わたしとあたしと彼と兄 一
○立花翼→望月風香
わたしは望月家の自分の部屋のベットで膝を抱えていた。
眼が醒めたら、わたしは何故かこの部屋のベットに寝かされていた。
きっと、新宿駅までお父さんとお母さんが迎えに来てくれたのだろう。
記憶にははっきりと、ついさっきの新宿駅での一場面が残っている。
わたしは全てを思い出していた。いや、全ての認識が正されたと言った方が正しい。
ああ、確かに飛鳥は死んでいた。わたしは彼の遺体をはっきりと見ていた。
にもかかわらず、わたしは事実を歪め、頭の中で改竄し、今日あの時までのうのうと幸福な毎日を生きていた。
何て汚い女なのだろう。
「風香。入って良いかい?」
ノックの音と共にお父さんの声が聞こえる。
「……どうぞ」
スーッとドアが押し開けられて、そこには目元を笑わせているお父さんが居た。
「……大丈夫かい?」
優しげな声が今はただ胸に痛い。
床にクッションを置いてお父さんはそこへと腰を下した。表情は優しいままだ。
部屋を沈黙が包む。
わたしの言葉を待っているのだろう。
「……お父さん。飛鳥は死んでしまったのね」
「……うん。そうだよ」
ああ、飛鳥。愛しい人。あなたは死んでしまった。わたしを守って車に轢かれて、わたしの目の前で死んでしまった。
「……わたしは逃げていたのね。飛鳥の死から。こんなにも長い間。これまでの幸福な日々が何の上に成り立っていたのかも考えずに」
「できれば、彼を責めないで欲しい。彼が居なければ僕達一家がどうなっていたのかも分からない。破滅していたかも知れないんだ」
「分かっているわ。けどね、けどね、私は自分で自分の中の最愛を歪めてしまったのよ? 翼君の人生を歪めてまで、私は飛鳥への想いを汚したの。汚い。わたしは汚すぎるわ」
何て事をわたしはしてしまったのか。
最愛の人の死から眼を背けたばかりか、最愛の人の肉親の人生さえ歪めてしまった。
翼君を飛鳥と思い込んで、この四年間、翼君の人生を踏み台にして、飛鳥への愛でさえ歪めて、私一人だけがのうのうと笑みを浮かべながら生きていた。
何て卑怯な女なのだろう。
わたしの言葉にお父さんはゆっくりと頷いた。
「本当は、親として僕と玲子が風香の支えなければいけなかったんだ。でも、僕達は責任を放棄して、全てを翼君に任せてしまった。彼は否定していたけれど、今までの望月家の幸福は翼君の犠牲で成り立っていたんだ」
そう。犠牲だ。
翼君の高校生としての青春時代全てをわたしは犠牲にした。
わたしが居なければ彼はもっと友と遊べただろう。
わたしが居なければ彼は誰かに恋をしていただろう。
わたしが居なければ彼はもっと幸せだっただろう。
その全てをわたしは棒に振らせた。
享受出来たはずの未来を全て潰した。
ああ、わたしは何と浅ましく、笑っていたのか。
何も言葉を出せなかったわたしを見て、お父さんは穏やかに口を開いた。
「翼君が風香に『ごめんなさい』と伝えて欲しいと言っていたよ。こちらの台詞なのにね」
わたしは最後に見た翼君の姿を思い出した。
彼は微笑を浮べてわたしへ〝ひさしぶり〟と言った。
確かに〝ひさしぶり〟だ。あの時あの瞬間までわたしの頭の中で翼君の存在は消失していた。飛鳥には弟は居ず、妹のつぐみちゃんだけが居ると思い込んでいた。
あろう事か、わたしは翼君の存在でさえ認識から消去していたのだ。
「……ッ」
視界が滲んだ。
感情が追いつかなかった。
飛鳥が死んだ事への悲しみ、それを受け入れられなかった自分への怒りと情けなさ、翼君への罪悪感、全ての感情が渦を巻く。
「お父さん。わたしはどうすれば良い? 何をすれば良いの?」
許されるとは思わない。
わたしは飛鳥への愛を歪め、飛鳥からの愛を汚し、翼君の人生を歪めた。
そんな罪深い女が許されて良いはずが無い。
お父さんは言った。
「翼君から、もう一つ、風香に伝えて欲しいと頼まれていた事があるんだ。『兄の線香を上げてくれませんか』だって」
「……それは」
この言葉にわたしは俯いた。
飛鳥の墓前に立つ資格はわたしには無い。
どんな顔をして手を合わせれば良い? 飛鳥が注いでくれた愛を全て侮辱したわたしが、今更どんな顔をして彼の死を悼めば良いと言うのか?
「……ごめんなさい」
それだけ言ってわたしは何も言えなくなった。
お父さんはしばらく無言でわたしを見つめていたけれど、その場から立ち上がって部屋から出て行く。
「とりあえず、今日はもう寝なさい。色々疲れただろうから」
部屋のドアが閉じられたのを見て、わたしは両手で両目を押さえた。
「……飛鳥。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめ――」
そして、わたしにだけ聞こえるように何度も何度も謝った。
許されるはずが無いけれど。




