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下心がなかったといえば嘘になる。
もう一度嘆くように「お兄ちゃん」と呼んだ。
彼はうっとりと微笑んで顔を向けたが、杏奈を見てはいなかった。
「お兄ちゃんは、嘘つきだわ」
うめくように呟くと「そうさ」と彼は気障ったらしく返し、幼い妹の手を強く握りしめた。
「だからおまえはもっと早くに気付くべきだった。でもね、杏奈。おれは知っているよ。おまえは最も父に近く、最も母に近く、最も目紜に適している。おれや、他の元兄弟たちとは一線を画する。だが、それだけなんだよ。おまえの価値はそれだけだ。おまえを『至って普通』とおれが言った意味は勿論分かっているだろう。分からないなんて甘えた言葉は聞きたくないよ。何せおまえは目紜杏奈。念願の寵児。誰もが欲したおれたちの愛しい子。おれはそれをぶち壊そうと画策したわけだが、失敗したやつが何を言っても絵空事。だがこれだけは何度でも言おう。おれはおまえの味方だ。
おまえがどれだけおれを疑っていようと、おれは変わらない。どれだけ言葉を重ねてもおまえは決して心を許さない。そんなおまえを愛している。なぜならおれは目紜欽也。おまえのために生かされてきたし、今更自由に生きてみろとどこかの誰かさんに言われたところでそんな恐ろしいこと、おれには到底決心がつかないよ」
それに、と彼は続ける。
きらきらぎらぎらと輝くその両目は今度は間違いなく杏奈を見据えていた。
油断していた。
思わず足が止まる。しかし逃がしはしないと彼は彼女の正面に回り込み、そうして膝を折って目線を合わせた。
優しさの欠片もない。
欽也とは、元来こういう男だった。
「どうやらおまえは《鏡》に魅入られてしまったようだ。忠告だけはしておこう。なぜならおれはおまえの兄だったんだ。あの大馬鹿たちには口が裂けても言えないことを教えてあげよう」
杏奈の唇に人差し指を当てる。
「おまえはまだ、やり直せる。おれとは違うんだ。絶対に間違えてはいけないよ。大いに迷うがいい。しかし、見失ってはいけない。おまえにとっての最善はおまえの心が知っている。目を逸らすなよ。全てはおまえが原因だ」
ぎゅうぎゅうと蛇のように長い指が繋がれた杏奈の手に食い込む。
痛いとは思わなかった。
父親に腕を掴まれたときに比べれば欽也は嘘のように甘い。容赦のない、余地のない目をしながら、誰よりも杏奈を甘やかすのはいつだって彼だった。
ふと、彼は目線を外す。
同時に片方の腕で杏奈を抱き寄せた。
「ごめん、杏奈」
ひどく余所余所しい抱擁は、彼自身の心を表したかのようだった。囁く声は言い終わらないうちに遠くなる。
緩慢に立ち上がった彼は杏奈の背後を見ていた。
「やあ、兄さん」
少し震えた声を聞いて、杏奈は振り返るまでもなく第3者の正体を知る。
この兄は最期まで、どう足掻いても長兄には敵わなかった。気負わぬ風を装って、1番見つかりたくなかったであろう男から彼は妹を隠した。
「どうやっておれたちと擦れ違うことなくその部屋に入ったのかは分からないけど抜け道みたいなものでもあるんだろうな。すっかり気を抜いていた。早すぎやしないかい、兄さん。おれたちの妹が恋した彼はそんなに歯応えのない男の子だったのかな」
「杏奈から離れろ」
彼が一言発しただけで、だらだらと汗が止まらないくせに、欽也は杏奈の手を離さなかった。
どんどん荒くなっていく彼の息づかいに釣られるように杏奈の額にも汗が滲んだ。
早くなる心臓の鼓動を感じながら唾を飲むと欽也を見上げる。後ろ姿では彼が何を考えているのか、まるで分らなかった。
「もう少し、時間をくれたってよかったじゃないか」
そう恨みがましく言ったところで、聞いてくれる相手とは毛頭思っていないだろう。拗ねたような言い様は兄に我儘を言う弟そのものだったが、それが通じたのは遠い昔のことであったし、彼はもう弟でも家族でもなかった。
「ま、仕方ないね」
あんなにきつく握りしめていたくせに、彼はあっさりと彼女の手を離した。
「お兄ちゃん」
立ち尽くす杏奈に気付いて、彼は一度だけ振り返る。
余計なことは言わなかった。
「おまえがおれを殺した場所に彼はいるよ」
そう言うと彼はもう、杏奈のほうを顧みたりはしなかった。




