ゴールデンSTRAYドッグ⑧
「どこに居るんですか!」
佐倉は樹鏡に歩み寄って、問うた。息が触れ合いそうなほど近く、そんな佐倉に気押されて一歩距離を取り樹鏡は「落ち着いて、順を追って説明するから」と、両手を上下に振った。我を忘れていることに気付いた、佐倉は恥ずかしそうに、それでいてじれったそうに
「ごめんなさい……」
と、しゅんっといった。
佐倉は樹鏡が話してくれるのを根気よく待った。今の佐倉には、この数秒間はとてつもなく長く感じるだろう。
「動物の本能っておもしろいよね」
突然意味の分からないことを言い出した樹鏡に、天音は少し荒い声で「はー? そんなこと今、関係あるの?」と、言いたくなったが口には出さなかった。
口に出せば話が進まないことを知っていたからだ。佐倉も同じことを思ったのだろうか、天音と同じように黙って聞いていた。
「本当に動物の本能って不思議に思うんだよ、僕は。だって、教えられもしないのに生きる上で必要
なことを知っているんだから。――中でも不思議なのは、子孫を残す方法だよ、教えられなくても本能に刻まれた何かが、体を動かすんだからね。こー、体の内側から燃え上がるように」
手振りを交えながら樹鏡は語った。
黙っていようと思った天音も、佐倉の前でのセクハラ発言には我慢ならなかった。
「何言ってんのよ、そんなこと今! 関係あるの?」
天音の発言に樹鏡は大ありだよという顔を作って、続きを話し始めた。
「子供が生まれれば、育て方を教えられなくてもちゃんと立派に育て上げるし。母性という本能でわが子をかわいがるんだよ」
だから何なんだ、居場所を云え居場所をと言ってやりたかった。となりの佐倉を見ると同じような顔をしていた。
「ロロナは子供のところにいるよ」
何の前振りもなく、突然樹鏡はいった。天音には意味が分からなかったが、となりの佐倉をチラリと見ると、目で見て分かるほど狼狽しているのが分かった。
確かに、最近子供を産んだばかりと言っていた。しかし、この家に入ってから一度も子犬を見ていない。ただ、別の部屋に置いているだけなのかもしれないが。
「最近、子供を産んだばかりと言っていたね。――子犬がいるんだったら、何で誰もいないんだい? 母犬がいないんだったら、父犬が子供を見るんじゃないかな。
そうじゃなくても、佐倉さんの両親が見るとか、だけどご両親は仕事に行ってていない。何なら、佐倉さんが見てもいい、なのに君も仕事に行っていた。
――子犬がいるんだったら、何でこの家に誰もいないんだい?。
父犬はどうしたんだい? 生後六十日くらいまでは母親と離してはいなないことに法律でなっているのに? この家には子犬がいない。まあ、六十日経って、手放したって言われればそれまでだけど――生んだばかりって言ってたよね? 六十日も経っているんだったら、そんな表現するかなーって不思議に思ったんだよ」
樹鏡の話しを聞き終わっても、佐倉は何も言わずに黙ったままだった。
「つまり、子犬は捨てたんじゃないのかな?」
何も言わない佐倉に代わって、樹鏡はまた語りだした。
「ここからは僕の勝手な想像だけど、――思ってた以上に、生まれすぎちゃって手に負えなくなったんじゃないかな。犬の大きさにもよるけど大抵の犬は一度の分娩で、六匹から十匹生むって聞くから。ロロナは七歳だから十匹も生まれてないと思うけど、だけど、五匹以上は生まれているよね。大型犬の子供、五匹はさすがに飼えない、そうなったら保健所に持っていくか、捨てるかしかないんじゃないかな……最近は保健所も厳しいから、僕が思うに後者だろうね」
樹鏡はそういって最後に気持ちほど付け足した。
「もちろん、僕の想像だから。違ってたら謝るよ」
そういった樹鏡の顔には悪びれる様子はなかった。佐倉は震える、か細い声で「オス犬なんて飼ってないのに……気付けば妊娠してて……もうおろすこともできなくて……生まれても飼ってあげられない……だから……」と、震えながらいった。
「どこに捨てたんだい? そこにロロナはいると思うよ」
「河川敷……」
佐倉は意気消沈のままボソッといった。
「じゃあ! 早速行こう、案内してくれ。早くいかないとこの暑さだ……」
佐倉は言われるがまま、階段を駆け下り玄関を出た。その後について、樹鏡と天音が続く。
*
外はまだ明るかった、最近は七時過ぎまでは明るい。佐倉の家を出ると、どこかで聞いたことがある音楽が聞こえてきた。確かに、どこかで聞いたことがある。
天音は少し考えてみた。その音楽が進んでくるにつれ、やっと分かった。この曲はドボルザークの新世界より、だ。
六時を知らせる放送であることも分かった、天音が住む町でも六時になると決まってこの曲が流れてくる。この曲を聞くと、一日が終わったような少し悲しい気持ちになるが、今日はそうもいかない、まだ最後の仕事が残っているからだ。
走る佐倉は速かった。長い引き締まった足は陸上選手を彷彿とさせ、骨格の差がこれほど速さに関係するのかを思い知らされた。
むかし、陸上部にでも入っていたのだろうか、天音と樹鏡はまったく追いつけない。天音はともかく、樹鏡は遅い方ではない、それなのに距離が縮まらないのを見ると佐倉は相当速いのだろう。徐々に、距離が開いて来るのを見かねて天音はいった。
「佐倉さん、はぁ、はぁ、ちょ、ちょっと待って、もう少し、はぁ、ゆっくりと、走ってぇ――」
天音の言葉を聞き、佐倉は振り返った。驚いたことに、息一つ乱れていない。これで確信した佐倉はアスリートだと。
息が上がって走れなくなっている、天音に合わせて佐倉と樹鏡は歩いて河川敷に向かう。歩きながら樹鏡は語った。樹鏡も息が上がっていた。
樹鏡も運動不足なはずだ、普段は知っていないから、明日は筋肉痛になるのではないか、と心配してやる。
「ゴールデンレトリーバーは鼻がいいんだよ。――よく言うだろ、犬の鼻は人間の何億倍だって。中でも鼻が長くて頭のいいゴールデンはよく、救助犬とか、麻薬探知犬になっているからね。だから数キロ離れた、わが子の匂いを探すぐらい朝飯前なのさ」
樹鏡は天音と歩幅を合わせて、説明するようにいった。
「へー、そうなんだ」
一応相づちを入れておく。
「発情期のメスのにおいを八キロ、離れてたって嗅ぎ取れるそうだから。佐倉さんが気付かない間に、ロロナのにおいを嗅ぎつけたオス犬が種付けをしたんだろうと思うよ」
佐倉の家から、十分近く走ってくると。横手の斜面に、連なるようにして桜の樹が植えてあった。地元の人のいい、散歩コースになっているのだろう。
ところどころ、ベンチが置かれ疲れたら休めるようになっている。今は緑色に茂っているが春になれば、河川敷一面が薄いピンク色に染まる。この斜面一面にブルーシートが広げられ、花見をする人たちの光景が目に見えるようだった。桜が咲く季節になれば、ここに花見をしに来ようと天音は思った。
そろそろ佐倉がいっていた、場所に着くのではないか。目の前に橋が見え、先頭を歩く佐倉の背中を見た時「いない……このベンチの下に……段ボールに入れて置いて帰ったの……」、佐倉は捨てたとは表現しなかった、その時佐倉の心の闇を見た気がした。
苦い記憶を思い出し、佐倉は今にも倒れそうに体感がふらついた。天音はとなりの樹鏡を見たが、表情一つ変えずにどこかを見ていた。
「キヨ……」
天音はむかしから、樹鏡を縮めて、キヨと呼んでいた。樹鏡という名前は長すぎるからだ。天音の問い掛けに、何も答えず樹鏡は黙ってどこかを見つめていた。
保健所の職員がつれて帰ったのだろうか。そんな、最悪の考えが天音の頭をよぎった。そして、佐倉もロロナとの思い出が、枯れた泉が湧きだすように溢れて、頭を埋め尽くした。