人魚姫と婚約破棄
泳げる体と美しい声を捨てて王子と結ばれるため地上に来たのに彼と過ごせる時間の少なさと言えば雀の涙ほどだ。
忙しいらしい彼と会えるのはほんの少し。会えない日だってよくある。そもそも彼には婚約者がいる。その婚約者すら、彼には気安く会えないらしい。
お互い暇を持て余していたから、王子の婚約者である彼女と過ごすことが多くなった。彼女は面倒見のいい優しい人だ。彼女は、声を出して喋ることもできない、文字も書けない、意思の疎通が難しい私とずっと一緒にいてくれた。絵を描くと褒めてくれた。一緒に散歩をしたりご飯を食べたりお花を摘んだりした。楽しかった。女の子のお友達って、人間の女の子ってこんな感じなのね。そう思った。それにともなって王子への興味はだんだんと薄れていった。
でも、彼女は彼と結婚するのだ。それでもいい。こうして時々私といてくれるなら……そう思っていると姉がやってきた。
王子を殺せば元の人魚に戻れる。結ばれなきゃ私は泡になって死ぬと伝えに来た。短剣を持って。
私、別に王子と結ばれなくていい。だってもう好きじゃないもの。勘違いだったんだから。海の中でひそかに恋に憧れてただけだった。地上の広い世界に夢を見ていただけだった。愛なんかじゃなかった。でも、死なのも嫌だ。
それに、彼女を渡したくない。
運命の時は一瞬だった。躊躇うことなく彼の寝室で短剣を振りかざして胸に刺した。温い生臭い液体を身体中に浴びながら戻って来た声で笑った。
「ねぇ、お願い。私と生きて。貴方を愛してるの。怖がらないで。手を取って、いつもみたいに笑ってよ」
怯えたような表情の彼女は、泣きそうになりながらも私の手を取った。強く握り返す。震えているけど離れない手。
この手があれば、私はどこでだっていつまでも生きていける。そう思った。