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「中絶って、それマジなの?」
「しーっ、うるさい姫子! ここファミレスだよ」
人差し指を立てて、ピンクのグロス塗りたての唇に当てる。このジェスチャーの意は「静かにしろ」であり、日曜日のファミレスで「中絶」という場違い極まりない言葉を発した姫子でさえも黙らせた。辺りを見回すと、さっきまで和気藹々とポテトをつまんでいたジャージ姿の女子中学生や、別れ話をしていたのか重そうな雰囲気のカップルが、怪訝そうにこっちを見ている。恥ずかしくなって、半笑いで誤魔化したけれど、この変な雰囲気はきっとしばらくは戻らないだろう。姫子はこういうところが抜けているのだ。
ドリンクバーだけで7時間も居座るなんて、お店に失礼だよ。私はさっきから何度もそう言っているのに、「客は神様なんだよ?」と姫子は言って聞かない。そして、「だって、私らのグループから人殺しが出るなんて、最悪じゃん」と続けた。人殺し。その言葉を聞いた周囲の客たちは、さらに疑い深い目で私たちふたりを見ている。ついに隣に座っていた、なにかの資格の勉強をしていた私服のお姉さんが立ち上がってテキストを乱雑に仕舞って、伝票を手にとった。私はなんとかフォローを入れようと重たい口を開く。
「人殺しって、そこまで言わなくても……」
「生まれてくるはずの人を、自分たちだけの都合で殺したんだよ。人殺しじゃん」
あまりにもストレートな姫子の言葉に、何も言い返せなかった。学校では常に行動を共にする5人グループの中でも、姫子はいつもふざけているムードメーカー的存在だったから、ここまで真顔で言われると面食らってしまう。
子供が好きで、将来は保育士になりたいと公言している姫子だからこそ、こう思うのかもしれない。私はというと、移動教室も修学旅行もお昼休みも共にした野乃子に子供が出来たことも、そしておろしたことも、どこか冗談のように思っていた。幸いにもその時は夏休みだったから事を荒げる事もなく比較的平穏に済んだみたいだけれど、高校を辞めることになるかどうかはまだ微妙なラインらしい。私としては中学から仲のよかった野乃子とは、これからも一緒にいるのが当たり前だと思っていたし、できるのなら一緒に卒業したかった。けれども野乃子と野乃子の彼氏さん、そして両方の両親とお腹の子には、私なんかが到底口を挟めない事情がある。私は氷が溶けた、ほぼ水になってしまったオレンジジュースを、その場しのぎで誤魔化すように喉に流し込んだ。そして、まだ腑に落ちない顔をしている姫子に最善策とも言える提案をした。
「きっと野乃子本人も、気にしてると思うし。私たちができるのは、今までどおり接してあげることじゃないかな」
何もなくなってしまったコップの中に目を落とす。姫子は私の提案に、少なくとも好色は示さなかった。「ユメは、人殺しと今までどおり接せるの?」と聞かれると、私は次の言葉を失う。姫子はバカ正直で単純で、言葉を選べないから、なんでも率直に言い過ぎてしまう。私にはそれが辛かった。少しは、歯に衣を着せる事を覚えて欲しい。
とうとう、私たちの周りの席には誰もいなくなった。日曜の午後のファミレスは、びっくりするほど空いている。雰囲気は、最悪だった。
染めたばかりの栗色の長い髪を指先で弄びなから、姫子は「てか、もともと私ノノのことそこまで好きじゃなかったんだよね」と告白する。
昨日まで仲良くしてた友人に、よくそんなこと言えるね。喉元まで来ていたその言葉は、鉛のように私の中に押し込まれた。女子なんて、こんなものだと知っていた。普段はふざけているけれど、姫子はスカートも短いしメイクにも意欲的だし、ちゃんと「女子」であることは私がよくわかっている。バイトでもすればいいのに、もらえる少ないお小遣いを自分のために使っている姫子は、男子にもきっと人気だろう。彼氏、は居ないみたいだけど、男子と一緒に帰る日があるらしいし。いつも一緒にいるのに、私とは遠い世界の人だった。
「このことは、甘奈とメグには言ってるの?」
甘奈とメグ。私たちのグループは、いつだって5人だ。なんとなく集まって、なんとなく仲良くなった5人だけれど、私にとっては大切な友達だ。転校してきたばかりの私にも優しくしてくれた4人のことが大好きだった。ムードメーカーでリーダー気質、正義感の強い姫子、その姫子にいつも噛み付くけど実は淋しがり屋の甘奈、身長が低くて目立たないけれど笑うと可愛いメグ、いつだって冷静な大人で私たちのことを一歩引いて見ている野乃子、そして何の個性もない私。お昼休みも修学旅行も、休日に出かけるときも、この5人だった。そして、甘奈とメグに野乃子の中絶のことを話したかというと、答えはnoだった。野乃子は私にしか相談しなかった。私一人じゃ抱えきれなくて、今こうして姫子に話しているけど、甘奈とメグにもこの話をしたらどんな反応をするのだろう。そして、もしこの話をしなかった場合。隠し事をされた二人はきっと怒るだろう。……ああ、面倒だなぁ。姫子のグラスには、鮮やかな色のメロンソーダが注がれていた。ファミレスの中だというのに、暑くて変な汗が背中を伝っていく。
私は姫子に「ううん、まだ」とだけ返して、ドリンクバーを取りに行った。そして、その日はそれっきり、この話をしなかったのだ。
思えばこの時初めて、私たち5人の中で蟠りのようなものができた。この野乃子の一件以来、私たちの運命は狂い始めたのだった。
第一話 「 宮澤夢未と刹那の邂逅 」