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駒緒が「杏奈ちゃん」と呼ぶと、彼女は「杏奈でいい」と言った。
呼び捨てにするのは気が引けたが、そう言うと杏奈は頬を膨らませる。その顔もまあ可愛らしいと密かに思った。わざと怒らせてみるのも楽しそうと意地の悪い考えが浮かぶ。しかし駒緒とてお友だちになって早々嫌われたいわけではないので、ぐっと堪えた。
「杏奈ファンクラブ会長、北佳乃です」
わざわざ彼女が駒緒の元へやってきたのは、杏奈と『お友だち』になってから5日後のことだった。
昼休み、ノートに落書きをしていたところに佳乃は1人で来て、名乗った。杏奈はちょうど教室におらず、クラスメイトはほとんど出払っている。ただ、駒緒と中野だけがそこにいた。
「ちょっと、佳乃」
中野が焦ったように言う。
予想していた事態なだけに駒緒は見上げるだけに留めた。
北、佳乃。
古今東西、どこを探しても彼女ほど杏奈に尽くしている者はいない。そうまことしやかに囁かれる彼女は、中野を見もしなかった。
駒緒は佳乃のことを知っていた。中野の親友だからだ。よく手紙を交換したり遊びに行っているらしい。他クラスのため、話に聞くだけの存在だった。
普段は穏やかでも怒ると手が付けられない。全てのことにおいて加減を知らない。思い込んだら一直線。この5日間で集めた佳乃の概ねの評価だ。
なんとも面倒くさそうな性質だと失礼なことを思った。
佳乃はいつも浮かべているという胡散臭い笑みの欠片も見せず冷やかにこちらを観察していた。その死んだような目は一切動かない。しかし、駒緒がイスの背もたれに寄りかかる動作をすると追ってきた。
「なに?」
「杏奈ちゃんと、何を話したんですか?」
「何でもいいじゃん」
彼女が激しく机を叩く。目の前で落書きに使っていた鉛筆が飛んだ。
「杏奈ちゃんと! 何を話したんですか!?」
ヒステリックに叫ぶ姿に驚く。もう少し思慮深いかと思っていたのだ。
もう少し、感情を抑えられる人間だと思っていた。
とんだ誤算だ。
だが、ここで態度を軟化させてしまえば佳乃のペースに持っていかれてしまう。それはできない相談だった。
ファンクラブの皆々様と和気藹々、杏奈ちゃん大好き好き好き皆横一列になって大事に愛でましょう。それを了承すれば万事平和に解決する。しかし、杏奈はそれを望んでいない。杏奈が嫌がっているのなら、駒緒が頷くわけにはいかない。
そうして、何度か訪ねてきた杏奈ファンクラブの面々を追い返してきた。会長の佳乃が出張ってくるのは時間の問題だったのだ。
――何が、ファンクラブだ。
駒緒は鼻を鳴らす。歪んだ口元をどう捉えたか、佳乃はこめかみに青筋を立てた。
確かに、杏奈は何といっても群を抜いた見た目である。比類ないと言っても過言ではない。それでも、『同級生』だ。対等の扱いを彼女が望んでいるというのに、学長の娘で美人で特別だからというふわふわした理由で差別する彼らが駒緒は大嫌いだった。
大嫌い。これまで何となく、根拠も思い至らず避けていた。それがここにきて、佳乃と対面してはっきりする。
嫌いなのだ。この女も、大切だ何だとのたまって杏奈の意志をないがしろにするやつらも。
どうして俺なんかに話しかけたのか訊いたときに杏奈は言った。
みんなとは3年も一緒にいるのにお友だちにはなれないみたい、と。寂しそうにする顔を見て、意図して壁をつくるのはやめようとそのとき決めた。
だからファンクラブに入るわけにはいかない。彼も駄目だったかと落胆させるわけにはいかない。
「ファンクラブには入らないし、杏奈と何を喋ったかとか何をしたとか、それをおまえらに報告することもしない」
そんなことを義務的にするのは友だちじゃない。目の下を怒りのあまり痙攣させる佳乃は駒緒を目で殺してしまおうとでもするように睨む。
それを見返す駒緒と友人の間に挟まれて、何も関係がない中野はこの中で一番動揺していた。おろおろする彼女に申し訳なくなって「席外して」と言えば泣きそうな顔をする。
その涙目が切なげに瞬くのが見ていられなくて目を細める。そうすると不機嫌にさせてしまったと勘違いして唇を引き結ぶ。
ああ泣くと思った矢先、口を開いたのは佳乃だった。
「泣かないで」
冷たい声で言う。それに彼女自身が気まずげにして、もう一度かすれた声で繰り返す。
「泣かないで。大丈夫だから」
目的しか見えておらず、今ようやく友人のことを視界に入れたのだろう。バツの悪そうな顔をしている。
決して杏奈が世界の全てというわけではないらしい。
多少の余裕はあるのだ。友だちのことを考える余裕は。
その感情を少しでも杏奈に向けてやればいいのに。
歯がゆくなって佳乃を見つめる。彼女はその視線の意味を読み間違える。
「また来るから」
弱くなった怒りを燻らせて、その場を離れる。中野はそのあとを追う。
杏奈には、こうして心配して追いかけてきてくれる友だちがいない。美優は別だろうが、他の者はひそひそ話し合うだろう。
こわいね。
短気なんだね。
怒ってる子はイヤ。
その光景が容易に想像できて、駒緒は一人で嫌な気分になる。
俺は彼女の友だちになれるだろうか。
わからない。そこまで仲良くなれないかもしれない。
それでも彼女の味方でいよう。
2人が出ていった教室のドアを見ながら、そう思った。




