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杏奈と出会ったのは、私立炉端学園小等部の入学式の日だった。
ネイビーブルーのブレザー、糊のきいたブラウスは大きく、丈が余った。それが違和感で、家を出る前に散々ぐずったが、母親は「これからもっと大きくなるから大丈夫」とまるで相手をしなかった。チェックの短パンはゴムで何とか腰で穿いていたが、歩くたびに脱げそうで、駒緒は学園に着いて早々帰りたくて仕方がなかった。
しかし母親は言うのだ。
「ほら、お友だちにご挨拶してらっしゃい」
今日が初対面だと言うのにお友だちも何もない。そもそもなぜ私立になど入らねばならないのか。
お受験といって不要な勉強をさせられたことも不満であったが、母親はどんな手段を使ってもそれを強行した。
炉端学園は、入学さえしてしまえば一生安泰と言われる。名門中の名門。頭のいいお坊ちゃんお嬢ちゃん、さあさあ寄っておいで。成績優秀、秀才、天才、一点に秀でた者が集められた学園である。
母親の存在がなければ、駒緒のような凡才は、足を踏み入れることなく一生を終えたであろう。無謀な挑戦だったのだ。だと言うのに、どういうわけか彼は合格した。
駒緒は辺りを見回す。母親は保護者の横の繋がりを築くべく、どこかへ行った。
まっすぐ行った先には噴水がある。馬に乗った男の石像を中心に水が噴き出している。それを見上げる駒緒とは反対に、他の生徒たちは友だちとさざめきながら通り過ぎていく。
それはそうだろう。
小等部から炉端学園へ入るものは、ごく少数。大多数の者が幼等部から共に過ごしている。今年の小等部編入者は11名。編入だ。そういう言い方をされる。
公立がよかった。
同じ保育園の友だちは公立の小学校へ行った。駒緒だけが違う。
母親にいくらこの学校の素晴らしさを説かれても、彼は劣等感を抱くばかりだった。自分は特別だとは思えなかったし、ましてや選民意識や優越感など毛ほどもなかった。
ひとり、足元を見つめながら、噴水の奥の校門を目指す。そう、まだ敷地内に入っただけで、校門すらくぐっていないのだ。
炉端学園は横に広い。
左手から幼等部、小等部、中等部、高等部、続く大学は都内にあるため、ここからは大分離れたところに校舎がある。
道の両側に広葉樹が整然と並ぶ。
一定の間隔で洒落た街灯が立っている。細くて黒い。まるで絵本で見た魔法使いの必需品、魔法の杖だ。シンプルなつくりのせいで余計に品の良さ、細工の細かさが際立つ。
重い足取りで踏む石畳の街道。アスファルトや自然の地面に慣れた駒緒にとっては居心地が悪い。
おまけに、同じ制服を着た生徒たちは駒緒を横目に見たり、こそこそ噂する。
ここは小さな社会だ。お互い見知った仲であるのに、そこに現れた駒緒は異物だった。
入学式は中央講堂で行われる。
駒緒はたまらず半ば走るように早足になる。
こんな疎外感を味わうのは初めてのことだった。
校歌の斉唱が始まる。
事前に配布された冊子やプリントの中から、どうにかそれが印刷されたものを見つけ出す。滑らかな手触りだ。お絵かきで使った画用紙より分厚い。
周りは大きな声で元気に歌っている。幼等部で散々練習したのだろう。
駒緒は口をパクパクさせて歌うふりをしながら、壇上のトロンボーンやピアノを眺めた。ピカピカに磨き上げられたそれらを演奏するのは高等部の生徒だと紹介があったばかりだ。
かっちりしたデザインの制服は子どもの駒緒にはスーツと見分けがつかない。
ゆくゆくはあれを着るのだ。
その姿がまるで想像できなかった。
その後、聖書朗読があり、学長告辞とつつがなくプログラムが進んでいく。
「入学宣誓。入学生代表――」
マイクがハウリングした。キーンと耳を突く。
舟を漕いでいた駒緒はハッと目を覚ました。退屈過ぎて居眠りをしてしまった。
壇上を見る。
「――杏奈」
名前だけが、かろうじて聞こえた。
「はい」
声は上ずっていて、舌っ足らずだった。どれだけ緊張してるんだ。
駒緒は笑い出しそうになってしまった。かわいらしい。そう思った。
返事をした彼女は、それでも背筋を伸ばし、颯爽とマイクの前に立った。
一歩引いて頭を下げる。
顔を上げた際に、その髪が滑らかにうねった。伏し目がちだったが、言葉を重ねるうちに正面を向くようになる。
保護者の間では感嘆の溜め息が挙がる。
駒緒は見入っていた。彼女は、とても美しかった。
今まで見たどんな人間よりも整った顔立ちをしている。完成された人形のような、完璧な容姿だった。
――睫毛、長いんだろうな。
駒緒は最後列に近い位置の席に座っていたが、そこからでもはっきり分かった。
真っ黒い髪の毛は、照明でキューティクルが際立って輝く。
その唇が動くたびに、全身が固まる呪いにかけられる。彼女は恐ろしくなるほど綺麗で、清廉な存在だった。
頭がくらくらする。
普通は、学長に向かって宣誓するのが通常の入学宣誓だ。
彼女は観客のほうを向いている――観客というべきだろう。
駒緒は知ることになる。
人の口に戸は立てられない。
この舞台は、彼女のお披露目会も同然。
彼女こそが、この学園において唯一。特別な存在だった。