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今更危機感を抱いてじりじりと後ずさる駒緒を、杏奈は許さない。
手首を掴まれた。
「で?」
「で?」
オウム返しにすることしかできない。声が上ずった。その情けない声を自分で聞いて赤面する。
しかし、杏奈の顔はそれ以上に赤かった。
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。果てしなく恥ずかしい。
どうしても返事をしなければいけないのか。また、声が裏返ってしまうことが予想できた。黙り込んでしまった駒緒を急かすことなく、杏奈はただ待っている。
「何で俺なのか、聞きたいんですけど」
考え抜いた末の言葉は、また上ずった。あからさまに震えている。
手汗が止まらない。
「駒緒くんは、私のことを見てくれたから」
彼女の手の震えが伝わってくる。俺以上に震えてる――そう気づいて、逃げ出したくなる。いっそ、冗談だったら、いくらか気も楽になっただろう。
「最初、駒緒くんは私と距離を置こうとしてたでしょう? みんなそうなの。でも、駒緒くんはちゃんと私を見ようとしてくれた。私がそういう扱いをされるのがイヤって知ったら、それからは普通に接してくれた。他の子たちみたいに私をお人形扱いしなかった。だから、好きなの」
誰でも初めて話す人には距離を置くものだし測りかねると思うし、徐々に仲良くなっていくものなんだからあくまで俺は普通の対応しただけだし。
言い訳じみたことを思いつつも言うべきではないと思った。彼女はそんな言葉が聞きたいわけではないだろう。
ここまで言わせてしまったのだから誠意を持って返すべきだ。
ここまで言わせてしまったことを、駒緒は後悔していた。罪悪感があった。
彼女の気持ちを聞く前に、既に答えは決まっていた。ただ彼女に恥をかかせてしまうだけの質問だった。
混乱していたから、何が何やら分からなかったから。駒緒は心の中で弁解する。彼女の好意に恣意的に付け込んだ。
自分のために彼女の心を暴いた。晒させた。
「ごめん」
一言、それだけを言った。
杏奈はみるみるうちに目に涙をためる。しかし、それが零れ落ちることはなかった。
「わかった」
声まで震わせて、今にも泣き出しそうな彼女は手を離した。
「大丈夫」
意地でも泣くまいとしている彼女に手を伸ばそうとして、引っ込める。その手を名残惜しそうに、ぼんやりとしか見えていないであろう目で彼女は追う。
そこまで思ってもらえるほどの価値が自分にはないと自重を含めて思うのに、嬉しいと思ってしまう暗い感情が良心を苛む。
俺も好きだよと、駒緒には言えない。
言えないくせに、彼女に言わせた。
「教室戻ろ」
目の端を真っ赤に染めて彼女は気丈に言ってくる。その言葉に従う。
教室に帰るまでの間、杏奈は口を開かなかった。強張った後ろ姿に声をかけることは到底できなかった。
教材を家庭科室に忘れてきた駒緒はしこたま怒られ、その様子を、中野が見ていた。
縋るように。
祈るように。
幼い恋心と執着だけを滲ませていた。
杏奈に一緒に帰ってきたことに関して何かを言うことはなかったけれど。
――駒緒には言えない。
偽善だ綺麗事だと言われようが、混乱する頭の片隅で中野のことを考えた。気持ちは返してやれない。中野を友だち以上に思うことはできない。
だが、だからといって、恋が叶ったと杏奈と付き合ったところで単純にああ良かったなどとは思えない。
そういう男だった。
行寺駒緒とは、何とも生きづらい性分をしていた。
どっちつかずと言ってしまえばそれまでだが、しこりを残したまま自分だけが美味しいところを持っていく気にはなれないのだった。
誰を――どちらを選んだのかは明確なのに、彼は心に再び封をした。
これが、彼の誠意の表し方であった。手放しには褒められない行為であった。
そして、事態は駒緒の与り知らぬところで動き出す。
手遅れだったのだ。いくら取り繕ったところで止められない。
狂人には通じない。
恋は人の人生を彩り振り回すが、狂わせもするのだ。
駒緒はまだ、それを知らない。
狂気に触れたことがない少年は――成す術もなく死んでいく。
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