3.
パチン!!
その時だった。
僕の耳の真横で、何か大きな音がした。
ビックリしてハッと目を開ける。
すると。
何と僕は家にいたのである。
全身が汗でびっしょりだった。
目覚めた時と同じ、居間の万年コタツに寝転がっていたのだ。
ガバリと起き上がり、辺りを見回す。
何がなんだかわからない。
僕は運動公園にいて、へんな人と会ったはずなのに、いつの間に帰ってきたのだ?
ベランダの磨りガラスを見る。
空は、赤ではなかった。
水と雲の白。なんの変哲もない、ただの晴れ模様。
え、夕方でもないのか?
時計を見ていなかったのが悔やまれる。
キョロキョロしてると、明らかに先程との違いが見つかる。
部屋に、母がいる。
え?なんで?どうして?
挙動不審な僕の態度を全く気にする素振りはない。
母はぼんやりと、ブラウン管のテレビを見ていた。
「お、かあさん」
「あら、おかえり」
途端に違和感を感じた。
この違和感をどう説明したらいいのか、それは大人になった今でも正確には伝えられない。
ただ違うのだ。
何というか、明らかに違う。
僕が今まで一緒にいた母と、この目の前の母が、姿形は同じだけれど、中身が違う。
雰囲気が違う。母の漂わせる空気が、「おかえり」と声をかけたそのイントネーションが違う。
また固まってしまった僕から視線を逸らして、母はまたテレビを見始めた。
母がどことなく冷たく感じるのはなぜだ。
「おかあさん、パートは?今日はお休みなの?」
恐る恐る声を出すと、母の笑い声。
「何言ってるの。お母さん、内職でしょ」
え?
何言ってるのお母さん。
そう出かかった時、台所の一角を占領するように見慣れない機械が置いてあるのを見つける。
その機械は見た事が無かったはずなのに、それが図面を書く器具なのだとすぐに理解する。
ああ、そうだ。
母は図面の資格を取って、家で設計図を書く仕事をしていた。
多分、そう。
なんともいえない違和感が拭えない。
さっき母は何と言った?
僕は家にいるのに、何と声を掛けた。
「お母さん、妹は?」
次に気になる事を聞いた。
そうだ、妹。
妹は何処だ。
母は答えなかった。
呆然となって、時計を見た。
時間と、今日の日付を表示するデジタル時計。
今日は、土曜日ですらなかった。
■ ■ ■
あの日以来、僕は夕方が少し苦手になった。
少しでも空が赤いと、誰か人がいないか確認せずにはいられない。
通行人はいないか、車は通ってないか、すぐに不安になるので、一人暮らしを始めた時は、都会の方をわざわざ選んだくらいだ。
大人になって、あれは『時空のおじさん』だったのではと考える。
まとめサイトの体験談が、僕の体験した事ととても似通っているからだ。
僕はあの日、何をきっかけにしたか分からないが、『時空のおじさん』に出会った。
赤い空の下、時空の狭間に迷い込んだ僕を導いてくれた。
だけど、僕は帰れなかったんだろう。
変わってしまった母は僕が大人になった今もあのままだし、僕が知ってる僕の世界は、もう少し世界の色が濃かった。
父も兄も妹も健在だが、あの日以前の彼らの姿を思い出せないでいる。
同じ時空の、一つの平行世界に。
この世界に元々いた僕は、どの世界に行ったのだろう。
母に会いたかった。
僕の母だ。
あれから数十年。
僕はすっかりこの世界の母に慣れて、家族として普通に愛している。
母は1歳になる我が子に夢中な、ただの平凡なおばあちゃんになった。
一度だけ、当の本人にこの話をした事がある。
あれから母が分からなくなって、出先で母を探すのが難しくなったんだよと。
母は鼻で笑ったきり、何も言わなかった。
ガチャリ
妻が帰ってきた。
20時。娘はすっかり待ちくたびれている。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日のご飯は肉じゃがともやし炒めだよ」
僕の一日。
娘が寝たらこれで終わりだ。
■ ■ ■
「でも、この世界にユウくんが来たから、私と出会えたんじゃね?あーちゃんとも会えなかったはずやん。結果的に良かったっつー事だよ」
じゃがいもを頬張り、妻が言う。一家の大黒柱の発言はとても頼もしい。
「そうだね」
だから夕日の赤が怖いのだ。
また、違う世界に行ってしまいたくない。
妻と娘と、ささやかな幸せは、この世界だけしかないのだから。
終わり
不定期一話完結シリーズ予定です。