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疑殆帯同  作者: 穏田
第三章
35/50

1-1

 喉が痛い。

 ひび割れた唇を結んで薄目を開ける。体中がきしんだ。

 よく知った香りに安堵して闇雲に手を伸ばせば、間違いなく杏奈はそれを掴み取る。小さいその手を辿たどって、その小さな頭を撫でた。絡まることのない細く滑らかな髪を口元まで持っていく。つられるように引き寄せられた顔を見つめて、瞬きをした。

「今何時?」

 彼女は壁に掛けられた時計を見上げた。

「6時」

「マジかよ。起せよ」

「起きなかったの」

 少しねたような言い方を笑う。

「ごめんな」

 先に帰っててよかったのにと言えば彼女はもっと機嫌を損ねてしまうだろう。体を起こすと大きく伸びをした。

 くっつきそうになるまぶたを開けて、ぼうっとカーテンを眺める。保健室のベッドだろう。ぐるりと囲んだ真白いその向こうで誰かの話し声がする。寝ぼけていると偽って杏奈の手を借りた。

 裸足で降りた床が冷たい。

 布団が滑り落ちる。まだ劇の時の格好のままだった。

「俺の制服ってまだ教室?」

「うん」

 白雪姫にしてはやけに太くて毛深い足を見下げる。

 溜め息が出た。

「せんせー」

 カーテンを開けると保健の先生は眉間の皺を更に深くして見つめてきた。別に趣味でこの格好してるわけじゃないと言ったところで彼女は聞く耳を持たないだろう。

 もうすぐ定年退職を迎える先生のメガネが電灯の明かりを反射する。居心地の悪い保健室を目指していると明言する彼女の正面には、何人かの生徒たちが正座をさせられていた。

 心身共に健康な者は保健室から追い出される。しつこく居座る生徒はこうして注意を受ける。

 心や身体が疲れたら来なさいという言葉で締めて、先生は俺に向き直った。

「具合はどうですか?」

 そそくさ出ていく生徒たちは明らかにこちらを気にしていた。

 頭の天辺てっぺんから足の先までざっと見て、繋がれた手を見て見ぬふりして彼女は言う。

「元気です」

「それは良かった」

 答える前から先生は背を向けていた。

 下校時刻を過ぎていますと冷たく言って、先の生徒たちと同じように追い出される。俺の体調よりも服装に嫌悪感を示しているかのように思えて、強めにドアを閉めると杏奈は驚いて肩を揺らした。

「……今の態度はない」

「俺? 先生?」

「どっちもよ」

 俺の手を離して行ってしまう彼女を追いかける。

 長い髪を下ろした後ろ姿は昔を思い出して目に毒だ。しかし隣に並ぶと彼女はまたいつものように怒ったふりをするのだろう。

 半歩前を歩く。

 すると負けず嫌いな杏奈は追い越そうとしてくる。追い越して得意げに振り返る顔がしゃくだったので追い越していたら追いかけっこのようになった。

 やがて彼女がついて来れなくなる。速度を落としてやはり半歩前を歩いた。

 喉が鳴る。

 墨の匂いがしたような気がした。

「鏡って覚えてる?」

 窓の外を見るととっくに日は落ちていた。

 写った顔は自分でも何を考えているか分からなかった。

「鏡?」

 彼女は首を傾げて不思議そうに言う。

「劇の話?」

 違うよと答えたところで杏奈には分からないのだろう。

 そうだよと柔らかく頷いた。

「何枚か用意したけど本番どれ使おうかなーって嶋が言ってた」

「手鏡より姿見のほうがいいんじゃない?」

「移動が面倒だし、倒して割ったら大変だし」

「そうだね」

 顎に手を当てて思案する彼女は気付かない。

 鏡のことを覚えていないことに胸を撫で下ろすと同時に痛みが止まらない。

 それでもうっすら笑みを浮かべて、下を向く。

――これでいい。

 何度も何度も言い聞かせて納得して諦めたことを今更掘り返す気などない。

 全て今まで通りだと、問い詰める言葉を飲み込んで、忘れたふりをした。

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