第2章「水の体 城下魔法使いの心」
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大湊の城下町の東に、この国ではいかにも珍しい「魔法使い」がひとり住んでいた。背が高く、金色の長髪を持つ彼女は、土地によっては忌み嫌われる魔法使いにしては特に変な噂が立たない女性である。彼女の名はヒグル。生まれはこの国ではなく、遠くから移り住んできたことがわかる見た目をしている。
魔法使いは、城下町の東、国の中心部から特に離れた周辺部に家を構えていた。そこは「占いの館」、占い所アルカナであり、現在、彼らの企みを巡らす根城となっている。
今朝、白鈴はヒグルに会いに行った。彼女と話したいことがあったからだ。
ところが、占い所アルカナに到着してみると、ヒグルの姿はどこにも見当たらなかった。
魔法使いの代わりに、サモンとジロテツがいた。二人は客ではないようだ。昼夜を問わず、もともとアルカナには客が訪れることはほとんどない。暖簾をくぐる者はいない。正直に言って、日々賑わっているようなお店ではなかった。店の主人であるヒグル自身がそう口にするほど。占いは必要とされていないらしく。
白鈴は待ち時間の間、嫌な予感がしていた。サモンの態度がどこかおかしい。
「ああ、ダメだ。やっぱり、気になっちゃう」とサモンが言った。彼女の視線は白鈴に向けられ、白鈴の特殊な体に対する興味が滲んでいた。「ねえ、『水の体』ってどんな感じ? 少しだけでいいから、教えてくれない?」
ジロテツが口を挟んだ。「お前な、それっ。ついさっき、『聞かないことにする』と言ってただろ」
白鈴はそんな会話をした覚えはない。そのとき、彼女はいなかった。
サモンは少し困ったように振り返り、「そうなんだけどさ。深く触れないように、と思っていたんだけど。でも、知っておくことも大事なんじゃないかって、思って。そんな気がして」と続けた。
ジロテツはため息をついた。「体のことなんだぞ。軽いものでもない。根掘り葉掘り尋ねなくていいだろ。『水の体』。それで十分だ」
サモンは押し黙るが、彼女の気持ちは揺らがなかった。
「ごめん。ずっと気になってた。教えて、くれないかな?」
白鈴は一瞬考え込み、ゆっくりと答えた。「わかった」
「いいの?」とサモンが不安そうに尋ねる。
「いいのか?」とジロテツも続けた。
「ああ。もう隠す必要もない」
彼らは占い所アルカナの戸をしっかりと閉め、外から覗けないように工夫を凝らした。秘密にしておくのが望ましいだろう。
念入りに準備が整ったところで、白鈴は「人」の姿から「液体状」へと変わり始めた。まるでさなぎが蝶へと生まれ変わるように、サモンはその変化に目を奪われ、思わず口を開けて固まってしまった。
「『スライム』だっけ? つまり、なんなの?」サモンが驚きを隠せずに尋ねた。
「俺に聞くのか?」ジロテツは戸惑いながら言った。「ええっと、こういった感じのを、そう言うってことではないのか?」
驚くしかないだろう。先ほどまで「女」がいたはずなのに、今は目の前に『水のかたまり』がある。三人で室内を歩いていたのに、身にまとっていた衣服は消え、柔らかく、まるでお餅や団子、さらにトンボ玉や水晶玉のように透き通っている。言い方はそれぞれだが、どれも彼女の本質を示している。
「それで合ってると思う」と白鈴は静かに言った。彼女の声には、確信が含まれていた。
「前に、少し見せてもらったときも感じてた。綺麗、だよね。透き通ってる。まさに水って感じ。井戸水というか、滝壺の水というか、川の水というか」サモンは言葉を探しながら続けた。想像を掻き立てる白鈴の姿に、思わず心が躍った。
「ぜんぶ、同じだろ?」ジロテツは冷静さを取り戻しながら言った。
「ねえ、着てた服は、魔法?」サモンは魔法について詳しいわけではなかった。
「刀と一緒だ。いうまでもなく、服は私の体ではない」
「とつぜん取り出したり、ぱぱっと消えちゃうから。いいよねえ。『魔法』って便利そうで。ヒグル見てて、いつも思う」
この建物以外では、彼女は力を使わない。ふとした場面を見たのだろう。
「自由に、体が動かせるんだな」ジロテツは、サモンほど近付こうとはしなかった。少し警戒しながら、その様子を見守っているようだった。
「この姿でも、人の体のようにはできるからな。物を持つことだってできる」
衣服も、刀も、それで雨にあたってずぶ濡れみたいにもならない。
「ねえ。触ってみても、平気?」サモンはそう言いながら、わずかに距離を縮めた。
「……好きにしろ」
「やった。……では。さっそく失礼するよ」サモンは嬉しそうに、じわじわと近づいていく。
一方で、白鈴は奥底で不安や恐怖を感じていた。彼女は心の中で葛藤し、サモンが自分の姿に触れることへの緊張感を抱えながら、口を閉じ、身構えて待っていた。サモンの手が、丸みを帯びた液体の表面に触れる。柔らかく温かい感触が彼女の中に広がった。
「女の手だ」と、彼女は思った。
「あっ。ああ、なんていうの? ぷよぷよ? ぷにょぷにょ? ぷにょぷにょしてる」サモンは目を輝かせ、驚きと興奮の声を上げた。
彼女は両手でその表面を優しく押したり、撫でたりを繰り返し、まるで新しい感触を楽しんでいるかのように、顔には笑顔が広がっていた。
「水かと思ったけど、水ではないね。何に近いと言われると、なんだろ? スゴク困る」
「ああ、あのな。サモン?」
「ジロテツも、触ってみて。すごいから」
「いや。俺は遠慮しておく。それよりも、だ……」
「わっ。入った。なにこれ。なにこれ。すごっ。おもしろい感触」
ジロテツは少し呆れた様子で言った。「サモン、落ち着け」
「あっ、そんな、まって。もうすこし。もうすこしだけ」
彼女の手から逃げるように、白鈴は身を引いた。しばしの無言の後、ようやく口を開いた。「手は、入れないでくれ」
「えっ。あっ、ああ、そうだよね。ごめん。調子乗った」
白鈴は何も言わない。どことなく、ほんのりと動きに元気がなかった。微かなためらいが見えた。
「あれ? もしかして、畏縮しちゃってる?」サモンが冗談めかして尋ねると、白鈴は少し驚いたように顔を上げた。
「だれがっ」彼女は反射的に言い返したが、その声にはわずかな震えがあった。
サモンは自分の手のひらを一瞥し、「からだ、戻すの?」と確認した。
「もう十分だろ? まだ触りたいのか」
「それなら、戻す前に、いいかな。確認。困ることとかあったりする?」サモンは真剣な眼差しで白鈴を見つめた。
「困ること?」白鈴はその問いを繰り返し、困惑した表情を浮かべた。
「人の体ではなくなった、って言ってたよね。なにか、力になれるかもしれないから」
「ないな」
「ほんとに? あるでしょ?」
「んじゃ、俺からも」ジロテツが軽く手を挙げる。「非常にお節介かもしれないが、言っておいたほうがいいと思うぞ」
「――ない。ただ、そうだな」
「ただ? なに? なに?」
「あるとすれば、眠る時は、この体でないと眠れない。そのぐらいか」
「いつも、その体で、夜寝てるの?」
「そうでないと眠れない」
「人の体では眠れない、か」ジロテツは眉をひそめた。「何かそれらしい原因は思いつくか?」
白鈴はなんとか絞り出した。「落ち着かないから、だろうか」
「それは。よほどだな。簡単にはいかなさそうだ」とジロテツは苦笑いを浮かべた。
水の体になってから、白鈴には特有の症状が現れた。それは逆に言えば、水の体であれば「落ち着く」ということでもある。実際、彼女は人間の姿でいるよりも、今の姿の方がずっと安らぎを感じていた。
『長くその姿で暮らしていた』ともなると、そうなるのかもしれない。
人の体ではどうやったって無理だとしても、その体だとさ、たとえばちょっと大きめの瓶とか、壺に、体が入りそう。歳月が生み出した風合い、気品ある佇まい。サモンが(いますぐここで試そうというわけではないだろうが)室内にある「壺」へと目を向けていると、秘密にしようとしていたであろう店の扉が開いた。
それの持ち主だ。魔法使いヒグルだった。
「白鈴はいる? 話があるんだけどね。って、なにやってるのさ?」
大湊城の城下町東側、静かな山林に恐ろしい「鬼」が現れた。最近になって、その鬼は周囲の森を活動の拠点としている。現状、死者は出ていないものの、不運にも出くわして傷を負った者がいる。
今朝から外出していたヒグルは、持ち金がほとんどない白鈴のために、そのような仕事を引き受けてきた。幽鬼退治である。
二人は軽快な足取りで山林へと向かう。
「お金がないんでしょ?」とヒグルが白鈴に尋ねる。その声には、彼女を思いやる優しさが込められていた。
仕事探し。当分のあいだは、この国にいようと思っている。白鈴にはどれだけ危険に溢れようと、山深き大湊から離れて別の国に行く予定などなかった。
「お金がなければ、なにをするにしても困る。その体で、どうやって稼ぐか。自分に何ができるか。存分に活かさないと」
国の状況を見渡せば、占いよりはそれは稼ぎになりそうだった。白鈴にとって、得意分野でもある。
それより、とヒグルは言う。「『救出作戦』、どうだった? うまくやれたの?」
「それは帰って、伝えただろ?」
「聞いたよ。目黒からも。そうではなくて。みんなと、うまくやれたかってこと」
白鈴は答えに迷った。正直なところ、自分でもよくわからなかった。
ヒグルは少し考えた後、口を開く。「まっ、さっきの。自分のこと、少しでも話せてるようなら、うまくやれてたのかな」
「そうかもな」
「顔。隠してよかった?」
それは彼女の意見だった。しつこく、そうしたほうがいいと。
「どうだろ? 隠して、よかったのではないか」
「言ったとおりだったでしょ」
「この体では。おそらく、少しも信じてはもらえなかっただろう」
救出作戦の日を思い出し、白鈴は「つり橋」や「かかしとの戦い」の情景を鮮やかに思い浮かべた。揺れるつり橋の感触や、かかしとの激闘の迫力は、彼女の中に深く刻まれている。そして、白鈴は続けて大事な話があることを思い出した。そう、起床してから、占い所アルカナを訪れた理由だ。
「ヒグル。刀の話をさせてくれ」
彼女は目を見た。「なに?」
「もう一度言うが、あそこに『刀』はなかった」
「しっかりと探していないんでしょ? そう聞いたよ」ヒグルは少し首を傾げ、白鈴の反応を待った。
「私にはわかる。あの場所には、どこにもなかった」
埋火蝶陰影(かげかげ)。別名、招き蝶。
隅から隅まで探していないのは確かだった。そこまでの余裕はなかったし、監獄、この中にあるとは思えなかったから。だから、捕らえられた目黒を優先させた。
「私が貸したやつでは、ダメなの?」
「ダメだ」
これは、私の刀ではない。故に、承服できなかった。
白鈴は真摯な眼差しを向ける。「あそこにあるという話だった。探す手伝いをする約束。協力する対価として」
「わかったって。心配しなくても。探してる。待ってて」
「部屋も借りている身で、面倒をかけているとは思う。だが、そこは譲れないんだ」
白鈴が着ている衣服は、実はもともとヒグルが持っていたものだった。その所持している刀だけではない。理由を簡単に説明すると、白鈴もまた誰かと同様で、彼女と出会ったときには服を着ていなかったからだ。何も持っていなかったのである。
川で衰弱した白鈴を壺に入れて、占い所アルカナに持ち帰ったのは、最近の出来事だった。
山道を、はらはらどきどきしながら帰った。
そんな急いでどうした。天気予報を外す若い占い師さんや、こりゃまたずいぶんと大きな荷物を抱えてるな。城下を歩く、町の人に言われたものだ。(下駄占いのほうが当たるとかなんとか)
ヒグルは白鈴に尋ねた。「町には慣れた?」
「それなりには。わからないことも多いが」
「白鈴と出会って、時間は経った。この国のことも、だいたい理解してきた?」
「サモンたちからある程度はな。驚いたものだ。私の知らないことが多かった」
「いわば三年の眠りから覚めたようなものだからね」ヒグルは微笑み、軽く頷いた。「私でも、この数年で、色々と変わったように見えるもの」
「巨大な骸骨とは、ほんとうに三年前から姿を現したのか?」
「そうだよ。当時は、大騒ぎだった。誇りある侍たちでも、楽に勝てるような相手ではなかったから。好き放題、好き勝手、大混乱、大変だった」
白鈴は静かに考え込み、目を細めた。「私には、記憶にない。それを知らなかった」
「そっか。そう、それなら。火門。先代の先代については? 病で倒れたという。これもその頃、統制されてもおかしくないものが、城下まであっという間に広がっていたけど」
「それは知ってる。母から教えてもらった覚えがある。衝撃だった」
大湊忠文、七年前に我が子を戦で亡くして、それから再び長くこの国の当主であり続けた人物である。既に家督を長男である孫に譲り隠居しているが(そう聞いた)、未だその名声は変わらずだろう。
あれは四年前、国の終わりだと言われたものだ。
「知ってるんだ。だとすると、そうだ、『おにごころ』というのは?」
「おにごころ? それはなんだ?」
「今の火門がそう呼ばれている。大湊真道がね」
『三年の眠り』。この表現は決して間違っていないだろう。なぜなら、白鈴は長い間、身動きの取れない「閉ざされた空間」の中で、ひっそりとその命を維持してきたからだ。言葉も届かず、太陽の光も差し込まず、想いさえも届かない。場所は、大湊城内に設けられた学者のための隔離施設である。
三年前、彼女は死んだはずだった。北東にある屋水で、何者かに命を奪われたのだ。
賊どもだ。斬った相手の顔は覚えていない。逃げ切ることも叶わず。
母は死に。兄は。燃え上がる炎。夜。屋水。最後。どうしても記憶が曖昧となる。
しかし、三年の月日が流れようとも、決して忘れることのできない記憶がある。
私の姉は、私の目の前で殺された。大湊の国、現当主、大湊火門真道の手によって、その命は奪われた。あの日の衝撃は今も忘れられず、無力感と怒りで胸が苦しくなる。
姉は、大湊と深い恋仲であった。それなのに、やつは。姉は、あれほどまでに恋い慕っていたというのに。
賊に襲われ、白鈴が目覚めて最初に目にしたもの、それは硬く冷たい硝子だった。透明な壁に囲まれた小さな箱で、押そうが叩こうが壊れることはない。
透明な壁の外、部屋の中には数人の人々が立っていた。彼らは菓子を運ぶ蟻のように忙しそうに動き回り、毎日飽きもせずに熱心に言葉を交わしていた。
水槽にいる白鈴は、出口のない状況の中で、自身の状態を正しく認識するのに時間がかかる。彼女が自分の体に意識を向けるのは、何度か眠った後のことだった。
なんだこれは? 私はどうなってしまったんだ? あの夜、姉は私の手を引いて、神社まで。
早く気付くべきだった。なんとはなし、人が大きく見えていたであろう。ここは狭く窮屈だと感じていただろう。ずっと眺めていただろう。刀も奪われ。
彼女は『人の姿をしていなかった』。これではまるで――。
時には、からだを触られ。体に力も入らぬ。
ある時、老婆が施設内にやってきて、こう口にする。「スライム」と。
どれを指して言っているのか、すぐにわかった。
水槽を見て、老婆は口にしていた。
ある者は、「鬼」と呼んだ。
水槽から逃げ出して、彼女は思う。
姉さんは……そうか。私は人ではないのか。そう言っていたな。鬼か。だろうな。
体が縮んでいる(人の姿を取ろうとしても)。幼くなっている。
昼過ぎ、白鈴とヒグルは幽鬼退治の現場となる山林に足を踏み入れた。目撃情報をもとに探し始めたが、周囲には特に脅かすような幽鬼の気配は感じられなかった。
生い茂る草木の音が響き、鳥のさえずりが耳に心地よく届く。木々の隙間からは猪の姿がちらちらと見え隠れしていた。
「すぐに現れるだろ」と白鈴が言った。
空は晴れていた。雨が降りそうなようすはない。
刀を取り出していると、ヒグルが話しかける。
「間関の里より遠い所の話になるけど。少しだけ怖い話。聞く?」
「怖い? それはなんだ?」
「大蛇の話。大蛇がいるのは、知ってるよね」
「枯れ谷を住処にしている『白蛇』のことだろ?」
「その大蛇が、聞くところによると、毎年、若い健康な女を集めては、食べているらしい」
「枯れ谷に怖い話は昔からあるが……、地主神だろ?」
「さてね。神様が落ちるところまで落ちてしまったのか。白蛇信者が、この世に絶望しているのか。毎年、若い女のひとを、ひとり捧げてんだとか」
枯れ谷にまつわる、大昔からある怖い話のなかには、「若くて健康な女を捧げる」というのはあった。本で読んだことがある。
鬼が溢れている。人と同じで、大地主がいまの世のありさまを嘆いているのだろうか。
白い霧が忍び寄り、あっという間に二人を包み込んだ。注意していたところで、視界が遮られ、逃れることはできなかっただろう。山の中を闇雲に駆けたとしても。
ヒグルは不安そうに辺りを見渡し、静かに名を呼ぶ。「……白鈴」
「いるな。近い」
「霧が、出てきた」
すると、前方に岩のように巨大な黒い影が現れる。それは、探していた『鬼』のようだった。
「走るぞ」
前に影はあれど、後方に気配があった。前ではない。複数であり。足音が一つではない。
いつまで走るつもりなのか(魔法使いは走りたくないようだった)。追いかけられている――ずっとこのままは、不味いよ。そんなことを相談していると、白鈴が先に行動する。もうよく走った。「見せ掛け」としては不足のない出来である。彼女は意表を突く思いで反撃を開始する。飛び込んだ。
刀は確かに触れる。手には、斬った感触があった。
「消えたな」白鈴はそう言うと、当たった刃の部分を眺めた。
「仕留め損ねた?」
「本体がどこかにいる。探そう」
短い間ではあったが正体を知れた。微かに見えた。手のかかる相手ではない。
このようなところに現れる理由もよくわかる。どんなことに怒りを感じているのかはわからないが。放っておいても、消滅することなく、被害者は増えるだけとなるだろう。
霧でも、晴れたらな。白鈴は思う。
ヒグルは足元を気にしていた。汚れてしまったのが不満なようだ。
「ほんと、頼りになるね。まさか、侍ではないだろうし、どこで剣教わったの?」
占い師見習い、そう口にした町の男に似たことを言われた。頼りになると。
しかし、どこをどうやったら、これが姉妹のように見えるのだ。
「覚えてない」
「そっか」
兄だろうか。白鈴は思い出そうとして、首を横に振る。屋水に侍?
「話の続きになるけど、今年もあるらしいよ。近いうちに。『一人』選ばれるらしい」
「白蛇のことか?」
「うん。そうみたい。そういう噂」
「悲しいな」
ヒグルは間を置いて、「そうだね」と言った。
魔法使いはその後、黒い影、つまり「幽鬼」について話そうとした。けれども、具体的なことは何一つ、言葉も、仕草でさえ見せなかった。とにかく手伝うつもりはないようで、「鬼とは、どうやって戦うつもりなの?」と尋ねた。
白鈴は霧のなかを道のりに沿って歩いた。ヒグルには傍にいてもらう。彼女が知らないうちに離れるとは考えられないとしても、警告だけはする。彼女を一人にしても平気だろうといえばそうかもしれない。ヒグルであれば困難でもやり遂げるに決まっている。魔法使いがこのような場所で「力」を使ったとて、隠し続けている秘密が町の人に露見したりもしないだろう。
ヒグルは手助けはしないかと思われた。ところが、そうでもなかった。道すがら、鬼の誘いに乗らず、魔法で水をぶつけて追い払っていた。
「崖か」
白鈴はそう言って立ち止まった。本体を目指して進んで、この場に行きついた。霧が晴れるようすは相変わらずない。
「悪意だけとは、思えないんだよね」
「このままというわけにもいかないだろ」
白鈴は振り返り、相手の態度がわかるまで静観する。
「助太刀は、邪魔かな?」
「ああ。追い払ってくれただけでも、もう助かっている」
白鈴が来た道を戻ろうとしていると、求めていたその気配は霧の中に突然と現れた。
そこで、長く息を潜めていたかのようだった。木の葉にでもなりすまして、窺って。
白鈴は刀で攻撃を捌ききれず、大きな頭にはね飛ばされてしまう。
いつからそこにいたのだろうとだれもが思うだろう。眼前に姿を見せたのは、死骸と呼ぶにふさわしい見た目の猪だ。
図体を大きく見せている。生きているとはとうてい思えない。
鬼は苦しみと憎悪のまじった声を辺りに轟かせる。
白鈴は刃を構え、言った。
「守ろうとするものまで、ここを離れてしまう。それは望んではいないはずだ」
息荒く、激しく、突撃する鬼。彼女は迎え撃ち今度こそ受け流す。
そうして、彼女は一太刀浴びせた。
「そうだろ。お前たち」
白鈴は「幽鬼退治」を終えると、ヒグルと共に山を降りた。途中、川に目をやり、血、臭いを想起する。ふと自分の腕に視線を向けたとき、高い鳥の声が耳に入った。
大湊では今やありふれた光景。それは恐ろしく、とても悲しい。
とくに怪我はなし。ちょっとばかり山道を走っただけであり、疲労があった。
白鈴は林の風を頬に感じている。葉音があった。そこでヒグルは声をかける。
「お仕事、終わったね。町に来て、初めてのお仕事。あっ、初めてではないのか。とにかく、これでばっちり働いた分の報酬はもらえると思う」
「そうだといいが」
「大丈夫。鬼で、困っている人はいっぱいいるから」
ヒグルはそう言うと、上のほうを見た。濃く白い霧はとっくに晴れている。木漏れ日、木の枝葉からは太陽の光が漏れていた。
困っている人はいっぱい。どう考えても、喜べる状況ではないだろう。
「言ってなかったかもしれないけど、私も、占い以外に、『困りごと』を仕事にしている。稼ぎだけみたら、こっちのほうがお金になるぐらいだよ」
「鬼は、減らないのか?」
「減らないね。平和を守る。それだけでいっぱいいっぱい」
これが当然だと考えてはいけない。人々が口にするように、色々と変わった。色々と。
「私もそんなに手伝えるわけではなかったし。魔法使いはみんなには秘密だから。これからは私の代わりに、白鈴がやってみたらいいと思う。平和を守るお手伝い。ちょうど城下で、生計を立てる手段を探していたわけだしね」
「紹介してくれて助かる」
「いえいえ。たいしたことじゃない。私もあれこれと手伝ってもらってるからね。助け合いは、大事だよ」
「もう、この仕事はしないのか? 魔法使いが秘密というのはわかる。だが」
「もちろん。その時があれば、私もね」
「ヒグル。占いだけは、きついと思うぞ?」
占い所アルカナが繁盛しているなら、そのような心配もいらない。
「修行が足りてないだけだから」彼女は意地を張ってそう言った。
城下町とは遠く離れた場所に住む鬼の話を聞く機会があった。城下に暮らす人々が、口にしていた。よその国のことばかりを考えている状況でもなくなったようで。
「あと、『刀』さえあれば」と白鈴がしばらく俯いて首を横に振っていると、敵意のない視線を感じる。ヒグルが大きな鏡でも見るように見詰めていた。
「白鈴。手を貸してくれる?」
「なんだ? また手相でも見るのか」
占い所アルカナで、一度彼女には手相を見てもらっている。白鈴は初めは拒んでいた。縮んだ体。ヒグル。過去は変わらない。失ったもの、失った時間。それで何がわかるというのか。当てにはしていなかったからだ。
このたびは、粘らない。素直に手を差し出した。
「在り処でもわかれば。言いたくないが。外れてるぞ。書を読もうと、何度試そうと」
黙っている彼女の顔はいつもより硬く、目がどこか遠くを見つめているようだった。
白鈴は手に走る痛みを堪えきれず、思わず声を上げた。「いたっ。なにをする?」
「よくもまあ。この手で、刀を振り回せるね」ヒグルは冷ややかな口調で言った。
「ヒグル? どうした?」白鈴は不安を抱え、彼女の意図を探ろうとした。何を考えているのか、全く読めなかった。
魔法を使っているようだ。手を放そうとはしない。魔法もやめない。
白鈴は訴えた。「いたい。やめてくれ。悪いこと言ったなら謝る」
振りほどこうと思えば、それも簡単にできるのだろう。へし折るように、強く握られているわけではない。もしくは、人の体をやめて水にでもなってしまえば、逃げ出せる。
白鈴は暴れず、言葉だけを伝えた。相手が自らやめることを望んでいた。
「ごめん」とヒグルはようやく手を離した。
「謝るぐらいなら、最初からするな」
「ねえ。どうして、私が救出作戦で顔を隠したほうがいいと言ったかわかる?」
「それは、私が子供にしか見えないからだろ?」と白鈴は少し皮肉を込めて返した。
「うん。そう」とヒグルは頷いた。
「いったい、どうしたんだ? 急に」
「その。そう。そんな小さな手じゃ。刀は満足には握れない」
白鈴は自身の手に目をやった。それから相手の顔を見た。
「今貸してる刀も、大きいんじゃないの? その体は、背が低く。全体的に華奢で。軽い体」
ヒグルは悲哀に満ちて見下ろしていた。彼女はなにを伝えようとしているのか。
「三年前に、白鈴がどんな姿をしていたのか知らないよ? でも、自分でも気付いているんでしょ? 鬼を倒せるほどに鮮やかではあっても、洗練された動きではない」
「それは」白鈴は言いかけて言葉を詰まらせた。
「ものが大きいから、それだけ余計な力がいる。目線が低いんじゃないの? すべてのものが大きく見えるんじゃないの? 階段ひとつだって」
ヒグルは腕を伸ばし、ふたたび白鈴の手を取った。
「いい。見て。これは子供の手だ」
白鈴は彼女の瞳の奥から、次に「子供の手」をちらりと見て、感情を抑えようとしながら時間をかけて口を開いた。
「うるさい。今あるこの体がなんだろうと、私はもう大人だ。子供扱いはやめろ」
「気を悪くしたよね。強いのは知ってる。知ってるから。だけどね、言わせて。白鈴が進もうとするその『道』は、その体には、大きすぎるよ」
それからヒグルは、それ以上のことは何も言わなくなった。
二人で城下町へ戻り、幽鬼退治の成果を報告して帰路についた。夜になるにはまだ早く、少年少女が数人で駆けていく姿が見受けられる。
大湊城の方へ視線を向けると、背後には雲が流れていた。
「大きすぎるよ」と、白鈴は心の中で呟いた。帰る途中、そのことが彼女の頭から離れなかった。自分でもよくわかっているからだ。刀は自分の手には大きい。そして手に持ったとき、この体とたいして差がなかった。印象が異なったのは、水槽の中で三年も振っていなかったからか? 渡された服もどれも大きく感じ、食事する際の食器一つでも戸惑いがある。寝る時は、体を変えないといけない。でないと眠れない。
サモンにしろ、ジロテツにしろ、どいつもこいつも見上げる形になる。
今は亡き姉と重なる部分がある。母か。そんな気がする。
部屋へ戻る前に、白鈴は占い所アルカナに寄ることにした。ヒグルがそう誘ったからだ。
「ねえ」とヒグルが声をかけると、白鈴は振り返った。
「なんだ?」
「『刀の在り処』、実はさ、もう知ってるんだ」とヒグルは躊躇いながら言った。
「ほんとうか? 間違いないのか?」白鈴の目が驚きで大きくなる。
「うん。だけど、その前に。教える前に」
「うん?」白鈴は首を傾げて待った。
「私も一緒についていく。それ、いいよね?」
「それは、構わないが」と白鈴は目を丸くし、少し迷いながら答えた。
「じゃあ。そう……。命を大切にして」
白鈴は頷き、「……わかった」と答えた。その後に彼女は首を小さく横に振り、思っていたことを口にする。
「そのつもりだ」