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疑殆に取り込まれてはいけない。
疑うことに囚われてしまったが最後、もう戻ることはできない。
疑ってはいけない。
自分の過去を――疑ってはいけない。
消え去った過去に捕まってしまっては、きみの人生はより悪いものとなるだろう。
祖父は言う。
疑殆と共にあってはいけない、と。
それは清く正しく聞こえた。
ただでさえ良いことのなかったきみの十数年間、消えてしまっても問題ないだろうと過去の俺に失礼なことを言って、祖父は病院のベッドの上にいる記憶をなくした俺に《助言》する。
「きみの人生がより良いものになることを、ぼくは心から願っている」
そう言うと颯爽と立ち上がって病室を出て行った。行寺キノエは終始笑っていたような気がする。
逆光でよく見えなかったが、祖父は弾んだ声をしていた。まるで悪戯が成功してにんまりしているようだった。
無邪気な笑顔のまま去っていった祖父に対して、母親は俺が入院している間はずっと顔をしかめたままだった。もしかして母親ではなく赤の他人なのかも知れないと思ったほどだった。
しかし彼女の一人称は「ママ」だったし、「母さん」と呼べば少しだけ微笑んだ。
長い入院生活の後、退院する頃には俺は18歳の誕生日を迎えていた。
大学も決まっていた。
何の勉強もしてこなかったが、以前通っていた系列の学校に裏口入学させたと祖父の学校経営者としてあるまじき発言を聞き流しながら入学し、教員免許を武器に就活し、内定を取り、卒業した。
俺の人生はまったくもって順風満帆だった。
大学入学後から今まで、失敗を経験しなかった。
そう言うと祖父は大きな口を開けて心底嬉しそうに笑う。快活に笑う。
それが嬉しくて俺も笑うと祖父は決まって言うのだ。
「きみが幸せなら、それでよかった」
一緒に笑いながら俺の首は少しだけ傾ぐ。
その理由は分からなかった。少しの違和感を覚えたところで手遅れなところまで来ていたが、それでも過去の俺が今の俺に訴えていたのだろう。
手放してはいけないと叫んでいたのだ。
疑殆を連れて真実を知れと、俺は知っていたくせに逃げた。
痛いことも苦しいことも、疲れてしまっていた。
確かに過去の俺の人生は良くはない。良くはないどころか拷問の果てに死に、強引に生き返り、杏奈を失った。
疲れたと度々無意識のうちに口から出るたび、祖父は眉をひそめ、母はまだ若いんだからと背中を叩いた。
体がバラバラになり、バラバラになった体から女の子が出てくる夢を見た。
それを話した日は丸1日、家から出してもらえなかった。
祖父は毎日楽しそうだった。母はたまにヒステリックを起こした。
祖父は昔ほど笑わなくなったらしい。母はいつだって穏やかで優しかったらしい。
変化はまだまだあったようだが、記憶をなくした俺には分からない。
何一つとして知らない。
記憶は失ってしまった。
昔のことなど忘れてしまった。
あの日、大切なものが奪われた日。
舞台の上で、祖父が来るまでずっと呟いていた独り言を、きっと神様が聞き届けてくれたのだろう。
何て素敵な神様。
神様って本当にいるんだな。




