宵
深夜の森で、人影がひとつ動いた。
「この森はもう駄目だ。」男は愚痴を溢すように、口からそう望んでいない言葉を吐き捨てた。東からは街に侵食され、西からもまた街に侵食されゆく街境の森は、三年ほど前から劇的な変化を遂げていたーーというのも、彼にとっては悪い方向に、だが。
夕方になれば、生い茂る濃い黒の木々たちの中で細い木漏れ日が真っ赤に染まって血痕のようになっていた不気味な森。それが今ではどうだ、夜だというのに辺りはとても明るい。木は確実に痩せ細り、月明かりで地面はべったりと濡れている。名も知らぬ鳥が低い声でしきりに鳴きじゃくっていたのも今やちらほらと聞こえるか聞こえないか、といった具合だ。
街の境が森ではなくレンガの壁になるのに、そう長くはかからないと思った。あとはもう偉い老父どもが右手を上げれば、森は完全に燃やし尽くされ、男の住む地はなくなるだろう。
彼は森でいちばん大きな木の幹に手を当てた。冷たい風が木を伝って土の香りを乗せ、そして肌を滑る。静かな時が過ぎていった。
しばらくそうしていた。しばらくそうして、遠くで烏が何羽も飛び立つ音が響いたのを聞いて、樹木から手をゆっくりと離した。
「さらば。」不安を混じらせたような、か弱い声で呟く。
烏の羽音が聞こえた方から、人影がぐらりと揺れたのが見えた。
ああ、最後の晩餐だ。男は足を引きずるように、重い足取りでそっと人影を追った。