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仮・執筆者の枠組み

作者: 茶剛

とある執筆者のメモ

タイトル コンフリクト・スクリプト


  世界とは? 

連続するもの? 平行するもの? 分岐するもの? 基点たるもの?

  運命とは?

  始まるもの? 紡がれるもの? 終わるもの? 与えるもの?

  生命とは?

  生まれるもの? 育まれるもの? 進化するもの? 死にゆくもの?

  ここに紡がれるは一つにして、総て。

しかし、及ばない全てという皮肉。

一切の許容を拒まず、無常と混沌の坩堝を具現する。

もたらすものはとは?

   決まっている。其れは、矛盾―――――――今にも崩れそうな儚さをもつ砂の城だ。


  述べ立てる前に一つ、私は演出は好かない。演出は苦手だ。だから、ここでは無理に言葉を作らずいこうと思う。それをご了承したうえで、よろしくご寛恕を願いたい。


  次元は曖昧だ?

  近年では、異相事象の未詳の奥深い論理と現実への影響を鑑みられ、次元への解釈が訂正の必要がある、若しくは、否定するべき説だとの意見が上がりつつある。それは、次元は決まった線、平面、立体、そこからの4次元、N次元と多くの段階を踏んで空間を幾何学的に理解されていく形式ではなく、一つの不定な領域が何層も積み重なり、一つの断層領域を生み出しているのではないかというものだ。私は、学者じゃない。研究などするものでもない。しかし、これも語りたがりの雑談として聴いてほしい。例えば、水槽に赤の水を入れる(この時に水の性質は水の本来の性質を考えないものとする:状態変化はしない状態に、液体という概念に絞る。ここでは、水の物理的性質、化学的性質を言及しない→変化は一緒くたにせず、なおかつ水槽の形をとどめ続けうるものとする)。次に色の違う重さの違う青の液体を入れる。そのまた次にも色の違う黄の重さの異なる液体を入れる。そうして、様々な色の液体を、重さを質を違えたモノを入れていくのだ。そうしていくと様々な色の領域が水槽の中で出来上がるのだ。これは、我々、知性体の霊長類が存在する領域様相と同じに近いのではないだろうか?そうすれば、数々の領域が未だ存在し、その一つの中で生体の我々は生きている、ということになる。しかし、性質がどうのこうの、事象がどうのこうの問いただせば問うのも難しいことになるだろう。そこで、下の項目の話に変わるわけだ。水の性質は化学で色々解かれているが、一般的に習う性質は状態変化と水の同位体、水溶液にその反応、特質といったものだろう。しかし、水は人の社会で用いられる用途としては少し形に当てはまり過ぎている。着目すべきは、そこで生きる生き物は水を欲するところだ。どの生き物も水を含まなければいけない。このとき、水には空間的な、幾何学的な解釈として当てはまる性質をもち、生体も無機物も含まなければ領域に存在できないのではないだろうか?だから、水分は領域に存在し続けるための産物であり、それがなければ塵に帰り、原子が散らばってしまうのではないだろうか?水は、大切な世界のソース。星を、世界を、国を、都市を、町を、家を、人を構成する原初の生きた領域なのではないだろうか?そうすれば、水槽は世界の枠組みなのだろうか?そして、底と虚空には様々なものが隆起していると考えられないだろうか?だとすれば、宇宙という枠も、銀河という枠も、更なる宇宙という存在もあながち否定できなくはない。そして、ここから偶像の妄想の話となるのだが、平行世界、異世界、仮想世界、幻想世界というものも何処かの領域で成り立つものではないだろうか?これは、立証しようもないことだ。いずれも何の根拠もない絵空事だ。だが、水。これの本来の姿があるのなら、一体正体は何なのだろうか?我々は、難しいものの中で生きている。故に、今学習することが心理であっても人智が及ぶ範囲内だ。もしかしたらがあるかもしれない。しかし、それを知るのはもっと先の話になるだろう。若しくは、半ばで絶滅し辿りも着けはしないかもしれない。故に、私はこれを独り言として語ったことにする。忘れてもらっても構わない。私の発言も遅くないうちに蒸発し、塵となる。ただ、漂うか、晒されているかのただの塵に。


 水はまだまだ不純なもの、それとも発展途上のもの?

 この世には、水は不純なものしかない。そうすれば、きっと純粋なものがあるのではないだろうか?そうして人は限界に臨み、今の人智の範囲内で純粋で留まった。そこが我々の思いつく限りでの手段でたどり着いた一つの着地点だからだ。しかし、先はまだある。そう言われればどうだろう?今までの人の文明や文化の発展でそんな限界の終着地は臨むことはできただろうか?故に、問題とさせてもらう。それは、次元という幾何学的で難しいものを孕む一つの手がかりではないだろうか?そこを着眼点とするなら、きっと問題は広がっていく。多くの謎を持つのは水なのではないか?海は原初の生命の生まれた故郷として知られている。そこから派生し、生体は多くの進化を繰り返し、価値を、情報を、運命を取り込み成長していく。星の生まれはブラックホールの発生からきたとされる。では、水はどこからきた。宇宙からか?宇宙の塵からか?宇宙に漂うものからか?しかし、生み出されたときに水は本来の水ではなかったのではないか?姿形は違うが、地球が生まれる前は水の元となるものはあったのではないだろうか?或いは、水のとなるべきものは本来のものから分離したか無駄に何かを取り込み過ぎたのではないだろうか?ならば、これまでの人の歴史、伝承、神話で出てくる水に模した産物はその派生形、もしくは純粋な先の途上を形作るものではないだろうか?さすれば、進化の余地はまだまだ、人智の範囲内で治まるものではないだろうか?まあ、ここからはもう机上の空論。オカルト頼りなもののたとえに他ならない。水の持つ一面、透明性はそんな全貌を隠すものに近い性質なのかもしれない。そして、結びつく力も無限に人を謀り続けるためのものなのかもしれない。もしかしたら、これが一つの糸口かも?なんて、不定な物質について議論を続けるのはここまでにしよう。これは、執筆者の他愛無い話だ。小説づくりに少し熱心になり過ぎたものの下らないものと笑ってほしい。私は、尊敬する人のように死にたい。塵になりたい。でも、人の社会のいい加減さと稚拙さに振り回され過ぎた。だから、そんなものとはおさらばしたい。彼は、私より生まれるのが遅すぎた。あと、ほんの数十年生まれるのが遅ければ日本に赴き、遭えていたかもしれない。私は彼の言葉が好きだ。彼の物語も好きだ。だが、それをとって聴かせるものたちは嫌いだ。彼の価値観を知った気でいるものたちが嫌いだ。それを演じ、成りきる演出家たちも嫌いだ。彼の半生は語られる。でも、それは客観論でしかない視えない彼を視点ごと上乗塗りするものだ。名を残すものは汚される。その生きたすべてを理解されることはない。それを成し遂げようとするものは自分を捨て、社会を捨て、何もかも捨てたものにのみ出来ること。だが、出来ないだろう。私を含める知性と理性を持つ者全ては到底その領域には届かない。社会が変わり続けるのに、人の遷ろうそれも一つだけ変わらないものがある。矛盾だ。その一言に尽きる。これを、言い表すことは出来はしない。私もそれを持って生まれた生き物だからだ。これは、誰にも得難き憤り、そして、私の私自身に対するこれまでの戒めをも語るものでもある。そこに私の意志はあっても主観はない。さすれば、ここに記されるのはひどく場違いな自分の世界観への愚痴なのだろう。


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