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それ以上、彼は余計なことは言わなかった。
華奢な背中が揺れる。
置いて行かれないように、めいは一生懸命それを追った。
――彼を見捨てたのは誰なのか。
彼は守られていたはずだ。他でもない行寺の当主によって。
――誰が彼を罠に嵌めたのか。
陥れたのか。
めいには分かる。
しかし、彼女はそれに気付きたくなかった。彼女が目紜の《実験体》という事実は一生消えることはなかったが――同時に、彼女の人生は保障されていたのだ。
巻き込まれたくはなかった。
ここまでにしてほしい。わたしの一生を弄ぶのは、ここまでにしてほしい。
その一心だった。
彼女は駒緒を諦めた。
見捨てた。
「さすがにぼくも経験ありませんよ」
暗い階段の先で彼は振り返った。表情が読み取れない。
「ぼくたちは虫風呂と呼んでいます。ただ縦穴に虫を流し入れただけなんですけどね。兄が入れられたときは痛そうでしたよ。死んじゃうんじゃないかと思いました」
実際、彼はそれが原因で死にましたけど。
きらきらと蛍の目が光る。
泣いているのかと錯覚した。
「行寺くんは虫風呂で殺されるってことですか?」
――彼はめいの反応を見ている。
「自業自得ですね」
笑顔を作った。
ぎこちない言動に気を良くしたように、蛍は微笑み返した。
「貴女は本当に、恥も何もないんですね。必死で、汚らしい。生きてて恥ずかしくないんですか」
あっ、と嬉しそうに声を上げた。「恥と思う心がないのに、恥ずかしいなんて思うわけありませんよね。失礼しました」
歯を食いしばって笑う。意識してやっているのかは分からないが、彼は人の神経を逆撫ですることに長けていた。
そして、彼は間違っていない。
間違っているのは彼女のほうなのだ。
彼女は結局、自分可愛さに恋した相手を見放すつもりなのだから。
阿諛めいは実力を知っていた。
自分は所詮、虎の威を借りる狐でしかない。
その上で、欲しいものが手に入らないことを知っていた。我慢を知っている。
諦めて、へらへら愛想笑いをしているのがお似合いなのだ。
ずっとそうしてきた。そうやって、今の地位を得た。
分家の中でも破格の待遇を受けた自覚がある。
これ以上はいけない。
この先は、駄々をこねたところで通らない。
実力がないやつは媚びて媚びて、やっと貰えるのだ。彼女は今の時点で逸脱していた。
我儘を言い過ぎた。
彼女は――ここまでだった。
「それで、わたしは何をすればいいんですか」
蛍が一向に動こうとしないのでめいは階段を降りていく。
彼は最後の一段のところで足を止めていた。
「貴女は言うことを聞いていればいいんですよ。ぼくたちの意図する通りに、言いなりになっていればいい」
とんとん、と肩を叩かれる。めいは跳ねるようにして振り向いた。
「遅い」
正面にいた蛍が彼女の肩を叩けたはずがない。
めいの背後に立っていた三太は剣呑な目つきをしていた。「遅いって、おまえら。もう終わったよ」
生々しい血の匂いが鼻を突く。
肩口にはべったりそれが付いていた。
「蓋も閉めちゃったよ」
三太を突き飛ばした。
最後の一段を跳ね落ちて、彼の言った『蓋』に手をかける。しかし、それを彼らが黙認するはずもなかった。
ダン――ッと慌てた三太はめいの足の上から蓋を踏んだ。
「何してんだアンタ!!」
痛みに歪めた顔を平手打ちした。衝撃で揺れた彼女の髪が乱れる。
むんずと掴むと強引に引き寄せた。
「おれたちまで巻き込まれたらどうするんだ!」
「だって――行寺くんが」
はあはあと荒い息をしていても耳につく。
蓋の下の穴に彼がいる。
うめき声が確かに聞こえてくる――彼が苦しんでいる。
身体が言うことを利かなかった。
鼻の奥が痛い。
心と体が食い違う。利害だけを考えていたはずなのに、今更駒緒のことで頭がいっぱいになる。
どうして彼は行寺なんかに生まれてきて――杏奈になんか気に入られてしまったのだろう。
そうでなければ彼は、わたしのものになったはずなのに。
こんなに苦しむことなかったのに。
「あの女のせいで」
「……次にそれを言ったら、ぼくは貴女を許さない」
はっとして見ると、蛍はめいを睨みつけていた。ぶるぶると手が震えている。
「めいさん」
「はい」
「笑え」
「――はい」
にっこり笑うと彼は射抜くように、真意を探るようにめいを見つめた。
「貴女次第です。ぼくが貴女を守ってあげましょう。父には今回のこと、報告しません。その代わり、貴女はぼくのものになるんです。誓いなさい。決して妹を侮辱しないこと。ぼくの命令には従うこと。それさえ守れば、貴女の将来は約束されます」
「わかりました」
「それでいいんですよ」
蛍は髪から手を離し、赤く腫れためいの頬を撫でた。




