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続 順三の夢

作者: 三橋 潤

続 順三の夢


1


新幹線に乗るのは一体何年ぶりだろうか。順三は鉄塔が次々に後ろへ飛び去ってゆくあの速さが妙に新鮮で懐かしかった。二十二歳で会社員になって六十五歳で定年退職するまで新幹線には数えきれないほど乗ったが仕事以外で乗った憶えがない。あったかもしれないが全て掻き消えてしまっている。だから乗っている間に考えるのは降りてから先の仕事のことばかりで目の前を飛び去る風景は目的地まであと何分と推量する通勤電車と同じぐらい陳腐であった。しかし今回はまるでこの世の見納めのように生々しく迫ってくる。目の前の道を並行して走っているあの車は一体どんな人が運転していてどこへ行くのだろうかとか酔っ払いのようにフラフラして危なっかしいあの自転車は一体なぜあんな乗り方をするのだろうかとかそのそばを歩いている籠を抱えたあの若い女性はこれから家に帰って食事の準備をするのだろうかとかそんな何でもない日常の光景が特別な意味を込めて迫ってくるようだ。思えば定年退職してひとり房総の田舎町に引っ越して予想したことではあるが思い描いた夢とは全く違う現実に呼び醒まされてひとり不安な生活を送るうちにマサと出会いそして少しは生活に潤いを取り戻したと思う間もなくマサが突然目の前から消えてしまった侘しさに促されて順三はひとり旅に出た。もう一年近く会っていないのにマサはより瑞々しく昇華して順三の心を占めている。電車に乗るとマサを初めて見た席の辺りを知らず知らずに眺めていたり駅で停車するごとにマサが乗ってくるのではないかとドアの辺りを見つめたり一緒にいった都内のジャズ喫茶の辺りを思い出に浸りながらブラついたこともあった。しかしそんなことを繰り返しても火を消そうと油を注ぐようで現状を抜け出せないどころか心が朽ちてゆくばかりである。要領よく生きられないのが持って生まれた宿命ならば背負って生きるしかない。どんな境遇にあっても忍耐強く生きればやがて時が綺麗に洗い流して元の状況を回復してくれるのを順三が知らないわけではないが少し辟易してきた。いくら追いかけても手が届かないと分かっていながらそれでも追いかける弱さに辟易して気紛れに旅に出ようと順三は思った。それほど順三は追い詰められ余裕がなくなっていた。別にどこへ行くという宛もなく五日分の着替えと身の回りの品を旅行鞄に詰め込んで駅に行くと来合わせた電車に飛び乗って東京に出てそこから北へ行く新幹線に乗り換えた。何の目的も行く宛もない旅は初めてである。先のことは何も考えないのだからただ頭を空っぽにして窓外を流れる風景を眺めているだけでよいというよりそうしているしかないのだがそれが存外気持ちよい。そして飽きたら目を閉じてまどろみそして気が向けば好きな駅で降りて先はその時に考えればよい。そんな無為の算段をして今北へ行く新幹線の窓から足早く傾き始めた早春の夕日が小さな町を包んでゆくのを今ボンヤリ眺めている。すると睡魔に襲われてウトウトした。そして目を覚ますと窓の外は夕日に赤く映える田園が遠くの山裾まで延びて一気に山腹へ立ち上がる広々としたお伽の国のような風景に変わっていた。それは順三が若い頃友人と一緒に山歩きにいった殊更蒸し暑い夏の日を思い出させた。その日順三は友人二人と軽いピクニックのつもりで朝早く近郊の山に出かけたが日が高くなるにつれて稀な猛暑となりしかも水蒸気をたっぷり含んで湿度が高く拭いても拭いても滴り落ちる汗が身体中の水分を奪い取ってしまった。持参した水筒はすぐに空になって軽いピクニックのつもりが地獄の暑中行軍になった。それでも苦心惨憺の末どうにか山頂を望む最後の急峻まで辿り着いて右足を岩にかけて力を入れた瞬間視界が急に真っ赤になってどうしたのだろうかと思う間もなく順三は気を失って何も分からなくなった。それからどれくらい経っただろうか真っ暗闇に小さな人声が響いて目を開くと心配そうな友人の顔がまずみえた。そして遠巻きに取り囲んでこちらを見ている人達の姿が次に見えた。友人はもう一人の友人を呼んで盛んによかったよかったと何度も叫んだ。順三は一体何があったのかわからないまま首を上げると額には冷たいタオルが乗せられ息が楽になるようにズボンのバンドが緩められていた。別に気分が悪い訳でもなかったので上半身を起こそうとすると友人達は順三の肩に手を当てて大丈夫か、無理するなと何度も声をかけた。そしてそれを合図に取り囲んでいた人達もよかったよかったと呟きながら潮が引くように立ち去っていった。

「一体どうしたの?何があったのだい?」

順三はすぐに友人に聞いた。

「君は一時間半近くも気を失っていたのだよ。」

冷たい飲み水を持ってきた友人がそういうと順三は信じられなかった。確かについさっき目の前が赤くなって一体どうしたのだろうと思ったまでは覚えているがそれは瞬きするほんの一瞬前で一時間半も前のことだとはとても信じられなかったのだ。しかし腕時計を見ると確かにさっき見た時から二時間近くが過ぎていて日は西に傾き木影も長くなっている。それで順三はやっと友人達のいうことを信じる気持ちになった。それはまるで瞬きをした瞬間に年を取ってしまった浦島太郎のような不思議な非連続な体験であった。その時順三はきっと死もこんな風にやってくるのだろう、人間は所詮死を学ぶために生きているのだからそれでいいと思った。そんな思い出に耽りながら景色を眺めていると新幹線は速度を落として車内に次に停車駅と接続するローカル線の乗換案内が流れた。その時順三は突然そのローカル線に乗り換えようと思い立って荷物を手に乗降口へ向かった。


2


そこは初めて聞く名の初めて降りる駅であった。広いプラットホームに降り立ったのは順三ひとりだけでどうしてこんなに広いホームがいるのだろうかと不思議だった。誰もいないホームを降りて改札口を通り在来線に続く連絡道を歩いてゆくと何十年も時を巻き戻したような古い在来線のホームが見えた。それは歩いてほんの数分もかからないところに最新鋭技術とセピア色の遺跡が共存しているようであった。順三はつるべ落としの晩冬の夕日に急かされるように在来線のホームに止まっていた行先も分からない一両編成の古びた列車に乗った。すると順三が乗ってきた新幹線の接続列車なのだろうかほんの五分もしないうちに発車した。ゴトゴト古めかしい音を立てて走るこの列車は多分何十年も前に製造されて若き日は大都会から地方都市まで日本中を走り回って年老いた今この名もないローカル線で最後のご奉公を勤めているのだろう。そう思うと順三は長い間ご苦労さまと頭を撫ぜてやりたい気がした。客は順三のほかおしゃべりに夢中になっている中学生ぐらいの女の子の三人組だけである。すっかり日が落ちて夜の帳が下りた暗闇を古びた列車に揺られているとまるで未知の世界に誘われてゆくような気がした。

「・・・お客さん、終点ですよ。」

「えっ・・・。」

肩を揺すられて目を覚ますと首筋から忍び込んでくる冷たさと鞄を抱えた車掌の姿をボンヤリと感じた。そしてその瞬間今なぜ自分がここにいるのかが一瞬で頭をよぎった。外は冷たい暗闇である。車掌に促されて寒さに肩をすくめながら列車を降りて裸電球がぶら下がる人っ子ひとりいないホームを身がすくむような侘しい思いで通り過ぎて改札口に出ても切符を入れる集票箱があるだけで人影はない。駅を出ると小さな電球がひとつふたつ見えるだけのほとんど漆黒の闇で旅館はおろか一軒の店もない。自業自得とはいえ順三は宿の予約どころかどこへ行くのかも決めずに家を出てきてこんな何もないところにひとり放り出されてどうしてよいやら全く途方に暮れてしまった。算段がつかず困っていると駅舎の横の扉が開いて人影が見えた。順三はこれ幸いと駆け寄って話しかけた。

「すみません。」

「・・・、はい。」

闇にうっすら浮かんだのは白い無精髭が目立つ老人だった。

「この辺りに宿はないでしょうか?」

「宿・・・、ですか・・・?」

老人はまるで珍しいものでも見るように順三を眺めた。

「はい、ひとり旅で宿も取らずにきたものですから・・・。」

「この辺りはご覧の通りで近くに旅館はありませんがここから車で二、三十分いったところの温泉地ならあるかも知れません。しかしここ暫く連絡したことがないからやっているかどうか・・・・。」

近くに温泉地があるなら旅館があるに違いないと順三は少しホッとした。

「その温泉地へはどう行けばよいのですか?」

「今はタクシーだけですね。昔は日に二、三本バスの便があったけどもう客も来なくなってなくなりました。それに今から歩いて行ける距離ではありませんし・・・。」

およそタクシーなどあるようには見えなかったがとにかく順三は旅館でもホテルでもどこか暖かくて明るいところに飛び込みたかった。

「タクシーがあるのですか?」

「ありますよ、一台だけですけどね。とにかく一度旅館に電話してみましょうか?」

「はい、お手間取らせますがお願いいたします。」

順三は藁にもすがる思いで頼んだ。

「しばらくここで待っていてください。」

「はい。」

老人はそういうとまた駅舎に戻っていった。冷たい北風の吹き曝しに体温を奪われながら夜空を見上げると澄み切った漆黒の中に宝石を散りばめたように大小の星が煌めく美しさに順三は寒さも忘れて暫く見とれた。すると老人が戻ってきて順三は判決を言い渡される罪人ように固唾を呑んで老人の言葉を待った。

「今電話したら一軒だけ温泉宿が開いていて夕食込みで六千五百円だそうですけどどうしましょうか?」

「ありがとうございます。是非それでお願いします。」

順三は地獄で仏にあったような思いがした。

「分かりました。それに宿までタクシーで行くしかないのですけど今確認したら空いているようでしたからタクシーも一緒に取りましょうか?」

「ありがとうございます。よろしくお願いします。何から何まで本当にありがとうございました。」

「いえいえ。ではもう暫くお待ちください。」

そういって老人はまた駅舎に消えていった。それから五分もしないうちに老人が出てくるのと殆ど同時に少し先の角を曲がってこちらにやってくるヘッドライトが現れた。

「今宿にこれから行くと電話しておきましたから。それにタクシーも来ましたよ。タクシー会社はそこの角を曲がったところだからすぐにきます。」

「ありがとうございます。本当に助かりました。」

「いえいえ、どういたしまして。何処からいらっしゃったのですか?」

「はい、千葉からです・・・。」

「へえ、千葉から。よくもまあこんな辺鄙なところへいらっしゃいましたね。」

「・・・・・。」

そんな話をしているうちにタクシーがやってきて運転手が後ろのドアを開けてくれた。タクシーに乗り込んで暖かさに触れるとやっと順三は人心地がついた思いがした。老人が運転手に何やら旅館の名前のようなものを告げて運転手が乗り込むとすぐに走りだした。そして宿までの道すがら安堵の気持ちが順三の口を軽くした。

「この辺りは温泉地だったのですてね。」

「ええ、昔の話ですけどね。この近くに銅の鉱山があって元々はそこの労働者のためのものだったのですけど銅山が枯渇して閉山になると他に産業らしい産業もないのでこの辺りから一気に人影が消えて火が消えたようになりました。それで振興のためと町が音頭を取って温泉を売り出して折からの秘湯ブームも手伝って更に向う町には新幹線も通って旅行客の呼び込みに一時は成功して勢いが戻ったように見えましたけどそのうち他の町も同じようなことをやりだして結局過当競争で元の木阿弥ですよ。最盛期には十五軒ほどの温泉旅館が軒を並べて湯治客や観光客で賑わって土産物屋やら食堂やら飲み屋やバーもあって結構繁盛していましたけど今ではこれから行く旅館一軒しかやっていません。昼間通るとまるでゴーストタウンですよ。本当に兵どもが夢の跡という感じですね。この旅館もこの先どうなるのか・・・・。お客さんが久しぶりの宿泊客じゃないでしょうかね。この旅館がなくなったら私ももうタクシーをやめようと思っています・・・。もっとも今でも半分やめているみたいなものですけどね。」

「そうですか・・・・。」

「ところで、お客さんはどちらから・・・・?」

「私は千葉からです。」

「へぇ~、それは遠いところから。おひとりで?」

「えぇ、やっと定年で仕事も終えたものですからですから久しぶりにひとり旅でも楽しもうと思って行先も決めずに家を出ましたけど新幹線から電車を乗り換えてうつらうつらしているうちにここに辿り着いて夜の暗闇に何もないので途方に暮れているとさっきの人がご丁寧に連絡を取ってくれて本当に助かりました。」

「それはよかったですね。あれは駅長さんですよ。」

「駅長さん・・・、なのですか?」

「駅長といっても駅員も誰もいないひとりだけの臨時雇いで暇つぶしにやっているようなものですけどね。」

「正規の駅長さんではないのですか?」

「元々鉄道会社の駅長と駅員が二、三人いて売店もありましたけど銅山が閉山になって温泉地も廃れて誰もいなくなるとまず駅員がいなくなってそれから売店も閉鎖されて遂には駅長もいなくなってしまいました。それでも一日何本かは電車が止まるので誰かいなければならないので駅の近所のお年寄りに切符の販売やら連絡やら掃除やらいう仕事を委託しているのです。だからあの駅は本来無人駅で電車が付いた時だけあのお爺さんが見回りに来る。あそこで降りる客は滅多にいませんからそれで充分なのですよ。」

それを聞いて順三は急におかしくなってきた。地獄に仏と思っていたあの老人が実は臨時の駅長さんで長い間何の変化もない小さな駅の退屈な日常に自分が小さな漣を立てて無聊を慰めたと思えば助かったのは自分だけではないと思った。話をしているうちにタクシーは舗装していない細い脇道にそれてそこから五分ほどで温泉宿についた。温泉宿といっても看板や照明があるわけでもなく普通の民家に小さな明かりが灯っているだけのところだった。お礼代わりに料金を少し多めに渡してすぐ脇の玄関の引き戸から中に声をかけると奥から明るい声が返ってきた。出てきたのはこの旅館の女将だろうか入口の電灯が落ちていてよく顔が見えないが声からするとそれほどの年端でもなさそうだ。女将はすぐに玄関の電灯のスイッチを入れた。

「暗くて申し訳ありませんでした。いらっしゃいませ。」

女将は玄関に正座して丁寧に頭を下げた。

「駅から電話してもらった者ですが・・・。」

「はい、伺っております。どうぞお上がり下さい。」

見たところ歳の頃は五十代ぐらいであろうか細身の長身に地味な着物といういでたちは久しぶりの客のためにわざわざ装ってくれたのだろうかそして何より顔の造りこそ違えその姿や立ち振る舞いが何となくマサと似ていて順三の気持ちを弾ませた。偶然立ち寄った小さな温泉旅館でマサを彷彿させる女と出会うのも宿命だろうか。女将が順三を部屋に案内すると事前の連絡で暖めておいてくれたのだろうか部屋は暖かかった。

「恐れ入りますがこれをお願いします・・・。」

女将は宿帳を取り出して順三の前に広げた。

「前の廊下の突き当りの右手が源泉かけ流しの二十四時間入れる露天風呂です。他にお客さんはおりませんしいつでもお好きな時に入っていただいて結構です。夕食はお部屋へお持ち致しますけどいつ頃がよろしいでしょうか?」

驚いたことに言葉遣いやいい回しまで何となくマサに似ているようで順三は目の前の女将がマサに見えてきた。

「そ、そうですね。それではまずお風呂を頂いてから七時頃にお願いしましょうか。」

「畏まりました。浴衣とタオルをここに置いておきますのでどうぞ。」

女将が膝を崩して隅の長箱を引き寄せるとタオルと洗面用具、それに丹前と浴衣が入っていた。

「それでは七時に夕食をお持ちしますのでそれまでごゆっくり。」

「ありがとうございます。お世話になります。」

「あぁ、それとお飲み物はいかがいたしましょうか・・・?」

「そうですね、この辺りの地酒があればそれを。辛口のサッパリしたのがあればよいのですが・・・。それにビールを。」

女将はニコリと笑った。

「畏まりました。この辺りの銘酒がございますのでお持ち致します。辛口で冷がお勧めです。」

「では、それを冷でお願いします。」

「ありがとうございます。ではまた後程お伺い致しますのでごゆっくり。」

女将は膝をついて丁寧に挨拶をして出ていった。順三は昔散歩に出て駅前のマーケットで偶然マサと出会って初めて一緒にいった鰻屋を思い出した。あの時マサは近くの川で取れる天然鰻の味に惚れた鰻屋の主人が知り合いの酒蔵と一緒に仕込んだという自慢の辛口の銘酒を紹介してくれた。そしてそれは確かに鰻の脂味を邪魔せずあっさりと切れのある口当たりで順三はマサの酌で立て続けに二、三杯飲んだ。そして盃を返して酌をした時に着物の袖口から覗いた真っ白い張りのある二の腕が目に浮かんできた。順三はそのまま寝転がってマサの思い出に耽っていたかったがそれはこの旅にそぐわないと思った。浴衣に着替え丹前を羽織って露天風呂へ行くと微かに硫黄の香がした。暫く掃除をしていないのかそれとも湯の花が結晶したのか大小の石を組み合わせた浴槽の中も外の洗い場も少しぬめりがあったがそれがまた鄙びた温泉情緒を盛り上げてくれる。天然温泉のかけ流しとはいっていたが少しは温度調節をしているのか湯は熱過ぎずぬる過ぎず丁度良い加減でトロッと肌に纏わりつく感触がいかにも良質の硫黄泉を思わせる。身を切る寒さの冬の夜満天の星を仰ぎながらひとり入る露天風呂はいかにも優雅である。暫く湯の温もりを貪っていると少し先の岩影で何かが動いたような気がした。目を凝らすとそれは人影のように見えた。しかし今晩の客は自分ひとりだと確か女将がいっていたのに人影が見えるのはおかしい。そうならあの人影は女将だろうか、確かに温泉の入口がひとつだったので混浴かも知れないが夕食の準備に忙しい女将がのんびり湯につかっている暇はないと思う。その時順三の胸にひょっとしたらマサが会いに来てくれたのかも知れないという思いが突然沸き上がってきて抑えられなくなった。そして腰を浮かせて岩陰を見遣った途端人影は湯気に紛れて見えなくなった。人影が見えた辺りにいってみてもやはり何もなかった。あれは寂しさが紡ぎ出した幻かと思いながら岩陰を見遣ると髪の毛が一本絡まっているのが夜目に映った。それは見つけてほしいと一途に願う一本の黒髪の願いが順三の視線を捕らえたかのようだった。それは明らかに細く長い女の髪であった。順三はそれを自分に会いにここまで来てくれたマサの名残と思いたかった。そして暫く冷たい夜風に身体を晒したまま見つめていると急に冷えを覚えて首まで湯に浸かって再び手を出してみるとあの一本の髪の毛はもうどこにもなかった。そしてそれがあの髪の毛がマサであると一層強く順三に思わせた。マサは確かに順三に会いにここに来てそして一本の髪の毛を名残に永遠に消え去ってしまった。冷たい夜空を東から西へ長い尾を引いて別れを惜しむように駆け抜けるあの流れ星は去りゆくマサの魂だ。そう思いながら順三は瞼の奥から静かに溢れる涙で潤む夜空を見上げた。首筋を吹き抜ける冷たい風でようやく気を取り戻した順三は足早に湯を上がり身支度を整えて暖かい部屋に戻るともう夕食が整えられていた。そして暫くすると女将が酒とお櫃をもって入ってきた。そして向かい側に座って丁寧に頭を下げるとその姿がまたマサと重なった。

「湯加減はいかがでございました?」

「・・・・いや本当にいいお湯でした。この寒空に露天風呂は最高でした。」

「それはよろしゅうございました。お湯上がりにまず一杯どうぞ。」

女将はビールの栓を抜いた。琥珀色のビールが細かい泡を立てながらグラスを登ってゆくとあの鰻屋の情景がまた彷彿としてきた。

「お客様は千葉からいらっしゃったと伺いましたけどご旅行ですか?」

「いゃ、旅行というほどのものでもありませんが、ちょっと思い立って出てきただけです。別にここに来ようと思ったわけでもなくて足の向くまま電車に乗ったらここに辿り着いたような具合です。」

「まぁ、そうですか。それは何かのご縁ですね。」

女将は微笑みながら空になったグラスにビールを注いだ。

「ところで女将、今日のお客は私一人とさっき仰っていましたね。」

「はい、そうですが・・・。」

「誰か他に風呂に入る人はいなかったですか?」

「いいえ、誰もおりません。あのお風呂はお客様専用ですしこの宿にはもう使用人もおりませんから誰も入ることはありませんよ。どうかされましたか?」

女将は真顔で順三を見た。

「いゃ・・・、ちょっと岩陰で人影を見たような気がしたものですから。」

「人影・・・?」

「はい。」

順三が真顔でいうと女将は相好を崩した。

「ご覧になったのは白い肌の女性ではなかったですか?」

「え・・・、女性かどうか分かりませんが・・・・。」

「それはね、きっとお客さんが寂しそうだったので近くの狐が化けたのかも知れませんよ・・・。この辺りの狐はそうやって人をからかうといいますから。」

「どうしてそう思うのですか?」

「だって、大概そうではありませんか。狐だって色の浅黒い大男に化けるより色白の女の方がよいぐらい知っていますよ。」

女将は口に手を当てて笑った。真顔でそんなことをいう順三を女将は女好きの欲求不満とでも思ったのかも知れない。

「さっき使用人もいないと仰っていたけどそれではこの旅館は女将ひとりでやっているのですか?」

「はい、私以外もう誰もおりません。それにこんな状態ですからもう今年中にはもう閉めようかと思っています。」

女将は寂しそうな眼を順三に向けた。

「それではこの料理は女将ひとりで・・・?」

「いいえ、私ひとりで何もかもはできませんしだいいち料理下手ですし・・・、これは近くの料理屋さんで作ってもらいました。そこの板前さん兼ご主人も以前はここで旅館をやっておられましたけどお客様が減ってやっていけなくなって料理屋に衣替えして旅館へ料理を仕出しておられたのですが櫛の歯が抜けるように旅館が廃業していって最後に残ったこの旅館も閉めたらもう商売がなくなってしまいます。このご主人は元々この温泉街随一の腕前の板前さんで常連のお客様を大勢抱えておられました。でもこんな状態ではその腕も生かせないですしこのまま消えてしまうなんて本当に勿体ないことです。」

確かに口にする料理は味にうるさい順三の舌を充分満足させた。

「それにこれ、今日特別にいい鰻が入ったそうで作ってもらいました。よかったら一度お試しください。」

お櫃の影から小さな盛り付け椀を取り出して蓋を取るとそれは飴色に焼き上がった肉厚の鰻であった。添えられた山椒の香りが何とも香ばしい。順三は目を見張った。その見事な焼き上がりといい立ち昇る香りといい順三の記憶は忽ちまたあの鰻屋に引き戻された。そしてこの鰻は女将が銘酒と太鼓判を押すこの地酒とよく合うに違いないと順三は思った。

「それでは、いただきます。」

「どうぞ。」

厚みのある柔らかい身をほぐして口に入れると一杯に広がる風味は正にあの鰻屋の深い芳醇な味わいであった。

「ウ~ン、これは旨い。」

「ありがとうございます。どうぞこちらも・・・。」

女将は淡い青色のガラスの盃を取り出して冷たい地酒を勧めた。

「それでは。」

一口含むと鰻の濃い脂が残る舌の上で上手く溶け合う切れのある味わいで忽ち順三を唸らせた。何もかもあの鰻屋と同じである。

「これはいけるなぁ、この鰻とよく合う。」

「ありがとうございます。この辺りは近くを流れる川でよく鰻が取れますので以前は鰻料理が名物でした。この鰻はその料理屋のご主人が腕に縒りを掛けて天然鰻で拵えたものですからきっと気に入って頂けたと思います。」

天然鰻と聞くだけですぐに金勘定が浮かぶのは興ざめだが駅で聞いた料金にこの天然鰻が含まれているとは到底思えないのできっと別料金だろうと順三は見当をつけた。しかしこんなに旨い鰻と酒を頂けてしかもその美味に酔いながらマサの夢まで見せてもらえたのだから金勘定では購えない値打ちは十分にある。

「ところで、このお酒は酒造元と一緒に造ったものではないですか?」

「え、どうしてですか?」

「・・・・、えぇ、この鰻とよく合っているものですから・・・。」

「ありがとうございます。特に鰻に合わせてお酒を造ったということもないでしょうけどひょっとしたら料理屋のご主人がそのお酒に合うように上質の鰻を焼き上げたのかも知れませんね。」

そういわれると確かに鰻に合わせて酒を造ることがあれば酒に合わせて鰻を焼くことがあってもいい、それどころか手間を考えればそちらのほうが余程道理だと順三は思った。

「よかったら女将も一献いかがですか?」

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて一杯いただきます。ちょっとお待ちください。」

そういって暫く席を外すと自分用のガラスの盃を持って戻ってきた。

「それではいただきます。」

そのあっけらかんと猪口を差し出す仕草はマサとはちょっと違うなと思いながら順三は酒を注いだ。そして改めて盃を合わせると女将は一気に半分ほどを明けた。

「女将はかなりいける口ですね。」

「・・・・いえいえ、元々それほどでもなかったのですけどこういう仕事をしていると結構頂くことも多くてきっと強くなったのでしょうね。久しぶりに頂くと本当に美味しいです・・・・。」

「まあ、そんな寂しいことはいわずにグッとやってくださいよ。」

「はい、遠慮なくいただきます。」

女将はそういうと残った半分を一気に飲み干した。

「これはいい飲みっぷりですね。まぁ、もう一献。」

順三が勧めると女将はためらわずに盃を差し出した。

「それではお客様もどうぞ。」

二人はまた猪口を開けた。そして勧め勧められるにつれだんだん酔いが回って順三は気分がよくなった。

「しかし女将は似ていますね。」

「私が・・・?一体どなたにですか?」

「いや、私のちょっとした知り合いなのですけど・・・。」

「奥さまではありませんよね。奥様ならちょっとした知り合いではないし・・・。」

「いえ、家内とは事情があって大分前に別れました。それに子供も自立しましたので気に掛けることもないしそれで定年になってひとり千葉の田舎町に引っ込んだのです。誰も知った人のいない初めてのところでしたがひょんなことでその人と知り合って・・・。」

「・・・・、へぇ~、それは意味深長な話ですね・・・。」

「ところで女将、音楽は好きですか?」

「音楽ですか・・・?私、歌謡曲ぐらいならたまに聴きますけどそれ以外はあまり・・・、どうしてですか?」

「いぇ、その女性はジャズが好きで私もジャズが好きなものですから何度か一緒に東京へ聴きにいったのですよ。そうするとまるで魂が抜けだしたように没頭していましたよ、だからひょっとしたら女将もそうかなと思って・・・。」

「まぁ、お客さん私とその方をだぶらせないでくださいよ、私はその方とは違いますよ。多分その方はお客様と一緒して感極まったのでしょうね、きっと。女は感情の起伏が大きいですけどある程度気を許した人でないと人前で露わにはしませんから・・・。」

「・・・、一度音楽ホールへ聴きにいった時など本当に魂を吸い取られたように手や足や時には腰までつかってリズムを取って・・・。」

「まぁ・・・、それで、私がその方と似ているのですか?」

「え・・・、えぇ、何となくそんな気がしたもので。さっき風呂に入って夜空を眺めているとそんなことをボンヤリ思いだしましてね、それで岩陰に人影を見たような気になったのかも知れない、でも結局のところ何もかも幻なのでしょうけど・・・。」

「それでその方は・・・・?」

「それがある日突然何も残さず何処へともなく消えてしまったのです。それでどうしたのか心配になって彼女の住所へ行ってみたのですけどそこは旧い廃屋のような建物があるだけで誰もいませんでした。しかし玄関には郵便受けがあって私が書いたご機嫌伺の手紙が入っていましたから誰かがそこに来て受け取っていたのかも知れない。彼女がそこに住んでいたのかどうかは分かりませんけどその前に書いた手紙は届いていましたから何らかの方法で転送されていたのかも知れない・・・・。」

「それでその方への思いを募らせて宛てのないひとり旅に出られた・・・・。」

「・・・・。」

「そして、ふと立ち寄った旅先の露天風呂でその方の幻が現れてそしてその方と私が重なった・・・・、なんてロマンチックですね。」

「まぁ、そうですね、でも女将、何も口説こうと思って作り話をしている訳ではないのでそこのところは・・・・。」

「まぁ、あれもそんなこと誰も思ってはいませんよ、それどころか今時珍しい純情話だなと思いまして。」

「純情話?」

「そうです。最近は人情も情緒も何もかもなくなって損得勘定ばかりで世知辛いったらありませんからね。私のような田舎育ちの昔の人間には本当に生き辛い世の中ですよ。人でも何でも少し使ってみて駄目だったらさっさと使い捨てて見向きもせずに人情も何もありませんよ。私はそんな世の中が嫌です。たとえ世間の片隅であろうと自分がよいと思うように生きてそしてその中で一生を終えたいのです。そんなことを思っているとどんどん世の中の流れから離れて孤立してしまうかもしれないけど私はそれでよいと思っています。なにも自分を曲げてまで世の中に迎合したいとは思いませんからね。所詮私みたいな人間が生きてゆくのが難しい世の中になったのでしょうね、きっと。だから知らない間に廃墟にひとり取り残されてそして今その廃墟に飲み込まれようとしていますけどそれでよいと思っています。自分の思うように生きてきたのですから後悔なんて全くしていません。」

酔いが回り始めたのかそれともひとり胸に秘めていたことがつい口をついて出てしまったのか女将は少し饒舌になった。

「確かどこかでマサもそんなことをいっていましたね。」

「マサ・・・?その方マサさんって仰るのですか?」

「そうです。」

「それではお客様が仰る通り私とマサさんは同じ仲間かも知れませんね、知り合えたらいいお友達になれたかも知れない。」

「・・・・、確かにそうかも知れない。マサも何かと一緒に滅びてしまったのでしょうから・・・・。」

「お客様はきっとマサさんを・・・・。」

「まぁ、そんなことをいっても始まらないから、女将、もう一献行きましょう。」

そういって酒を勧めると女将も少しも悪びれずに盃を出した。酔いが回るにつけ普段あまり冗談をいわない順三の舌もよく回るようになった。

「ところで女将、さっき風呂へ来ませんでしたか・・・?」

「えぇ、私が・・・、ですか?アハハ・・・、私はずっと食事の準備に忙しくて殿方のお風呂を覗く余裕なんてなかったですよ。それに殿方のお風呂に知らずに入る程まだ耄碌もしていませんし。」

「・・あぁ、そうですか。それじゃあれはやはり狐か幻だったのかな・・・・。しかしその人影を見た辺りで長い髪を一本見つけたのですよ。あの薄暗い中でですよ。それはきっとその髪の見つけてほしいという強い願いがこもっていたからだと思うのですよ。しかし寒くなって肩まで湯に浸かった拍子に何処へともなく消えてしまいました。私はそれがどうもマサが私に残した名残に思えて仕方ないのですよ。」

「・・・、まぁ、それならマサさんはお客様に見つけられて満足していったのではないですか、それともお客様の心が狐に乗り移ってマサさんのところへ行ったのかも知れないし。女の気持ちは強いですからね。」

「それではマサが会いにここに来たということですか?それともマサに会うために何かが私をここへ導いたとか・・・・。」

「お客様を心に残したまま止むを得ない事情で離れなければならなくなったマサさんの恨めしさが現れたのかも知れませんね。同じ女としてその気持ちはよく分かりますよ・・・。」

「・・・・・。」

「ちょっと湿っぽくなってしまいましたけど、まぁ、どうぞもう一献。それに冷めないうちに料理を召し上がってください。まだ料理がありますので準備して参ります。ご用があれば部屋の隅のボタンを押してください。」

そういって腰を上げかける女将に順三は待ってくれ、行かないでくれと縋りつきたかった。マサと二重にも三重にも重なる女将が今自分の元を離れるのをただジッと見守るだけでよいのかとためらううちに女将は障子の向こうに消えていった。揺れ動く心を鎮めてもう一度出直すために旅に出たが道を歩くにつけ列車に乗るにつけ湯に浸かるにつけそして酒を飲むにつけそんな思いを粉々に打ち砕くように目の前を流れる時間がマサへの思いで心を満たしてゆくこの現実を一体どのように受け止めればよいのか?ただ黙って忍ぶほか術はないか?一体どうすればこのガラスのように脆くて弱い自分をもう一度力強く蘇らせることができるのか?生きる苦しみも怒りも悲しみももう嫌というほど味わってやっと終わると安堵した途端に陥ったこの不条理を麻疹のような一時の病と楽観するほど順三は愚かではなかった。そんな思いが黒墨のように胸に広がり始めた時不意に障子の向こうで女将の声がした。

「お邪魔します。」

順三が夢から覚めたように入口を見遣ると女将は何事もなかったように微笑みながら料理を運んできた。

「お待たせいたしました。」

順三はついさっき女将がいなくなった途端一斉に目の前に飛び出してきた魑魅魍魎が女将の姿と共に一斉に霧散して何事もなかったように元の情景に戻るようだった。順三は黙って料理を口に運んだ。順三はもともと関西の出身でどちらかというと薄味に親しんできたせいか当初関東の濃い味に馴染めなかったが長く暮らすうちに今度は薄味が口に合わなくなった。この旅館は、というより近くの料理屋であるが、濃い口醤油を適当に利かせた関東風の味付けで順三には具合がよかった。

「お料理いかがですか?」

「あぁ、とても美味しく頂いていますよ。味も好みに合っているし特にあの鰻が旨かったですよ、それにこの酒も。」

そういうと順三は盃を一気に飲み干した。

「どうぞ。」

「あぁ、ありがとう。まぁ、女将も一献。」

女将の盃を受けて順三も女将に返した。

「ありがとうございます。」

二人は面と向かってグラスを空けたが女将は飲んでも顔色も口調も変わらず相当いける口だなと順三は改めて思った。順三は露天風呂で自分を化かした狐が今度は女将に化けて出てくるのを想像した。

「ところで女将。」

「はい。」

「二、三日ここに滞在したいのですがどうですか?」

「えぇ、ありがとうございます。それは勿論できますとも。お客様はひとりですので二、三日といわず二か月でも三か月でもいらっしゃってください。」

「ハハ、そりゃ無理だ。そんなことをしたらここにいついてしまう。」

「ホホホ、それでよろしいじゃございませんか。」

「ハハハ、女将がどうしてもというのならね。」

「それじゃ、どうしても。」

二人の会話はまるで年端のいかない若者のように弾んだ。

「それで女将、その間に近くの名所でも回りたいのですがこの辺りの名所といえばどこですか?」

「そうですねこの辺りの唯一の名物は温泉ですからそれ以外というと・・・・。」

女将は暫く神妙な顔をして考えた。

「・・・、ウーン、そうですね。例えば、戊辰の役の古戦場とか・・・、それとその戦死者を弔った古刹とか・・・、そんなものでよければ・・・。」

「へぇ、この辺りでも戊辰の戦争があったのですか。」

「えぇ、戊辰戦争の頃この辺りは親幕雄藩の支藩で新政府に恭順しなかったものですから新政府が鎮圧軍を送って両軍合わせて数百名が戦死したといわれています。結局幕府軍は最新兵器を揃えた新政府軍に太刀打ちできずに敗れ去って捕えられた城主や重臣達は悉く首をはねられたそうです。」

「へぇ~、そんなことがあったのですか。初めて聞きますね。」

「そうですね。戦死者が数百名といえば激しい戦いだったと思いますけど他にもっと大きな戦いがあって多くの人が死んでいますのでそのせいか今ではここでそんな戦いがあったと知る人は少ないです。その戦死者を弔うために明治の初めにお寺が建てられてこの温泉町が栄えていた頃はその菩提寺としてよく手入れされていたのですけど廃れてからは手入れする人もいなくなって今では草が生い茂る廃墟です。そんなところですけどよかったら・・・。」

「そうですか。それでは明日にでもその古戦場やお寺を回ってみようと思うのですけど場所はどのあたりですか?」

「ここから歩いて十五分か二十分ぐらいのところでそんなに遠くありませんからもしよかったらご案内致しましょうか?」

「あぁ、それはありがたいですね。美人女将の案内で観光できるなんて望外の喜びですよ。こいつは春から縁起がいいやとでもいうのでしょうかね。」

「まあ、何を仰っているのですか。お客様に喜んで頂ければそれで結構ですよ。その代わりこの次もまたきっといらしてくださいね。あら、もうこの旅館閉めるのでしたね、忘れておりましたわ。つい癖が出てしまって。ホホホ。」

二人は声を合わせて笑ったが女将の笑い声は寂しかった。

「これで料理は終わりましたけど果物でもお持ちしましょうか?」

「いやいや、もう充分です。それよりお茶を一杯いただけませんか?」

「はい、承知しました。」

女将は茶筒を引き寄せて急須でお茶をたてた。順三は渋い茶をすすりながら時計を見るともう十時前を差している。女将と話しながら三時間近くも過ごしたことになる。

「それではお客様ごゆっくりお休みください。明日朝七時半に朝食を準備いたしますので。」

「そうですか。今日は色々お世話になりました。お手数を掛けますけど明日はよろしくお願いします。」

「いいえ、手数だなんてとんでもないです。それではおやすみなさい。」

女将は食器を盆に纏めて部屋を出ていった。その夜順三は窓を一杯に開けて火照った身体を冷ましながら夜空にひと際映える満月の上を細い尾を引いて走る流れ星をひとり眺めた。


3


 「おはようございます。」

順三が洗面所で顔を洗っていると急に後ろから声を掛けられて驚いた。振り返ると厚手のセーターにズボン姿という昨夜とは異なる趣の女将が立っていた。髪の毛を後ろで束ねて量感がなくなったせいか顔が少し大きく見えて化粧も控えめであったがそれでも昨日の女将に間違いはなかった。

「あぁ、おはようございます。」

順三は浴衣に丹前をひっかけた素っ気ない姿に寝癖のついたボサボサ頭で少し間が悪かったが歯ブラシをくわえたまま型通りの挨拶をした。

「お部屋にお戻りになったら朝食をお持ちしますのでお電話いただけますでしょうか?」

「分かりました。」

そういうと女将は丁寧に頭を下げて通り過ぎていった。その何の装いもない日常の姿にマサと重なる女将はなかった。順三は急いで洗面を済ませて部屋に戻った。すると夜具が綺麗に畳まれてテーブルが出されていた。女将は順三の部屋で夜具を畳んだ通り掛けに声をかけたのだろうか。順三は夜具を畳む女将の鼻をくすぐったであろう残り香を想像してみた。しかしそれは昨夜のように心を動かさなかった。部屋に帰って順三はすぐに電話をした。するとついさっき洗面所で会った姿の女将が小さなお櫃と朝食を盆に乗せてやってきた。

「おはようございます。」

再び朝の挨拶をして順三の前に座った女将は服装こそ違えやはり昨夜の女将のままであった。順三は急いで丹前の前を合わせて座り直した。

「よくお休みになれましたか?」

女将は湯気の立つお櫃からご飯をよそいながら昨夜と同じ調子で尋ねた。

「えぇ、お陰さまでよく眠れました。もっとも少し多めに頂いたお酒が効いたのかも知れませんけど今朝目を覚ましても全然残っていないのはやはりいいお酒だったからでしょうね。それに女将の・・・・。」

「え・・・・?」

女将はキョトンとして順三を見た。

「・・・、いえ、とにかく大変気持ちのよい目覚めでしたよ。」

「それはよかったです。少し召し上がりすぎかなと思いましたけど気分の良いお目覚めで何よりでしたわ。」

「女将も大分飲んだようですが大丈夫でしたか?」

「えぇ、私もよく眠りました。やはり頂いたお酒のお陰かも知れませんね。」

女将はにっこり微笑んでご飯を盛った茶碗を順三に差し出した。

「どうぞごゆっくり召し上がってください。観光は予定通りでよろしいですか?」

「はい、よろしくお願いします。」

「それでは九時頃出かけましょうか。」

「はい、わかりました。」

「今朝は寒さも緩んでよく晴れて絶好の日和ですね。きっと神様が祝福してくれているのですわ。それでは九時に玄関でお待ちしておりますのでごゆっくり。」

女将は丁寧に頭を下げて部屋を出ていった。順三は昔どこかで同じような光景に出会ったような気がしたがよく思い出せなかった。九時までまだ一時間以上あるのでゆっくり食事をして一息つく余裕はある。順三は春の息吹きですっかり暖かくなった日光を浴びながらゆっくり朝食を取った。そして暫く休んで着替えを済ませ玄関に降りるとまだ時間前だったが女将が待っていた。

「これはどうもお待たせしました。」

「いいえ、よろしければ出発致しましょうか?」

「はい。」

その時奥の方から少し年の女性が現れて順三を見るとちょっと頭を下げて二階に上がっていった。

「・・・、女中さんですか?」

「いえ、お客様がいる時だけ手伝っていただいているのです。昨日お話しした料理屋の奥様です。」

順三はなるほどと思った。客がある時だけ料理を取り寄せてまたそこから部屋の掃除から客の世話まで手伝いにきてもらえるとは合理的だ。それでもやっていけないのならもうここで旅館経営はできないということだから諦めるしかない。軒先を出た途端に眩しく照り付ける日光に順三は眼を細めた。これまではっきりしない天気が続いたのにこんな良い天気に恵まれるとはやはり女将がいうように神様が祝福してくれているのだろうか。旅館の前の通りを下駄を鳴らして歩く道すがら両側の旅館も土産物屋も食堂もすべて扉を閉ざして開いているのは女将の旅館一軒だけというのは本当のようだ。暫くゴーストタウンのような街並みを通ると長い間人の手が掛かっていないのかところどころ剥げて地木が剥き出しになった木橋に出た。

「この橋は何度か架け替えられていますけど戊辰戦争の頃にはもうあって両岸で新政府軍と幕府軍が対峙して戦ったようです。新政府軍は今歩いてきた道を進んできてこの川向うのお寺に置かれた幕府軍の本営を攻撃したようです。しかし幕府軍が事前にこの橋を焼き落してしまったので川を渡るには船しかなかったのですけどそうすれば少数ごとに撃破されてしまうかもしれないので新政府軍は急遽イギリス製の最新鋭の大砲を装備した砲兵隊を呼んで対岸の幕府軍陣地を砲撃させました。最新鋭の大砲の威力は凄まじくアッという間に幕府軍の陣地は粉々に粉砕されて本営に退却し新政府軍は難なく渡河できたそうです。」

「幕府軍は渡河する新政府軍を攻撃しなかったのですか?」

「幕府軍には最新鋭の兵器はおろかまともな銃さえなくて反撃しようにも術がなかったのでしょう。少数の旧式銃と槍、刀剣だけの幕府軍と戦勝に意気を上げる最新装備の幕府軍では戦いにならなかったでしょうね、きっと。忽ち幕府軍の本営は粉砕されてこの辺り一帯文字通り焼け野原になったようです。新政府軍の戦死者は丁重に葬られたのですけど幕府軍の戦死者は野犬に食い千切られ野盗に身包みはがされ耐えられない悪臭を発するまで放置されて見かねた住民の手で葬られたそうです。東北では他に大きな戦闘があったのでここの戦いはあまり記録にも残っていませんけどこの辺りの人達の間には口伝えで伝えられています。」

「そんなに戦力に差があったら大人と子供の喧嘩にもならないですね。」

順三は橋の上から両岸を見渡して一方的な掃討のような戦いを思い描いてみた。

「それで、その幕府軍の本営があったというのがこれから行くお寺なのですか?」

「そうです。結局本営は全滅してお寺も焼け落ちてしまったのですけど明治の初めに維新の記念事業で再建されました。行ってみましょうか。」

二人はまた肩を並べて歩きだした。橋を渡って暫くゆくと背の高い草が冬枯れもせず両側に青々と茂る細い道に出た。そこから二人は女将を頭に前後に並んで低い草をかき分けるように歩いた。すると目の前に朽ちた大きな門が現れた。

「ここがお寺の門です。もう昔の壮観を推し量る術もありませんけど・・・・。創建されて暫くして地元の温泉旅館組合の発議で菩提寺として世話をしてきたのですけど町が廃れてからは世話をする人もなく今ではこの有様です。」

順三は朽ち果て草に覆われた門の影から野犬に食われ腐乱するままに放置された幕府軍の戦死者が崩れた顔を覗かせるようでゾッとした。確かに門の緻密な装飾や名残を留める豪華な彩色は往時の壮観を偲ばせるがそれだけにこの朽ち果てた姿は無常に溢れている。

「この門の向こうにお墓がありますけどどうしますか・・・?行きますか?」

女将は順三がもううんざりしているとでも思ったのか行くかどうか尋ねた。

「えぇ、勿論行ってみましょう。」

二人はまた前後に並んで歩きだしたが今度は順三が前を歩いた。その先はもう道といえる道はなくただ草むらをかき分けて進むようだったが暫く行くと突然景色が開けて草に覆われた何基とも知れない墓が現れた

「ここが新政府軍の墓です。この辺り一帯がそうです。」

「幕府軍の墓は・・・・・?」

「この先です。」

女将が順三の後ろでいった。順三はひとつの墓標に近付くと顔を近付けてみた。表面に刻まれた細かい文字はもう長年の風雪に削り取られて読み取りにくくなっているが葬られている人物の名前や出身地や戦功などが刻まれているようで献花台や供物置きも備わっていて境界石も置かれて確かにここが戦勝側の墓だと伺わせる。順三と女将はその墓標の前で手を合わせて黙祷した。すると順三は野犬に食い荒らされ腐るままに放置された幕府軍の戦死者の墓を見るのが心苦しくなってきた。見知らぬ者同士が大義名分のために敵味方に分かれて憎しみ合い殺し合う戦争がどんなに理不尽で悲惨で残酷か身内に戦死者がいる順三にはわかるような気がする。個人と直接利害関係がない大義名分のために命を落としたのにその亡骸まで差別される現実を順三は見たいと思わなかった。途中で歩みが遅くなったが気持ちの定まらないうちに幕府軍の墓地に出た。それは新政府軍の墓地からそんなに離れていなかったというよりすぐ隣であった。両軍の戦死者が殆ど隣同士に葬られているのを見て順三は少し気持ちが楽になった。その近さにはもう敵も味方もなかった。しかし新政府軍の墓は深い草に覆われながらも比較的簡単に見付けられるのに比べて小さな盛り土に小さな自然石がひとつ置かれているだけの幕府軍の粗末な墓は草が生い茂る中で容易には見つけ出せずそこには厳然とした区別が存在している。中には複数の遺体を一緒に葬ったのか明らかに複数の石が置かれているものもある。順三は気持ちが軽くなったのも束の間また気分が重くなった。戦う兵士はただ命令通りに目の前の敵を殺すかそれとも目の前の敵に殺されるかで大義名分もくそもない。だから結果はどうあれ終われば同じ魂なのだから死んでまで差別するいわれはないと順三は考えている。順三は子供の頃叔父からこんな話を聞いた憶えがある。ある兵士が戦死して軍主催の合同慰霊祭でその兵士の母親は遺族を代表して軍の答辞をそのまま読み上げたが息子の遺体に軍服を着せるのをどうしても肯ぜずとうとう自分が縫った着物を着せて棺に納めさせた。息子を失った母親の一念があの横暴を極めた軍を動かしたのである。母親は不本意ながら国のためという大義名分で命を捧げなければならなかった息子との最期の別れぐらい自分の息子として旅立たせてやりたかったのだろう。その母親は決して国のために息子を生んだ覚えはなかっただろうしどうしてありがたくもない大義名分のために遥か異国の地でこれからの若い命を散らさなければならなかったのか全く理解できなかっただろうし息子には人生を精一杯生きてほしかったはずだ。順三はこの幕府軍兵士の小さな墓にも手を合わせて黙祷した。そしてふと振り返ると女将がいない。周りを見回しても姿が見えない。少し引き返してみると女将が見落としてしまいそうな小さな石の墓標の前で屈んで手を合わせていた。

「どうしたのですか、急にいなくなって驚きましたよ。」

すると女将は顔を見上げて驚いたような表情をした。

「あぁ、すみません。今このお墓の前で何かが動いたような気がして・・・・。」

「何かが動いた・・・・?」

「えぇ、ひょっとしたらここに葬られた人が彷徨っているのではないかと安らかに成仏するように手を合わせたのです。」

近付いてみるとそれは小さな石を置いただけの幕府軍の墓だったが墓石の前に他にはない小さな燭台が置かれしかも墓石の表面に釘か何かで彫ったような拙い文字がうっすらと浮かんでいた。女将も何度かここへ来たことがあるが幕府軍の墓石に文字が刻んであるのはこれが初めてだという。それはただ石を置いて形ばかり埋葬しただけの他の墓とは明らかに違っていた。顔を近づけたが風化して文字は読み取れなかったが最後の十五歳という文字だけは辛うじて読み取れた。ここに葬られたのはまだ童顔の取れない十五歳の兵士だったのだろう。

「どうしてこの墓だけ・・・・?」

順三はひとり言のように呟いた。

「きっと後日ご縁の方が来られて弔われたのでしょうね。そのご縁の方はここに葬られた十五歳の少年の行方を必死に探してやっとここに辿り着いて初めて戦死を知り墓も見つけそして深く嘆き悲しんで一生懸命に弔われたのでしょう。それはひょっとしたら肉親、いや母親だったかも知れない、いやきっとそうだったに違いない。だから刻んだ拙い文字にはしっかりとした魂が込められています。それだけこの下に眠る十五歳の少年、いや多分息子への思いが強かったのですよ。この文字ひとつひとつに十五歳で死んだ少年への母親の強い思いが詰まっている。僅か十五歳で死んでしまった息子への・・・・・。」

「十五歳といえば世の中の右も左もまだ分からない年齢でしょう。そんな何も分からない年で無理やり戦争に駆り出されて縁もゆかりもないところで何のためかも分からずにひとり死ななければならないなんて全く悲劇ですね。そんな息子を命が擦り切れるまで探し続けた母親も哀れだ。その母親が苦心惨憺の末にやっと息子を見つけたらもう墓の下に葬られていた。一途の望みも消えて狂乱するばかりに悲しんだだろうけど結局その母親もここで息子の後を追ったのかも知れない。僕にはそんな気がしてなりません。戦争さえなければ幸せな親子で生涯を送れたかもしれないのに戦争は残酷ですね。勝っても負けてもどんなに盛大に弔われて立派な墓を立ててもらっても死んだ者はもう二度と帰ってこないし後に残された者の悲嘆は一生涯消えない。私の父方の二人の叔父さんも戦死しましたけど父は決して自分からそのことをいわなかったです。きっと骨肉分けた肉親といえども他人に話すのが苦しすぎたのでしょう。この胸の内が分かってたまるかというような気持ちで・・・。」

「・・・・・。」

「それにしてもこのお寺もお墓も荒れ放題ですね。このままでは人間の愚かさもその悲しさも飲み込んだこのお寺もお墓も全て土に帰ってしまってここで何があったか永遠に忘れ去られてしまう。」

「・・・、一度温泉街で町役場にお寺と墓地の保全を陳情したのですけどお金がないのひとことで却下されました。それから町が廃れ人もいなくなって結局何もせずに放ったらかしです・・・。」

「しかし、このまま歴史の闇に埋もれてゆくのではここで死んだ人たちが浮かばれませんね。いつまでたっても成仏できない。ここえ死んだ十五歳の少年もそれを追ってはるばるここまでやって来た母親も・・・・。」

「そうですね。戦争を起こした人たちは決して責任を取ろうとはしませんから。その元で何も分からずに狩りだされて死を強要された何千、何万の罪なき人々は結局死に損みたいに忘れられてしまう。これが人の作った歴史なのでしょうかね。家を離れたこんな遠いところでひとり寂しく死ななければならなかったあどけない少年の無念と悲しみが魂になって現れたのでしょうか。」

「しかし、それが何かにつけ人間社会の現実というものでしょうね、きっと。いずれ時間が癒してくれますよ。」

二人はその小さな墓の前で再び手を合わせた。

「ところでお寺の本堂はどこですか?」

「本堂は二十年ほど前の火災で焼けてしまいました。何でも浮浪者が火を焚いたのが原因のようで今ではもう草に覆われて本堂がどのあたりにあったのかも分かりません。だから今残っているのはあの朽ちた門とこのお墓だけです。それもやがて土の下に消えてしまってすっかり痕跡も留めなくなるでしょうからここであったことも全て人々の記憶から消えてしまう・・・。」

「・・・・・。」

「でも、今日我々二人が忘れずに手を合わせたのですから少年の魂もここに葬られた千人の魂もきっと成仏してくれるでしょう・・・。」

「そうあって欲しいです。少しは浮かばれる。」

「そろそろ引き返しましょうか。」

「はい。」

寺の門の跡を出ると順三はここに眠る多くの人達の魂を背負ったような気がした。あの十五歳の少年もそしてその母親もそして新政府軍や幕府軍の名もない多くの人達も一斉に宙に舞い上がって自分に縋って何かを訴えかけるような気がした。そして順三はその中にマサを見るような思いがした。マサはもう自分の手の届かないところに行ってしまったとしてももし強い思いを残していればあの十五歳の少年の墓の前で母親が後を追ったように自分にも一緒にこちらに来てほしいと導いているのではなかろうか、昨夜の露天風呂のことも合わせて順三はそう思った。するとあの生き生きとしたマサが今にも順三の手を取って何処へともなく引き連れてゆきそうな気がした。

「お客さん、危ないですよ、そちらは違いますよ!」

女将の声に順三は我に戻った。

「一体どこへ行くのですか?あちらは滝壺ですよ、足を滑らせて落ちたらもう二度と浮かび上がりませんよ。」

女将は順三の手を引っ張った。それはまるで滝壺へ連れてゆこうとするマサの手を振り解くようであった。橋の袂に付くと陽光が真上から燦燦と降り注いできた。順三はまるでこの世へ戻ったような気がした。二人は暫く橋のたもとで流れを見つめていた。

「女将、どこかで昼めしでも食べませんか。」

「・・・・、そうですね、もうそろそろお昼ですね。でもどこかといってもこの辺りには夕食を出してもらったあの料理屋さんしかありませんけど。」

「それはいいですね。あそこなら文句はありません。そこにしましょう。ここから遠いのですか?」

「いいえ、橋を渡ったところを右に折れて十分ほど歩いたところですけど、ただやっているかどうか・・・・。」

「まぁ、取り敢えずいってみましょう。もしやっていなかったらその時に考えればいいですし。」

「それならいってみましょうか。」

二人は橋を渡り右へ折れて細い道へ入った。そしてそこから山に向かって少し歩くと木々に間に見えてきたのがその料理屋である。何もないこんな人里離れたところに料理屋があること自体驚きであるがお客を取らずに料理を仕出すだけならこれでもよいのかも知れない。外からではやっているかどうか分からないので女将が玄関の引き戸を引いて声をかけた。


4


 「すみません。」

ちょっと遠慮した女将の声が店の中に響いてゆくが返事はない。

「すみませ~ん。」

女将が少し大きめの声をかけると奥からハーイと返事が返ってきてお婆さんが出てきた。そして女将を一目見るなりニッコリと微笑んだ。

「これはこれは、女将、よくいらっしゃいました。今日はうちの嫁を手伝いに呼んで頂いてありがとうございます。」

「ご無沙汰しております。とんでもございません。こちらの方こそ奥様のお陰で助かっております。」

女将は愛想よい笑みを浮かべて頭を下げた。

「連絡もせずに突然伺って恐縮ですけど今日やっておられますか?」

「ちょっと待って下さい。」

順三をチラッと見てお婆さんは奥へ引っ込んでいった。

「いまの方はここのご主人のお母さまです。」

なるほどもうかなり歳のようだがしっかり腰が伸びて歳を微塵も感じさせないのはてこの辺りの恵まれた環境の賜物だろうか。暫くしてお婆さんが戻ってきた。

「今ある材料でよかったら準備しますのでよかったらお上がり下さい。」

女将は順三の顔を見た。

「勿論それで結構です。上がらせていただきましょう。」

「それではお願いします。」

女将がそういうとお婆さんは愛想よい笑みを浮かべて二人を奥へ案内した。そんなお婆さんの立ち振る舞いがいかにも板についていたのできっとこの仕事が長いのだろうと順三は推量した。

「どうぞこちらへ。」

お婆さんは廊下の奥の部屋に二人を案内した。

「今準備いたしますのでしばらくお待ちください。」

「ちょっと・・・。」

順三が声をかけた。

「はい。」

「あの~、昨日こちらの鰻を食べさせていただいたのですがもしまだあれば白焼きにしてほしいのですが・・・。」

そういうとお婆さんの顔がみるみる明るくなった。

「それではお客様、昨日あの鰻を召し上がったのですか?」

「えぇ、頂きました。とても美味しかったです。」

「それはありがとうございます。それではいいのがあれば持ってまいりますので。」

「あぁ、それに昨日のお酒もあれば・・・。」

「昨日のお酒・・・?」

「菊の内ですよ。」

女将が横から口を挟んだ。

「それなら冷えたのがありますのでお持ちします。菊の内がお好きとはお客様も通ですね。」

そういってお婆さんはちょっと意味深長な流し目を残して下がっていった。初めて会うお婆さんに通といわれて順三は少し戸惑った。

「あのお婆さんは旦那様がもう大分昔にお亡くなりになってからここのご主人夫婦と同居されて今年確か八十五歳になられます。それまで別のところで料亭をやっておられたのですけどご主人がお亡くなりになって閉じられました。それで暫くこの料理屋も女将をしておられましたけど息子さんが嫁を取られたので、朝出る時にお会いしたあの方ですけど、女将をそちらに任せて裏方に回られました。あのお歳までここで生まれてここで育たれたのでこの辺りの歴史を自分の目で見てこられた生き字引のような方です。」

「それではあのお寺のこともご存知なのでしょうね。」

「えぇ、あのお寺がこの温泉街の菩提寺として繁栄してそして衰退してゆく姿を目の前で見ていらっしゃったと思います。」

「ふ~ん、そうですか。」

すると廊下で足音がしてお邪魔しますと声がした。女将が返事を返すと障子が開いてさっきのお婆さんとこの店のご主人と思しき割烹服姿の年配の人が膝をついていた。

「お客様、紹介させていただきます。この店の主人です。昨日の料理を取って頂いたといったら是非伺ってご挨拶申し上げたいというもので連れて参りました。」

「あぁ、そうですか。それはわざわざご丁寧にありがとうございます。昨日は大変結構な料理を楽しませていただきました。」

順三も膝を正して挨拶を返した。

「とんでもございません。拙い料理でしたけどお口に合って何よりです。お客様が鰻を御所望と大女将に聞きまして伺ったのですけど丁度いいのがありますのでそれを裁かせていただきます。ところでお客様は西の方の方ですか?」

「えぇ、生まれと育ちは関西ですが出てもう四十年以上にもなりますので訛りは幾分残っていても関西といえるかどうか。もうすっかり東の人ですよ。」

「それでお味は薄味がお好みでしょうか?」

「いえいえ、もうこちらが長いですからあまり気にされずにお得意の味付けでお願いします。薄味でも濃い口でもいけますから。あぁ、昨日ぐらいでお願いできればありがたいですが。」

「分かりました。それでは準備させていただきます。」

お婆さんと主人は一礼して出ていった。順三はまるで京都の古い料亭にでも上がったような気がした。勤め人時代にあちこちを回って舌が平均になったのだろうか最近では京都の薄口料理が旨いと思ったためしはなかった。

「ご主人が直々に客の好みを聞きにこられるなんて珍しいですね。」

「えぇ、あのご主人は目立たない方でいつもは奥様か大女将がお客の対応をされてご主人はもっぱら厨房におられて出てくることは殆どありません。今日はきっと鰻を注文いただいて、それに昨日の料理が美味しかったと褒められて嬉しかったのでしょうね。今日は昼からご主人の気合が入って美味しいものが頂けそうな気がします。」

「私は美味しい料理を美味しいとそのまま正直にいっただけなのですけどね。」

「昔からあのご主人の腕前はこの辺りで有名でしたから。最近ではその腕を振るう機会もめっきり少なくなったところに久しぶりに遠くのお客さんに褒めて頂いて嬉しかったのですわ、きっと。」

「それにしてもこの温泉街でやっている旅館は一軒だけで近くの温泉街といっても結構離れているし店は大変でしょうね。あの味だったら東京にでも店を出せばすぐに評判になって客が引きも切らなくなると思うのですけどね。」

「そうするように勧める人も多いのですけどご主人がどうしてもここにいるといって聞かないもので奥さんも大女将も困っているようですよ。」

そんな話をしていると障子の向こうでお邪魔しますという声がして大女将がまず鰻と酒を運んできた。早速女将に注いでもらって口に運ぶと昨夜の思いがそのまま蘇ってくる。昼間からこの鰻と酒を賞味できるとは何と贅沢だろうと順三は思った。

「あぁ、旨い。」

順三は思わず唸った。順三は女将にも酒を勧めたがさすがに謝辞した。そうこうするうちに大女将が料理を次々に運んできた。野菜料理から川魚料理から昨夜の食卓に勝るとも劣らない豪華な品揃えであった。日の高いうちからこんなご馳走を頂くのはさすがに気が引けるがこういうことは滅多のあることではないのでたまにはいいだろうと順三は箸を進めた。昼間から旨い料理と酒で順三はすっかりいい気分になった。

「どうぞ女将も召し上がってください。」

「もう頂いておりますよ。」

見ると確かに料理は二人前用意されている。大女将が席を立った間に順三は本当に美味しいとひとりごとのように囁くと女将はちょっと微笑んで頷いた。昼間から気分よく酔ってもう金などいくらでも持っていけと大きな気持ちになった。最後に甘い果物まで出て正に至れり尽くせりのコースである。順三がフッと嘆息したところで主人と大女将の声がした。二人は廊下に両膝を揃えて座ったまま尋ねた。

「いかがでしたか、お楽しみいただけましたか?」

「いやぁ、ご馳走様でした。料理も酒も誠に結構でした。本当に美味しかった。」

順三の口をついて出た嘘偽りのない言葉に主人と大女将は喜色を満面にした。

「ありがとうございます。そういっていただけるだけで本当に嬉しいです。どうぞごゆっくりしていってください。」

それだけいうと主人と大女将はすぐに下がっていった。

「いや、本当にお世辞抜きで美味しかった。失礼ながらこんな田舎で燻ぶっているのは勿体ない、本当に別の場所で店を開ければいいのにね。」

「それは・・・、ご主人にはご主人の考えがおありなのかも知れませんね。」

勘定を済ませて順三は千鳥足を女将に支えてもらうように旅館へ帰ったが途中で女将にそっと尋ねた。

「女将、あの勘定は何か間違っていませんか。旨い鰻にフルコースの料理に上等の酒であの値段は安すぎる。おまけに二人前で。何か悪い気がしてね。」

「いいえ、あれでいいのですよ。お気になさらずに。」

「・・・・・。」

順三は自分の部屋に帰って横になった。酔いが回り腹も満ちて極楽とはこのことかと差し込んでくる暖かい日光を浴びながら目を瞑ると自然に眠りの淵に引き込まれていった。目が覚めたのは日が傾いて赤味を帯び日中の暖かさが冷たさに変わって身体を震わせる頃であった。気がつくと誰が掛けてくれたのか掛布団が掛かっていて奥の間に夜具が敷かれてある。女将がやってくれたと思うと順三はいっそこのままずっと女将と一緒にここに居続けられたらと思った。夕闇が迫るにつれて急に寒くなってきて掛布団一枚では到底暖が取れずに順三は暖房のスイッチを入れた。部屋が温まるまでのひととき横になっているとまるでこの世に自分ひとりだけが取り残されたような気がする。しかし順三はあの奇怪千万な世間に戻るぐらいならそのほうが余程よいと思った。その時障子の外に黒い人影が映って少し中を窺うような仕草をしたが順三は気付かないふりをしていかにも今目が覚めたばかりのように大きな欠伸をした。すると失礼しますと声がして障子がゆっくり開いて普段着姿の女将が入ってきた。

「よくお休みになれましたか?」

「えぇ、よく眠って今起きましたよ。昼から酒を飲んで寝るなんて本当に上等ですね。あぁ、それと掛布団ありがとう。」

「まぁ、これまで一生懸命働いてこられたのだからたまにはこんなことがあってもいいのではありませんか。夕暮れから急に気温が下がるので気を付けないと。夕食は何時に致しましょうか?」

「そうですね、今日は昼が少し多かったので少し遅らせて八時でもいいですか?」

「承知しました。それでお飲み物は・・・・。」

「さっき頂いたお酒をお願いしますよ。」

順三はこれから先もあの酒がないと飯が食えなくなるのではないかと思った。

「承知しました。それでは浴衣を持ってまいりましたのでどうぞ。それと、今日の夕食は暖かい下の広間でいかがですか?」

「えぇ、そうさせていただきます。広い方が気も晴れていいでしょうしね。」

「それでは浴衣とタオルをここに置いておきますので八時に下にお越しください。」

「分かりました。」

「ではごゆっくり。」

女将が部屋を出ると順三は早速浴衣に着替え丹前を羽織って露天風呂にいった。廊下の突き当りを右の折れ服を脱いで露天風呂に入る頃にはもう日はとっぷり暮れて北風が小さな電灯ひとつを揺らす寒々とした光景になっていた。そそくさと掛かり湯をして湯船に浸かると暖かさが足先からジーンと全身に染みて冷たい北風に晒される首から上と暖かい湯の中の胴の二つの部分に身体が分かれたような気がする。目を閉じると今日一日のことが自然に思い浮かんでくる。荒れた寺の門や立派な新政府軍兵士の墓地に比べ石ころを一つ置いただけの幕府軍兵士の粗末な墓地の中でひとつだけ燭台が設けられて拙い文字で十五歳と刻まれていた墓、そして心が冷えた後の旨い料理と酒、それに今身体中に浸み渡ってくる湯の暖かさ、そんな思いが次から次へと絡み合って一抹の芳香が立ち昇るような気持ちになった。すると突然少し向う側で人の気配を感じた。よく見ると確かにそこに人がいてゆっくり湯をかき分けながら奥に進んでいくように見える。それは昨日ここで見たあの人影と重なり合った。人影を追ってゆくと岩場で立ち止まってそのまま肩口まで湯に浸かりそしてそっと夜空を見上げるようだった。それは決して幻ではなくそこに人がいて夜空を眺めているのだ。ひょっとしたらマサが、それとも女将が・・・、と思うと順三の身体は自然に人影に向かって動き出した。しかし近付いてみるとそれはマサでも女将でもなく昼間立ち寄ったあの料理屋の主人であった。

「あぁ、ご主人ですか、どうも。昼間は世話になりました。」

順三は慌てて声をかけた。

「あぁ、これはお客様。いえいえ、どういたしましてこちらこそ行き届きませんで。」

急に声を掛けられて主人も驚いた様子である。

「よくこの湯へ入られるのですか?」

順三は主人の横で肩まで湯に浸かって尋ねた。

「いいえ、ほとんどありません。今日はお膳を持ってきたついでにちょっと入らせて頂いているだけです。」

「そうですか。いやぁ、ここは本当にいいお湯ですね。こんな寒い日にこんな気持ちのよいお湯を頂けるなんてなんのかんのあってもこれまで生きてきてよかった気がしますよ。」

順三がそういうと主人はニッコリ微笑んだ。

「そうですね、本当にいいお湯だ。この温泉の湯はいい・・・。」

「どうしてこんなにいいお湯があるのに観光客がこないのでしょうね。」

順三は不躾を覚悟で聞いてみた。

「それは宣伝下手というかここにこんなにいいお湯であるのだから何もしなくてもお客様の方から来てくれると少々天狗になっていたところがあったのかも知れませんね。実際隣町の新しい温泉街は源泉の温度が低くて加熱しなければならないのでこちらのほうが余程お湯のコストも低いし泉質もよいのですけどあちらさんがいろいろなキャンペーンを打ってせっせとお客さんにアピールしているのにこちらは何もせずにただボンヤリ待っているうちに大型のホテルがあちらに進出してお客さんもあちらに取られてしまいました。こちらは折角天から頂いた良質の温泉を生かせなかったということでしょうか。」

「それでは遅まきにでもここの温泉を宣伝して大型施設を誘致すればいいのに。」

「以前ここの温泉旅館組合が表に立って県や町と振興策や補助金を話し合ったことがありましたけど皆好きなことばかりいって意見が纏まらずにいる間にあちらは県や市と話をつけておまけに東京の大手のホテルグループ進出の話まで纏めてどんどん開発を進めてゆくのにこちらはそんな段階になってもまだ伝統がどうのとか環境がどうのこうのと好きなことばかりいって揉めている間にお客がどんどんあちらの方へ行ってしまって歯止めがかからなくなって遂には業を煮やした県や町も手を引いて後はこの有様ですよ。」

「そうですか、それは指導力欠如の人災だ。」

「物事は一度ひとつの方向に動き出すともう坂道を転がり落ちるように誰にも止められなくなります。結局纏まりのなさと指導力の欠如と初動の失敗が祟って全てが後手に回ってもうすぐこの温泉街自体が消滅しようとしています。自分が生まれて育ったところですからもっともっと発展してほしかったですが・・・・。」

「・・・・・。」

もはや取り返しがつかず死刑執行を待つばかりのこの温泉街に順三は言葉がなかった。

「ところで、話は変わりますけど、ご主人、夕食はもう済まされましたか?」

話題が急に変わって主人は少し驚いたように順三を見た。

「いえ、これから家に帰って済ませます。」

「それならもしご都合よかったら夕食をご一緒しませんか?女将もいらっしゃるし、是非。」

「あぁ、それはどうもありがとうございます。でも家では母親と家内が待っておりますしそれに料理はお客様一人前しか準備しておりませんので・・・。」

主人は順三の急な誘いに戸惑って余計なことをいってしまったと後悔の態だった。

「いやいや、それなら家へは連絡しておけばよいでしょうしこの旅館でも何か料理はできるでしょうから、もし何もなければ分ければいい、多分量は充分でしょうから。それにあの酒はここにもありますから不自由はしませんし。私もひとりで食べるより誰かと一緒した方がいいですので、是非・・・・。」

「そうですか・・・・。それではお言葉に甘えて・・・・。」

「そうと決まれば早い方がいい。丁度お腹もすいてきたし早い目に湯を上がって下の広間へ行きましょう。今晩の夕食は下の広間だそうですから。」

「はい、分かりました。」

順三は湯から出るとすぐに女将に事情を説明して何か食べるものを用意してほしいとお願いすると魚介はないけど新鮮野菜ならあるのでそれで何か作ろうと女将は気持ちよく請け負ってくれた。ついでに女将にも食事に参加してほしいとお願いするとニッコリ笑って快諾してくれた。そして追加の勘定は全て自分が負担すると付け加えることも忘れなかった。それから順三は部屋に戻って手早く身の回りを整えて広間へ降りてゆくともう主人と女将が談笑する声が中から聞こえてきた。

「おまたせしました。」

順三が障子を開けると二人は話を止めて視線を向けた。畳敷きの広間の真中辺りに小さく置かれたテーブルに主人が運んできた料理とあの冷酒が並べられていた。鰻と山海の珍味のご馳走である。

「お客様、今日はお招きにあずかりどうもありがとうございます。」

主人は改めて両膝を揃えて恭しく礼をいった。

「いえいえ、こちらこそ我儘をいいまして。私もこの方が余程いいですから。女将も今日は遠慮なく楽しんでください。」

「ありがとうございます。ありあわせのもので申し訳ありませんけど今少し拵えていますのでもう少しお待ちください。」

「それはありがとうございます。急なお願いで申し訳ありませんでした。」

テーブルを挟んで順三の前に女将と主人が並んで座った。

「では、まずはお湯上がりに一杯どうぞ。」

女将は順三に酒を勧めた。そして次に主人に勧めると主人は丁寧に手を添えて盃を掲げた。そして最後に順三が女将に注いだ。

「それではまずは一献いただきましょうか。」

順三の声を合図に三人は盃を合わせて一気に飲み干した。昼間結構飲んだのに順三の身体には不思議なほどアルコールが残っていなかった。三人は立て続けに三杯ほど盃を明けた。

「女将、申し訳ありませんが取り皿を持ってきてくれませんか。皆でつまみましょう。」

女将はちょっと横の主人を見てすぐに部屋を出ると小皿と取り箸と一緒に湯気の立つ野菜と持ってきた。

「あぁ、これはいい。野菜の煮つけですね。」

「ありあわせの野菜で申し訳ありませんけどサッパリした醤油味で他は何も使っていませんから簡単に作れる割には本来の素朴な味が出ていると思います。どうぞ召し上がってください。」

女将がそういうと横から主人があぁこれですかこれはいいと続けた。

「それではいただきましょう。」

順三は小皿を女将と主人に取り分けてその真ん中に取り箸を置いた。

「それにしても昨夜といい今日の昼といいご主人の料理は本当に旨い。一体何処で修業されたのですか?」

「いえ、私はどこにも出向いておりませんでずっとあの料理屋で先代、つまり私の父親ですけど、の背中を見て修業しました。」

「え・・・、そうするとご主人の味はあの料理屋さん伝来の味なのですね。」

「どこにも出たことがありませんからよく分かりませんけどそういうことになるのでしょうか。父親があの料理屋の三代目で私が四代目なのですけど父親はお爺さんに付いて修業したといっておりましたから代々受け継がれてきた味だと思います。私のところも元々は温泉旅館でしてお客様に料理をお出ししていたのですけどさっき申し上げたような次第でお客さんが減って旅館をやっていけなくなったものですから仕方なく廃業して仕出し専門の料理屋に模様替えした次第です。もっとも今日みたいに顔見知りのお客さんに直接提供させてもらうこともたまにはありますけど。それで暫くはそれでもったのですけどお客さんが更に減ってもうこの温泉街だけではもたなくなって隣町にまで料理を届けるようになったのですが大手のホテルが出てきてからはそれもなくなって今ではこの旅館と隣町の二、三の小さな旅館だけがお客様です。それにもうここもお閉めになるようで・・・・。」

主人は寂しそうな眼で女将を見た。

「まあ、いろいろ事情はありましたけどこれも世の流れですから仕方ありませんよ、ご主人。いくら悔やんでも悲しんでも時間は巻き戻せませんからこれから先もどうにか生きてゆくしかありません。」

女将もしんみりとしていった。

「いいですね、女性は元気があって。生命力が男とは段違いだ。私なんかどうも気力が萎えてしまってもう元へ戻らない。それに比べてうちの母親や家内はまるで食べているものが違うように元気で羨ましいですよ。」

「ハハハ、食べているものは同じでしょうけど心の構造は違うかも知れませんね。私も昔よくご主人と同じような思いをしました。女は本当に強いってね。だから化け猫も番町皿屋敷も安寿と厨子王も主役は全部女ですよね。恐ろしい化け猫は女の怨念の化身だし死んだ後も恨みを込めて毎晩皿の数を数えるなんて面倒なことは男にはできないし逃げた男を最後まで追い詰めて鐘の中で焼き殺すなんて恐ろしいことも男にはできません。ねぇ、女将。」

順三は女将に顔を向けていった。

「まぁ、そんなことありませんよ。女は気持ちも力も弱い代わりに粘り強さだけは男に負けないように神様がお造りになったのかも知れません。でないと子供なんか産めませんよ。」

「それに執念深い・・・・。」

「まぁ・・・。」

女将は下を向いてクスッと笑った。

「ところで、ご主人はここのお生まれですか?」

「えぇ、私は生まれも育ちもここです。高校の間だけ町へ出ましたけどそれ以外はずっとあの家で暮らしています。私が若かった頃は父親やら爺さんやら婆さんやら叔父さんやら本当に沢山人がいましたけど今では私と家内と母親の三人きりですよ。まるで火が消えたみたいだ。」

「ご主人、お子様は?」

「それがいないのです。私のせいか家内のせいか分かりませんけど子宝に恵まれないうちにとうとうこの歳になってしまいました。養子縁組も考えたのですけどこんなところへ来ようというモノ好きはとうとういませんでした。毎日の生活に追いかけられて一日一日生きていくうちに気が付けばもう六十歳の後半で体力は衰えて先も見えるようになりましてちょっと一服して少しはこれまでのことを眺めてみようと思いまして、それにこの旅館が閉まったらもう仕事も殆どなくなるので店じまいしようかと今母親や家内とも話をしているところです。」

「・・・そうですね。時には少し立ち止まって周りを見直してみるのも大切ですね。しっかり周り見てそのまま視点を未来に移せばいい。そしていいこと、楽しいことだけを考えるのです。現実はどうあれ楽しい人生だけを頭に描いて生きることが大事だと私は思っています。」

すると女将が口を挟んだ。

「しかし、いつも頭に浮かんでくるのが今日や明日をどうやって生きるかの差し迫ったことばかりで現実離れした楽しいことを考える余裕なんてありませんし。楽しむにはまず生きなければなりませんけど生きること自体がおぼつかないのですから。それに自分の人生を振り返ってよかったと満足している人なんているのでしょうか?それどころかあれも失敗これも失敗ここも不首尾あそこも不首尾ああすればよかったこうすればよかったばかりでそのなれの果てが今の自分だと嫌悪する人ばかりではありませんか・・・。」

すると主人がいった。

「苦労と失敗と不首尾と後悔だけの人生なら一体何のためにこの世に生まれたのか分かりませんよね。それでは生きようとする気持ちさえ萎えてしまいますけど自分のこれまでの人生を思えばどうしても生きることは苦しむことだという結論にしかならない。だから昔の人はそんな宿命からひと時でも逃れようと藁にも縋る思いで極楽浄土を願った。つまりこの世に生きること自体は地獄だけど一生懸命努めれば次の世は必ず極楽浄土に成仏できると信じて必死で祈った。科学が進歩していろいろなことが分かっても死んだ後のことは誰にも分からないから今でも地獄へ落ちるといわれると死んだ後までこの苦しみが続くのかと人々は震え上がって一心に祈り続ける。この世に生きることはそれほど辛く苦しいことなのでしょうね、きっと。」

すると順三がいった。

「確かにそういう所があるかも知れないけどそれだけでもないような気もします。生きることは苦しいことですけど何かを見出さないと生きること自体に意味がなくなって早く死ぬのが一番幸せになってしまう。しかし人間はどんな状況になっても必死で生きようとしますよね。生まれながらに重い障害を強いられた人の言葉が忘れられません。」

「どういう言葉ですか?」

「その人はどんなに苦しくてもたとえ虫になってでも生きていたいといっておられた。苦しさだけが人生ならこんな言葉は出てきませんよ。」

「・・・、それはお天道様が東から上がって西に沈むように人の心にそう刷り込まれているからではないですか。」

「そうかも知れませんね。しかしもし生まれながらにそのように刷り込まれているのなら人にはそれしか許されないのでしょう。」

「・・・・。」

「何か暗い話になってしまいましたね。まあ今晩ぐらいは旨い料理と酒で日頃の憂さを晴らしましょうか。一夜限りのお祭りですから。明日からまた・・・。」

すぐに女将がいった。

「そうですね今晩ぐらい飲みましょうか。」

そして主人も続けた。

「そうそう、せめて今日一晩ぐらい・・・・。」

三人が悲しい笑みを浮かべて盃を合わせると順三は日頃腹に溜まった黒い塊を多少なりとも吐き出したような気がした。それまで消沈気味だった主人も少しは元気を取り戻して女将相手に何やら話して笑っている。女将も黒い雲間から少し漏れ出た陽の光のように清々しい表情になった。順三はこれが生きるということだなと思った。それからどれぐらい時間が経っただろうか、ふと気が付くと空いた銚子が並ぶテーブルで足元もおぼつかなげに主人が立ち上がろうとしていた。しかし順三も主人と同じ、いやそれ以上に飲んだはずなのにそんなに酔っている気はしない。そして女将は底抜けの酒豪の本性を現して顔色一つ変えず料理に箸を伸ばしている。主人はやっと立ち上がってトイレかそれとも悪酔いか千鳥足で部屋を出ていった。

「ご主人大丈夫ですかね。足もとがおぼつかないようですけど。」

「あのご主人、お酒はあまり強くありませんのでね。」

「女将と違って?」

酒の興で人をからかうことなどついぞない順三がからかった。

「まぁ、そんなこといって嫌ですよ。私はお酒を飲んでも表に現れない体質なだけですよ。何ともないように見えるかも知れませんけどご主人と同じくもう足元が危なくなってきていますよ。しかし立ち上がって転んでも誰も受け止めてくれませんから立ち上がることもできない。お客さんの宴席ならこれも商売だからと気を強くして立ち上がりますけど今日はそんな気遣いはいらないから立ち上がりません。自分が立ち上がりたいと思った時や立ち上がらなければならないと思った時だけ自分の意志で立ち上がります。ご主人も自分の意志で立ち上がるのはこれが初めてではないですか、今晩ご主人は確かに自分の意志で立ち上がって自分の意志でやるべきことをやられた。」

「・・・・、ちょっと大袈裟なように聞こえますが。」

「大げさも小げさもありませんよ。結果が凶と出るか吉と出るか分かりませんけど生まれてこのかたずっとがんじがらめに縛り付けられてきたタガが外れて第二の旅に出ようとしているのですからお国のことであろうと身の回りの些事であろうと同じですよ。しかしですよ、あのお寺に葬られた人達はそんなことのひとつも経験するいとまもなく命を絶たれたのですから、それも自分の意志でも自分のためでもなくね・・・。それではあまりに可哀相ではありませんか?あの十五歳の少年も・・・。」

見れば女将の目にうっすらと涙が光っていた。順三は一体どうしたのだろうかと思った。寂れてしまったこの温泉街でひとり最後まで頑張ってきた灯が今正に消えてこの町もあの寺のように朽ちた墓標が並ぶ廃墟になりやがて地上から姿を消してゆくこの宿命を女将はどんな思いで見つめているのだろうか。

「あの寺に葬られた人達は私達そのものですよ。あのお寺の下には戦争で死んだ若者達と苦しい時を必死で乗り越えてこの温泉街を築いてきた多くの人達が眠っているのです。そして私達はその人達が造り上げたこの町の最後の灯が消えて行くのをのを見届けるためにここにいるのです。もう何もしなくていい。ただ滅び去るのを見ながら自分も一緒に滅び去ればいい。それが宿命です。」

女将の万感が籠った般若の視線が順三に突き刺さる。確かに女将は相当酔っていると順三は思った。

「女将、今日は少し飲み過ぎましたね。」

順三がいうと般若の形相はハッとして忽ち優しい女の顔に変わった。

「いぇ、そうではありません。いつも仮面を被って生きてきたこの長い人生で一度ぐらい仮面を外してもいいだろうと思っただけです。それは決して酔って酒の力を借りているのではなくてこれまで胸に溜まってきたマグマが炎を上げて噴き出したのだと思います。そしてそれは今日のこの時間にここで噴出するように気の遠くなる昔に設定された必然です。」

「・・・・・。」

その時入口の戸が開いて主人が戻ってきた。

「ご主人、大丈夫ですか?」

蒼ざめていた主人の顔に生き生きとした血色が蘇っていた。

「えぇ、もう何ともありません。大丈夫です。それより今時計を見て驚きました。もうこんな時間だなんて。さっき家には電話しておいたのですけど母親や家内が心配しているといけないので私はこの辺りで失礼させていただきます。」

「もう少し酔いを醒ましてからの方がいいのではありませんか?」

順三がそういうと主人は大きくかぶりを振って順三の前に正座して頭を下げた。

「お客様本日は本当にありがとうございました。久しぶりに晴れ晴れした気分になりました。これからも一家三人しっかり生きてゆきます。本当にありがとうございました。」

「いやいや、ご主人。こちらこそありがとうございました。こんなに美味しい料理を頂いて。こんなにいい腕をお持ちなのですからこれからもしっかりやってください。きっとうまくいきますよ。」

主人は上目使いに順三をチラッと見るともう一度深々と頭を下げて出ていった。順三は久しぶりに深酒をして少しめまいがしたが女将は至って平然としていた。

「女将、さぁ、もう一杯どうぞ。」

順三が銚子を取り上げると女将は素直に受けたがもう注ぎ返しはしなかった。

「ありがとうございます。もう大分飲みましたので今晩はこれぐらいで置きましょうか、お客さんも充分お召し上がりになったようですし。」

「女将、もう飲めないのですか・・・?」

少し呂律が回らない舌で順三が訪ねた。

「えぇ、私ももぅ一杯一杯ですよ。それにもうそろそろ帰らないと。」

「え、女将、帰るってここに住んでいるのではないのですか?」

順三はそれまで女将はこの建物のどこかに住んでいるとばかり思っていた。

「ここは仕事場です。住んでいるのはあの料理屋さんの近くですよ。」

「それでは毎日そこからここへ・・・?」

「えぇ、通っています。」

「どうしてここに住まないのですか?」

「別に理由はありませんけど亡くなった主人がここは仕事場と決めていてずっと通っていましたから今もそのままにしています。主人がいつも仕事場は常に神聖なのだから生活する場所とは別でなければと申しておりましたから。」

「ご主人がそう決められたのでご主人がお亡くなりになってからもそのようにしておられるのですね。」

「そうです。」

「・・・・。」

それまで女将は主人と死に別れたと順三は思い込んでいたというよりはそう思い込もうとしていたのだが初めてそれが事実だと知った。

「僕は今まで女将のことを何も知らずに接してきたのですね。」

「そうですね。でも私もお客さんのことを何も知らずに接して参りましたからお相子です。これまでお互い全く違う道を歩んで偶然ここで交わっただけですからその今を大切に生きればそれでいいのではないですか?」

「それは寂しい。」

「寂しい?」

「そう寂しい。何も知らずに話したのでは話す言葉は同じでも通じ合うことはありません。一方が楽しいと思っても相手は全く逆なこともありますしまたその逆もあります。つまり僕は白といっているのに女将は黒を感じるような・・・。それでは心が通じ合わない。すべての人が背負う過去を平等に映しだす言葉なんて存在しないのだから仕方ないかも知れませんけど・・・、人は所詮誤解と都合のいい思い込みで生きているのかも知れませんね、きっと。」

「しかし、それはいけないことでしょうか?お客さんが心に想うマサさんとの関係でそれは大切なことですか?」

「僕は大切だと思います。逆に違う過去を背負って違う土俵で話をして勝手に思い込んでそれで幸せですか?」

「しかし、違う過去の二人でも同じ土俵で幸せと感じればそれでよいのではありませんか?後になってなんだそうだったのかと百年の恋が覚めてしまってもそれは仕方のないことでそれもひとつの宿命です。それまでゆっくり夢を見ていればいいのですから。だから知らないほうがいいことは世の中に数えきれないほどありますよね。お互い誤解に満ちたまま理解し合えていると信じてこの世を去る人のなんと多いことか・・・。しかしそれで二人は幸せなのですからそれはそれでいい。」

そうこうするうちに頭がクラクラして足元がおぼつかなくなってきたので今晩はこの辺りで置こうと順三は思った。自己の不作為で時間やお金を無駄にする愚を順三は従来から最も嫌悪していたが今宵はいくら無駄をしても無駄とは思えなかった。

「それでは女将の忠告に従って今夜はこれぐらいにしておきましょうか。」

意外に素直にいうことを聞くので酔っ払いにしては珍しいとでも思ったのか女将は順三の肩に手を置いて諭すようにいった。

「お客様、それがよろしいです。少なすぎても多すぎてもしくじります。中庸が一番ですよ。」

「はい、それでは女将、私は先に失礼しますけどよろしいですか?」

「はい、ゆっくりお休みください。階段に気を付けて下さいね。」

そういうと女将は腰を上げてテーブルの上をテキパキと片付け始めた。順三は瀬戸物がコツンコツンと当たる音を耳にしながら階上の部屋へ戻って丹前を脱ぐと一気に忍び寄る寒さに身を縮めて布団に潜り込んだ。暫く階下でコツンコツンという音がしていたがやがて聞こえなくなって物音ひとつしない静寂の闇が訪れた。ついさっきまで酔っているのやらボケているのやら判然としなかったのが布団に潜り込むやなぜか目が冴えて眠れないまま順三は考えた。どうしてこの温泉街はあの旅館の女将や料理屋の主人を道連れにして滅びなければならないのだろうか。そして女将も主人も目の前に迫ってくる滅びをどうしてあんなに素直に受け入れられるのだろうか。あの廃寺に眠るこの町を造ってきた人達がそしてまたその親達が生まれ育ったこの町が滅びる宿命に殉じようとしているのだろうか。しかしこの町が滅びるのは決して彼らの責任ではない。それは太陽が東から昇り天頂を極めそして西に沈むのと同じ時の必然なのだから正々堂々とこの町を棄てて新しい生活を求めればよい。自分だってそうしたのだと順三は思った。確かに先がそんなに長くない身の上で新しく生活を切り開くのが簡単でないことはよくわかるがそれがこの町に殉じる理由にはならない。今まで育んだ心と技できっと新しい生活が芽生えるだろうしそれが女将や主人の権利であり義務でもある。どうして惜し気もなく人生を投げ出してしまうのか順三には分からなかった。そんなことを考えているうちに順三は意識が緩んで深い眠りの淵に引き込まれていった。その夜順三は夢を見た。気が付くと順三は全く見知らぬ駅のホームに立っていた。そして順三の周りを全然知らない大勢の人達が忙しげに行き交っている。するとすぐに電車が滑り込んできて周りの人達に押し込まれるように順三も電車に乗り込んだ。しかしその電車が一体どこに行くのか全く見当もつかないし外は真っ暗で何も見えない。行き先も分からない電車に押し込まれてゴトゴト進むうち堪らないほど胸が苦しくなってきて大声を上げようとしても微かに息が漏れるだけで声は全く出ない。ただなされるがまま従うしかない。その間も電車は止まる様子もなく一直線に走っている。もうこの電車に運命を任せるしかないのだと思うと急に押し潰されるような絶望に襲われて順三はその場で気を失ってしまった。そして気が付くと目の前の暗闇に仄かな明かりが差し込んでいた。雲の裾から顔を出した太陽の淡い光が六時半過ぎを差す柱時計を照らしていた。順三は暖かい布団で暫く惰眠を貪っていたが思い立ったように大きな伸びをすると丹前を羽織って洗面所へ行った。昨夜少し飲み過ぎて今朝が心配だったがどうやら杞憂に終わったようだ。昨夜女将が次の日の朝食の時間をいい忘れたのは女将もそれなりに酔っていたのだろう。八時過ぎぐらいに広間へ降りてゆけばよいだろうと思って東の空を見上げると山影を縁取る稜線の上から薄い雲が連続して明から暗へと茜色に染まってゆくのが見えた。そして洗面から戻る頃にはすっかり朝日が顔を出しあちこちから聞こえてくる小鳥の囀りに清々しい朝の息吹が溢れていた。順三は急に表を歩いてみたくなった。といっても順三が知っているのは昨日女将が案内してくれた古寺ぐらいである。もし他に何かあれば昨日案内してくれただろうから多分この辺りにはそれぐらいしかないのだろう。順三は顔を洗いオーバーを羽織ってすっかり明るくなった東の空に向けて歩き始めた。眩しい日光が差しているとはいえまだ冬の名残を強く留める空気は身を切るように冷たくオーバーの襟を立て首をすくめてもその隙間から冷たい風が忍び込んでは体温を奪ってゆく。そして橋の真ん中の辺りで欄干に寄りかかり雪解け水で水量を増して勢いよく流れる川を飽きずに眺めた。確かにひと時も形を留めずに流れる川は無常観を掻き立てる。順三は川面に渦巻く白波を見つめながら数千年後いや数万年後のこの川を想ってみた。この川は長い時の流れを超えてまだ水を湛えているだろうかそして今この川に水を送り続けている山々はまだ青々した山容を現わしているだろうかと取り留めもない思いに耽りながら橋を渡った。そして草が生い茂る廃寺の門跡で歩を止め一礼して入ってゆくと生い茂る草影に新政府軍の兵士の墓標が見え隠れするところへすぐにきた。その時一瞬何かが前を横切る気配がして順三は立ち止まった。急いで周囲を見渡したが見えるのは草ばかりで何もない。気のせいかと順三はまた歩き出した。そして十五歳をいう文字だけが辛うじて読み取れるあの幕府軍の少年兵の墓に辿り着くと順三は改めて手を合わせた。順三はこの土地に生まれそして生きそして死んでいった多くの人達とそしてその後を追おうとしている人達の話を心の中でマサにしてみた。マサは自分と同じ運命を辿ろうとしているその人達のことを深い慈しみの眼差しで聞くだろう。マサも自分が生まれ育った土地や親兄弟やそして自分自身も栄枯盛衰の果てに滅び去ってゆく姿をその目で見たに違いない。順三にはマサがあの寂れた集落の外れの家のひとり娘であることに一片の疑いも抱いていなかった。マサはその宿命を精一杯生きてそして消えていった。そしてあの女将もあの主人も今同じ運命を辿ろうとしている。そして彼らはいつかまたきっとこの寺に帰ってくるに違いない。だから今自分にできるのは最期の滅びをしっかりこの目で見届けることだと順三は思った。それからそれまでの物語を綺麗に忘れて残された時間を自分なりにまた精一杯生きようと順三は思った。(終)


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