Bitter Valentine Eve
甘さが足りません。
当分の足りない恋愛小説です。
すみません。
それでもよければ是非どうぞ!
小学校のときに、毎年クラスが一緒だったやつが居る。
家も近所で、通学路も一緒。母親も仲良し。
腐れ縁に腐れ縁が重なって、受験した中学まで一緒。
普通に市立に進学すればよかったのに、
あいつの母親ときたら従兄弟の息子に対抗させようと、
自分の息子に中学受験をさせて、わたしと同じ私立に入れてしまった。
これは全くの偶然なのだけど、
お互いどうにもこれが気持ち悪くて、お互いを避けて過ごしていた。
もともと仲がいいわけでもなかったから、
それは自然なながれだったのだけど。
それでも、
そんなやつが急に遠くへ引っ越したときは、はっきり言って驚いた。
「優くん、イタリアに行くんですってよ蓮美」
母の言い分は、こう。
「きっと帰ってくるときにはイタリア語ぺらぺらよ!
あんたも何か習わなくちゃ!!」
「やだ」
あっさり、けれど強く切り捨てたのは三年前。
中学二年の冬だった。
そしていま、わりと良い高校の二年生。
一学期初日の、下校時間。
無駄に校庭や中庭に手を入れている
本校の山茶花は綺麗な紅と白の花を咲かせ、
冷たく澄んだ空気は肺に心地よかった。
穏やかな日差しは、冬であるからか、白っぽくて眩しい。
そんな素敵な日に、
旧校舎の裏側で、付き合い始めて二ヶ月の彼氏と向かい合うわたし。
「やっぱり俺ら、合わないと思うんだ」
やっぱり?
今こいつやっぱりとか言った?
自分で告ってきたのに??
「だからその… ごめん!」
走り去る、後姿。
それを高速で追う、謎の飛行物体。
それは見事に"元"彼の後頭部を直撃し、やつは前のめりに倒れた。
無様だ。 実に無様だ。
口元に酷薄な笑みを刻んで、
どっかのお偉いさんよろしく堂々と歩み寄るわたし。
後頭部をさすりながら身を起こし、わたしを見て後ずさる元彼。
やべぇ! 感丸出しのこの顔が、なんか。 ダサい。
「おまえが頼むってから、付き合ってやったんじゃん」
思ったより迫力のある声が出せたので、
わたしの笑みは深くなる。
元彼の怯えようにも、わたしの笑みは深くなる。
「一発くらいかまさせろや」
ふりあげた手は、思い切り振り下ろされた。
『 まじぃ?? ぶったのぉ!? すっげぇえ!! 』
一々語尾を延ばす癖がある友人Aのしゃべりかたは、
こういう複雑な心境のときに聞くと癪に障る。
しかし、オトナなわたくしはそこをがまんする。
「ぶった。 ぶちかましてくれてやった」
『 確かに駅で見たときほっぺ真っ赤だったぁ!! ハス強すぎぃ!! 』
後に「ぐぎゃははぁん」みたいな奇声が続いたけど、
もういいや。それはどうだっていいと思うよ。元からだし。
「平手一発で泣き逃げしたんだよ…
わたしあんなダサいのと付き合ってたんだね… げろげろ」
『 ひど!! 』
言いながら、声が笑ってる。
それは面白いからとかじゃなくて、単純に嬉しいから。
友人Aは元彼のことが好きだったのだ。
知ってて付き合ってたわたし、鬼でしょうか。
『 まぁあー、
ハスには精神的にたっくましーヤツじゃなきゃねぇ 』
おいおいそれはどういう意味だい?
こころなしか声に嫌味な響きが入ってるけど、気のせいかな?
「わたしより精神的にたくましいヤツ、いんの?」
元友人Aに、鼻でせせら笑いながら言うわたし。
『 いないと困るじゃぁん!! 』
いや、ぜんぜん。
「まぁね。 キリに掛けるから、切るよ」
『 ばぁあ〜いぃ♪ 』
ピッ
精々悲嘆にくれる元彼に膝枕でもして慰めてやるがいい、
心優しい"元"友人Aよ。
心の中で静かに罵りながら、親友の希利香に電話する。
コール音が三回なって、キリが出た。
『 ハス? 』
「いえす」
『 なんか用? 』
「元彼ができた」
『 おめでとう 』
「慰めの言葉はどこに行った!」
キリのやつは、どうやら笑ったみたいだった。
『 で、振られたの、振ったの? 』
「…両方?」
『 は 』
「告ってきたくせにわたしのこと振るから、むかついてぶった」
『 うわぁお ヴァイオレント・ガール! 』
「うん あいつダサかった」
『 白タオルでもふったか 』
「違うよ、泣いて逃げた」
『 ま、ハツ相手なら妥当な判断だとおも… 』
ピッ
ごめんきり、あんたと話してたらすっきりしたよ。
もう十分すっきりしたから、電話を切ったよ。
また明日、学校で会おうじゃないか、"元"親友。
携帯を鞄のなかに入れたら、とたんにバイブレーションが鳴った。
電車内での電話は絶対に禁止派の人々が、こっちを睨む。
画面を見ると、きりからだった。
しかたなく出てやると、
『 なぁ、ほんとに落ち込んでんの? 』
「落ち込むっつか、いらついてるよ」
『 カラオケ行く? 』
「金欠」
『 おごったげるよ 』
「うん、ありがと」
『 いつもの店ん前で待ってる 』
「わかった」
キリが電話を切った。
わたしも切って、それから電源も切った。
やっぱりさ、キリは親友のままでいいよ。
喫茶店でケーキとお茶をおごってもらった後、
二人で行き着けのカラオケ店へ行った。
そこで喉が嗄れるまで、音程無視・シャウトまがいの歌声を披露し、
気持ちが落ち着いたところでプチパフェを頼んだ。
ソファーに沈み込むわたしに、キリは微笑みかけた。
「すっきりした?」
「うん。疲労が気持ちいいってこのことかね」
「あんた陸部に入れるよ」
「剣道部とか入ろうかな」
「それは遠まわしな殺人予告?」
「あんたわたしを何だと…」
きりを怒鳴りつけようとしたところで、ドアがノックされた。
「失礼しまーす」と元気の良い声で言いながら、
バイトなのだろう若い店員が
プチパフェが二つのったお盆を持って入ってきた。
「あざーっす」
満面の笑みでテーブルに置かれるパフェを見つめながら、
細長いスプーンをかまえるキリ。
こいつは甘党だからな。
そんなことを思いながらパフェに手を伸ばしたのだけど、
視線を感じてその手をとめた。
バイトと思しき若い店員を見上げる。
「何ですか?」
「あ、あぁ。知り合いに似てたもんで、つい」
「そうですか」
言いながら、わたしもそいつの顔を良く見てみる。
言われてみれば、見覚えがあるような、ないような…
特に気にかけるようなやつじゃなかったんだろう、と結論付けて、
どうしてもその似てる誰かを思い出せないわたしはパフェを引き寄せる。
スプーンを手にとって、すでに半分を食し終えたキリに苦笑する。
半分に切られたイチゴと、よく冷えたポッキーのトッピング。
あとは普通のパフェと同じ。
ホイップクリームとチョコ、カスタードと玄米フレークの層。
ざくざく と音を立てながらフレークをすくっている最中に、
聞き覚えのある名前が挙げられた。
「渡辺 蓮美!」
はい、それはわたしの名前ですよ、バイト君。
完食まであと二口ほどというキリがきょとんと顔を上げる。
「あ、知り合い?」
「おまえ 泉 希利香 だろ」
「すげぇ!」
得意げに笑うバイト君に、すこしひいちゃうわたし。
誰だよ、お前。
「俺のことわかんねぇ?」
二人そろって首を振る。
バイト君が「ショックだなぁ」と情けない表情を浮かべると、
きりのやつが唐突に声をあげた。「あぁあ!!」と。
「あれだ、あれ!」
あれ呼ばわりですか、親友よ。
「ミスター・イタリアン!!」
「誰だよ!」
思わず突っ込んだものの、それからふと、一人。
その内容に該当するやつが居ることを思い出した。
「…中沢 優治?」
「そーそんな名前だった!」
「そ、俺そんな名前」
人好きのする笑みを浮かべて、
バイト君こと"中沢さん家の優くん"はわたしの隣に座った。
「三年って結構長いんだなぁ」
「だねー。とくにさ、あんたやハスは顔変わったから!」
のんきな調子で朗らかに話しかける中沢に、
愛想よく相槌を入れるキリ。
おいおい、仕事はどうした。仕事は。
「あ、俺邪魔だった?」
思ったことが露骨に顔に出たのか、
中沢は少し気まずそうに立ち上がる。
「べつに邪魔じゃないよ。ただ"サボってるなぁ"って」
慌てて否定したわたしは、
口を滑らせて余計なことを付け足してしまった。
中沢は、すまなそうに微笑んで、頭の後ろを掻いた。
なんだかありがちな動作。
「ごめんごめん。懐かしかったから、ついな」
「じじくさいねーミスター・イッタァリアン?」
「じじくさかねぇだろ」
苦く笑いながらドアを開け、中沢は仕事に戻った。
開いたドアの隙間から、
上司なのであろう店員の不機嫌そうな顔が見えた。
予約しておいた曲のイントロが流れ始めたから、
二人の会話は良く聞こえなかったけれど、
中沢がすまなそうに頭を下げて、慌てて、
しかし丁寧にドアを閉めるのが見えた。
嫌味でなくちゃんと頭を下げられる中沢はオトナだと、
頭の隅でちらっと思った。
イントロが終わって、キリが歌いだしても、
なんとなく、中沢が出て行ったドアを眺めていた。
「喉がいだいよぉ」
キリは、本日五度目になる文句を口にした。
わたし達は今、帰りの電車を待っている。
カラオケには六時ごろからずっと入り浸っていて、
中沢が出て行った後の二時間ほどの間、
ほとんどぶっ続けでキリが歌っていた。
その間飲み物を頼まなかったのは、
また中沢が来ると少し気まずくなるような気がしたからで。
スーツ姿の中年男やOLでごった返したホームで、
キリは再び「喉がいだぁい」とうめいた。
哀れを誘う掠れた声に、周囲の人間が数人、キリに目をやった。
けれど、その目はすぐにそらされ、顔には無関心が戻る。
「のど飴をあげよう」なんていうやつは独りも居ない。
まぁ、それが普通であり、平和でもあるのだけど。
「まだ十分くらいあるんだから、
のど飴でも買ってくればいいじゃない」
売店のある方を顎でしゃくり、
かわいそうな親友にアドバイスしてやる。
キリは少し顔をしかめてから、
「あのおばさん嫌なんだよ」と零した。
キリの言葉に、売店のおばさんに視線を向ける。
ブルドッグのようなたるみ方をしている売店のおばさんは、
青と白の縞模様をした三恪勤とエプロンを身に着けていた。
「顔が?」
率直な問いかけに、キリは少しだけ笑って、首を振る。
「この前ね、あそこでガム買おうとしたんだよ。
ミントとスーパーミントで迷ってね、二つ手にもって考えてたの。
そしてらあのおばさん、すっごい目で睨んでるんだよ。
あんまりあたしのこと見張ってるもんだから、
どっかのおっさんが雑誌くすねていくの、気付かなかったんだよ」
正直者でお人よしのキリは、万引きなんてしない。
けれどそんなこと、売店のおばさんが知らなくても当然。
変なところでデリケートなキリに溜息を付いて、
わたしは売店の方へと歩き出した。
キリがわたしを振り返る気配がしたけど、
わたしはキリを振り返らなかったからやつの表情は見えなかった。
間近でみる売店のおばさんのブルドッグ加減は、すごかった。
思わず目を見開いて凝視してしまったくらいだ。
飛び切り不細工で中年の、二足歩行の巨大ブルドッグ。
駅弁を買ったOLにおつりを渡していたブルド…おばさんは、
わたしの視線に気付いて顔をこちらに向ける。
たるんだ頬の肉が揺れた。
「なんかようですか」
愛想笑いの一つもない。
少しだけひるんだわたしは、
しかし気を取り直して「のど飴ください」と言葉を返す。
普通の会話であるはずなのに、おばさんはそれを鼻で笑った。
しかし仕事はちゃんとするつもりらしく、
"金柑のど飴"と書かれた長方形の包みを手に取り、
バーコードを通した。
ピッ と、聞きなれた機会音がして、「230円」と無愛想な声がした。
キーホルダーがじゃらじゃらと付いた財布を取り出し、
さらにそこから500円玉を取り出す。
それを売店のおばさんの、以外と色白な手に渡す。
手渡されたおつりは、200円だけだった。
「70円足りませんよ」
そういうと、
おばさんは嫌そうに鼻をならして(鼻くそが飛びそうだった)、
100円をわたしの手に置いた。
「30円足りませんよ」
はっ
なんだこのおばん、めっちゃむかつく。
女子高生目の堅きにしてんだろ、この…
それでも、黙って30円を財布から出して、それを渡す。
「ありがとうございます」
とどめに、極上の作り笑いと、わざとらしいお辞儀をして、
わたしはその場を去った。
去ろうとした。
売店から数歩離れたところで、誰かに腕を掴まれたのだ。
何事かと慌てて振り返れば、見覚えのある同年代の男。
とりあえず腕を掴むそいつの手をひっぱたいて放させ、
わたしより幾分上背のある相手の顔を見上げる。
「何」
「そっけな」
情けない表情で悲痛な声を上げたのは、
我らが腐れ縁大魔王、中沢だった。
「だって、何よ」
素直なわたしは、不機嫌を隠さない。
否。先ほどの笑みとお辞儀にマスクを使い果たしてしまったから、
もう隠しようがないのだ。
中沢は少し戸惑うような表情を見せたものの、
それはほんの一瞬で、すぐに愛想の良い笑みを浮かべて
少し後ろにある売店を目で指した。
「なんか、すごかったなぁって」
以外な一言。
がんばった分、嬉しいかもしれない。
「ありがと」
無意識に近いくらい自然に、滑り出した言葉。
誰がその言葉を言ったのか分からなかったくらい。
「あぁ、うん。どういたしまして」
妙に照れてる中沢に、こっちまで照れてくる。
何がそんなに照れくさいんだ、この男は。
「ハスーご機嫌だねぇ」
ぽんっと肩を叩かれて、にやついているキリを振り返る。
視線で「どこが」と問いかけながら、のど飴を手渡す。
「笑ってたよ」
「は」
思わず頬に手をやると、キリが笑った。
「のど飴サンキュッ」
ぽんぽんっと、今度は二度肩を叩かれた。
不思議と、感謝が流れこんでくるように感じた。
「でも以外だったな。
ハスならあのおばさんぶん殴るかと思ったんだけど…」
どこか残念そうなキリ。
何を期待してたんだ、こいつ。
「殴るより効果あっただろ、にっこりお辞儀」
話に加わる中沢。
「いやいやいや! だってハスだもん!殴るべきだよ!!」
「殴ってこそハスだぁああ」と続けるキリの頭に、軽くチョップする。
「だから、あんたはわたしを何だと…」
「ザ、ヴァイオレント・ガール」
ちっちっと人差し指を振りながら言うキリに、
本日起こってしまいました、嫌な出来事を思い出してしまうわたし。
「嫌なやつ…」
「でもハスのビンタで泣かない男なんていな…」
「あんたのことよ!」
「何々?蓮美は誰かにビンタかましたわけ?」
「そーそー!自分からプロポーズしてきたくせに、
自分から婚約指輪をはずしたフィアンセに切れてねーぇ、」
「違う違うっ 絶っっ対違うっ 話作るな!」
それから、もう一つ不自然なことに気付く。
「なんで名前呼び捨てなのよ!」
きょとん。 そんな言葉はぴったりくるような顔で、
中沢は瞬きを繰り返した。それから、やんわりと微笑んだ。
やんわりとあどけない、少年の笑み。
「向こうだとみんなそうだから、癖でさ」
そういえば、こいつは三年ばかり欧米にいたのだったか。
「ところでさぁ泉、俺その話の詳細聞きてぇんだけど」
「うんうん、まっかせなさーい! あのねぇ」
「ちょっと、なんでキリは苗字なのよ」
「え?」
また、きょとん。だ。
そしてそれから、やっぱりやんわりと笑う。
「なんか、苗字の方が名前っぽいから」
「あぁ、よく言われるー」
朗らかに笑うキリに、やんわりと笑う中沢。
そのまま意気投合といった具合で二人の会話に花が咲き、
大きな盛り上がりを見せた。
なんとなく疲れてしまって、
わたしは二人に背を向けて歩き出す。
会話に夢中な二人は、わたしが見えなくなっても気にしない。
なんだか、「お前は関係ないから」と、そう言われたような気分だ。
そんなのは当然、ただの被害妄想なのだけど。
わたしとキリが待っていた電車の到着を知らせるベルが鳴り、
それがホームの柱や壁にぶつかってこだまする。
耳鳴りがした。
ぐわんぐわんと大きな音が鼓膜を突き破って直接脳に響くような、
大きな音が視界すらも奪っていくように感じた。
やばい、眩暈がする。気持ち悪い。
無意識に額に手を当てると、自分の体温を感じた。
心なしか平熱よりも高い気がする。
電車に乗り込もうと押し寄せてきた人の波に推されて、
わたしの体はゆらゆらと揺れた。
やばい。 倒れちゃう…
――ふらり と、一瞬だけ、体がなくなったような感じがした。
そして次の瞬間には、誰かの腕に支えられていた。
わたしより少し高い身長と、しっかりした腕。
女のものじゃない、そこそこ鍛えてある男の腕。
――中沢。
どうしてだろう、そう思った。 むしろ、そうだと良いなと思った。
まだ少しぐらぐらする視線を上に上げると、
私の体を支えてくれた腕の主がやんわりと微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
それは子供を安心させるような、大人の笑み。
間近で見る精悍な顔に、不本意ながらもドキリとした。
ドキリよりもずっと、困惑の方が大きかったのだけど。
まじまじと、けどきっとぼんやりした視線で見つめてしまったのだろう、
親切な男の人はもう一度「大丈夫ですか?」と繰り返した。
やんわりとした、大人の笑顔に心配そうな色が浮かぶ。
なんでだろう。
「心配してくれ」なんて頼んでないのに、申し訳ない気分になる。
「あ…あぁ、はい。大丈夫ですよ」
気力と根性で眩暈を押さえつけて、自分の足で立つ。
気付かないうちにもたれ掛かっていたのが恥ずかしくて、
顔が勝手に火照りだす。
あぁ、赤くなったりしたら、余計に恥ずかしいってのに。
赤い顔を隠したくて、思わず俯いてしまったわたし。
これじゃまるで気弱な女の子じゃないか。
「恥ずかしくてお礼も言えません」ってな具合の小学生。
「この電車に乗るんですか?」
言われて初めて、当初の目的を思い出す。
慌てて顔を上げると、頭を急に動かしたからか、また眩暈がした。
ふらり、という浮遊感。
けれど今度は、両足を精一杯踏ん張って平静を装う。
大丈夫、ぶっ倒れるのは帰るまで我慢できる。
「はい、乗ります」
歩き出す私。
支えてくれていた腕が離れた。
けれど、支えてくれていた人はそのまま付いてくる。
痴漢かなとも思ったけれど、同じ列にいたんだろうから、
同じ電車に乗るんだろう。
そういえばお礼も謝罪もしていない。
「あの、すみませんでした」
電車に乗り込んですぐに、軽く頭を下げる。
「いやいや、なんでもありませんよ」
当然のことをしただけだから。
彼は目でそう付け足した。
けれどね、お兄さん。
今の世の中って、当然のことを当然のようにできる人、
もう随分少なくなってるんだよ。
「どうもありがとうございました」
そう言って、背を向けて歩き去ろうとするわたし。
けれど、身動きが取れない。
帰宅ラッシュ… 込むのだ、この時間は。ものすごく。
かっこよく紺のスーツを着こなすお兄さんと、
向かい合う形で呆然とする。
なんだかものすごく気まずい。
気まずくて気恥ずかしくて情けない気分になる。
どうしよう。
しかもなんか笑われている。
わたしじゃない誰かを笑ってるかも…
けど、さっきからこっち見てるんだな、このあんちゃんは。
とりあえず軽く頭を下げて、動き出した景色に目をやる。
目が合ったりしたら、気まずさにまいってしまいそうだ。
しかしあろうことか、この兄さんはわたしに話しかけてくる。
「僕は中沢というんです。あなたは?」
「…中沢?」
「そうですよ」
それが何か、と。目で問いかけてくる中沢さん。
だってほら。
わたしが知ってる中沢って、ミスター・イタリアンだからさ。
「ミスター・イタリアン…」
思わず零しちゃったわけよ。
「ミスター・イタリ… あぁ。
ひょっとして優治君の知り合いですか?」
「優治君… "中沢さん家の優君"…?」
中沢さんは、笑いながら肯定した。
「彼はね、僕のイトコなんだよ」
イトコって、糸子さんとかじゃなくて、普通の"従兄弟"か。
だから苗字が一緒なのか。
血が繋がってるから"やんわり"って笑うのか。
ぐるぐる する。
ぽっかーんとしていたのだと思う。
中沢さんが口元を抑えて、笑うのを堪えていた。
なんとか ぐるぐるぽっかーん から抜け出すと、携帯が鳴った。
カラオケの中でも聞こえるよう、
着信を大音量のテクノに設定してあったから
一身に周りの注目を浴びてしまった。
あわてて、電話にでる。
相手の確認なんてしてる暇はない。早く鳴り止ませねば、テクノを。
「なんてことすんのよっ」
相手が誰だかは不明だが、とりあえず小声で非難する。
これでもしキリだったら、メールで罵詈雑言浴びせてやる。
『…ごめん?』
知らない人。
電話で聞いたことのない声だった。
誰だよ、あんた。
『もしもーし? 蓮美さーん?』
こいつ、中沢だ。
携帯の番号、キリが教えたんだ。
「何よ。ってかキリどこよ」
わたしの最新の記憶の中は、キリは中沢と一緒に居た。
やつ途中までわたしと同じ電車に乗るはずだから、
もし今でもキリが中沢と居るなら、キリは困ったことになる。
キリが降りる駅はマイナーなところだから、
この先しばらく続く快速は、一台も止まってくれないのだ。
『俺と居るよ』
「はぁ?」
『はぁ?って…』
「だってキリはこの電車のがしたら、一時間半は待つんだよ?」
『いや、俺もその電車乗る人なんですけど…』
「じゃぁ今三人とも同じ車内にいるってこと?」
『そう、そういうこと』
そう、そういうことなのね。わかった。
ぐるぐるふら〜っとしてたわたしを置いて、
二人そろって、仲良く、おてて繋いで、電車に乗ったのね。
くそぉ、この裏切り者どもめ!
『っていうか車両何?キリが心配してるぜ』
キリ・・・?
あぁ、そうか。もうそんなに仲良くなったのか。
そうだろうね。おてて繋いで乗車だもんね!
『蓮美?おーい』
「中沢君」
『はい』
「うちのバカをよろしく」
『はい』
「じゃ」
『は… え?ちょっとまっ…』
ピッ。
中沢さん家の優君なんて、キリの尻に敷かれてしまえ。
わたしは一度だけ携帯を強く握って、
それから着信音の設定をバイブレーションに戻した。
視線を感じて顔を上げると、中沢さんと目が合った。
「優治から?」
「あ、はい。そうですけど…」
「今どこにいるか分かる?」
「この電車のどこかに乗ってます」
「そう、ありがとう」
「いえ」
これで会話は終わり。
そう思って、再び窓の外に目をやった。
しかし、中沢さんはそうは思わなかったらしい。
「最近バイトが忙しいのか、帰りが遅くてね。心配してたんだ」
これは、独り言じゃない…よなぁ。
わたしは相槌を入れるべきなんだろうなぁ。
まったく、社交辞令とか、そういうの。面倒臭い。
中沢関連の人々・物事・なんでも。今は関わりたくないってのに。
「そうなんですか」
「うん。行きたい大学があるんだけど、彼の両親は反対でね。
どうしても行きたいなら、自分で学費を稼げ、って。そう言うんだよ」
「だからバイトですか」
「そう。どうしても精神科医になりたいんだ、って」
「精神科、ですか」
「うん。大変な仕事だよ」
「外科医とかよりも?」
「患者が違うからね。
怪我や病気を直すんじゃなくて、心を直さなくちゃいけない」
"心"って、なんだかすごく遠い存在だと感じる。
小学校の道徳の時間に、散々考えさせられた。
色んな道徳的な文章を読んで、感想文を書いて。
お友達とはどう接するべきだとか、立派な人ってのがどうとか。
強い心、優しさ、本当のすごさ。
見ただけで、聞いただけで、笑いたくなる。
そんなもの、先生達だって本当に分かってるわけじゃないでしょう。
いらんこと教えないでくださいよ。
それより休み時間増やしてくださいよ。
ふてぶてしくて、斜に構えた子供だったのかもしれない。
「何かきっかけがあったらしいんだけど、話しにくそうにするから…
なかなか聞けなくてね」
「森田先生が言うこと聞かない生徒片っ端から怒鳴りつけてるの、
見たときからですよ」
「森田先生…?」
あ、やばい。やばいやばい。
これは違うよ、自分の回想のきっかけだよ。
精神科医を目指すきっかけじゃないよ。
「違いますよ、ただの独り言です。気にしないでください」
あわあわと手を振って、俯く。
これじゃぁまるで気弱でシャイな女の子じゃないか。
誰だこんなの。友達にだってそんなの一人も居やしない。
わたしがつるむのは、いつだってそこそこに気骨のあるやるだ。
なぜかって、
わたし自身が気弱くてへろりとした子を見てるとイラつくから。
もじもじ、ぺこぺこ。
自分の意見を一々全部口ごもって、
上目遣いに、気をつけて、びくびくと周りの様子を伺うようなやつ。
そういうのが、わたしは嫌いだ。
そういうやつと一緒にいると、悪者になったような気がしてくるから。
しかし今はどうだろう。
下級生の女の子からラブレターをもらった事さえある、
あの強く気高く逞しい、我らが渡辺蓮美はどこに行ったんだ。
まったく早く戻って来いってんだ。
「あの?」
中沢さんが、控えめに手を振った。
ぼーっとしてる人の顔の前でするみたいな、そんな振り方。
「はい」
「お名前は?」
おじょうちゃん、自分のお名前、言えるかな?って感じ。
小学生か、わたしは。
「渡辺です」
中沢さんが苗字しか名乗らなかったのを思い出して、
わたしも苗字だけ名乗る。
いつもの自分を取り戻したくてこざかしい行動をとったつもりなのだが、
あいにく中沢さんはわたしのフルネームを知っていた。
「渡辺… 渡辺蓮美さん?」って、"もしかして"って顔で聞く。
否定する理由がない。 しょうがないから頷くわたし。
「優治から、よく話を聞くんだよ」
以外。
だって、以外。
いつの話だよ、それ。
何話したんだよ、中沢優治。
不安に、不可解に思う反面、なんだか嬉しかったりする。
それは小学校のとき、友達のお母さんに
「ありがとね、うちの子と仲良くしてくれて」と言われたときの
あの不思議なこっ恥ずかしい嬉しさに似ていた。
「何て?」
こみ上げる好奇心がわたしの口を動かす。
「いつもクラスが一緒で、受験した中学まで一緒だった、とか。
こんだけ縁があるのに、少しも仲良くないのは変だ、とかね。
通学路も一緒だろって突っ込んだら、弱ってたよ」
情けない表情で後ろ頭を掻く中沢が浮かんだ。
やけにくっきりと想像できる。
「気味悪くて避けてましたから、お互いに」
そう、お互いに避けていたはずだ。
お互いに。
「そうなの? 優治は仲良くしたそうだったけど」
「そうなんですか?」
ぽかん。
きょとん、じゃない。ぽかん。
わたしが驚いたときは、いつも"ぽかん"。
中沢みたいに愛嬌のある"きょとん"にはならない。
女として、悔しさを感じる。
「そうだよ。
その当時は渡辺さんみたいな子が好みだったみたいだし」
楽しそうに笑う中沢さん。
小学生同士の喧嘩の理由を聞いて、
そのバカらしさに苦笑する先生みたい。
ただ、苦笑じゃなくて、楽しそうに笑っているだけ。
小学生多いな、わたし。
中沢さんが先生っぽいからか。
「へぇ…」
その当時は。
心なしか強調されたように感じた。
それとも耳が勝手に捕らえてるのか。
「あの、」
良くわからないけど、衝動的に何かを言いかけたとき、
さっきから持ったままだった携帯が震えた。
ちくしょう。 マナーモードにするのを忘れてた。
また、相手を確認せずに出る。
今度こそ、絶対キリだ。わたしには分かる。
「何」
キリが何か言ったみたいなのだけど、
丁度駅に止まったらしい電車から人が流れ出て、
ドアの傍に立っていたわたしは携帯を耳から離し、
身をよじって端に避けなければ鳴らなかった。
キリはその状況をがやがやという雑音から理解したのか、
携帯の向こうで静かにしていた。
「で、何?」
人の流れが途絶えたところで、もう一度たずねる。
『今、何号車? それから番号…』
「な…なか、なかっ」
『俺中沢。中々じゃありません』
「キリは?」
『だから、』
「なんでキリじゃないの?」
『なんで?なんで俺そんなに嫌われてるの?』
「だって絶対キリだと思ったのに。この裏切り者っ」
『俺関係ねーじゃん!』
「問答無用!!」
『え?ちょ、蓮美まさか…』
ピッ
そのまさか。
携帯の電源を切ろうとしていると、
中沢さんが声をかけてきた。
電車が動き出した。
「また優治から?」
「あ、はい」
手を止めて、顔を上げる。
中沢さんは、思ったより近くに居た。
乗車した人が偉いデブで、
込んだ電車の中を移動できず、ドア付近に留まっているのだ。
夏だったら、絶対に我慢できないだろうな。
「さっき何を言いかけてたの?」
一瞬、何のことかわからなかった。
「電話がかかってくる直前」
「あぁ」
ほんと、何を言いかけてたんだろう。
自分でもわからない。
無意識のうちに、首が横に傾く。
何か考えるときってのは、脳みそが重くなるのかもしれない。
「わかりません」
正直な答え。
だって、分かりませんから。
でも多分、中沢のことが聞きたかったんだろう。
多分だけど。
「忘れちゃった?」
首を傾げてから、頷く。
忘れたというより、最初から分からなかった気がする。
何聞きたかったんだ、わたし。
考えていたら、また電話が鳴った。
今度こそ、相手を確認してから出た。
二度も痛い目に会ったわけだから。
確認したときに限って、キリだ。
「キリ?」
『うんうんー!
冷たくあしらわれた可愛そうなイタリアンと一緒にいるキリだよ』
切ってやろうか。
本気でそう思った。
仲良くおてて繋いで、乗車したくせに。
しかもわたしをほおっておいて。
「あんたが慰めてやればいいでしょう」
『だってイタリアンはハスがいいっって…痛い!遺体になる!!』
寒いシャレ。
けどその前の部分の方が、よっぽど気になる。
冗談じゃなくて、本当に?
『とにかくさ、あたしは次の駅で降りるから、
イタリアンは寂しくなるんだよ。ハス、何号車に乗ってるの?』
「えぇっと…」
車内を見回す。
しばらくキョロキョロしてから、6というステッカーを発見した。
「6号車。あんたは?」
『良かった、近いね。4号車だよ』
そこで一度言葉をきった。
後ろで中沢らしき人物がなにか言っている。
『6号車の、どこらへん?』
「ドアのすぐ前」
『ラジャー! ところでさ、イタリアン優の携番登録してやってよ』
「やだ」
『何で』
「なんか… いいや、登録しとくよ」
『ついでにメアド交換もしちゃおうか』
「もしかしなくても もう教えてたりする?」
『え。あ、うん』
「本人の承諾なしで?」
『いいじゃないか。腐れ縁が運命の出会いに変わっただけだ』
「何それ!」
電話の向こうで、キリの笑い声が聞こえた。
こいつは本当に、気持ちのいい笑い方をする。
元友人Aとは大違いだ。
『まぁさ、仲良くしてやってよ』
「いいの?あんたがそれを言って」
『え?』
だっておてて繋いで乗車… してないんだ。
「ううん、なんでもない」
あくまでわたしの被害妄想だ。
親友とある意味幼馴染に置いていかれる、被害妄想。
哀しいものじゃないか。妄想力。
『そ』
電車が止まった。
キリが降りる駅だ。
『じゃぁね、ザ、ヴァイオレント・ガール』
「その呼び方やめてよ」
笑い声を残して、電話が切れた。
私は中沢さんとともにぎりぎりまで端に寄った。
なぜなら、前の駅で乗り込んできたデブが、
出入り口を半分ほどもブロックしているからだ。
しかもこいつ、端による努力すらしない。
周りのやつが避けて当然。 って、偉そうなこと極まりない。
こんなやつ、洗濯乾燥機にかけてギューっと絞ってやればいい。
ペンチみたいな洗濯ばさみで、
部屋干しの影干しされて臭くなってしまえばいい。
ついでに、森田先生にでも怒鳴られてしまえ。
小さな駅であるためか、人の出入りはすぐに疎らになった。
二つ目の駅になると、さすがに車内も空いてくる。
すぐ隣で平べったくなっていた中沢さんと目が合って、苦く笑った。
中沢さんが何か言おうとして口を開くと、誰かに肩を叩かれた。
親しげに、肩に乗せられた手。
うっとうしい。誰だよ、ずうずうしい。痴漢か?
痴漢も逃げ去る怖い顔を準備して、
肩に乗せられた手を払いのける。
パシッ っといい音がする。
張りのある音ってのは、痴漢を威嚇するのに必要不可欠だ。
精一杯の威厳を持って、振り返る。
後ろに立っていた若い男が、目を見開いてビビっていた。
「あ、あの…」
「… 何」
「いや、あの、俺。なんか… すみません?」
「…何で痴漢じゃないのよ!」
あろうことか、4号車にいるはずの、中沢さん家の優君だった。
横で、中沢さんが小刻みに震え始めた。
何かと思って振り返ると、彼は口元を手で覆い、
身をかがめて笑いを堪えている。
ちょっとまて。
いいかい、中沢さん。こういうとき、大人ってのはな。
涼しい顔で、何もなかったように他人のふりをするべきなんだ!
「…、痴漢撃退が趣味なわけ?」
「違うっ 断じて違う! この裏切り者!」
「だから、俺関係ねーだろ!」
「ある!」そう言い返そうと大きく息を吸い込んだとたん、
背後で中沢さんの笑い声が弾けた。
電車の中で大爆笑。大人気ないとされる行為。
わたしは思い切り吸い込んだ空気のやりばに困って、
しばらくそのまま息を止めていた。
しかしそのうち苦しくなってしまって、
むせるような形で空気の塊を吐き出した。
中沢がわたしの背中を撫でる。
「何笑ってんだ、痴漢」
中沢が、中沢さんに言った。
中沢さんは"心外だ"と眉間に皺を寄せたのだけど、
それも一瞬のことで、またすぐに笑い出した。
先ほどのように弾けるような笑い方ではないまでも、
随分と笑っていることに変わりはない。
しばらく中沢に睨まれた後、ようやく落ち着いたのか、
今度はちゃんと言葉で「心外だな」と言った。
「いたいけな女子高生に手ぇ出したんだろ、おっさん」
「俺まだ大学生。君は来年、大学受験生」
「中沢さんってサラリーマンじゃなかったんですか…」
「俺の職業は眼科医だ!」
「大学生じゃねぇのかよ」
「眼科になるために勉強してるんだよ、専門大学で」
「すみません、ほんと万年平だと思ってて…」
「若いでしょ?万年平っていうよりまだ新入社員って歳でしょ?」
「やっぱりサラリーマンなんだろ」
「違う! 知ってる癖にしつこいなぁ…」
最後の方、だいぶ声が低くなっていた。
それだけ眼科医になりたいってことなのだろう。
それにしても、中沢家の人々って医者になりたい血筋なのだろうか。
考えてみれば、近所に"中沢耳鼻科"ってあったような…
"中沢不動産"もあったかもしれない。
いや、あれは高須か。まて、高須はクリニックだ。じゃぁなんだ。
中沢さんの後ろでドアが閉まり、
ガタリという揺れとともに電車が走り出した。
なんかもう、不動産屋はどうでも良くなった。
それより、なんで…
「なんでタカニィが居るんだよ」
そうそう、なんでタカニィがいるんだよ。
…。 誰だよ、タカニィって。
やっぱり考えたことが顔に出たのだろう。
中沢さんは大人びた笑みでやんわりと笑うと、
「中沢尭人っていうんだよ、俺」
フルネームを名乗ることで説明をつけてくれた。
なるほど。尭人だからタカニィ…じゃない。尭兄か。納得。
「あんた4号車じゃなかったの?」
さっき言いそびれた疑問を、やっと口に出来た。
なんで4号車に居るはずの中沢が、6号車にいるのか。
「いったん降りて、蓮美のとこまできたんだよ。
本当は前の駅でそうしたかったんだけど、
おまえ教えてくれないから…」
「ふぅん…で、キリはもう帰ったの?」
「え、あぁ。うん、"ハスによろしく"ってさ」
「そ」
「うん」
なんてまぁ、そっけない会話だろう。
いや待て違う。中沢は愛想良く話してる。
そっけないのはわたしだ。
いつも以上にそっけないんだ、わたし。
だから会話が続かない。
っていうか、頭が真っ白。
なんでだ。くそ、かっこわるい。
「…あのな」
苛々が顔に出ていたのか、中沢が控えめな声で話しかけてくる。
「俺もハスって呼んでいい?」
聞くかよ、普通。
しかもなんだか照れくさそうに聞くかよ。
いったん目線をおろして、それから目を覗き込むかよ。
なんて乙女チックな動作だ。お前男じゃなかったのか。
もしかして将来の夢はニューハーフとか言わないよな。
「好きにすればいいよ」
あぁ、それに比べてなんと男らしいんだ。わたしは。
「そ?良かった」
はにかみ気味に微笑むな。
"やんわり"から"ほんわり"になってるよ。
そんないじらしい笑い方されたらこっちまで恥ずかしい。
ほらほら。顔が火照ってきたじゃないか!どうしてくれる!
「蓮美ちゃん笑うとすごくかわいいね」
「は」
間抜けな声が出た。だってわたしは笑ってない。
っていうか"蓮美ちゃん"?
「ロリコン」
中沢が低い声を出した。
中沢さんがからりと笑った。
「家まで送ろうか?」
優しい、包み込むような笑み。
「風船あげよっか?」って、遊園地のお兄さんみたい。
待てよ。わたしはあのとき幼稚園児だったじゃないか。
じゃぁ何か。中沢さんにはわたしが幼稚園児に見えるのか。
それより何て昔のこと覚えてんだ、わたしは。
数学の公式は頭に入らないのに、
どうでもいい事はやたら良く覚えてる。だめな脳細胞たちだ。
「断れ。この人送り狼だから」
「勝手なこと言うなよ、蓮美ちゃんに嫌われるだろ」
「嫌われろ。いっそ誰よりも嫌われろ」
「あのなぁ…」
中沢さんが何か言いかけたとき、
次の駅で電車が止まった。
わたしが降りる駅は、この次だ。
そこには快速も止まってくれるのだけど、
キリと居るのが楽しいから、いつもやつと同じ電車にのる。
洗濯乾燥機にかけてやりたい傍迷惑なデブが降りた。
やった、万々歳だ。…おやじかわたしは。
「ハス、どの駅で降りる?」
「次の駅」
「俺送ってくな」
「え」
にっこりと、得意げに笑う中沢。
あぁ、なんて人懐っこく笑うんだ、こいつは。
頭撫でてやりたくて堪らなくなる。
「蓮美ちゃん気をつけてね、そいつ送り狼だから」
すかさず、中沢さんが言う。
「尭兄と一緒にすんなよ」
かなり本気で言い返す中沢に対して、
中沢さんは朗らかに笑うばかりだ。
余裕があるんだな、この人。
ようするに中沢のことからかって遊んでるんだ。
いいなぁ、楽しそうで。
見てるとこっちまで楽しくなるよ。
中沢がこっちをむいて、少しだけはにかんだように笑った。
理由がわからないから首をかしげると、やつは俯いてしまった。
ことき自分が微笑んでいたことに、わたしは全く気付いていなかった。
「何」
「いや、あのさ」
後頭部を掻く、おなじみの姿を披露しながら中沢がいう。
「俺のことも名前で呼べよ」
「何で?」
「いや、だってさ」
なんでわからないんだ、と。表情が語っている。
わからんもんは、わからん。
「俺がおまえのことハスって呼んでるのに、
ハスが俺のこと中沢って呼んでたら、変だろ」
同意を求めてくる視線。
わたしはそれを真っ直ぐに見返しながら、深く頷く。
「いや、全然」
「今頷いただろ!」
またしても、深く頷くわたし。
「中沢」
「名前で呼べって」
「中沢」
「だからな、」
「それが人にものを頼む態度か」
「あ?」
しばしの沈黙。
わたしは中沢の「何!?」って視線を
真正面で受け止めるのに忙しくて動けなかったが、
中沢さんが笑っているのが気配で分かった。
「ハス」
「何、中沢」
「おまえさ」
「うん、中沢」
「さっきからにやついてんのはさ、」
「にやついてんのは何?中沢」
「…。俺のことからかってるだろ?」
「そうだろうね、中沢」
ドアがプシュー と閉まるのと、
中沢の表情がプシュー と間抜けになるのが重なった。
楽しい。
中沢をからかうのは、すごく楽しい。
もっとからかいたい。
ずっとからかい続けたい。
何より中沢と居ること事態が楽しい。
わたしは、中沢の空気が気に入ってるんだ。
キリの笑い方が好きなように、中沢の空気も好きだ。
「ハス」
「何、中沢」
頬の端が鈍く痛んだ。
無意識のうちに笑っていて、
無意識のうちにそれを抑えようとしているからだ。
筋肉がぴきぴきと引きつる感覚が、今はそれさえもおかしい。
普段のわたしは、こんな些細なことで笑わないから。
「中沢じゃありません、優です」
「そうだね、中沢」
「しつこいぞ。repeat after me、ゆ・う」
「え」
発音が良すぎて、しかもその上早すぎて、
中沢の言葉の一部が聞き取れなかった。
絶対英語だった。けど、なんて言った?
「リピート・アフター・ミー!ゆ・う!」
「ワタシ、ニホンゴ、ワカリマセン」
「ニホンゴじゃないだろ、英語だろ」
しまった。
テレビで見たアホな外人を真似したら台詞丸写しにしてしまった。
「ワタシ、エイゴ、ワカリマセン」
「やり直さなくていい、ほら。ゆ・う。言ってみろ」
「やだ」
「何で」
「だって… なんかやだ」
「小学生かよ…」
だって無理だ。
なんか無理だ。
全身の細胞が無理だとわたしに告げている。
理由はわからない。
けど、言った後でなにかとてつもないことが起こると、
全身の細胞が痛いほどに叫んでいるのだ。
それはもう、頬が火照ってくるほどに。
「いっ」
「あ、ごめん。つい」
中沢にほっぺをつねられた。
乙女の柔肌になんてことを!
しかも「つい」ってなんだ、「つい」って。
「蓮美ちゃん、俺もつねっていい?」
「いくない!」
「"よくない"だろ。ってか失せろよこのロリコン」
「だってかわいいから」
ちょちょっと、人差し指と親指で何かをつまむしぐさをする。
何かって、わたしの頬の肉なんだけども。
「かわいくない!かわいくないから!」
そんな個人的観点からなる
身勝手この上ない理由でつねられて堪るか。
「かわいいよ」と微笑む中沢さんを睨む。
「"かわいい"っていうのは、
たとえばゴールデン・レトリーバーの子犬とか、
ちっさくてフワフワの三毛猫の子猫とか、
スティッチのキーホルダーとか、
一昔前だけどお茶犬とかのことを言うのよ!」
「それとか赤いほっぺの蓮美ちゃんとかね」
にやにや笑い。
危ないんだ、きっとこの人って本当に送り狼とかになる人なんだ。
こんな優しそう顔で笑ってても実はむっつりスケベなんだ。
腹黒いんだ。計算高いんだ。色んな意味で強いんだ。
「わたし、誰にも送ってもらわなくて平気ですから!」
あぁ、なんかだか無償に恥ずかしい。
からかわれる悔しさと、あまり言われない言葉に対する恥ずかしさと。
もうやばいよ。絶妙な取り合わせのやばいこと、やばいこと。
ほら、涙がにじんできたじゃないか。
女泣かせるなんて最低だぞ、送り狼ども。
「そんなこと言うなよ、俺送るってば」
さっきまで中沢さんに
「ロリコン」「変態」等の単語をふんだんに盛り込んだ
文章をがなりたてていた中沢が慌ててわたしの腕を掴む。
「責任持って、安全に、送ります」
「責任持って、安全に、一人で帰ります」
「そんな拒否んなくても…」
「送り狼でしょ。お放しなさい、この変態!」
「女王様かよ…」
気まずそうに手を放しながら、中沢は後ろ頭を掻いた。
多分、腕を掴んでることに気付いてなかったんだろう。
「大体、俺は送り狼じゃないから」
「"俺は"って限定つけたな、"俺は"って」
「そりゃぁ、"俺は"違うから」
電車が駅のホームに突入した。
わたしは自分が降りるべき駅を、窓から覗き見た。
視界に入るものが近い分、
通り過ぎるのも早くてめがぐるぐるする。
あぁ、また眩暈だ…
ちょっとはしゃぎすぎたんだな。
赤くなったりとかしたから、頭にも血が上って…
ついでに電車にも酔ったのかな…
足から力が抜けて、重心が分からなくなる。
体の支え方がわからないまま、わたしの体は傾き、崩れる。
「大丈夫か?」
慌てた、心配そうな声がやたら近くで聞こえた。
あぁ、また中沢さんか。
本当にお世話になります、すみませんね。
「またか… 熱でもあるのかな?」
またです。すみません、ほんとに。何度も。
ひんやりとした手が額に触れて、
それからゆっくりと離れた。
「やっぱり、俺送っていくな」
「いい」
「いくない」
「よくない、だよ」
あれ。なんかやたらと中沢の声が近い。
なのに支えてくれているはずの中沢さんの声は遠い。
何事だ。
気持ち悪くて閉じていた目をゆっくりと上げて、
周囲の状況を確認する。
だが、視界を覆い尽くしたのは… これ、たぶん顎だ。
「ほら、降りるぞ?」
また、近くで中沢の声がした。
それから、中沢さんがゆっくりと、
わたしを支えながら電車を降りる。
けどなぜだろう。
今中沢さんとすれ違った… なんかにやついてる…。
「深呼吸したら落ち着くかもな。
ほら、吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー」
「…。 中沢?」
「優か、どうしても無理なら優治って呼べ」
「中沢か」
「だから…」
「中沢さんだと思った…」
「あのなぁ、」
中沢さんでなく、中沢だと分かったとたん、
どうしようもなく居心地が悪くなった。
顔が熱い。
動悸が激しくなる。
手足の先も冷たくなる。
したがってとても気持ち悪い。
「階段上れる?」
「一人で上れる」
気持ち悪さの原因を引き剥がして、
タフなわたしは一人で立ち、一人で歩き出す。
一歩一歩が重い。ダルい。面倒くさい。
それでも歩かなければ、家には着かない。
がんばれわたし。歩け、わたし。
「無理すんなよ」
「平気」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
「階段から落ちても知らねぇぞ」
「…救急車呼んで」
「今?」
「違う。落ちたら呼んで」
手すりにつかまりながら、のろのろと上る。
同じようにのろのろと電車を降りたこともあって、
ホームはそう込んではいなかった。
6号車、階段の近くでよかった…
それにしても、この階段はこんなに長かったっけ。
部活はしてないけど、
プロポーション維持のために毎朝走ってるんだけどな、わたし。
体力には自信があるんだけどな。
あぁ、すごく疲れる… やたら疲れる。 ってか疲れた。
ふいに、体が宙に浮いた。
驚きに声もでない。いや、少しは出た。
「ひっ」って、引きつった声。
「遅い」
「ちょっと…」
お姫様だっこだったんだ。
だから宙に浮いたんだ、一瞬だけど。
やだ、怖い。不安定だ。揺れる。
そしてなにより恥ずかしい。
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい((エンドレス
「自分で上れる」
「動くなって」
中沢の声が少し苦しそうだったから、
わたしはそれ以上反論するのをやめた。
たまらなく恥ずかしいんだけど…
っていうかあれだろ。
中沢の声が苦しそうなのは、
わたしが重いからだろう。
今頃気付くとは…
「下ろして」
「却下」
「重いんでしょ?」
「全然」
「嘘だ。ぜっっったい嘘だ。下ろせ」
「拒否」
そんなこんなで、結局中沢はわたしを抱えたまま階段を上りきった。
すれ違う人々の視線が痛かったのは、言うまでもない。
「最低」
ぜぇぜぇ 肩で息をする中沢を見下ろして、
わたしは冷たく言い放った。
そんなに重いんだ、わたし。
「"無理すんなよ"って、誰の台詞よ」
「っ…、 かっこ、いい、お兄さん」
「バカ」
駅を出て、わたし達はタクシーを拾った。
わたしの自転車は駅の自転車置き場に止めてあるのだけど、
自転車のは中沢が許してくれないだろう。
許してくれたとしても、中沢が漕ぐ自転車で二人乗りだろうな。
だから黙ってた。
「おまえいっつもこの距離歩くの?」
せっかく黙ってたのに、いきなりか。
「いつもは自転車」
「じゃぁ自転車置いてきちゃったわけ?」
「うん」
「ってことは明日歩きなのか?」
「うん」
「迎えに行こうか?」
何でそうなるんだ。
駅まで徒歩→中沢が迎えに来る
おかしいだろ。おかしいだろ、おかしいだろ。
大体、朝から中沢と顔なんて合わしたら、
朝から高血圧だ。そんな不健康なこと願い下げだ。
ってかそもそもなんで高血圧になるんだよ!
「迎えに行くな」
黙っていたら、中沢が勝手に結論をつけた。
待てよ、って、誰かこいつに言ってくれ。
「いつも学校までどんくらい?」
「1時間くらい」
「なら7時に迎えに行けばいいか」
「迎えに来なくていいよ」
「来るなって言われても行くよ」
「絶っっ対来るな」
「…おまえ俺のこと嫌いだろ」
わたしは勢い良く首を振る。
それこそ、頭がふらっとするくらい。
「ならいいじゃん」
少し照れくさそうに、しかしからりと笑ってから、
中沢は何か言いたそうなわたしに首をかしげる。
「やだ」
「何で…」
「だって無理だもん」
「俺暇だから平気だけど?」
「わたしが、無理」
「だから、何で」
「なんか、…無理」
「やっぱり俺のこと嫌いだろ」
「なんで暇なの?」
「あのなぁ、」
「学校は?」
我ながら急に話しを変えたものだが、しかし、中沢よ。
あのままだと同じ会話を何回も繰り返すところだったんだ。
「通信教育だから」
「イタリア語で?」
「いや、日本語で。学校行かないぶん、バイトできるだろ?」
「そんなに精神科医になりたいの?」
「…。 尭兄か」
「あ、ごめっ」
「いいって」
苦く笑って、中沢は窓の外に目を移した。
沈黙。なんて心地が悪いんだろう。
いやだな。中沢、なんかしゃべってよ。
わたし今、何も言えないから。
「俺な、イタリア行ったばっかのとき、
英語もろくにしゃべれなかったわけ。
イタリア語なんて一言もしゃべれなかったんだよな。
普通、言葉の通じないやつなんかほっとくだろ?
なんつーかさ、一緒に居て歯がゆいから、近づかないだろ」
わたしは頷く。
あぁ、我ながら薄情なやつだな。
「けど一人、すっげー気さくに話しかけてくれるやつがいてさ。
話しかけられても俺何にもわからねぇのに、
それでも毎日話しかけてくれるたのな。
授業中とかも、先生よりずっと親身になって助けてくれるし。
おかげで、俺随分早くイタリア語覚えたんだよ。
それでも普通の会話ができるようになるまで
一年近くかかったんだけど」
その彼が、ある日を境に突然学校に来なくなったのだという。
幾日も無断欠席が続き、不審がった学校側の職員が電話をかけた。
しかし、誰も電話に出ることはなかった。
その後も幾度か別の時間に掛けなおしたのだが、
やはり誰も受話器をとることはなかった。
原因不明の欠席が一週間ほど続いたとき、警察が呼ばれた。
「あいつん家の親父な、昔交通事故で死んだんだよ。
それ以来あいつのおかん、精神的に不安定でさ。
救急車のサイレンとか、急ブレーキの音とか聞くと、
真っ青になって"助けて"とか"許して"とか叫びだすの。
あいつそんなこと一言も言わなかったし、
俺に話しかけるやつも少なかったから、
俺がそのこと知ったの事件の後で…」
彼が始めて学校を無断で欠席した日の前日、
彼の母は交通事故の現場に遭遇した。
見知らぬ男性がトラックに撥ねられるのを目撃したのだ。
そして彼女の目にはその男性が夫や息子に重なって見え、
半狂乱で帰宅した。
夕方の五時ごろ。
いつもどおり家で宿題をしていた息子を、悲劇が襲った。
我を忘れた母親は息子の無事な姿を見るなり、
「どうして…あなたが死ねばよかったのに!」と絶叫し、
精神的な混乱の中、台所に駆け込み、
流し台に放置されていた料理包丁を手に取った。
明らかに尋常でない母の後を心配になってついてきていた息子に、
母親は意味不明な奇声をあげながら切りかかった。
約一週間後に発見された彼の遺体は、
現場に駆けつけた警官が嘔吐するほど無残なものだった。
そして彼の母親は、自らの息子を手にかけた後、
息子の命を奪った凶器で自らの心臓を貫き、自殺したのだ。
「最悪だろ、そういうの」
わたしは、黙って頷く。
まったくもって、ドロドロだ。
こんなむごい事件は、いつだって新聞やニュース、
推理小説やホラーの中の世界だった。
でもそれはあくまでわたしにとってであって、
中沢にとってはものすごく身近な事件だったのだ。
身近で、大切な人の身に起こった、本物の事件なのだ。
「ごめん、」
そんなことを思い出させ、話させるべきではなかった。
とても軽率な行動だった。
自己嫌悪だ。わたしこそ最低じゃないか。
「いいよ、俺が勝手に話したんだし」
大人だ。中沢は大人だ。
苦しいことを抱えて、それを話させたわたしに、
ちゃんと気をつかって微笑みかけてくれる。
そうやって自分を制御して、絶えず周りに気を配るのが
世間一般で言う"立派な大人"の姿そのものじゃないか。
けどさ、中沢。
そんなのはただ
「くだんない」
「え」
驚く中沢と、ばっちり目を合わせる。
それはもうばっちりと合いすぎて、中沢は目をそらせずにいる。
「腹が立ったら怒れ。
悔しかったら不機嫌になれ。
苦しかったら苦しいって言って八つ当たりでもなんでもしろっ」
ただ、優しく笑って押し隠すことだけ、しないで欲しい。
相手が中沢だから、余計にそう思う。
わたしがいるじゃないか。
同じタクシーの、すぐ隣の席じゃないか。
同い年の、元ご近所さんじゃないか。
受け止めたいと願っている相手に、
何をそこまで気を使う必要があろうか。やめてくれ。
「八つ当たりなら、してる」
中沢の顔から驚きが消えて、すーっと真面目になる。
それでいい。本気でこい。
「精神科の医者になって、そういう事件とか、
そういう関連の被害者とかを一人でも減らしたいと思ったんだよ。
それは完璧な自己満足だし、
勉強に頭使ってれば少しは楽になれるかもって逃避だ」
「ガリ勉の現実逃避野郎か。とんでもないな」
「うるせぇよ。わかってやってんだよ。他にどうしようもねぇから」
「じゃぁ、」
タクシーが、わたしの住むマンションの前でとまった。
運転手さんは気を利かせて、何も言わずに待ってくれている。
ありがたい。
「じゃぁ、死ぬまで立派な精神科の医者でいろ」
「言われなくても、」
「応援してやるから、挫折は許さん」
「え」
「わたしが全力で支援してやるから」
驚く中沢の"きょとん"がおもしろくて、かわいくて。
自然と口が笑みにほころぶのを止められなかった。
「必ずかっこいい名医になれ」
高飛車な命令を残して、
わたしはタクシーのドアを開けた。
そのまま出て行こうとするわたしの腕を、中沢が掴んだ。
「何」
「俺さ」
中沢が、にーっと笑った。
「俺チョコはちょっと苦いほうが好き」
「は」
なんで。
すごく唐突。
「ハスだから、すぐ話せた」
また唐突に話しを戻す。
ややいんだよ、あんたは。
「明日7時に向かえにくるから」
そう言って、中沢はタクシーのドアを閉めた。
中沢を乗せて走り去るタクシーを見送りながら、
ぼんやりと思う。
『死ぬまで立派な精神科の医者でいろ
わたしが全力で支援してやるから』
思い返せば、少しプロポーズっぽかったかな、と…
でもそれはないだろう。
だって中沢とは今日までまともに口利いたこともなかったし、
このわたしに限って一目惚れなんていう軽率なことは…
鞄の中で、携帯が震えた。
取り出してみると、メールが一件届いている。
差出人は、不明なのだそうで。
とりあえず、開けてみた。
『優だからな』
… 中沢か!
急いで登録した。
中沢じゃなくて、優と。
あぁそうだ。これからコンビニでチョコ買ってこよう。
明日バレンタインなんだ。
しかも優は朝来るんだよ。7時だよ。
ビターチョコだ。急げわたし!
コンビニに向かって走りながら、
頭の隅でぼんやりと考える。
優にyouを掛けてみようか。
For You って。
-END-
つたない文章を最後まで読んでくださって、
まことにありがとうございます。
あぁ… やたら鈍感だな、ハス!
でもいいや、中沢君がスムーズだからいいや。
中沢、ハスをよろしく。
本当はキリが一番好きです←
できればご意見・ご感想等お寄せください。