一日目
一日目
唖然。階段を駆け上がったせいで息が上がっているからではない。眼前の彼女が発した非常に異常な言葉の挑発に打ちのめされてしまったからだ。彼女の長髪が風に踊る。ぱっつんな黒髪が特徴的だ。
「どうした? 言葉巧みに説得して欲しいところなのだが……」
先ほどまでとは打って変わった不安げな表情でそんなことを言う彼女。親指の爪を噛んでいる。
「す……こし待って、くれない、ですか。少々状況を整理したいんだ」
「それならばよかろう」
今度はあふれんばかりの笑顔。ころころと子どもみたいに表情を変える人だ。
さて、思案する。まず考えるべきことは……一つ目は……。
どうしよう。
何も考えがまとまらない。
どうにも劇的すぎるこの展開に頭がついていかないようだ。決して、僕が理路整然とした思考が苦手なわけではないはずだ。
僕はため息をひとつ。そして、これからの方針を決めた。彼女にいろいろ聞いてからまた考えればいいや、と。
「幾つか質問をしてもいいかな?」
「いいだろう」
「まず、君はだれ?」
質問に失敗したかもしれない。人に名前を訊ねるときはまず自分からって礼儀があった気がする。怒られたら嫌だな。
「ああ、そういえば自己紹介をしていなかったね」
杞憂だった。特に気にしていないようだ。彼女は咳払いをひとつ、そして宣言した。
「私は――桜、だ。染井吉野、桜」
聞いたことがある名前だった。どこで知った名前か、と記憶をたどろうと考えたが、彼女にそれをさえぎられる。
「君の名前も聞いていいかな?」
「……桂馬。生駒、桂馬」
「生駒桂馬君だね。生駒、桂馬。桂馬、生駒。よし、覚えた。君は、生駒桂馬君だ」
僕の名前を反芻するかのように繰り返す染井吉野さん。胸に抱えた宝物を愛でるかのように、誇らしげに、愛しげに。なんともいえないこそばゆさだ。染井吉野さんもなにやらはにかんでいる様に見える。
ここで、染井吉野桜という名前に僕は心当たりを覚える。
「もしかして染井吉野さんて、二年一組の染井吉野さん?」
二年一組は僕のクラスだ。高校二年に進級し、クラス替えからおよそ一月たった。特に接点はなかったが、確か染井吉野桜という生徒がいたと記憶している。
「ん、知り合いだったかな?」
彼女の顔が曇る。知り合いをさも初対面かのようにふるまったことに罪悪感を覚えたのだろうか。まあ、実際ほぼ初対面なわけだが。
「同じクラスだよ、今日初めて口を利いたけど」
「おお、なるほど」
開いた両手を合わせて納得した顔をみせる。いちいち仕草がかわいらしい人だ。
「さあ質問を続けたまえ」
「そうだなあ……」
僕が知的で格好いい人間だったら、クールで意味深な質問をぶつけられるのだろう。しかし僕は、なんというか、それなりな高校生だから。普通の質問しか出来ない。
「何で僕を連れてきたの?」
彼女は爪を噛んで答える。
「理由は無いよ、たまたま目に付いたから。それだけだ」
「屋上から飛び降りるからそれを止めてくれ、だっけ。そういうのは友達に頼みなよ。ほぼ初対面の僕じゃ荷が重過ぎるから」
「……だってなぁ」
苦虫を噛み潰したような顔で言いよどむ彼女。
「私、友達いないからさ」
どうにも申し訳ない気持ちで胸が痛む。ばつが悪い。謝らずにはいられなくなる。
「それは、ええと。すみ――」
「謝らなくてかまわない」
謝罪がさえぎられる。
「理由はわかっただろう、止めてくれる人がいないんだ。でも」
「私は、助けを求めている」
悲痛に、真剣に、僕の目を見据えて。
しかし、彼女と目を合わせるとすぐに、彼女は目をそらす、目を泳がせる。
「駄目、だろうか?」
彼女の目が潤んだような気がした。
僕は、決めた。
「言ったよね、友達に頼めって」
びくりと震えた彼女が僕に背を向ける。
「そう、だな。やはり迷惑であったよな。すまなか――」
「だから、さ」
彼女に近づき、手を差し出して、言った。
「友達になろう」
「それでしばらくしたら、また改めて染井吉野さんを止めるよ」
しばしの沈黙。
振り向く彼女。
「三日だけだからな! それと……」
彼女は俯いた。
「……桜でいい」
泣いているのだろうか。笑っているのだろうか。正面に見据えたはずの彼女の表情をうかがい知ることが僕には出来なかった。
彼女は、僕の手をとった。