ゴールデンSTRAYドッグ①
今年の夏は暑いと口をこぼす人々が、テレビに映し出されていた。夏が来れば毎年のようにテレビが映す、ありふれたインタビュー。いちいち聞かなくても分かり切っていることだろうに。
記者が街頭に立ち、道行く人々に話しかけ、話しかけられた人たちは、記者が欲している回答を返す。そんな他愛ないニュースが毎日流れていた。
例年の方が暑いと誰もがいうが、昔の方が暑かった気がしてならない。小さい頃、蜃気楼で歪む、帰宅路を毎日歩いた。
あれは小学校の帰宅路だった。背が低く、地面に近かったせいもあるが、あの頃の暑さは頭に焼き付いて離れない。
「天音! テレビばっかり見てないで、そろそろ出かける準備をしなさいよ。バイトに遅れるわよ」
肝の座ったお母さんという威厳のある声で母はいった。
天音はソファーから立ち上がり、「はーい!」と答える。
母親に注意され、天音と呼ばれた二十歳の女は椅子から立ち上がった。
バイトの時間が迫っているが、まだ準備らしきことは何もしていなかった。いま自分の顔がどうなっているのかも分からない、寝ぐせで酷いことになっているのは想像でるが。
天音は洗面台の鏡に映った自分を正面から見つめて、ため息をついた。想像どおり、寝ぐせで髪が至る所からはねている。
肩までの黒いミディアムヘアが、パーマをかけたみたいに軽くカールして、毛先が首筋にあたり意識するとくすぐったく感じる。
同年代の子たちは皆、髪をカラフルに染めているが天音はあの着色剤の臭いが大っ嫌いだった。染めてみたい気持ちもあるが、長時間着色剤の臭いを嗅ぐことができないので、天音は髪を染めていない。
まあ、良いこともある、髪を染めないので毛質は良い方だ。自分でもサラサラしている、と思っている。
髪が柔らかいせいか毎朝、寝ぐせと格闘する日々。水ではねている髪の毛を撫でつけて整えるものの、数秒すると撫でつけた髪がピン、とアホ毛のようにはねて意味がない。
「直らない……」
苛立ち気味に声に出していった。何度、梳いても直らない髪にしびれを切らせ、こうなったら最後の手を使うしかないと天音は思った。
仕方なく寝間着がわりに着ているワンピースの、肩ひもをずらし、脱ぐ。
肩ひもは二の腕をするるっと、滑り落ち白い下着があらわになった。 下着もワンピースと同じように、少しずらすと重力にそって地面に落ちる。
一糸まとわぬ姿になった天音は、スタスタと浴室へ消えていった。
*
タオルで髪についた水滴をふき取りながら、天音はリビングに戻ってきた。
「あら、お風呂に入ってたの」
「うん、寝ぐせが直らなくてシャワーしたの」
タオルを髪に乗せたまま母にいった。毛先から水滴が、ぽとぽとと滴り落ちる。髪をタオルではさみ、毛先の水滴をふき取った。
母と話をしていた、その時、機械音がラジオから流れだした。まるでマイクのテスト中のように。ラジオの始まりを知らせるオープニング曲は、誰もが知っている名曲の音楽に乗って室内に響いた。
短いオープニングが終わると、女性アナウンサーの声がノイズを交えながら聞こえてきた。簡単な前置きをしてから女性アナウンサーは本題を語りだす。
――七月二十八日、A市に住むゴールデンレトリーバーの雌が、行方不明になりました。お心当たりのある方は、市役所にご連絡ください。もう一度繰り返します――
そういって、同じ内容を読み上げた。母は深刻な顔をして、一人ごとのようにつぶやいた。
「この辺りね……この暑さで三日も見つかってないんじゃあ……」
母はそこまで言って、最後だけ言い渋った。何が言いたかったのかは、薄々気付いていた。つまり、死んでいる可能性が高い、という事だ。
母の声は聞こえていたが、そのことを話題にして話をする気はせず、天音は踵を返しながらいった。
「じゃ! 行ってくるね」
「え、ええ、行ってらしゃい。――気を付けるよ」
いつもより時間がかかってしまったが、なんとか準備は完了した。
「行ってきまーす!」
玄関でヒョウかチーターがデザインされた、スポーツシューズに足を通して天音は扉を開けた。
玄関の扉を開けると、重い空気が顔に当たり。憂鬱な気分になる。少し熱波をあったっただけで額に、じめっとした汗が浮かんぶ。シャワーをした意味が早くもなくなってしまった。
涼しい部屋から暑い野外にでた時の体感温度は、三十八度はあった。引き返して冷房の効いた部屋に入りたいのはやまやまだが、そうもいかない。
なぜなら、バイトの時刻が迫っているからだ、このままでは遅刻してしまう。競歩選手のように、天音は歩き出した。
この姿を見たら、誰もがなぜそんなに急いでいるのか興味がわくことだろう、と天音は思う。駅まで歩いて十五分ほどだが、早足なら十分で行けるだろう。
駅までの道を歩きながら、家を出るときに聞いた行方不明のゴールデンレトリーバーのことを考えていた。
シューズを履いているから感じないが、裸足でこのコンクリートを踏んだら火傷してしまうだろう。夏場に散歩する犬は肉球を火傷すると聞いたことがある。
行方不明のゴールデンは火傷していないだろうか。水は、ご飯は、どうしているのだろうか、と天音は心配する。
人に飼われた動物が、野生で生きていけるはずがない、そんな事天音でも知っていた。水も、ご飯も食べられず、弱っているかもしれない。そう思うと心が痛んだ。
――小さい頃、河川敷に捨てられていた子犬を見た。あの日も今日みたいに、暑かったのを憶えている。このまま、ほっておけば一日もしないうちに死んでしまうことは、小さかった天音でも分かった。
その捨てられた子犬を家に持って帰ったが、両親二人共に反対されて結局飼うことはできなかった。なぜなら母が犬アレルギーだったからだ。
泣きながら必死にせがんだが、結局飼ってもらうことはできなかった。あの時ほど両親を恨んだことはない。何でそんなに残酷になれるのか、小さい天音には分からないかった。反対されて、飼えなかったあの子犬をどうなったか――今では思い出せない――。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか駅についていた。小さな無人の駅だが使い勝手はいい。丁度、駅に到着した時に電車がホームに着いていた。
ベストタイミング、と天音は心の中で指を鳴らした。乗り遅れるわけにはいかない、天音は走る。
反対側のホームなので、慌てての階段を駆け上がった。階段は所々傷み、タイルが剥がれている個所もかなりある。
錆ている柱は銅色になっていて、雨漏りしそうな天井はトタンで補強されていた。今にも落ちるのではないかと、思わせる階段だった。
そんな階段を駆け下りて、飛び込み乗車で、なんとか電車に間に合った。
「ふー」
と、額に浮かんだ汗をぬぐいながら、天音は息を吐いた。一息ついて車内を見渡すと、二、三人の乗客が天音を見て苦笑いを浮かべている。
見られている事に気付くと天音は、「あ、ははは……」と、苦笑いを浮かべて、空いている席に縮こまるように座った。
鏡がないから確認できないが、顔が赤くなっていることは分かった。頬を触ってみると、熱くほってていた。普段から走らないから、たまに走ると心臓がはち切れそうなほどドキドキする。運動不足なのを天音は実感した。
ふと、無意識に髪を触ってみると、驚くほど熱くなっている。
黒色は熱をため込む、と聞いた事がある。つまり、黒髪じゃなかったら、熱をため込まない、という事だろうか、染めないのも考え物だ、と天音は思った。
家を出る時はまだ、しけっていた髪は太陽の熱で完全に乾いている。こんな熱いと熱中症になってしまうのではないかと、心配になってしまう。
電車にゆられること三十分、都会とまではいかないが、それなりに賑わう街に着いた。電車に乗っていた人はほとんどが、このN駅で降りる。
天音も荷物の忘れ物がないことを確認して電車を降りた。今日も一日が始まった。