ゴールデンSTRAYドッグ②
この駅の利用客が多いいのは、大きな書店があるからだと天音は考えている。住民から希望があったのかは知らないが、五年前に突然この書店はオープンした。
近くで本を売っている店がなかったから、本当に嬉しかったことを鮮明に憶えている。店内もおしゃれでどちらかというと、女性利用客のほうが多いい。
なぜ女性客に人気があるかというと、書店の中にはカフェがあり、オシャレな上に読みたい本をそのカフェで読めるようになっているからだ。それが女性に人気の要因だろう。
天音も一次は憧れ、その書店でバイトしようかと考える時期もあったが結局、そこでは働いていない。
天音がバイトする店は駅の近くにある、しだれという日本食料理の店だ。料理雑誌でも取り上げられたことがある、それなりに名前の知れた店だった。
駅近くにあるだけあって、利用客も多いい。夜は仕事帰りの大人たちのたまり場となっている。夕食の時間には手が回らないほど、お客様もやって来て、てんてこ舞いだ。
忙しだけあって時給もいいから文句もいえないのだが。大変だけど、今となってはしだれで働いて良かったと思っている。
*
料亭とまではいかないが、和の雰囲気が漂う外見をしている店の前で天音は立ち止まった。
この一本の樹を切り取って、作った表札には書道の名人が書いたような、読みづらい書体でしだれ、と書かれている。
大層な表札と店の外見が、天音にはつり合ってない気がしてならない。
小さいが庭は立派なもので、ししおとしが置かれ、水がたまりコトンと落ちる音は日本の心を感じさせてくれる。秋になると小さな庭に植えられた、紅葉が真っ赤に紅葉して風情さえ感じるほどだ。
そんな、美しい外見とは裏腹に、裏路地は違う――どこの路地裏でも汚いように、しだれの路地裏も汚いのだ。
エアコンの室外機が列をなして置かれている、裏路地を縫うように天音は進み始めた。従業員は専用の入り口から入る決まりになっているから、毎回この狭い裏路地を通ることになるのだ。
風情なんてあったものではない、と天音は毎回悪態をついている。室内の暑い空気を室外機が外に押し出して、臭いの強い風が顔に当たる。
人一人が通るのがやっとの広さしかなく、蟹歩きのようにして室外機の横を通り抜けた。この試練を乗り換えた所にあるのが店の裏入り口だった。
従業員専用の入り口から厨房に入り、扉を開けてすぐ、家の台所とは違う厨房ならではの、料理の香りが入り混じった匂いが鼻を抜けた。
そして、すぐ横にあるタイムカードを挿して天音の仕事が始まった。
と、いっても、調理をするわけではない。天音の仕事はお客様から注文を聞いて、聞いた注文をお客様の元へ運ぶだけの仕事だ。要するに、ウエイトレスをやっている。
「おはようございます!」
天音は元気に挨拶をした。シンクで食材を洗っていた、男の人が「おう! 折神か、今日も元気だな」と振り返っていった。
「店長こそ毎日、元気ですね!」
「ハハハハハ!」
店長は歯並びは悪いが白い綺麗な歯を覗かせて、豪快に笑った。
こういう人を江戸っ子というのだろう、と天音は思う。店長の人柄が気に入り、常連になったお客様もいるぐらいだ。つまり、気の良い人なのだ。
天音は制服に着替えるために、厨房を横切って更衣室という名の物置に向かった。厨房の床は気を抜けば滑ってしまう、ここで働きだした頃はよく尻もちをついたものだ。
だから厨房用のシューズを履くまでは、足元に気を付けなければならない。
この店には着替えに使える部屋が一つしかなく、誰かが使っている時は鍵をかける決まりになっている。だからドアを開ける時にはノックをして、中に人がいるのかを確認しなければならない。
そのルールを守って、天音は軽いグーの手を作った。ノックを続けて三回して少し待つ――返事がない、誰も入っていないということだ。天音はドアノブをひねった。
しかしドアノブが動かない「あれ?」誰か入っているのだろうか。天音の他にこの店で働いているのは四人。
店長の娘、菊野奏、三十半ばの店長ではなく母親に似たシーズーのような顔をした、歳よりも若く見える可愛らしい人だ。
二人目は調理担当のしだれで修行したいと入ってきたらしい、大城豊という好青年。
三人目は佐倉夜恵天音と同い年の二十歳、気立てが良く、明るい性格でかなりの美人。
三か月前に入ったばかりの新人だが、料理が得意で忙しい時は調理担当に回る。
正に絵に描いたような美人像だ。街中に一人で立たせておけば、コバエがホイホイのように佐倉という香りにつられて、すぐに男が群がるだろう。
最後は長栖香澄。
二十代後半の姉御肌。夜から来ることが多く、酔っぱらったお客を上手く相手してくれる。
香澄がいないと、この店は回らないほどオールマイティーに何でもこなす、頼れるお姉さんだ。その四人の中の誰かが入っているはずだ。
「店長、誰が入ってるんですか?」
確認するため、まだシンクに向かい合っている店長に聞いた。
「わるい、わるい、云うの忘れてた、佐倉さんだよ」
昼のうちは佐倉と二人の時が多いい。大体、夜からのお客様が大半なので、昼のうちは二人でも十分やっていけるのだ。
休み時間におしゃべりはするが、佐倉のことはほとんど知らなかった。少しでも親しくなりたくて、近いうちに映画に誘おうと思っていたところだった。
「ごめんね、佐倉さん」
「んうんう、いいの、今出るからちょっと待って」
扉の奥からくぐもった声が聞こえてきた。奥から聞こえる佐倉の声が震えているような気がした。扉をはさんで会話したせいで、そう聞こえるのかもしれないが、確かに震えて聞こえた。
少しして扉が開いて。中から、この店の制服に身を包んだ佐倉が現れた。薄い茶色の服の上から、黒色の前掛けをかけている。
髪は落ちないように上で束ねて、その上から店の名前が刺繍された帽子をかぶっていた。
動きやすい、ジーパンを履いた脚はモデルのようにすらっと引き締まっていた。
佐倉が着ると何でも似合うが、落ち着きのある色合いの制服は格別似合っていた。
横を通り過ぎた、佐倉からラベンダーのような香りがした。強い香りが苦手な天音でも、この匂いなら嗅いでいられる、薄い香りだった。
しかし、通り過ぎていった佐倉の目が、赤くなっていることを天音は見逃さなかった。声をかけようかと思ったが、早足で去っていく佐倉を呼び止めることは不可能だった。
仕方なく、天音も個室に入り鍵をかけた。個室の中はロッカーが五つ並んで置いてあり、その前に公園にあるような水色のベンチが置いてある。
香澄が手を加えているだけあって、以前は物置として使っていた個室もオシャレになっている。
香澄はなんでもできるのだ。狭いが掃除も行き届き、物置だった面影はなくなっていた。