序
「夢を見るだけなら簡単なの。でもね、夢を思いつくまでが長くて苦しかったら、実現するのはほぼ不可能に近いと目紜は思うのね」
だって疲れちゃうもんと目紜は言った。
目紜鏡。ポニーテールがキリリと似合う小学2年生だ。
細い手足、というよりも俺に言わせりゃ栄養失調の蜘蛛のような四肢を、これまた薄っぺらい身体にかろうじてくっつけている。
見た目とは正反対に、おとぼけた彼女は今日ものんびりとした口調でよくわからないことを言った。
おそらくは頭が良くて真っ当か、あるいは熱に浮かされた戯言を言っているのだろうけれど、脳みそがシャッフルされた後の俺には大して理解ができるはずもなかった。
できたのは、馬鹿みたいに口を開けていることだけだ。
目紜は、身の丈よりも倍は大きい椅子に深く腰を落ち着かせ、抵抗すら最初から放棄している俺を爬虫類のような無表情な目で眺めていた。
吐き気がするような薬品の匂いに酔いながら、頭の中まで凌辱されたような気分で冷たい鉄の床に仰向けで転がされている。耳からはピンクの半固体状の物体が流れ出していて、およそ小学生の理科教材としてはけしからんと思われるが、目紜はまったく頓着しなかった。
「どっこいしょー」と年寄りくせえ掛け声と共に立ち上がると、すぐ足元にいた俺の頭を踏みつけた。
軽いからといって侮ってはいけなかった。カラッポの脳には、ちょっとばかしの振動さえ響いて反響する。
目紜が不気味に「うふふ」と笑った。
「普段の貴方なら、その体勢で私のスカートの中も見えたのにね。残念」
俺は何か言い返したらしかった。
目紜はまた笑う。
「両目がそろって陥没するなんて楽しいでしょう? それから頭蓋骨が開くなんて特技、私は思いつきもしなかった。行寺ってユーモアのセンスがあるみたい。いっそお笑い芸人になってみたらいいと思うの。貴方が売れるために少しだけならお手伝いする」
目紜が少し手伝ったら俺は大統領にだってなれるだろう。
遠慮する、とがらんどうの目で答えた。
あら残念乗り気だったのに、と子供みたいに目紜が言う。
喉の奥が疼いた。小さな靴の裏とディープキス真っ最中の俺の口が限界を訴える。
これでも我慢したんだ。だけど顎を外されて、爪先を突っ込まれたら、むせるのは人の悲しい性だとも言える。
そのせいであっさりと小学生が逆ギレのしてしまうは自由な校風をスローガンに掲げた校長のせいなのである。ぜひとも頭と目と体が元に戻ったら辞職したい。たとえ戻ってなくとも辞めたい。逃げたい。この女がいない所だったらどこでもいい。
「……う……」
腹の中心がズシンと振動する。目紜が踵を落としたのだ。
死ねクソヤロウと言おうにも声帯が潰されていた。圧迫で、空気が漏れるような情けない音が出た。
「血がついたわ」
ヤツは靴を汚された怒りに任せて俺の十二指腸をピンポイントで踏み潰したのだった。死ねクソガキ。
脳みそが耳から天辺からと出てしまっているので、頭からの指令は皆無と言っていいほどだ。
辛うじて目紜を睨む。
「眼球がないのに《見える》のね。面白いわ」
それは面白いと思ってるやつの声じゃない。面白いならまず笑え。お前は全く笑えてない。目が死んでる。
「そんなこと言われても困っちゃう」
困ってるのはこっちだ。
「ねえ、駒緒」
遂には下の名前で呼び捨てしやがった。
「貴方の名前ってバランスが悪いと思う。行寺駒緒。同姓同名の人がいたとしてもそれはそれで素晴らしい名前だと私は絶賛できるのだけど、貴方が行寺駒緒って名前であることがひどく腹立たしくて堪らないの。どうしてかしら。
ああ……そうね。きっとアレなのよ。見ただけで憎悪がこみ上げる。名前を聞くと発狂しそうになる。本人が目の前にいたら無力な蟻のようにプチッと殺してしまいたくなる。そういう類いの人間なのね、私にとって。つまり生理的に受けつけないのよ」
もったいぶらずに最初からそう言え。まどろっこしいやつめ。
目紜が両足を俺の上から退けた。
例の眼が俺を見下している。俺は、眼球のない目で目紜を見上げた。
「幸運ってこういうことを言うのでしょうね。貴方はついてる」
憑いてる?
「私の実験台第1号就任、おめでとう」
目紜は俺の外れた顎に両手を添えて、無邪気な子供のようににっこりとした。
「これで貴方は私の手足となりました」
俺が足だったり腕だったりしたら気持ち悪いだろうよ。
「元から貴方は気持ち悪いわ」
あらま。
「顔も身体も目もその存在自体、視界に入れたくない。でも貴方の才能は買ってるの。貴方ほどのビックリドッキリ人間はそうそういないもの」
それを言うなら才能も買った、だろ。
口座には既に、一生かかってもお目にできなかったであろう金額が振り込まれている。現実には逃げようなんて夢のまた夢だ。
いいだろう、それくらい――夢を見るだけなら簡単だ。
「まずは目を元の位置に戻して次に脳を詰めるから。顎と声帯は最後でいいわよね。駒緒ってお喋りが鬱陶しいのよ。いっそのことずっと声が出ないようにしてやろうかしら」
鬼の所業だ。
涙目で訴えようとしたが、今までの人生で1度も涙腺を使ったことがないので無理だった。
なんで親は涙の出し方を教えてくれなかったんだろう。息子がこういう事態に陥ることを想像しなかったのだろうか。想像しなかったのだろう。
俺が散らばった脳でうつらうつら考える間にも、目紜は遠慮なく右の目ん玉を指を眼窩に突っ込んで脳みその中から引きずり出した。
次は左。
グチゅ、という音は背筋を蛆虫が這い上がるような感覚を思わせた。
切れた目の端になにやら怪しげな抹茶色の薬をすり込まれる。入れ物を見たら割とメジャーなインスタントコーヒーの瓶だった。まさかコーヒーを塗られているということはないだろう。そうでないことを願う。
「爪を食い込ませー、あーなたの欲を味わうー」
床に散らかった俺の脳を塵取り2つを駆使して集めながら、ヤツはセクシャルな歌を歌い始めやがった。小学生のくせに。
「ああー、あなたを感じてーいたい。づんちゃか、らららん、らん、ぶりっ子なわたしを愛して」
確実に子供に歌わせてはいけない歌だ。どんな歌を歌おうが個人の自由だが、それにしたって『あなたの欲を味わう』は駄目だろう。
せめてあと5年は待つべきだ。個人的にはあと30年がグッジョブ。収穫時だ。
「………」
「………」
手が止まった目紜と見つめ合ってしまった。軽蔑するような視線なのはなぜだろう――無意識のうちに墓穴を掘ってしまったのだろう。
「薄汚れた大人はこれだから嫌です。でもいくら大人を嫌うからといって、ピーターパン・シンドロームにかかっている暇など私にはないの。モラトリアムも不要です」
顎がようやく填められた。ミシミシと聞こえるのはもしや砕けてる音なんじゃないかと疑ってしまった。改めて声を出してみる。
「あー」
ヘリウム吸った後みたいな声が出た。目紜は蟻ん子でも見るような顔をしていた。
哀れみの表情だった。
「私の手下になってくれて吐き気がするほど嬉しいわ。これからもよろしくね、先生」
目紜がまたあの不気味な笑顔を浮かべる。
同じ人間のくせに、まるで人間に見えなかった。
「よ、う、む、い、ん、だ」
「そうそう用務員さん。でももうここで働くことはできないわね。みんな死んじゃってるんだもん。別の隠れ蓑を見つけないとまた捕まっちゃうわ。次はどうしましょうか。また学校がいいかしら」
「………」
目紜は、らしくない表情をしていた。
「キリさん?」
「そう。警察ならまだよかったのにねぇ」
彼女は何てことないかのように笑う。空々と笑う。
「いい加減しつけぇな」
思わず、絞り出すような声を出してしまった。彼女はそういうことに敏感だ。
しかし、わざわざ目くじらを立てて怒るほど子供らしい子供でもなかった。むしろ大人を手玉に取って遊ぶ破天荒なガキンチョだ。
「駒緒」
彼女は手を差し出す。握り返すと、はにかんだ表情をする。
目紜には似合わないその顔を見て――その年相応な微笑みを、守ってやらなきゃと思わないではなかった。
彼女は災厄をもたらす存在であったが同時に、愛おしい存在でもあった。
「四面楚歌だったら上から下から逃げればいいってことよ。それか、楚歌じゃなくて讃美歌にすればいいだけの話」
簡単だわ――背中を見せた彼女は、精一杯の背伸びをしてニヒルに呟く。
「私に不可能はあるけど、貴方がいるなら私に不可能は皆無よ」
「俺の特技なんて死なないことくらいだぞ」
「それが貴方の価値でしょ。たった一つの特技なんだから大切にしなきゃ駄目よ」
「大切にしたら死ねねぇじゃねーか」
「それが私が貴方を選んだ理由」
貴方は命に執着している――目紜は言った。
「行くわよ」
小さな背中にふらふらとついていく。コンパスを合わせて、まるで金魚の糞みたいな自分。
つつけば折れそうなほど華奢な体が目の前で揺れる。
――彼女はどうして生きているのだろう。
きっと、この首に手をかければ黄泉還ったばかりの俺でも簡単に殺せる。
――どうして鏡は死なないのだろう。
つまらなそうな顔をしているくせにやけに元気で楽しそう。
排他的なのになぜか年相応に寂しがり屋。温もりを欲しがっている。
両手に有り余る矛盾を抱えた彼女のことを、どうしてか嫌いになれない。
「目紜」
「ん?」
鏡は振り返る。
大きな目が俺を映す。
「なんで俺を殺したんだ?」
「……ふふ」
鏡は答えない。
ひどく楽しそうに彼女は。
――笑った。