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疑殆帯同  作者: 穏田
第二章
29/50

10-3

 助けを待っている暇などなかった。

 父親が自分の手を振り切って出て行った瞬間から、彼女に選択肢は1つしか残されなかった。

 兄達の助力は得られないであろう。彼らは杏奈に従順なのではない。父親に従順であり、彼と彼女の意見が対立しているとなれば彼を選ぶことは明白であった。

 彼女はどこまでも己の価値に鈍感だった。彼らも過保護に過保護を重ねてそれを隠した。

 今、そのツケを払わねばならない。

 父と兄のやり口は知っていた。5番目の兄が死んだときのことをよく覚えていたし、何より彼女が初めて目紜として認められた日でもあった。

「死んでいることが役に立った時は何度もあるけれど、今ほど昔の自分を褒めたいと思ったときはない」

 そう言って、目紜欽也はやわくはにかんだ。

 およそ死んでいる人間の顔色ではなかったが、それでも彼は死んでいた。

 杏奈は兄ではなくなってしまった彼の言葉に悲しそうに顔を歪めながら、父と入れ替わりで室内に入ってきた欽也に手を伸ばした。

「おまえの兄と名乗れなくなったことは非常に悲しいし、父に存在を認知されないことは嘆くべきことだが、悪いことばかりではない。聡い幾人いくにんかの元兄達は気付いて妨害してくることも予想していたけれど、それもない。おまえたちはすっかり腑抜けてしまったのか、それだけ今回のこの異常事態に手が回らないのかはおれには分からないが、何より重要なおまえを1人にしてしまったことは取り返しのつかない失態だと思うよ。まあ、父に関しては仕方ないさ。おれが見えないのだから仕方がない。しかし、次男と六男を抜いた元兄弟達に関しては全くお笑いだ。端的に言えば大馬鹿野郎だ。だが、その大馬鹿野郎たちのおかげで、おまえは王子様の元へと行けるのだから大馬鹿野郎の大馬鹿に関して感謝しなくてはいけない」

「駒緒くんは王子様じゃないわ」

「誰も彼を王子様だとは言ってないよ」

「そういうの嫌い」

「おれもあんまり好きじゃない」

 彼女の手を繋いだまま離さず、彼は反対の手でドアを開けた。

 廊下に足を踏み出すと厚い絨毯じゅうたんが足音を消した。長く続くそれはどこにも脇道などなく、眩暈がするほど赤い。

 欽也を見上げると彼もまた杏奈を見下ろしていた。

「王子様は普通、お姫様を迎えに来てくれるものだと思ってた」

 彼は溜め息を吐くように笑った。

「じゃあ、おまえが王子様なんじゃないかな。おれはどちらが王子様でもいいが、おまえが自分のことをお姫様だと思っていることが問題だと思う。自惚うぬぼれてはいけないよ、杏奈。おまえは全くもって普通で、絶対に特別足り得ない女の子であることを肝に銘じておくべきだ」

「でも、みんな私を特別だと言うわ」

 冗談交じりに言った彼女を彼はちらりとも見なかった。

「愚直は美徳にはならない。彼らは嘘つきだ。自分のことを知らなくてはいけない。そしておまえはおまえ自身を自分で守らなければいけない」

 そこまで言って一息つく。深呼吸をして、「なあ、杏奈」と彼は続けた。

「おれは自分が間違っていたとも思わないし、反省もしない。それがおれの唯一の矜持であることは間違いない。だが、おまえは何の悪気もなく奪ってしまった。そろそろ、《それ》を返してはくれないか」

「奪ってないわ。でも、それが交換条件だっていうなら考えましょう」

 欽也は空いた手で杏奈の頬をつまんだ。

「少し会わない間に生意気になったもんだ」

 そうして嬉しそうに微笑んだ。

 細めた目は母親によく似ていた。

「おれは決しておまえを裏切らないよ」

「私は思い通りにならない人のほうが好き」

「それで、おまえの王子様だかお姫様は思い通りにならない人なのか?」

「そういうの嫌い」

「照れてる」

「嫌い」

 じゃれ合うように言葉を重ねるが、彼の興味はどこか別のところにあるようだった。

「お兄ちゃん」

 彼が余計なことを考えているときは杏奈にとって都合の悪い結果になることが多かった。咎めるように呼ぶが、彼の回り始めた思考はそうそう止められるようなものではない。

 ああまずい、と思ったときにはもう彼は結論に辿り着いてしまっていた。

 彼の父親に悪い癖だと言わしめたそれに歯止めをかけることは今の杏奈にはできなかった。

 決めた、決めたよと嬉々として欽也は言う。

 何を決めたのか、杏奈は聞かなかった。

 聞こえなかったふりをした。

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