足音だけが、静寂を破っていた。
目黒が口を開いた。「おい。随分と大切にされていたように見えたが、それは特別な刀だったりするのか?」
白鈴は頷いた。「特別だ。一本しかない」
「お前にとってはそうかもしれん。ただ、ええ、なんつうかなあ」
目黒は少し考え込み、言葉を探すように視線をさまよわせた。すると、ヒグルはその意図を汲み取った。「有名な人が打った刀かってこと?」
「そう。それだ。どうなんだ? どう見ても、どこにでもあるもんではねえだろ」
白鈴は腕を持ち上げて、かげかげを眺める。文句なし、手抜きのない一品である。
「言い方的には、お前のために、『昔のお前に合うように』、作られたように聞こえた。見慣れない細身であることも気になる。どうなんだ?」
「おぼえて、ない」
「ああ?」目黒は顔をしかめた。
「少しも? なにも?」ヒグルが問いかける。
「思い出せない」
白鈴は瞼を閉じた。大事なはずだ。それなのに、すっかり記憶から抜け落ちている。
『水の体』になってから、記憶は断片的となり、このままだと自分自身のことさえ忘れてしまいそうだ。自分ではなくなりそうで。そのときはどうなってしまうのだろう。
屋水、家族、姉……幸福などない。私にも、思い人はいたのか?
立ち止まっていた彼女は、俯くのをやめて顔を上げた。
ここが建物の二階であることを考えれば、何かおかしいと感じざるを得なかった。前触れもなく、月見櫓の壁が破壊されたのだ。壁を殴って入り込んだわけではなく、その侵入の仕方は獰猛で、勢いがあり、どこからか力強く跳び込んできたことを物語っていた。
破片が飛び散る中、三人は大きく慌てる様子もなく(声を上げて驚いたが)、その者へと目を向けた。目黒の声は誰よりも大きかった。
「なんだあ? こいつは。洞窟にいたのとは違うよな」
「どう考えても、敵だよね。鬼だ」
白鈴は無言で刀を抜いた。味方かどうかを問うまでもなかった。
目黒は鬼を見上げながら言った。「逃げるって選択は?」
「逃げ切れるのか?」
「いいぜ。やってやろうじゃあねえか」
迫力のある登場を果たした鬼は、明らかに異様な姿をしていた。まず、頭部らしきものが見当たらない。左腕も失っているように見えた。
その外見は猿を思わせた。茶色で毛深く、目黒でも見上げるほどのでかい図体をしている。猿だけあって腕が長い。
首の上がない。しかし、断面が見えているわけではなかった。頭の代わりに、そこには洞窟で散々見かけた「ししこ」が乗っている。黒い体に、黄色い二つの目が光っていた。そのため、「ししこ」が体を伸ばせば、鬼の首がぐねぐねと伸びているように見えてしまう。
左腕もまた、「ししこ」のようだった。失ったところから、にょきにょき生えてきた。見た者であれば、そんなふうに表現できるだろう。
頭部が、「猿」を操っているようには思えない。そうではなく、おそらく寄生している。「宿主」と「寄生者」との関係であって、我慢できず追いかけて、洞窟での仕返しをしに来たわけではないように思える。猿らしく、鬼らしく、性質は荒々しく、左腕の部分までもが武器として使われている。
「やっぱ大湊は、鬼を従えてんな、こりゃあ。ここにいていいもんじゃあねえ」
人とは比べ物にならないほどの力を持つ三人でも、櫓内部での戦闘は苛烈を極めた。鬼は壁を破壊してきただけあって、屈強なる体格を有している。
長い腕をさらに自由に伸ばす。あるいは縮ませる。左腕だけではなく、猿の右腕もそうだった。それから、たとえ折り曲げられようとも、痛みを感じているようには見えない。
掴まれた場合、抵抗は難しい。特に左腕については、触れれば「ししこ」の影響で体の自由を失った。
ヒグルの魔法は、効果があるように見える。
刀でいくら斬られようと、鬼の負った傷は癒えている。
白鈴は狙いを定めて近づいた。「これで終わらせる」
探していたものは見つかった。あとは、感覚を取り戻す。
「この重み、お前に耐えられるか」
一閃、その鋭さ、精確に振り下ろされた。猪武者。
鬼の肩に、ようやく刀傷が残される。
どれよりも苦しみが窺える。猿はその場で姿勢が低くなり、上半身を床に激しく打ちつけた。
「ほらよ。もういっちょだ」
飛び上がっていた目黒が天井を蹴り、そのまま鬼の背中を殴りつけた。
床は突き破られ、音は鳴りて、崩れて、下の階へと落ちてしまう。
「よっしゃあ」
鬼は一階へと叩き落とされても、なお対抗する意思が見て取れた。さすがは「鬼」といったところだろう。傷は癒えずとも、立ち上がろうとするその威勢、劣ることなし。
とはいえ、「猿」も「ししこ」も、最終的にはヒグルの魔法によって焼かれてしまう。
「なんなの? この鬼」ヒグルが呟いた。
それに答えたのは目黒だった。「さあな。つまるところ、警備の一人、って感じじゃあねえか」
ヒグルは疑いの表情を浮かべた。「この鬼を? そんな。言うこと、聞くのかな? 聞いてたのかな?」
「でなければ、普通退治されてんだろ。放っておくわけがねえ。いったいどんな方法かは知らねえが、縄もつけず放置していいもんじゃねえよ」
「それか、偶然か」白鈴は懐疑的な視線を向けた。
「偶然かあ? 俺たちが刀を持ち帰ろうとして、俺たちの目の前にわざわざ出てきたんだぞ。どう考えても」
白鈴は黙ってしまう。天井を見た。容易に勝てる相手ではないことは、誰の目にも明らかだった。
ヒグルは納得したようだ。「そう、だよね」
白鈴は一瞬立ち止まり、周囲を見渡してから歩き出した。「急ごう。また同じものが現れたら厄介だ」
「そりゃあ……。勘弁してほしいよな」目黒は苦笑いを浮かべながら、彼女の後を追った。
もう階段を下りる必要はない。彼女は布で顔を隠し、正面の入口を目指した。この騒ぎで、人もやってくるだろう。目黒が言うように、もし命令を受けてやってきた鬼であるとするなら、侵入が発覚していることになる。
だが、それにしても、騒ぎがウソであるかのように、一番月見櫓はひっそりとしている。取り囲まれてはいなかった。
櫓の正面入り口、橋のある場所まで、彼らは何事もなく辿り着く。
そこで白鈴は立ち止まる。橋の向こう側から、思わず息を呑む光景が目に飛び込んできた。
「あれは……」
緊張が走り、周囲の音が遠のく。白鈴の心臓は高鳴り、冷たい汗が背筋を伝う。目の前の景色がぼやけ、彼女の意識はただ一点に集中していた。そんな彼女の様子に、目黒は気付いた。
「おっと。どうした? 敵か?」
「白鈴?」ヒグルも彼女の視線の先に目を向けた。
「大湊……」と白鈴は言った。彼女が見つめるその先には、橋を一人で歩く大湊真道の姿があった。大湊の国、現当主である。まるで重い運命を背負っているかのように、堂々とした佇まいで橋を進んでいた。その姿は、周囲の空気を変えるほどの威厳を放っていた。
「おいおい。なんでやつがここにいる」目黒は驚きに満ちた声で問いかけた。
「どうして」とヒグルは呟いた。「どうして、火門が、こんなところに」
白鈴は何も言わず、静かに刀を取り出した。そして、橋の方へと歩き出す。
ヒグルは名を口にして、彼女の後を追った。
白鈴は冷静な口調で問いかけた。その瞳には揺るぎない思いが宿っていた。「火門だな。この夜に月見櫓で、一人で、なんの用だ」
「おまえ、その刀」
「答えろ」
彼は口を閉ざす。刀に意識を働かせてから、相手の顔を見据えた。
目黒もまた、大物と出会えたことに心を躍らせていた。「これはこれは火門殿、ちょうどいい。俺も直接、お前にはたくさん聞きたいことがある」
「ムジナどもに話すことは何もない」
「ムジナだとお? 人の体を勝手にいじっておいて、ムジナとは言ってくれるじゃねえか」
「城に足を入れなければ、そうはならなかった。ではないのか」
月明かりが二人の顔を照らし、不穏な影を落とす。目黒の表情は険しく、怒りと不満が交錯していた。周囲の静寂が、彼の声を一層際立たせる。
「お前らが黙って、裏でコソコソやってんのはわかってんだぞ。消し去るのではなく、鬼を従えている。これからもこの国は鬼が増える一方だ。そこにどんな未来が待っている。民は、黙ってはいられねえぞ」
「誰が、お前の言うことを信じる?」
「また戦争でもやろうってのか?」
「私は、名は白鈴」彼女は顔の布を取り去り、その姿を晒した。冷たい風が彼女の髪を揺らす。目は鋭く光り、言葉は刃のように鋭かった。「三年前に、お前に姉を殺された。この顔を忘れたとは言わせない」
目の前にいる男は、過去の影を背負ったまま、冷淡な表情を崩さなかった。
「……知らないな」彼は無関心な声で答える。
「知らないだと?」白鈴の声には、怒りが滲んでいた。
三年の歳月が経過しても、彼女の記憶は鮮明だった。あの瞬間、あの夜の出来事が、今も彼女を苦しめている。どうしてそんな態度が取れるのだろうか。
覚えてない、というのか?
「白鈴?」ヒグルは、前に進む彼女を不安そうな目で見守った。
「かげかげは取り戻した。あとは……」彼女の言葉には、過去の苦しみが色濃く反映されていた。
目黒はその様子から彼女の心情を察し、心配そうに声をかけた。「おい。行くのか?」
白鈴は一瞬、言葉に詰まり、視線を遠くに逸らした。彼女の表情には強い覚悟が感じられる一方で、同時に不安も漂っている。目黒はその葛藤を見逃さなかった。
「先に行け。邪魔はするな。これは。私とやつの――」白鈴が言いかけたその瞬間、目黒は彼女の肩に手を置いた。国の暴走を止める機会でもあるが、彼の表情には共に戦おうという意志は見えなかった。ただ、彼女を止めたい気持ちが隠れている。
「お前と、酒が飲みたかった」目黒は少し間を置いて、静かに言った。
「……飲めばいいだろ?」
「だな。そうだよな。わかってる。わかってるぜ。だよな。――おい、白鈴。いい酒。用意してるからよ」
「あとを頼む」そう言って、白鈴は鞘から刀身を引き出した。冷たい金属が彼女の手に収まる。彼女は一瞬、目を閉じ、心を整えた後、力強く前を見据えた。
目黒は振り返り、立ち尽くすヒグルに声をかける。「行くぞ」
「でも……」
「こいつが先に行けって言ってんだ。信じようぜ」
ヒグルはしばしためらったが、彼の言葉に背中を押されるように頷いた。二人は一番月見櫓を後にし、感情を抱えながらも、相手の意向を汲み取って進んだ。
橋の上で、大湊真道が刀に手をかける。「子供であろうと、刃を向けるのであれば、容赦はしないぞ。それは遊びの道具ではない」
白鈴は静かに応じた。「それを、私に言うか?」
「その刀、返してもらうぞ」
「これは私のだ」
「お前の物ではない」
彼女は構えを取り、小さく息を吐いてから止めた。猿との戦いを経て、少しずつ感覚が戻りつつある。借り物では叶わなかったことが、今ここで試されるのだ。
この一瞬に、すべてをかけた。
彼女は力強く突進した。しかし、真道の反応は驚異的だった。彼の動きは滑らかで、彼女の攻撃を華麗に捌いてしまう。
「これは……」と真道が思わず声を漏らす。白鈴は距離を置き、冷ややかな目を向けて問いかけた。
「思い出せたか?」
「いや」
それは、二つの太刀筋に分かれていた。まず一つは、相手の首を狙う見えない一手。風のように颯爽と舞い、空気を裂く鋭さを持つその一撃は、流れる水の如く滑らかだった。しかし、その一撃は巧妙に受け流され、水しぶきが立った。川面に小さな割れ目が生じるほどの衝撃が走った。
その直後、少し遅れて白鈴が詰め寄る。彼女の心臓は高鳴り、まるで鼓動が耳の中で響くようだった。止めとして接近したその刃は、相手の防御を掻い潜ろうとしていた。そこをあと一歩のところで受け止められてしまった。真道の冷静な眼差しが、彼女の微細な動きすら見逃さなかった。
夜の風が彼女の髪を撫でる。ここで終わることはない。よって激しい攻防が繰り返される。橋の上、跳んだりと、川も穏やかではない。
「なるほどな。いい腕だ。女とて、仕官して欲しいぐらいだ。だが――」
真道の方が一枚上手だった。
「やはり、鬼か」
白鈴はその力量足らず、身を斬られてしまう。惜しくも散る。
胸の傷が治らない。彼女は手を当てながら服を掴み、次第に熱く感じる激痛に耐える。
「そうだ。大湊。このからだは。私は、鬼だ。死ぬに死ねん」
震えながら、欄干に寄りかかる。
「しかし、お前も。おに、らしいな」
白鈴は冷たい水の中にその身を投げた。
真道は眺めて動かない。しばらくしてから、刀を鞘にしまう。
「追え。生かして捕らえろ」