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「笑顔だけは可愛いですね」
彼は嬉しそうだった。歪みながら笑っていた。
――蛍には判らない。
彼にとって未知であり、彼は無知であった。無垢ともいえるその未熟さは、いくら他を倣っても完成しない。
彼はこの時点で自分のことすら判らず、過ぎた玩具を運良く手に入れただけの子どもでしかなかった。力づくで手に入れたものに何の価値もないというのに、自慢気にそれを掲げる。
目紜蛍は彼らの長兄が思った通りどうしようもなく出来損ないの兄弟であり、この時点で踊らされている自覚すらなかった。
*****
屈辱だとは思わなかった。
花梨はキリに次いでプライドが高かったが、それは目的のためならば一旦無視出来る程度のものだった。しかし、それでも歯噛みし、無表情に徹することで叫び出しそうな口を結んだ。
むっつり黙り込んだままの彼に代わって、口下手な哲は同じく無表情で懸命に説明する。哲の場合は無表情が常だったが、そのこめかみを汗が流れた。
「妹を助けてほしい」
ちぐはぐなその様子を見て笑い出しそうに目を細めながら、行寺キノエは先を促した。
「杏奈はすごい。死んだやつを生き返らせることができる。行寺駒緒はもうすぐ死ぬ。それは避けられない。だが、あんたらが親父に捕まった妹を助ける手助けをしてくれれば、オレたちは杏奈を助けられて万々歳だし、行寺駒緒も杏奈がいれば死んだ後でも間に合う」
「……ははっ」
堪え切れずに吹き出した。行寺家当主は笑い上戸だったが、その上この下手くそ極まりない説得が滑稽だった。
頬杖をついて、土下座のまま体勢を崩さない2人を見下ろす。
客間に通してから挨拶もそこそこに首を垂れ、ひたすら助力を乞う彼らを、傍らに立ち尽くした駒緒の母親などは冷やかに見ていたが、キノエの許可なく口を開くようなことはしなかった。
「キリくんのとこの息子は面白いなあ。駒緒もこれくらい愉快な子だったら、からかい甲斐があるんだけど――それはさすがに可哀想かな」
ねえ? と有理に視線を投げかけると「お父さんは加減が分からない大人だから質が悪い」と言葉少なに娘は答えた。
「そうだね。わたしの孫は良識のある子だから言うに事欠いてお前の孫は殺すけど後からいくらでも助けられるから先に兄弟を助けてくれなんてお願いをしようなんて思わない。きみたちをそんなふうにしてしまったキリくんの責任は重大だね。どうするの、きみたち。まともな大人になれないよ」
心配そうに彼は言う。古くからの友人の子どもたちの将来を心底案じているかのように言葉を連ねた。
「キリくんは変わったよ。昔は良い子だったのに今となっては欲の塊だ。怖いんだろう。彼は大切なものを奪われるのが怖くなってしまった。目紜としては致命的な欠点だ。きみたちは全てを投げ打ってでも果たさねばならない使命があるというのに、キリくんはもう当主を名乗るに値しない役立たずだ」
そう言い終わらぬうちに押し黙っていた花梨が反射的に反論した。
「父がああなってしまった経緯を知っていて、そんな酷いことを言うんですか。とても心ある人間とは思えない」
「人間じゃないのはきみたちだろう?」
はははっと快活に笑いながら、キノエは純を装って針を刺していく。「何を澄ました顔して人間面してるんだい。きみたちは本来、人間とは似ても似つかない生き物のはずだ。それなのにキリくんのせいですっかり落ちぶれて、穢れてしまった。わたしは悲しいし、怒っているんだ。あんなに美しかったのに勿体ない。もう目も当てられないほど今の目紜は気持ち悪いんだよ」
かあっと青白い頬を赤く染め上げて花梨はキノエの胸倉を掴む。
家族のために頭を下げることは恥ずべきことではなかったが、家族を貶されるのは我慢ならない。
――こんなやつの手を借りずとも妹1人くらい救ってやる。
ここで間違えることはできなかった。失敗は許されない。
ここで止まらなければ、目紜は延々と壊れ続けてしまう。
しかし、それ以上手が出る前に哲が花梨の腕を弾いた。
「事実だ」
淡々と彼は言う。
「全部事実だ。子どもみたいな癇癪を起すな」
「おまえはそれでいいのかよ」
「他にどんな手があるっていうんだ」
「……うるさい」
ぽつりと呟いて彼は哲の隣に戻る。
その様子をじっと見つめていたキノエはやがて顎に撫でながらゆっくり目を閉じた。礼を失する言動は正直言って不愉快だったが、まあ概ね思惑通りだと満足していた。
彼とて目に入れても痛くない孫を失いたくはない。駒緒を次期当主にするのは止めたほうがいいなどと下らない助言をしてくる者も一族の中にはいたが、キノエの意志は固かった。
駒緒こそが行寺の家長に相応しいと思っていた。
再び頭を下げる兄弟を前に、行寺家当主は自身の孫を取り戻すための策を練った。
*****
目紜家五男、目紜欽也は潜思する。
彼はあらゆる全てのことを諦めてはいたが、今回のこの状況は、あらぬ希望を抱いてしまうに充分だった。
あらぬ希望を――夢を夢見て妄想する。
だが、まだ早いと浮足立つ気持ちを抑えつけた。彼は自由には動けない身ではあったが、今はそれに輪をかけて行動できない。
それに、自分がやらずとも、それぞれ兄弟たちがほぼ思う通りにこの状況を対処、解決しようと走り回っている。
――なんて素晴らしい。
絶賛の雨霰を降り注いで、心から抱きしめてやりたいほど彼らは優秀だ。彼は兄弟たちをまるっきり信じてはいなかったが、彼らほど使えるものもいない。実に素直で、全くもって馬鹿みたいに妄信的。父はさぞ彼らを重宝しているであろう。
父から死んだものとされている自分にとってはまるで他人事だったが、一切関係がないというわけではない。
むしろ全員の位置を常に把握しておかねばならなかった。
――スパイというのも楽ではないなあ。
心の奥で小さく呟いて、身動きできないようきつく縛り上げられた身体を溜め息混じりに見下ろした。




