手紙と高校生
私たちが手紙を送るのは、年始くらいのものだろう。年賀状だ。それすらもメールで済ませてしまおうという人がいる。私の携帯電話にも年が明けると数件ほどメールが入っていることがあった。住所がわからないというならばともかく、すぐ近所に住む友達からだった。
たしかに一人一人にあててコメントを書くのは面倒くさい。けれど楽しくはないだろうか? メールが返ってくるときと同じように、誰かから新年のあいさつが届いたら嬉しく思わないだろうか。
テガミバチというアニメがある。山手線の広告で見かけて、面白そうだなと思ったのがきっかけで視聴をはじめた。なかなか素晴らしい作品だ。すごく絵がきれいで、ストーリーも私の好みに合っている。
それはともかく、人と人とのつながりは大切だ。
私たちが誰かに手紙を送るとき、そこには少なからず思いが詰まっている。
ラブレターなんてその象徴だろう。私は送ったことはないが。
誰かに何かを伝えたい。その気持ちはみんな持っていることだろう。
誰かとつながっていたい。その気持ちも持っているはずだ。
メールというのはその両方を満たしてくれる。切手を張る必要もなければ、ポストに手紙を入れに行く必要もない。簡易なものだが、その分味気がない。
絵文字、というものがある。ちょっとでも正確に思いを伝えようとして作られたものだろう。
ハートマーク一つでメールが華やぐし、音符で楽しい気持ちが伝わる。
携帯のメールは短くまとめることが大切だけど、その中にユーモアや感情を込めるのは難しい。
けれど私は挑戦する。17文字の俳句でさえ壮大な世界を表現できる。だったら私ができないはずはないから。
「うん」「わかった」
そのくらいの返事はコンピュータだってできる。けれど私たちは人間だ。
少しでも楽しくなるように文面を工夫してみるというのも、大事なことではないだろうか。
メールによって失ってしまったものはある。
それを取り戻せるよう、苦労すること必ずあるだろう。
増えすぎた二酸化炭素を減らそうと四苦八苦しているように、科学の発展によって損なったなにかを、僕らは捜し求めている。
(笑)という文字。
私は以前、これが嫌いだった。安易に笑いを取りにいっているような気がして、下品な感じがしていたのだ。
けれど、ちがった。
要は使いようなのだ。どんなに批判されている言葉だって、相手を不快にさせることがないように気をつけながら使えば、適度なスパイスになる。そこの判断を見極めることが、若者らしくも大人びるための要因なのではないだろうか。
どこかで夜遅くまで遊んだり、金髪に染めてみたりすることではなく。私は私なりの見栄を張ってみたいと思っている。
なんかオチのない話ですが。
学校がないとネタがないもんで……。