四
○立花翼→望月風香
一月十一日。飛鳥の誕生日。今日も玄関の前で立ち尽くしていた。たった一メートル程足を踏み出せば良いのに、まるで見えない壁があるみたいに最後の一歩が生まれなかった。
一昨日つぐみちゃんが来た。彼女のトレードマークであるポニーテールを揺らし、私に立花家へ来るように言い付けた。
わたしはただ謝るばかりで、まともな返事をする事が出来なかった。
加害者であるわたしが被害者である彼女らに我儘を言う権利は無いのにも関わらず、傲慢にもわたしは加害者の責任を果たそうとしていない。
こんなわたしを見たら、飛鳥は何と言うのだろう。想像が付かなかった。いや、正確に言うと、想像が出来ないでいた。
飛鳥の事をわたしは考えられないでいた。
彼を頭に思い浮かべるたびに、もう一人、翼君が飛鳥の姿に被る。
飛鳥を想う時、わたしの心は彼一人で満たされていたのに、今そこには彼以外の誰かが居座っている。
今までのわたしにとってそれは異物で、嫌悪の対象だった。
そう、〝今までのわたしにとって〟だ。
飛鳥を想う時、翼君の姿も同時浮かぶ事に今のわたしは嫌悪の念を覚えていない。
わたしは自分の気持ちを否定したかった。
これではまるで飛鳥以外の人を愛している様では無いか。
そんな事は許されない。
わたしが愛しているのはただ一人飛鳥だけだ。
何よりわたしが愛を持って良いはずが無い。
「……はぁ」
わたしは息を吐いた。
否定すればするほど真実味が帯びて来る。
自分が何を考え、誰を想っているのか分からなかった。
ただ一つはっきりと分かっている事は、この家から出れば全てが終わり、自分の心が分かるであろう事だ。
分かってしまうのが、知ってしまうのが、認めてしまうのが嫌だった。
一度認識した想いは決して嘘には成らない。答え合わせがただただ恐ろしい。
「……そんなこと言ってはいけないのだけれどね」
周り全ての不幸を糧に幸福を貪ってきたわたしがこれ以上我儘を言ってはならない。皆がわたしの幕引きを待っているのだ。
わたし以外の全員がそれぞれ身を、心を削って尽してくれたのに、わたしが無理やり尽させたのに、それに答えないなど卑怯で卑劣だ。
一歩前に進んでドアノブに手をかけた。
今度こそこの扉を開けよう。
そう思った瞬間だった。望月家の家電話がけたたましい音をたてて着信を告げた。
リビングに居たお父さんとお母さんがその電話を取って少し、ドタドタと音を立てながら彼らは玄関に居たわたしの元へ走ってきた。
両親の顔は切迫していて、お父さんが彼らしく無い口調でわたしにこの言葉を告げた。
「翼君が轢かれたっ」
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…………………………………
……………………………
………………………
…………………は?
翼君が轢かれた?
何に?
車に?
飛鳥みたいに?
何で?
「……どういう、こと?」
脳裏に飛鳥がわたしを突き飛ばしたあの時の場面が過ぎる。
わたしは震えながら、お父さんの突き出したコードレス電話を受け取り、耳に当てた。
『風香さんっ! 兄ちゃんが、兄ちゃんが轢かれた! 病院から連絡があったの! あたし達は今から車飛ばして行くから、風香さんも来て! 場所は慶人会病院! じゃっ!』
「待って」
『時間無いから無理!』
それだけ言ってつぐみちゃんからの電話は切れ、ツー、ツー、ツー、というコール音だけが残った。
呆然とわたしは通話口を眺め、一拍の間の後、
望月家から飛び出した。
無理やりスニーカーへ足を突っ込んで。
体当たりする様にドアを開けて。
「……風香!」
後ろからお母さんの声が聞こえた。
それは何の意味も持たず、わたしは走り去った。
慶人会病院はこの四年間何度かお世話に成っている。あの時は分からなかったけれど、壊れていたわたしがカウンセリングを受けていた病院だ。
数日振りに動かした体が悲鳴を上げていた。脇腹が痛み、足も上がらない。息は乱れ、手の動きも無茶苦茶だった。
それでも、足は止まらなかった。
何も考えられなかった。
翼君が轢かれたとはどういう事だ?
無事なのか?
生きているのか?
生きられるのか?
「……はっ。……はっ!」
心が不安で押し潰される。
わたしはまだ何も返していない。
太陽の様に心を溶かしてくれた人は、恩を返す前に死んでしまった。
月の様に寄り添ってくれた人にも、わたしは何も返せていない。
わたしは何も返せないのか?
「……はっ。……はぁッ!」
違う。わたしが悪いのだ。何時までも殻に閉じ篭り、ただ弱いままであったわたしが。
何時でも家から出られたはずだ。
「……はっ」
何時でも会えたはずだ。
「……はっ」
何時でも謝れたはずだ。
「……はぁっ!」
何時でも彼に恩を返せたはずだ!
ああ、何でわたしはこんなにも愚かなのだろう。
何でいつも一番大事な物を見失う?
「あっ」
七つ目か八つ目の信号を渡り、交差点を曲がって、病院の姿が見えた。
瞬間、わたしは足を縺れさせ、派手に転倒した。
「ッ!」
ガリッとアスファルトが手の肉を削り、ジーンズ越しに膝が擦り剥けたのが分かった。
痛みよりも熱さが襲って来る。
かなり酷くやってしまったようだ。
後で痛みが襲ってくるだろう。
それが何だというのが。
わたしはこんなものよりも遥かに酷くきつい痛みを彼に背負わせ続けていたではないか!
「ああ!」
叫び声を挙げながら体を起こし、わたしはもう一度走り始めた。
頭の中には翼君の事しかなかった。
病院の坂を駆け上がり、すぐに慶人会病院の入り口が見えた。ガラス張りのドアで、わたしは更に足へと勢いを付ける。
どんどん、病院の姿が大きくなって行く。
心が爆発しそうだった。
エントランスはもう十メートルに満たない距離に近付いていて、そこに居る人物達の姿をはっきりと見えるように成った。
「――」
わたしは眼を見開いた。
息を呑んだ。
思考が停止した。
そこには何度も何度も見た、翼君の背中があったからだ。
もう何も考えずにわたしは直進し、エントランスのドアを勢い良く押し開けた。




