ゴールデンSTRAYドッグ⑨
ロロナを拾ったのは、家から少し離れたところにある大きな公園だった。むかしよく遊んでいた友達と、その公園に遊びに行った時、どこからともなく子犬の鳴き声が聞こえた。
それは耳をこらさないと聞こえない、弱り果てた声だった。
もしあの時、公園で遊んでいる人が多ければ、ロロナの鳴き声は聞こえなかっただろう。もしあの時、公園に遊びに行っていなかったら、ロロナはこの世にいなかっただろう。佐倉はそのことを考えると悲しい気持ちになった。
どこから聞こえてくるのか、必死になって友達と音源を探した。そして、ベンチの下に閉じられたまま置かれていた、段ボール箱を見つけたのだ。
佐倉と友達は顔を見合わせて、段ボール箱を見つめるとそこから小さな鳴き声がした。
恐る恐る、ベンチの下から段ボール箱を引き出した。その段ボール箱は想像していたよりも、軽かったことを憶えている。まるで、何も入っていないように軽かった。
友達と固唾を飲みながら、閉じられていた段ボール箱を開けた。その開ける瞬間は時間が止まった、かのようにゆっくりと時が流れた。
ゆっくりと蓋が開く。それだけ、時間も忘れて集中していたからだろう。大層な例えをすると、一流のスポーツ選手がゾーンに入っている時のようにすべての動きがゆっくりに見えた。
むわッとした動物のにおいと共に、生温かい空気が段ボールの中からあふれ出た。そして目にしたのは、人間の赤ちゃんのようによちよち歩きをしている子犬だった。段ボールの中には子犬が四匹入っていた。
しかし、動いているのは一匹だけ、あとの三匹はぐったりと重なるようにして倒れている。始めは寝ているだけだと思っていたが、身動ぎを一向にしないことを見ると、もう魂がないことが分かった。
暑さのせいか、空腹のせいか、いや、両方だったのだろう。
幼い時の佐倉は唯一生き残った、一匹を抱き上げた。毛が柔らかくて、もぞもぞと動く一匹の子犬には消え入りそうなほど、小さい命がまだ宿っていた。
見つけるのがあと、三十分でも遅ければこの子犬の命もなかっただろう。もし、鳴いてくれなければ、命はなかったのだろう。
もし、この公園に遊びに来ていなければこの子犬の命はなかったのだろう。そう考えると、この子犬とめぐり会えたことは運命なのだと佐倉は感じた。
その時の佐倉が思ったことは、この命の灯を消してはいけないということだった。吹けば消えるような小さな命なのだ。
その光景をとなりで見ていた友達がいった。
「夜恵ちゃん、お水を上げた方がいいんじゃない?」
佐倉は言われてみて、やっと気づいた。大慌てで水をくもうと蛇口まで駆けだしたが、水を入れる器を持っていないないことに気付いた。
「どうしよう……どうしよう……」
と、佐倉はあたふたと辺りを見回した、すると、少し離れた砂場にどこかの子供が忘れて帰った器とスコップがあった。多分砂の、形を取るために使っていた器だったのだろう。
その器を持ってきて、佐倉は水を入れた。何気に蛇口からでる水を触ってみると、驚くほど熱かった。連日続く、猛暑日のせいで水道管が焼けてお湯になったのだろう。
慌ててくんだばかりのお湯を捨てて、水が冷たくなるまで待った。跳ねる水が太陽の光に照らされてキラキラと輝いた。冷たい水をくみ終えると子犬の元へ走った。
無我夢中で走ったせいで、着いた時には器の中の水がほとんどこぼれ落ちて入っていなかった。
子犬を木陰に連れて行って、そこで器の水を飲ました。
始めは警戒して、水の表面を長いひげが触れ合う程度に近づけて匂いを嗅いでいたが、大丈夫だと分かると小さな舌を出して表面をなめた。
その舌はまるで、作り物のように見えた。子犬が落ち着いてくると友達は言い出した。
「夜恵ちゃん……この子どうする?」
佐倉は膝の上で大の字になっている、子犬を見ながら考えた。このまま置いてけぼりにすれば、助かった命を殺すことになる。それだけは、どうしてもできない。
「どうしようか? ……カノちゃんの家では飼ってもらえないの?」
佐倉の友達、カノは考えるまでもなくいった。
「ごめんね……うちにはもう猫がいるから……」
「そうだよね……」
木陰のすき間から日の光が入り、佐倉の膝を照らした。膝の上で寝ていた、子犬が軽く背伸びして体勢を変えた。その姿が愛おしく、佐倉は決めた。
「わたしが飼うよ!」
「いいの? 前に犬飼ってってお願いしたら怒られたっていてたじゃないの……」
「今回は怒られても、絶対飼ってもらう!」
佐倉はまだ、三十分ぐらいしか一緒にいない、子犬に母性のようなものが芽生えていたのかもしれない。怒られるのは怖かったが、それ以上にこの子と離れたくないという感情の方が強かった。
佐倉は膝の上の子犬を持ち上げて、カノに渡した。
「どうしたの……?」
佐倉は立ち上がり、スカートに付いた砂を払いながらいった。
「この子の兄妹のお墓を作ってあげるの」
佐倉は段ボールを木陰まで運んできて。そして、どこから持ってきたのか、右手にはスコップを持っていた。
カノは自分の指をしゃぶる子犬を見た。何が楽しいのか、カノの人差し指をしゃぶっている、ミルクが出るとでも思っているのだろうか。
消えていたかもしれない、小さな命。この子犬は、必死に生きようと、生きたいのだと、子犬がいいたいことを感じとった。
「もう少し遅かったら、この子も土の下だったんだね……」
カノは樹の根元を必死でほる佐倉にいった。佐倉はカノの方に振り向いて、振り向いた佐倉の額には玉のような汗が浮いていた。その汗はポタポタと、今ほっている穴の中に吸い寄せられるように落ちた。
「うん、――そうだよ。もしわたしたちがここにいなかったら、この子は死んでた……」
小さなスコップでほった穴は三匹が入るほどの、大きな穴になっていた。佐倉は段ボール箱の中から、一匹の子犬を抱き上げた。
子犬の首が力なく垂れて、開いた口から紫に変色した舌が覗いた。
ほったばかりの穴の中に、ゆっくりと子犬を置いた。穴に埋める一匹、一匹の子犬には一匹、一匹違う特徴があった。
これから、時間をかけてこの樹の養分となるのだろう。それだけでも、この子犬たちは生まれてきた意味があったのだろうか。佐倉にもカノにも、ましてや子犬たちにも分からない。
*
「子犬って何食べるのかな?」
日差しが大地を焦がす、一番暑い時間帯に佐倉はカノに問いかけた。こんなに暑いと動くこともできず、木陰で休んでいる。
子犬は新しく入れてもらった水をなめながら、佐倉の方に振り向いてクーンと鳴いた。
「ミルクじゃないかな」
カノは子犬を撫でながら答える。
「ミルクって、お母さんのミルク? 牛乳じゃダメなのかな」
カノは少し考えてからいった。
「ペットショップに犬猫専用のミルクが売ってるぐらいだから、牛乳はダメなんじゃないかな」
「へー、――食パンに牛乳を浸してあげるのもダメかな?」
「多分ダメ――お母さんに調べてもらった方がいいよ」
「そうするよ」
気付けば夕方と呼んでいい時間になっていた。空を見上げれば、薄黒い雲が公園の上空に鎮座しているのが分かる。夕立雲だろう、その雲を見上げながら佐倉はいった。
「帰ろうか」
「……あたしも行って、お願いしようか……?」
カノは子犬と佐倉を心配そうに見ながらいった。しかし、不安げにいったカノとは対照的に佐倉は落ち着いていった。
「心配しないで――大丈夫だから」
そう佐倉はいって、カノと公園の入り口で別れた。佐倉は子犬たちを入れていた、段ボールを両手いっぱいに抱えるようにして持っていた。
もっと、小さな段ボール箱が良かったが、あたりにはこの段ボール箱しか置いていなかった。仕方なく、佐倉の手に余る段ボールを抱えたのだ。別れ際、公園の入り口に置いてある、時計を見上げると針は五時をさしていた。
*
家に帰ると佐倉の母はリビングとキッチンが一体になった、ダイニングキッチンで夕食の支度をしていた。玄関が開いたことに気付いて、佐倉母がいった。
「おかえりなさい!」
そして、佐倉は大きな段ボールを持ってリビングに現れた。しかし、母は台所に視線を落としていて、佐倉が手に持っているものを見ていない。料理に没頭する母を見ながら、勇気を振り絞って佐倉はいった。
「お母さん……お願いしたいことがあるんだけど……」
あまりにも暗い声でしゃべったので、母は視線を上げて佐倉を見た。母は怪訝な顔をしながら、佐倉が抱えている段ボールを見ていった。
「どうしたの?」
「……あのね……その……犬――犬拾ってきたの……」
佐倉は段ボールに視線を落としたまま、いった。母は一瞬、何のことか分からないという顔をしてから、段ボールを見て納得したようだった。
「ダメ! 拾った場所に返してきなさい」
母は即答だった。そして、冷徹だった。
「おねがい! ちゃんと面倒みるし、散歩も毎日連れていくから! 今戻したらこの子、死んじゃうよ……」
今にも泣き出しそうな、震えた声で母にいった。しかし、母はそんなことで怯む人ではない。もし子供の言うことをはい、はい聞いていれば今頃この家は動物園になっていることだろう。
「ダーメ! 返してきなさい!」
「おねがい!」
佐倉は今までにない、鬼気迫る声音でいった。今まで、こんな声を出したことはない。その時、奥から父が現れた。
「ママ、飼ってあげればいいじゃないか。面倒見るって言ってるし、命の大切さを知るのにこれほどいいことはないぞ」
「パパ! なんでそんなに、甘いのよ!」
鋭い目つきで睨む母に、父はあごをしゃくり佐倉を指した。佐倉は段ボールから子犬を出していて、子犬と鼻と鼻を付け笑っていた。母は大きくため息を吐いていった。
「ちゃんと可愛がってあげるのよ」
その日も暑い日だった。その日は突然だった。その日は家族が増えた日だった。その犬にロロナという名を付け、家族になった。